あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

全国一番名乗り・夏の甲子園~興南高校~残念中部商業高校

2009年07月19日 17時11分07秒 | Weblog
 浦添市仲西の某ビルのベランダから撮影。
撮影した日は、今年1月15日朝。
初日の出のような日の出に、思わずシャッターを切った。
もちろん、携帯電話カメラ。
太陽の下辺りが首里城。
一段と高い建物が首里城の下に見えるが、これがホテルグランドキャッスル。


 午後16時。夏の甲子園の沖縄代表が決まった。
那覇市の名門興南高校だ。惜しくも敗れたのは、中部商業高校。
いい試合だった。
未だテレビもニュース報道しないだろうからブログで報道した。

 このビルを朝日に向かって下った辺りに小さなスナックがある。
表に「禁煙」とある。
友人から連れて行ってもらったのだが、きのう、おとといと通ってしまった。
料金は極安。
最近、こういう店に行くのには飽き飽きしていたところだが、夕暮れの散策の道すがら、友人が連れて行ってくれたあの店だと気付いてついドアを開けてしまったのが一昨日。
入り口のドアに「禁煙」と大書している。
禁煙をやるんだと覚悟している時期でも、「会議」「飲酒」「喫茶店」ではニコチンが強力に誘惑するものだ。
「会議」で禁煙になったのは早いが、「喫茶店」は最近。
居酒屋やスナックで禁煙とは驚いた。そうした事もあって興味が出たので入る。
19時を過ぎると7,8人でカウンターは満員になる。
なぜ?
だから昨日も行ってみた。
17時半入店。帰り際の20時過ぎにはカウンターはいっぱいになった。
常連の客が言うには、連日だという。
ここのママさんは「お店のママ」ではなくて、「わがママ」である。
一本筋を通している。24時にはきっちり閉めるという。
ほんとうに沖縄って面白い。と、思ったが数十年前の内地にもそんあママがたくさんいた。ふるさともそうだったなあとすこしばかり郷愁に浸る。

 再び飲み屋。
「DEKI屋」はどうなっているかな、と顔を出す。
小あがりは家族連れでいっぱい。カウンターは妙齢のご婦人2名。
これがまた、DEKI屋夫婦の同級生たちだという。
夫婦のカラッとした性格が人をひきつけるのだろう。
 ジャスミン酒とやらをご夫人に1杯ご馳走になった。
まさにジャスミン。最初は何だこの味とおもったが、ロックで飲んでいるうち、
「さっぱりして、結構いけるじゃない」
と少し世辞混じりでお礼を言った。女性には好まれるらしい。

 最近、居酒屋の話が多くなった。
摂生、摂生。
  

沖縄の夏~いつもの夏が戻ってきた~

2009年07月17日 14時21分05秒 | Weblog
 国道58号線、名護向け車線のガジュマルの並木。
並木の向うに見える屋根は米軍基地「キャンプキンザー」。
補給基地であると同時に後方支援を業務とするらしい。


 今年の夏は暑い。日陰と日向の差が凄い。
これがほんとうの沖縄の夏だ。
自動販売機でコーヒーを買って、近くの公園のベンチでしばし休んできた。
冷房の効いた喫茶店でのお茶も良いが、公園のベンチもいい。

 今年はセミが鳴かない、と思っていたらやたらうるさい。
あちこちの樹でジージーやっている。ワシワシワシがこれに加わる。
自宅付近の樹では今年は鳴かない。
新しい発見をした。
 しかし、トンボや蝶は見かけない。
数日前、新都心のとある公園を歩いた。立派な池があり、水草も生えていた。
ここでも、トンボを見つけることはできなかった。

 石垣島に名倉湾という風光明媚で陸地に向かって広がるマングローブが繁茂するところがある。10年位前、久しぶりに通ったら海岸は消波ブロックで埋め尽くされているのにはびっくりした。
ここは遠浅で小さなマングローブがあちこちに生え、遠景の半島とのコントラストが素晴らしくよかった。石垣でも一番好きな場所だった。

