プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岩崎忠義

2014-02-28 23:18:28 | 日記
1968年

東京の岩崎が十八日、SF・ジャイアンツの教育リーグに参加するため、単身渡米した。東京は昨年も十月中旬の約1か月間アメリカ・フロリダ州ダニデンのタイガースの教育リーグに井石、山崎、池辺を派遣したが、三選手の今シーズンの著しい進境ぶりもあって若手の有望株をどしどし留学させようという考え。永田オーナーは「オリオンズが優勝するためには、いいと思ったことは、どしどし実行したい。本物のアメリカで若い選手に悪いクセがつかないうちにみっちりは仕込んで貰う。岩崎なんか、見違えるようによくなるはずだ」と大変な気の入れようだ。岩崎は大分津久見高出身の二年生。元々は内野手だが、今シーズン、イースタンでは中堅手三番で活躍。攻守走のバランスのいい選手として定評があった。最近はずっと一軍ベンチ入りし、八日の南海戦(東京)では村上から代打でプロ入り第一号を飛ばしたばかり。東京では池辺、山崎につぐ期待のホープといわれている。岩崎は「ひとりで心細い面もあるけど、基礎から教えて貰って、思い切り腕を上げていきたい。フレスノ・ジャイアンツには源ちゃん(李源国投手、前東京)もいるということなので再会が楽しみです」と胸をふくらませている。岩崎がどんな土産を持って帰るか、それは来シーズンのお楽しみというところ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原克巳

2014-02-28 19:47:45 | 日記
1977年、年俸200万円
・広島を自由契約になっても、好きな野球を辞められずブルペン捕手として、投手陣の調整役を黙々とこなす。

1977年「日本ハム時代」
・「晴れの球宴出場です」といっても、あくまで練習の手伝いだが、オールスターゲーム第3戦「神宮」に参加した藤原捕手。その「日当」を受け取りながら「2人分もらわなきゃ・・・」と苦笑い。というのも、全セの練習要員・荒川捕手「巨人」が遅刻し「普通の選手じゃケガをすると大変だし、何とかセ・リーグの方も手伝ってほしい・・・」と頼まれて、セパ両方のバッティング捕手を務めること約2時間。「倍も仕事したら疲れちゃうよ」とグッタリ顔だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川内雄富

2014-02-28 18:26:46 | 日記
1968年

ファーム選手では最近珍しい交換トレードが、巨人と広島の間で成立。巨人の二年生投手深沢と交換に川内雄富外野手(一七一センチ、七一キロ、左投げ左打ち、広陵高出)が巨人に移籍、三日、セ・リーグから公示、イースタン・リーグに登場する。巨人が川内に白羽の矢を立てたのは「国松、森永と一軍の左打者がベテランになっているため、将来性のある左のバッターを・・・」という首脳陣の希望があったため。川内はやや小柄だが、馬力を生かしたバッティングで今季はウエスタンリーグで二十二試合に出場、二割九分四厘の好打率をマークしている。一軍戦にもしばしば登場昨年は打率一割四分九厘だったが、石戸(産経)からホームランを飛ばすなどパンチのあるところを見せている。川内は「巨人へ移籍されるとは思わなかった。でも決った以上は巨人の連中に負けないようにがんばりたい。白石さんや森永さんら地元の大先輩もいるのでありがたいです」といっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田孝司

2014-02-28 17:50:18 | 日記
1969年

一軍では昨シーズン、実績ゼロだったが、イースタンでは二十一試合で三割二分六厘(三ホーマー、十四打点)をあげた巨人の吉田が五年目のことし、オープン戦から起用され、一軍昇格を期待されている。九州での西鉄シリーズ第二戦(八日、平和台)では森を押しのけて先発でマスクを被り三打数二安打の活躍。西鉄シリーズは通算七打数三安打という成績。「ようやく力をつけてきた。ことしはオープン戦でどんどん使って森の控えにしたい」と川上監督から高く買われている。しかし、まだ一軍の細かいチームプレーにはついて行けず、藻類ではヒットエンドランのサインを見逃すポカをやるなど若さを暴露している。吉田は神港高時代から大型捕手として注目され、四十二年には上田、林らとドジャーズ・キャンプに留学するなど首脳陣からも大いに期待されていた。しかし、その後、もう一つ伸び悩み、大橋(大洋へ移籍)や槌田の陰にかくれ一軍入りができなかった。五年目に春が訪れてきた吉田は「一時は野球を諦めていたけれど、辛抱した甲斐がありました。ことしこそこのチャンスを生かして第一線へ飛び出さなければ・・。とにかく死にもの狂いでやりますよ」と、目の色を変えている。四年間の下積みの成果を見せてほしいもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山口喜司

