プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

藤原保行

2014-01-31 20:33:52 | 日記
投球フォーム・・・右オーバースローから現役後年にはスリークォーター気味に改造か?

球種・ストレート、タテの大きなカーブ、落ちるシュート、スライダー。制球、スタミナ面に課題を残す。

現役最終年俸・1987年「460万」
1982年、83年のオープン戦開幕投手。

ファーム成績
1980年・1勝5敗・・・・・・・・防御率5,94
1981年・0勝1敗・セーブ1・・・防御率5,29
1982年・2勝3敗・・・・・・・・防御率1,95
1983年・6勝8敗・セーブ1・・・防御率4,30


1979年「ドラフト会議直前」
・秋の愛知大学野球リーグ戦が始まった頃、藤原は「プロ入り」なんて考えてもいなかった。それが、秋のリーグ戦で名城大のエースとして先発に、リリーフにと大活躍。初めて優勝の味を知り、明治神宮大会では国士館大、東海大を破り「大学球界最高の逸材」の評価を受けるようになる。そして、「一度、プロで自分の力を試してみたい」と考え方が変ってきた。さる11月19日の家族会議でも「2順目までに指名されればプロ入り。それ以外なら地元に近い電電信越」と結論を固めた。
マウンドの藤原は帽子をあみだにかぶり、打たれだすとピッチングが雑になる傾向が見られた。そのため、集中力が足りないとか、練習嫌いの噂が流れたが、大坪監督にいわせると「責任感が強く、マジメな男」。大学4年間、1日も練習を休まず、リリーフに出た時は「打たれたら、先発した投手に申し訳ない」と、責任感に燃えて真価を発揮する。1年の春からリーグ戦に登板した藤原の大学4年間の通算成績は64試合、372イニングを投げ23勝20敗、3セーブ、奪三振235、四死球147
、防御率2,21。学生服姿の藤原は明るく礼儀正しい好青年で事前調査にあたったスカウト連たちも、意外な面を知って驚いていたようだった。
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丸川正充

2014-01-30 20:04:22 | 日記
1978年
・クラウンの新人・丸川は異色のプロ入りといえる。近畿大の控え選手だったが、自らテストを受けクラウン入りしたのだ。近畿大といえば、ドラフト2位で入団した山本隆造選手、4位入団の慶元秀章選手と同期生になるが「プロ入りを決めたのはボクの方が、二人よりずっと早かったのですよ」という。それはそうだろう。丸川が平和台で新人テストを受けたのは昨年11月13日のこと。「ランニング、フィールディングは抜群で、センスもありそうなので採用は決定的だった」浦田チーフスカウト。結局は10日後のドラフト指名で入団発表こそ山本、慶元に先を越されたが、クラウンへの情熱はオレの方が上だと、丸川は今でも信じている。広島の名門、広陵高校の出身で2年生時に遊撃の控えで甲子園の土を踏んだ。3年になってレギュラーになったが、母校は広島予選2回戦で敗退、さらに近大に進んでからは名手・山本の陰に隠れ遊撃の控えといったぐあいに、どうもツキがない。脇役人生について丸川は「守備では誰にも負けない自信があります。打力さえもっとシャープになれば・・・」と逆転への意欲を見せる。
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尾崎亀重

2014-01-29 22:12:48 | 日記
1972年
・イースタンリーグ首位を走る好調ヤクルトの中でも特に株を上げているのが、ルーキーの尾崎捕手。
国士舘ー電電東京を経て入団した25歳。ノンプロでキャリアを積んできただけに攻守に洗練されている。8月上旬まで7試合連続安打を記録し、捕手でありながら1番打者もこなす。ホームランはまだ2本だがコンスタントに打率3割を維持している。
電電東京時代は不動の4番で「変化球打ちさえマスターすれば貴重な戦力になる」と入団当時から期待されたが、湯之元キャンプで肩を痛め出遅れていた。スローイングがやや大きいのを強肩でカバー、長打力もあり、このまま行けば大矢、奥宮をおびやかす存在になりそうだ。

1972年、イースタン打率307でベストナイン捕手
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白柳和吉

2014-01-27 20:35:39 | 日記
1971年
・ドラフト5位指名の白柳和吉投手「21歳」の大洋入団が決まった。11月28日、午後2時から平山スカウト部長、湊谷スカウトが川崎市内のレストランに白柳投手と、林建設・猪瀬監督を招いて初交渉での一発内定。もっとも、モメる材料もなかった。というのも、白柳投手は林建設を退社した10月に、大洋多摩川にテストを受けに来ていた投手で、ドラフトであげるまでもなかった。しかし、184センチという大きな体。「他球団に目をつけられてるかも・・・」ということでリストアップした。静岡県の引佐高から林建設に入社。ノンプロでは目立たない存在だったが、多摩川で見た首脳陣は「体といい、球のスピードといい、大物、掘り出し物になりそうだ」と期待している。
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新井智博

