あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

沖縄の風景~がじゃんびら公園~那覇軍港と湾岸の市街地を一望

2014年05月21日 11時38分55秒 | Weblog
5月18日早朝。
ようやく、思い立って早朝散歩を2年振りに始めた。
最初の目的は浦添総合運動公園外周道路のガジュマルの並木だ。
そろそろ開花を始めたであろうと思ったからである。
久し振りの梅雨の晴間、久方ぶりの早朝の風も、動き出す前の新鮮な町の雰囲気も懐かしかった。目当てのデイゴの花は漸く咲き始めたところだった。
 最初にデイゴの花に出会ったとき、毒々しい赤色と花らしくない肉厚の花びらが気味悪く嫌いだった。
ところが、暑い沖縄の夏を何度か過ごす内に、いつの間にか沖縄の初夏にはなくてはならぬ花になってしまった。痘痕も笑窪の類だろう。
 ここ数年、県内のあちこちのデイゴの古木が抜き取られてしまった。
花が咲かなくなったからだという。
そういえば、これ等の木では数年も咲いた花を見ることがなかった。
この日のように、デイゴの花が元気よく咲いているのをみたのは何年振りだろう。
 「糸満ハーリーの鉦が鳴ったら梅雨は明ける」という。
糸満ハーリーは旧暦5月4日に開催される。今年は6月1日だ。
6月に入れば夏の太陽に真紅の花を枝いっぱいに見せてくれるだろう。





 がじゃんびら公園は那覇空港に近い丘の上にある小さな公園である。
道路から住宅地に入ると直ぐに丘の上にあった。



 公園から那覇軍港が眼下に広がる。
58号線に沿ってある軍港だから見慣れていたはずが、その広大さには驚いた。





 国場川の河口を挟んで手前が那覇軍港、向うの街並みが那覇市西町、東町一体である。
対岸の岸壁は那覇港だ。

 50年ほど前、鹿児島港からひめゆり丸に乗って初めて沖縄を訪れた。
あの時上陸したところがあの岸壁だったのかと、当時を思い起こして胸を熱くさせたことどもが蘇ってきた。。
当時は復帰前で、身分証明書という旅券に替わるものを県庁で発行してもらい、入域許可証というビザをアメリカ領事館で取得しなければならなかった。
2ヶ月ほどかかったものだ。
1ドル360円の時代で外貨の持ち出しは厳しく制限されていた。500ドルだったろう。
 上陸すると今のような活気はなく町はくすんでいた。
大きなビルはなく、モルタルの打ちっぱなしの灰色のビルが並び、看板はビルや建物の壁に直接描かれた粗末なものであった。
小学生の頃、食べることがやっとだった終戦直後のような錯覚を覚えた。
若い頃であったが、本土と30年の遅れがあると衝撃を覚えた。

 表通りではあの当時の面影はなくなり、今はすっかり変ってはいる。
しかし、路地裏に入るとあの頃の姿を留めた家屋を目にすることがある。
 昭和27年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約によって独立した。
その時、沖縄は日本から切り離され、米軍の施政下に入った。
沖縄の人々はこの日を「屈辱の日」として忘れることはない。置き去りにされた、身代わりにされたと感じている。
今年も東京で独立記念式典が行なわれることに沖縄のマスコミは挙って沖縄県民感情との意識に理解できぬ乖離感があると痛切に批判した。
いくつもの事例を挙げながら、沖縄の戦後は終ってないという。

 左はるかに見える白いビルはロワジールホテルであろうか。
青い海、碧い空、燦々と降り注ぐ南国の太陽。
平和そのものに感じる沖縄にいて、ふと吹き抜ける風に寂寥を今日も感じた。



 公園の目立つ場所に歌碑を見つけた。
美空ひばりが歌っていたという歌詞が刻まれていた。
作詞作曲も著名な人だが聞いたこともない「花風の港」だった。
早速、調べてみた。You Tubeでみつけた。
わかったことは美空ひばりが歌った唯一の沖縄の唄だということだ。
美空ひばり自身が歌ってないのが残念であるが、下記の「花風の港をクリックされたい。
題名は「花風(はなふう)の港」。
美空ひばり本人が歌う楽曲が日本コロンビアの有料ダウンロードにあった。



那覇軍港が一望できる[がじゃんびら公園]



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沖縄のイベント~第18回オーモリビルメンフェア~人の生き様は仕事も遊びも同じ

2014年05月17日 22時18分35秒 | Weblog



 5月14日(水曜日)、恒例の友人大森氏が主催するフェアが沖縄産業支援センターで開かれた。
当日は久し振りの雨のない薄曇の好天日であった。
友人のN氏が迎えに来るまでの間、近所をひと回りしている時に、いつか目にした花を見つけた。
数年前、58号線の浦添市仲西付近の並木に咲いているのをみつけたことがあるが、あれから数年、目にすることはなかった。
薄い花びらの花が好きだ。
こんなに近くにあったのかと驚き、嬉しくもなった。

 このフエアを始めて18年にもなるのかと感慨深かった。
18年前はフエアを開催するのに相当の苦労があったろうと推測できる。
大森氏は愚痴や言い訳は絶対に言わない男である。
「大変だったろうなあ」といえば「大変だったよ」くらいで終わりだ。
彼は那覇マラソンを初回から休みなく完走して、今年は30回目の節目に当たる。
昨年、29回完走の慰労と30回完走の激励会を兼ねてささやかな飲み会を開いた。
詩吟をやっていると聞いたのは数年前である。詩吟は聞いたことはなかった。
席上、カラオケで歌う朗々たる歌声はさすがであった。
仕事であれ、趣味であれ、とことんまでやる男だと感激したものだ。
 毎日彼のブログを観ることを楽しみにしている友人が四国にもいる。
20年ほど前、「俺が撮った写真だ」と美しい花の写真を数枚送ってきた。
今は、範囲を広げて鳥などを撮ってブログにアップしている。
今年、彼は愛媛新聞の写真投稿で一等賞を獲った。確かに、写真は格段にうまくなっていると素人目にも感じてはいたが、朗報に自分のことのようにうれしくなった。
彼も仕事は決していい加減にはしなかった。
 彼等ふたりは共通の友人でもある。
九州男児であることも共通しいる。
敢えて言うなら、二人の血液はO型、因みにわたしはA型。
そんなことなどを思いながら、11時過ぎに会場に着いた。





 会場となった沖縄産業支援センターと入り口の看板風景。







 会場は多くの人で溢れていた。今年も成功だな、とほっとした。
展示会場はクリーナー液やモップなどのビルメンテナンスに必要な消耗品から、ロビーの床クリーナーなど業務用の商品ばかりを陳列している。
門外漢の我々にはあまり縁のないものばかりであるが、種類のアイテムの豊富さと新しいアイデア商品に溢れていて結構たのしめる。
友人の激励も兼ねて毎年訪れる。
作業服に身を固めた人々の姿もどことなく眩しい。
その生き生きとした様に活力をもらうのも又たのしみのひとつでもある。

オーモリビルメンフェアの会場:沖縄産業支援センター



 帰路、58号線を挟んでの丘が「がじゃんびら公園」とN氏が教えてくれた。
那覇軍港が一望できる公園だというN氏の誘いにのって立ち寄ることにした。


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