2014-02-28 14:41:06 | 日記
1969年

「あいつは傑作な男だよ」とナインの間でいま話題になっているのが入団の席上「自衛隊魂を発揮して・・・」とド肝を抜いた新人山口投手(自衛隊西部)。その言動がふるっている。先日、ユニホームの寸法どりの際「僕はけけっこうです」と頑強に拒否して首脳陣を困らせたが、その理由がおもしろい。「自衛隊ではそんなことやりません。からだのほうを衣服に合わせることになっていますから・・」すべてがこんな調子。あいさつのときケイレイしてナインをびっくりさせたばかりか、朝起きには弱いナインを尻目に、毎朝六時にしゃんと起床。「自衛隊は規律がやかましい。脱いだクツがそろって置いてなかったり、ふとんにシワが寄ってたりしたら上官にポイと捨てられてしまう。こうした生活を丸一年やってきたので、それがなかなか抜けんです」その口調には、いかにも合宿生活が甘ったるいといった響きが感じられる。この山口が今度の日南キャンプにとんでもない提案を首脳陣に持ち込んだ。トランペットを吹かせたらくろうとはだしといわれるその特技を利用し「キャンプでは進軍ラッパで起床させたら・・」というもの。こうした山口の言動を笑っていた首脳陣も、最近では「プロなんだからそれぐらいのきびしさがあっていい」と「山口提案」にかなりかたむいている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末永吉幸

2014-02-28 14:24:29 | 日記
1970年

十七日、後楽園でのナイター阪急一回戦で、新しいヒーローが誕生した。その名は末永。小倉工からノンプロ鹿児島鉄道管理局で二年間プレー。鉄壁の守りが、瓜生スカウトに買われて入団した今年三年生。この夜、東映は阪急のルーキー下手投げの山田に手が出ず、二対一で試合は終わるかと思われた。ところが、この末永は、八回右翼スタンドに1号、逆転2ランの大ホーマー。プロ入り一号ホーマーが三連覇を目指す阪急を沈める一発とは・・。試合後、マイクを突き付けられた末永は、興奮でブルブルふるえていたほど。「あすのスポーツ紙は全部買って豊前市にいる両親に送ります」これが、開口一番のセリフだった。松木監督も、「正直いってあそこでホームランが出るなんて想像もしなかった。これからスタメンに使っていく」と変なほめ方。昭和二十三年一月三日生まれというから、もともと縁起のいい男なのだろう。身長1メートル73、六八キロと、体格はそう大きくはない。顔つきお童顔で、とても九州男児には見えないが、いうことだけはやはり九州男児。「月給は八万円ほどで、とても実家へ仕送りするほどの余裕はありませんよ。たまの休みに、井上や二宮さんと酒を飲みに出かければそれで全部パー。もちろん、契約金だってもらっているけど、三年間のプロ生活で残っているものといえば、入団のときに買ったこのグローブだけ」どうやら心臓のほうは三原近鉄主砲永淵ばりらしい。今後どんな働きをするか・・。この小さな男に期待したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作道烝

2014-02-28 13:27:31 | 日記
1970年

「七年目のホープ」といわれている東映の作道(さくどう)が開幕の西鉄戦(平和台)から正捕手で活躍している。開幕戦では、エース池永から左翼へ第一号ツーランを飛ばし四打数三安打、三打点のハッスルぶりで好調のスタートを切った。愛媛・新田高から東映入りした作道。プロ七年生とはいっても、およそ一軍ベンチには縁の薄い存在だった。初めて公式戦に登場したのが四年目で、それもたった一試合だけ。昨年も僅かに三試合の成績だった。しかし、イースタンでは一発のある強打者としてめきめき腕を上げ、昨年は吉村(巨人)から奪ったサヨナラ本塁打を含め七ホーマーの二割五分六厘。捕手にしては足も速く、十一盗塁をマークした。まだキャッチング、スローイングは甘いが馬力とタフネスぶりは東映一。タフ自慢の張本、白らも一目置いている程で、松木監督も「重労働の捕手も彼なら充分こなせる。六連戦やっても作道なら安心していられる」と変な誉め方をしている。この作道は、試合に出ればモートンに続く六番打者。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米田慶三郎