2014-01-26 22:47:22 | 日記
1978年
・クラウンのキャンプ地にジャンボ投手が悲壮な決意で参加している。昨年、巨人を自由契約になった新井智博投手で、現在採用テストを受けているのだ。25歳、巨人には7年在籍したが1軍登板はゼロ。「二軍でもほとんど投げる機会がなかった」とかで、はるばる九州に新天地を求めやって来たという。192センチの長身で、左腕という希少価値。このため、
クラウンは「うまくいけば使えるかもしれない」ということで、テスト参加を認めたそうだ。誰も頼るところのない九州・
福岡。「泊まるところも決まってない」と何とも心細い話だが、本人にしてみれば悲壮な覚悟。「これが最後の勝負です。力いっぱいやって、それでダメなら仕方ありません。」こう話すノッポ投手の表情には、追い詰められた者だけがもつ人一倍の厳しさが漂っていた。
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茅場考史

2014-01-26 21:28:40 | 日記
1980年

昭36.12.4生 右投右打

強肩強打、三塁手だが、外野もやれる。昨秋の関東大会で4割をマーク。
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乗替寿好

2014-01-26 20:47:59 | 日記
1971年

・西鉄ライオンズのファームに故障とツキの無さに泣かされている3年目の投手がいる。もちろんチーム期待の星として迎えられた男だ。乗替寿好投手。彼はドラフト2位で1969年、西鉄入りした。しかし球団としてはトップにランクするはずだった。というのはドラフト直前の国体で、乗替の好投により若狭高校「福井」は優勝している。そのため「条件や、他球団との競争もあるだろうから、口説きにくい」という理由で、東尾「箕島」を1位。乗替は2位にランクされることになった。いってみれば、1位の東尾より、西鉄としては是非欲しい投手だったわけである。しかしプロ入りしてからの彼は不遇だった。
1年目、ライバル東尾がオープン戦の対巨人戦「熊本」で好投したというニュースが伝わった百道寮で、3位同期入団の宇佐美と夜間練習中、その宇佐美が不慮の死を遂げるというショッキングな場面に遭遇した。乗替はまだ故郷を離れたばかりの、スタートに、こんな哀しい思いをしたのである。それでも、先攻する東尾に闘志を燃やし連日激しいピッチングを続けた。だが、張り切りすぎからか、若い肩を腕が上がらぬほど痛めてしまったのである。こうして西鉄の星は、その1年まったく光も見せずじまい。ファームはおろか、休養だけの1年目を過ごした。そして肩が治った翌年、稲尾監督就任で指導よろしくフォーム矯正、キャンプ当時から期待されたところに持ってきて、池永ら3人の主力投手が永久追放となり、ようやく陽の目をみようとしたのだが、どうしても肝心の1勝があげられない。「1勝のチャンスはあった。近鉄戦に4安打、完投した時だ。だが、どうしても味方の援護が得られなかった。その前日、東尾がボクの救援で初勝利を挙げたというのに・・・このときからボクと東尾との差が出来たのです」単にツキというが、若い投手には勝つか負けるかでピッチングの自信が違ってくるのだ。それでも、今季、乗替は1軍に上がったことはある。だが、5月7日、同じ左腕の佐藤と交代でファームに落ちてから1軍の距離は遠くなった。佐藤はロッテ戦「6月20日」で好投し腕を上げつつあるというのでは、なかなかファームに戻ってくる気配はない。ファームでは乗替は6月1日現在、防御率2位「3,21」という好成績なのだが、悲しいかな球威は乏しく、カーブだけが頼りの投球では首脳陣の評価は得られず、力不足は明らかである。故障と不運と、そして未知の世界の中での実力不足が乗替を3年目の苦しい闘いの場に置いている。だが焦ってはならない。力がつきツキがまわってくれば、3年目でも、まだスターの道は残っているのだから・・・。
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交告弘利

2014-01-25 14:54:48 | 日記
1969年

交告は岐阜高時代から剛速球をうたわれ、将来の大器とされた選手だった。だが、制球力に難があって、プロ入り後は伸びなやんだ。不運なことにタイガースには昭和四十二年、おなじ左腕の剛速球投手である江夏豊が入団、たちまち看板投手にのしあがった。反比例して交告は影がうすくなったのだ。四十三年、彼は自由契約になった。

