あれやらこれやら いろいろ沖縄

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沖縄の歴史 ~沖縄戦下 「肝胆相照らす」ふたり ~ 島田叡沖縄県知事・大田実海軍少将

2016年09月04日 16時29分55秒 | Weblog
  本島南部・遠くの丘が摩文仁の丘辺り
右手の丘の向こうが6月23日、沖縄戦終戦の日「平和の日」の式典が行なわれる平和祈念公園。


喜屋武岬から摩文仁方面。
画面の岬の先には数多くの戦跡が、平和祈念公園へと続く。
土地の人の話によると「海は米軍の艦船で真っ黒、艦砲射撃の弾幕は凄まじいものだった」という。



 TBSの連続ドラマ「生きろ~戦場に残した伝言~」の再放送を観た。
再放送を観たのは、沖縄戦が終った日「平和の日」当日だったか記憶は定かではない。
平成25年8月7日に放映されたTBS報道ドラマ「生きろ」の再放送だった。
 終戦間近、昭和20年1月、内務省から沖縄県知事に任命された島田叡(しまだ あきら)の5ヶ月間のドキュメンタリードラマである。

 『沖縄戦が始まる2ヶ月前、大阪府の部長であった島田叡に内務省から沖縄県知事の打診があったとき、既に戦況は最悪の状態であった。
「このような時期、俺が行かねば誰かかが行かねばならぬ」と異動を拒まなかったという。
沖縄に赴任した島田は、沖縄県民を護るために多くの改革を目指して命がけで奔走した。
その間に、太田實海軍少将と「肝胆相照らす」仲となった。
世の中「玉砕」を是としていた中で、「兎に角、生きろ」の信念を貫いた感動的ドキュメンタリードラマだった。
昭和20年6月25日、県民と一緒にいた壕を独り出た姿を目撃されたのが最後だったという。』


 未だに、島田叡の遺骨は発見されていない。享年44歳。
摩文仁の丘「島守の塔」に殉職した県庁職員453名と共に祀られている。
 那覇市奥武山公園には「島田叡氏顕彰碑」がある。
平成27年6月26日、30,000人を超える署名と県民による1000万円を越える寄付により建立された。
また、奥武山公園にある多目的グランドは、島田叡の出身地兵庫県に因んで「兵庫・沖縄友愛グランド」と命名されている。
島田は野球人でもあった。
旧制神戸二中時代、「第一回全国中等学校優勝大会」にも出場。東京大学時代は野球部に在籍していた。(Wikipediaに詳しい)

 遺骨捜索は、現在もなお、地元のボランティア団体「島守の会」や、母校の兵庫県立兵庫高等学校OBの手で行われている。 

 島田叡のことは、このドキュメンタリードラマを観るまでは殆ど知らなかった。
「島守の塔」も「奥武山公園の「島田叡氏顕彰碑」、「兵庫・沖縄友愛グランド」のことも知らなかった。
これだけでも写真を撮りたかったが、2ヶ月を過ぎる今も、思いを果たせてない。

 6月末、この項を書こうと思い立ったが、浅はかな知識と感情だけで書いてはならん、と思ってやめた。
先月、8月15日のNHKドキュメンタリー「ふたりの贖罪~日本とアメリカ・憎しみを越えて」を観て思い切った。

 『6月23日は「沖縄戦が終った日」として、今では「慰霊の日」として沖縄県指定の祭日となっている。
摩文仁の丘で慰霊祭が盛大に執り行なわれていることは全国周知の行事であろう。
昭和20年のこの日、時の司令官牛島中将が自決した。この事を以って組織的戦闘が終ったとしたのである。
 50年ほど前、自決した司令部壕を見に行った。
壕の上には「黎明の塔」が祀ってあった。
平和祈念公園内の奥の丘を行くと、各県の慰霊碑が並ぶ。
その奥に、一段高い道を進むと「黎明の塔」があったと記憶する。
ここから海岸の岸壁を少し下った所に司令部壕があった。
暗く、ジメジメした洞窟が口を開けていた。入り口は鎖で封鎖されていた。
その後、何度か「黎明の塔」には足を運んだが、壕には行かなかった。』


 島田と「肝胆相照らす仲」といわれた大田海軍少将。
明治24年千葉県生まれ。旧制千葉中学校から海軍兵学校へ進んだ生粋の軍人であった。(Waikikipediaに詳しい)

1945年6月13日、太田は海軍壕で自決した。自決後、中将に特別進級している。
海軍壕は豊見城公園に隣接してあり、近年、立派な海軍壕公園となっている。
太田は自決する一週間前、海軍次官宛に電報を打っている。
沖縄県民の当時の様子を伝えるに充分なものだろう。



数年前、海軍壕で撮影したもの


 このままでは読解し辛いのでWikipedia掲載文を転載した。
【文中の□部分は不明
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ】

 *現代語訳はここを参照*


海軍壕公園から豊見城方面市街地




海軍壕の一部


 この項を書こうと思い立って2週間経ってしまった。
戦跡の写真は数多く撮ったが、記録したファイルがみつからない。。
思い当たる記録のファイルを全て探した。たくさんの写真の中から見つけ出したのは十数枚に過ぎなかった。
もう一度、戦跡を訪ねなければなるまい。
*全ての画像は画像をクリックすると拡大*




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