2014-02-28 10:45:14 | 日記
1968年

開幕早々、その長打力に一目置かれはじめたのが、注目のルーキー米田内野手(桃山学院高ー電気化学)。もともと遊撃手だが、公式戦に入ってからは二塁手で不動の四番。十九日現在、四試合で三ホーマーは、もちろんホームラン・ダービーのトップだ。三月三十日の開幕戦の対東京戦で西からバットに当たった瞬間「はいった」と思われた左翼への弾丸の1号を皮切りに、四月一日の対東京三回戦でも二死から九回二死後、初球を左中間へ豪快なサヨナラホーマー。さらに十四日の巨人一回戦でも好調の菅原からレフトスタンドへ3合目を奪うハイペース。一メートル七五、七三キロの米田は肩幅の広いどちらかといえばがっちりした体つき。背丈の割りに足が短く、お世辞にもスマートとはいえないタイプだが、そのパンチ力だけは抜群。このペースでいくと二十本以上打って、イースタン・リーグの新記録をつくりそうな勢いだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田卓三

2014-02-28 10:38:13 | 日記
1968年

・・投手陣でもう一つ快報がある。ことし二年目の左腕上田が対東映二回戦で、救援ながら見事プロ入り初勝利を飾ったことだ。「今シーズンの上田はよろしいですよ。そのうち必ず皆さんをアッといわせるようなことをやりますからね・・」試合前、報道陣に藤江コーチは、思わせぶりなことをいっていたが、早速驚かせたわけだ。キャンプで二つのチェンジアップをマスターし、球威もついて、たくましさが出てきた上田だが、開幕からもっぱら救援ではあるが、毎試合のように起用されている。村上がこのところずっと肩を痛めてファーム暮らしをしているだけに、左でたよりになるのはこの上田ひとりだけ。「やっぱり若いやつが出てこんといかんわ」と鶴岡監督も、新らしい魅力上田の成長にはご満足。上田はトッポ・ジージョのニックネームどおり、人を食ったような表情でひょうひょうと投げているのが、これまた効果的。カッカと燃えているバッターに対して、上田はタイミングを外すような変化球を投げて、さらりと切り抜けるわけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯田幸夫

2014-02-28 10:14:50 | 日記
1967年

「左打者ヤーイ」と左打者獲得に躍起の首脳陣が一つの手を打った。十月二十日から約1か月間の予定ではじめられた秋期練習、ここで、かなりの人数にスイッチ・ヒッターの練習をさせているのがそれだ。遊撃矢嶋、三塁伊能、荒川外野手、大谷捕手ら、若手で小兵俊足組はそろって左打ちの練習と取り組んでいる。さらに、彼らの練習を見ていた飯田もスイッチ・ヒッターを志願。この飯田、ことしでプロ入り二年目だが、北川と右翼のポジションを分け合って二割八分近い打率を残した好選手。西鉄が「清投手と交換してくれ」と申し込んだのを「飯田は土井につぐ素質の持ち主」と球団が断ったほどの期待の新星だ。だが、この飯田、まだ外角カーブが打ちこなせない。どうしてもヘッド・アップ気味になり、うまく球をとらえられないのだ。飯田がスイッチ・ヒッターを志願したのは、この欠点を克服するため。本来の右打ちでもまだ勉強しなければならないことが多い飯田。左打ちの練習はそれだけ時間をさかれることになるわけでマイナスの要素も心配されるが「いま秋期練習、やりたいことをどしどしやらせてみるさ」とコーチ陣は飯田の意欲を歓迎している。さて、この中から第二の柴田が生まれるかどうか。近鉄の思い切った方式の今後が注目される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤泰憲