グローバルリーグにて

元阪神タイガースの有望投手だった交告弘利が、左腕からのびのよい速球を投げ込んでデモンストレーションしている。なんとか合格したい一心で、入念なトレーニングをつんできたらしい。交告は体の故障を理由にシーズンなかばで退団した選手みたいだが、みたところまったくの健康体である。「故障というより、気持のうえでくさったんです。おととし江夏が入ってきて以来、タイガースはほかのサウスポーはお呼びでないチームになりましたから、アホらしくてね」見切りをつけて退団した。だが、野球をあきらめきれない。再調整してきた。まだ二十三歳だから、成長の余地はじゅうぶんある!と交告はピッチングの手をとめて自己宣伝をひとくさりやった。
「みてくださいよ。この速球、そう、まあ江夏よりは若干見劣りしますけどね」あらためて彼は投げてみせる。
森は名簿の交告の項に二重丸をつけた。矢ノ浦の名簿をのぞいてみると、やはり二重丸がついていた。
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金城進

2014-01-25 10:52:51 | 日記
フォーム・・記載なし 球種・・・カーブ、シュート

1967年

金城進投手(桜井中‐御所農)

昨夏は郡山と一点差の好ゲームを演ずる健闘ぶり。こんどは、それほどの力はないものの、金城主将を大黒柱に中堅チームの力をもつ。主将の金城はまた主戦投手。シュートを得点とする速球派。球威もあるが、投球にムラがあり、安定を欠くのが欠点。腰を痛め不調を訴えているが、夏の大会までには回復しそうというから望みもてる。

(奈良商工戦)

御所農の金城投手がノーヒットで奈商工を完封した。よくコントロールされた直球を前半に、後半にはカーブを多投して奪三振十一、四球わずか一とあわやノーヒットノーランかと思わせる好投ぶりだった。
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金丸久夫

2014-01-24 21:38:00 | 日記
1982年

・小柄な体型は投手に不向きということで、肩を生かし守備の巧い点を見込まれ内野手に転向した。夏の県予選、佐久高戦でノーヒットノーラン。甲子園では津久見高相手に15奪三振を記録。篠塚「巨人」や水上「ロッテ」のような選手が目標だ。
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情報提供してほしいプロ野球選手

2014-01-23 22:53:41 | 日記
栗崎 日出男(南海)

石田 芳雄(阪急)

荻原 久男(産経)

堀田 芳信(ロッテ)

門川 義博(巨人)

上森合 直幸(ロッテ)

片岡 一美(広島)

住友 秀雄(東映)

宮本 孝男(東映)

鎌野 裕(東映)

井上 正晴(東映)

細谷 保雄(南海)

一ノ関 秀則(産経)

佐々木 剛(産経)

矢部 祐一(巨人)

鎌田 幸雄(大洋)

山口 和雄(南海)

村越 稔(産経)

田中 末一(阪急)

原野 一博(近鉄)

中礼 政博(南海)

真部 繁敏(南海)

中条 博(南海)

飯山 正樹(南海)

詫摩 和文(産経)

中村 益章(巨人)

大西 忠(阪急)

高須 正義(阪急)

山口 富夫(太平洋)

飯田 敏光(大洋)

上林 成行(近鉄)

太田 清春(近鉄)

山元 二三男(広島)

下村 栄二(広島)

杉浦 三六(南海)

以上の選手についてどのような経緯でプロ野球選手になったのか?
また投手ならフォームや球種などの特徴。野手ならどのような選手だったのか
是非教えてください
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森田実

2014-01-22 19:37:25 | 日記
1983年
・いったん「普通の会社」に入った。が、「やっぱ、どうしてもプロへ行きたいんだ!」こんな根性を出したのが、
巨人にドラフト外入団した森田実捕手「20歳」だ。金足農業「秋田」を卒業して3年目。一度は「地道な道を進むんだ」と、
三井造船「千葉」に進んだ。もちろん少しばかり野球はやったのだが、昨秋、突然思い立ったように会社に退職願を出した。
「プロで、あこがれの巨人でやってみたかった・・・」で、新人テストを受けた。結果は見事合格だったが、プロアマ規定「高卒者で就職した者は3年間プロ入りできない」に引っかかり断念。「悔しかったけど、自分の決めた道だから・・・」以来、森田クンのひたむきな「闘争」が始まった。故郷の秋田に帰り、母校グラウンドでトレーニングを積む。また一方「会社を辞めて収入がないから・・・」ということで土木工事などもやった。そんな合間をぬって黙々と練習に励んだのだ。そして1年、再び巨人の新人テストを受け、再度合格。「人生は二度とありません。自分を賭けてみたい。だから会社を辞めたことも後悔しないし、いまは最高の気分です」地味なドラフト外選手ながら、根性は人一倍。「負けませんよ」森田は意気込んだ。
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古賀英彦