 夏。
そう、沖縄の夏は暑いのがいい。
空が蒼々とすれば、海も空を映して青々と輝く。

この美しい自然の沖縄をだれが守るんだろう。


 暑い!やっぱり冷房いれるか。

沖縄の友へ~野島さん、優子さんありがとう~ひや酒で独白

2009年07月15日 20時19分44秒 | Weblog
 2年前の写真。沖縄の花の中で一番すきなゆうなの花。
波の上神宮の横の公園の高台へゆく遊歩道を歩いていて目にとまった。
可憐な一輪のゆうなの花。
ゆうなってこのように枝先に咲いているのはめずらしい。
こんもりした樹陰のあちこちにひっそり咲いている。
伊波千恵子の歌う「ゆうなの花」は沖縄の唄の最高の歌だ。

 きょうは浦添の場末にある店に別れを告げた。
客はいつも5,6人は必ずカウンターを占領していて、老人?が入ってくると若者??が席を作ったり、席を譲ったりする、20年前の赴任当時の「おきなわ」を見るようなそんな店だった。
先週のあの日から行かない、行ってはいけないと思った。

 数ヶ月前にある男と諍いを起こした。
この店には来ないほうがいい、来てはいけないんだと感じつつ、ずるずるときてしまった。
実際は、奴から喧嘩を吹っ掛けられた。なぜ、どうして、理由や善悪は関係ない。
そう痛感しただけである。喧嘩両成敗は天下の道理。しかし、諍いを起こした奴と自分とでは店に対する貢献度が違う。

 生来、短気だったからだろう、敬愛する今は亡き母が、
「逃げるが勝ち。危ないと思ったら逃げろ。君子危うきに近寄らず」
とか何とか云って
「ならぬ堪忍、するが誠の堪忍」
と短気な息子を戒めていた。
だから、自分では決して喧嘩を仕掛けるようなことはしなかった(はずだ)。はらわたが煮えくり返っても気持ちをあらぬ方向にやるのが精一杯だった。
それでも周囲には悟られるのか、
「あんな事ぐらいで腹立てるなよ」
と戒められ、更に面白くなくなって
「だから何も云ったり、したりしなかったろう」
と反発すると
「顔にでているさ」
と来る。余程、表情豊かか、短気なのだろう。
しかし、喧嘩をして傷ついて帰っても、母は
「馬鹿にされたら勝ち負け関係ない」
といって怪我したあちこちを拭ってくれた。
「おまえが我慢している以上に、相手が我慢しているかもしれないよ」
といわれることもしばしばだった。

 だが、訳もなく、
「おまえーーーーー」
と突然いわれた時は、プツンと切れた。10歳以上も違う若造からだ。
「きさま!」
といって立ち上がったのは自分。
相手もこのくそ爺に舐められてたまるかと立ち上がってきた。
店の外に連れ出すべきだった。今まではそうして来た。
この日ばかりは違った。ほんとうに激高した。

 こいつがよく仲間を連れてくる。
店にとっては上客だ。自分はいつもひとり。
ママが気を使っているのはわかった。
「今夜来るよ」
といわれても、逃げる事は許さない。
「関係ないさ」
ですませた。
あの店には行ってはいけないのかもしれない、来るなというサインかとは感じていた。すこしづつ間を空けた。
先週、伝言がうまく伝わらない。
直接出向くと
「きょう来るよ」
という。
「関係ないさ」
「でも、二人会っても黙っているから疲れるさ、小佐野さんだってそうでしょう」
おれには充分だった。

 「客は店を選ぶ、店は客を選ぶ」
人生数百年?なるが、店の中で諍いを演じたのは生まれて初めてだった。
「気に入った店には気に入られるようにしろ」
粋な先輩の遺言である。東京芸大を出て兄貴のように慕った人生の、仕事の先輩だった。後にも先にも出くわさない。
3年前、他界した。
鳥羽一郎の「兄弟酒」はあるスナックのママがいうには
「まるでふたりのようよ」
と笑って、彼が他界したあともよく歌わせられた。

「小佐野が来たら連絡してくれと伝えて。じゃあね」
そう、「じゃあね、さようなら」といったつもりだった。
「すみませんね」
とメールが届いた。小佐野と一緒だった。たまたま、彼女がどうのこうのというどうでもいい、痴話話だった。興味は全くなかった。そのときである。
「だれからよ」
とメールのベルに小佐野が首を突っ込んできた。
「関係ない!」
ここぞとばかり、小佐野に毒づいた。
「さっきの話だけどね。ママさんはね、生活がかかっているんだよ。命がけでやっているんだ。あんたが惚れたの腫れたのいうのなら、ママの生活を支えてやれるだけの甲斐性があるの、腹があるの!」
おれもいうことだけはいうよ。自分の過去を振り返りながらあきれた。
「とは云ってもね、ひとにはそれぞれ事情がある。おれも偉そうには言えた柄じゃないけれど、ママの立場を壊すような事をするならあなたは男じゃないよ、女に惚れる資格はないよ、もちろん、友達付き合いもやめる!」