2014-01-21 22:13:37 | 日記
フォーム・・・オーバースロー 球種・・・速球、カーブ、シュート、アメリカ仕込みのチェンジアップ



古賀は熊本工から近畿大へすすみ、三十七年に巨人へ入団した。三シーズン在籍した選手である。最初はオーバースローの速球投手だったが、入団してすぐ首脳部にアンダースローへの改造を命じられた。中継ぎ、救援用に小まわりのきくアンダースロー投手が当時の巨人では必要とされていたからだ。
だが、この無茶な改造がもとで古賀は肩を痛めた。外野手に転向した。一時は宮本敏雄、国松彰、高林恒夫らと競い合って、あと一歩でポジションを手中にするところだった。ところでが新入団した柴田勲がシーズン途中から外野手に転向して、センターへ定着した。古賀はチャンスをうしない、関根潤三、末次民夫らの入団のあおりをうけて、三十九年かぎりで自由契約になったのである。
その後、古賀はアメリカへわたった。野球にまだ自信と未練をもっていた。本場で再起をはかろうとしたのだ。東京ドラゴンズの先駆者といってよい勇敢な夢の多い青年だった。S・ジャイアンツの極東担当スカウトであるキャピー原田に身柄をあずけた。イリノイ州サバナに本拠をおくジャイアンツの1A級ファームへ入団することになった。
古賀はここで、本格派のピッチャーとして再出発した。一年目は八勝七敗。シカゴ・カブスの3A級のファームと契約することができた。だが、その年交通事故で首の神経を痛め、一年を棒にふる不運に見舞われた。渡米三年目、古賀はシカゴ・カブスの1A級に籍をおき、カリフォルニア・リーグで一年間プレーをした。監督は日本にきていたジム・マーシャルだった。古賀はマーシャルの監督就任最初の試合に登板、相手をシャットアウトして一勝をプレゼントしている。その後3Aへふたたび昇格する予定でいた。そこへジョージ吉永からグローバル・リーグへ加われという勧誘があったのだ。現在の給料の倍額を支払うという口説き文句だった。古賀は参加の決心をし、三日まえ、デイトナ・ビーチへ着いた。ひとりトレーニングをつんで一行を待っていたのだ。戦力としての古賀は森には未知数である。だが、アメリカの野球界で三年もメシを食った経験は貴重だ。チームにとって得がたい人材であることはたしかだった。
「古賀さんか。よろしくたのみます。全然勝手がわからないので」「大丈夫。なんとかなりますよ。きょうはゆっくり休養して、あしたから猛練習しましょう。相手は3A級ですが、日本チームはまとまりがよいから、けっこう対抗していけると思う。

日本を出て三年間、古賀は一度も帰国していないという。生きた英語をしゃべる人に特有の巻き舌で彼は日本語を話した。
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室井勝

2014-01-21 21:35:52 | 日記
フォーム・・・記載なし 球種・・・速球、カーブ

室井は切れのよい速球とするどいカーブを制球力よく投げわける。正面から相手を圧倒する威力はないが、大量点をとられずに試合をひっぱってゆく技術のあるピッチャーである。


大洋ホエールズ出身の室井勝は、自由契約になった選手ではなかった。自分から球団へ辞表を出し、ホエールズのキャンプから退散してテストをうけにきたのである。「アメリカで野球をやるというのが気にいったス。大洋にいても二軍でくすぶっているだけでは仕方ないスからねえ」室井は中学しか出ていない。草野球程度の球歴から、二十歳すぎて大洋のテストをうけて入団した。いま二十二歳である。グローバル・リーグの前途をかならずしも楽観できないのは承知のうえだという。ともかくアメリカへわたりたい。チームがもし成り立たなくなれば、向こうで大リーグのファームへ入って野球をやる覚悟らしい。雑草のように生きてきて、なにをやっても生きていけるという自信を頬骨にみなぎらせていた。室井は向こう意気をむきだしにして、ピッチングをつづけていた。速さはまずまず、制球力はじゅうぶんである。だが、打者の手もとでもう一つ速球に伸びがほしい。「きたえれば球に伸びが出るだろう。いけるんじゃないか」森と矢ノ浦はうなずきあった。室井はそれを横目でみて、さらに生き生きとした球をほうるようになった。
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上林成行

2014-01-21 21:07:04 | 日記
1972年 (クラレ岡山時代)

上林がぐんと力をつけている。松浦がワザなら上林は速球主体の力のピッチング。制球に一まつの不安があるが「ストライクさえ投げれば、まず打たれない」と、吉田監督がいうように、新日鉄戦で2安打、1四球の完封勝ちで自信をつけた。
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