 メールの返事は書かなかった。

 野島さん、優子さん、長い間ありがとう。
ほんとうにあなたたちに会うのが楽しみだった。
何日も何日も、あなたたちに伝えたかったけれど連絡のしようがなかった。
野島さんからいただいた名刺へとも思ったけれど、職場に電話するのも気が引けた。

 今夕、ひとり冷酒を飲んでいる。
一杯空けると、ブログに残しておこうと思った。ひょっとしたら見てくれるかもしれない、そう思った。
 あなた方に会えないのが辛い。
そう、残念だとか寂しいだとか月並みの言葉じゃない。
ふたりはあたたかくて、なつかしくて、ほのぼのとした気持ちにさせてもらいました。
男と女、難しいね。でも、男と女ってほんとうに安らぐよね。
野島さん、約束ですよ、那覇で3人で団欒しましょう。
優子さん、「幸せとおまわり」、自分のことだったんです。

 冷酒で ひとりまようか 夏の夜を


沖縄の飲食~近くの居酒屋~DEKI屋

2009年07月10日 17時26分01秒 | Weblog
 沿道のガジュマル並木の気根を携帯で撮った。
20数年前はどこからみてもガジュマルと判るほど気根が不気味なほどに風に揺れる風景を見たものだが、最近は、余り見なくなった。なれた所為だろうか。





 この十字路に創食・Bar[DEKI屋」がある。
2ヶ月ほど前、飛び込んだ小さな居酒屋だが、小料理がうまい。
若かったころのふるさとの町には、こんな店があったなと懐かしく入った。
 若い夫婦でやっているが、カラオケがないのがいい。
最初に入った日のこと。カウンターにひとりの若い青年が、おかみ相手にひとりのんでいた。
酒が進むほどに、いつの間にやら彼ら話と一緒に語り笑うようになった。
店の夫婦も美男美女だが、彼もなかなか精悍な顔立ちの好青年だった。
語り口も歯切れがいい。

 話題がオリオンビールになった。
「われわれの飲み仲間でオリオン会というのがあってね、半分以上はナイチヤーなんだけど、毎月飲み会をやっていたんだ。時にはゴルフもねー」
「脱会は自由、入会は紹介者がいて満場一致でないと会員にはなれないというもので会則もひとつだけーーー」
「沖縄では、ビールはオリオンビール以外は飲んじゃ駄目、勿論、飲ませても駄目、というものだった」
突然、かの青年が、
「オリオンビールって好きですか」
と目を輝かせて顔を近づける。
「ちょっと待っててください」
というなり、いきなり店を飛び出した。
20~30分して息せき切って戻ってきた。胸にアルバムのようなものを抱いている。
「これ、オリオンビールの記念の年に限定版でもらったものです。見たことありますか」
と誇らしげに云いつつアルバムを差し出した。立派な何周年かの記念アルバムであった。
ページをめくってはいたが、この青年の誠意と純情に感動して何を見たやら覚えていない。
沖縄って、沖縄の若い男性はみなこうだったような気がする。久しぶりに沖縄の青年に出くわしたような気がした。
あとで判ったことだが、青年とおもったけれども既に40歳をひとつふたつ出ていた。店の主人の同級生だという。
「さわやかな好男子」だった。

 数日前、この店の前を通りかかりバーボンをいっぱい飲んだ。
肴に注文した「イカのてんぷら」がうまかった。味付けが薄味がいい。
すでに、後輩だという男性二人が明るく、そう、明るく飲んでいた。

 二人連れや家族や女性にはいい店だ。
値段も手ごろなのがいい。

 母方の今は亡き祖母が
「類は類を呼ぶ」
と云っていた事を想い出した。
「店は客がつくるもの」
そういった先輩もいた。

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沖縄の人情~庶民の歴史に触れた・K氏の語り~

2009年07月08日 23時16分41秒 | Weblog
 満開の椰子の花。
ひと月ほど前、5月30日の昼下がり、浦添市内の民家に植えられていた。
58号線のあちこちに椰子の実がぶら下がり、落ちてくる実を防ぐ為に椰子に網をかけていた風景がみられたが、最近は珍しくもないので気付かないのか、見かけなくなった。


 K氏は沖縄のはるか西、台湾に近い波照間島の出身である。
赴任直後、最初に出会ったウチナンチュウー(沖縄県人)である。
誰が見ても沖縄県人と断言できる風貌をした男らしい男子(?)である。
先日、彼から久しぶりに電話が入った。
「近くに来たんだけれど、暇?」
大体、こんな時、何かの相談か頼まれ事だけれど、彼の場合だけは違う。
「ヒマだよ」
「じゃあ、コーヒーでもどうですか。久しぶりだしー」
そう、彼の場合は言葉通りである。
近くの行きつけの喫茶店を指定して会う。
あれやこれやら四方山話をしているとき、起訴されている元外務官僚の佐藤某氏のことに話題が移った。
「俺にはよく分からん。何故、沖縄独立論になったり、まさに他県人が沖縄を蔑視しているように書いているのか、あいつの意図するところが判らん」
佐藤氏は2大地方紙の一方の土曜日の朝刊に論説を載せているのである。
最初は興味津々、欠かすことなく読んでいたが、最近、彼の論理に納得できない、筋の通らぬ論点が非常に気になっていた。
沖縄愛国論者であるK氏に議論を吹っかけた。
「俺の悪口を言ってもいいが、おきなわの悪口にするな!」
が彼の口癖である。
 思いもかけず、沖縄愛国論者である彼も同じ意見であった。
「おれにもわからん。あいつは沖縄のことを何も判っておらん」
というのである。
「あんたは沖縄県人は被害者意識が強すぎる、というけれどその通りだ。無理もないよ。占領下の沖縄はそうだったんだからー」
「青信号で渡っていた人が、赤信号で侵入してきた米軍の車にはねられても、運転手は無罪放免だったんだからー」
この話はよく聞いた。
「この土地は基地にするから、00月00日まで撤収するように、という文書が廻ってくる。その日がくればブルドーザーがやってきて、取り入れもすまぬ芋畑を整地してゆく。背に乳飲み子を背負った母親がブルドーザーの前にからだを横たえて芋畑を守ろうとするが容赦しなかった」
これもよく聞いた。
しかし、この日の彼の言葉には説得力があった。
「Aサインバーて知っている?」
「ああ、知っているよ。米軍歓迎。ウチナンチュウーは入るなっていうことだろう。おれが沖縄来た頃くらいかな、米軍人お断りに変わったんだろう。それくらいは知っているさ」
と。
「違う。Aサインというのは、米軍以外入店禁止というアメリカ政府の命令だよ」
これには驚いた。
経済的にゆとりのある米軍を店の経営者が差別したものと思っていた。
「どういう意味?」
「アメリカ人以外は入店禁止という看板を店先に米軍が出させたのさ」

 今更、米軍がどうしたのこうしたのということをまくし立てるつもりはない。
アメリカだって夫や息子を戦場に出して、命がけで勝ち取った勝利だろうからとやかくいうつもりは毛頭ない。戦争をしたのは国家であって国民ではない。これが戦争だと思う。
しかし、負け戦の負の部分を背負ってきた沖縄の現実を、日本国民のどれほどが感じているだろうか。
この日まで、
「教育でもマスコミでもみな知っているし、分かっている」
といってきた自分が衝撃を受けた。
もう一度、読み直してほしい。
いい加減で、他人の所為にする沖縄の気質を嫌ったこともある。
それは長い27年間という占領下の内に生まれたのではないか。
沖縄の長くて深い文化に触れるうちにその不整合さが気になって仕様がなかった。
K氏のこの言葉に言い知れぬ衝撃を受けた。
 6月23日慰霊の日前後から、終戦前夜や沖縄戦のことが多く放映された。
しかし、K氏のマルエーはアメリカが決めたこと、ということを知ったとき初めて、沖縄の痛みを知らなかった事を痛切に感じた。
被害者意識とか、権利の主張だとか、そんな言葉はどうでもいいのだ。
白旗を揚げて、壕から出てくる少女の写真がいまさらながら、沖縄戦の悲惨さがどれほどだったのかと思い知らされる。
 数日前、「他人の痛みがーーー」と愚説を垂れたわが身が恥ずかしかった。

 母がよく言った。
「ひとの振り見てわが身を正せ」
こんな言葉は数十年も忘れていた。
日本の文化はどこに行ったのだろう。








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