2014-02-27 23:21:55 | 日記
年俸・1977年「240万」、1978年「360万」、1979年「360万」
1980年「490万」

1981年ウエスタン成績
167打数43安打・打率257、本塁打4、打点22、盗塁5

1981年「南海時代」
・3月7日、ロッテとのオープン戦「川崎」で満塁本塁打を含む5打数4安打6打点の猛打を発揮したのが、移籍1年目の
伊藤だ。昨年暮れ、10年間働いた中日を解雇され、左投手用の代打として南海に拾われた。中日時代は左腕に強いところをみせ「江夏キラー」といわれた時期もある。左に弱い南海打線の切り札的な活躍が期待されるが「もう、ボクにはあとがない。この時期にチャンスをつかまないと・・・」と打撃ばかりではなく、ポジション獲得にも強い決意をみせている。本来は1塁手だが、捕手と遊撃以外はこなせるという器用さもあり「出られるのならどこでも」という。プロ10年目にして味わった「自由契約」という屈辱を発奮剤に大きな飛躍を目指す伊藤である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淵上澄雄

2014-02-27 23:20:10 | 日記
1968年

プロ入り三年目で初勝利をあげた淵上にとって、この七月七日はまるで夢の中にいるように落ち着かない、一日だった。第一試合ベンチでみていて、先発の及川にはじまって、平松、森中、平岡、高橋、池田と錚々たる大洋の主力六投手が中日打線のエジキになっている。「自分のことではないのに胸がドキドキしてくる」と弱い心臓を高鳴らせていたばかりなのに、第二試合の始まる十分前に秋山コーチから「つぎは淵上、お前だ」には飛び上がらんばかりの驚きよう。「だって登板はないと思って、いつもは米のごはんは食べないことにしているのに、のんびり昼食のにぎりを食べていたとこ。あわててブルペンに走ってウォームアップしたが、マウンドに上がっても動悸はおさまらない。「まるで雲の上を歩いているようにふわふわして、地に足がつかない」というほど。大げさな表現でなく、初回の一死二塁のピンチを尻もちつきながら投直併殺打で切り抜けたのも「どうしたかわからない」というし、後半江藤らにいい当りされたのも「どこまで球が飛んだか、わかりません」というほど。だが、マウンドでのピッチングは大胆そのもの。怖いもの知らずなのか「高木守、江藤さんらには恐いと思ったが名前負けでしょうね」とケロリとしていたもの。この伏兵、淵上の好投に中日・本多代理監督は「うちが打てなかったんじゃない。きょうは淵上君をほめてやって下さい。淵上君の球威に、当っているうちの打者がおされていたんですから」と素直に完敗を認めていた。完投はのがしたとはいえ、八回まで四安打の一点、それもタイムリーエラーの失点とあってはなおさらだ。秋山コーチは「第一試合で使い果たしたので、きょう登板させたがいずれでてくる。思い切りのいいピッチングにナックル、シュート、カーブと球種も多い」と誉めていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北角富士雄

2014-02-27 22:23:31 | 日記
1966年

このところ、新人の北角投手がウエスタンでバリバリと投げ、いつも好投している。ネット裏でゲームを観戦している首脳陣のなかで近藤コーチは「スピードも出てきたし、ボールの切れがいいので、これならいけるかもしれない」と目を細めて、その成長ぶりを見守っている。唯一の地元の新人として入団した北角は、阪神がドラフト会議で指名しながら、本人にプロ入りの意思のないことがわかってその権利を放棄した。ところが「どうせやるなら、こどものときから好きな中日に入りたい」という本人の希望で、その後トントン拍子に中日入りが決まったという変わりダネ。キャンプ当時から、その小柄な体格を見て「第一線でやるには、すこし荷が重すぎるようだ」という声も多かったが、そんな声に反旗したのだろう。黙々と練習にうちこんだ努力が実を結んで、首脳陣のおめがねにかなったわけ。高校時代からシュートの切れがよく、制球力がすぐれていただけに、北角がベンチ入りして、公式戦に初登板する日は近い。近藤コーチが「板東のようなタイプのピッチャーだ」といっているから、第二の板東が誕生するかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泉元寿光

2014-02-25 21:25:34 | 日記
1976年ファーム、0勝1敗、防御率4,50

・軟式野球出身の変り種。無理のないフォームで速球、カーブを投げ分ける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本孝志

2014-02-23 22:37:43 | 日記
1971年・年俸110万円・
ファーム成績・28試合・5勝6敗・防御率2,85「ウエスタン9位」

1973年
・「ボクみたいな性格的に弱い人間はプロでは大成できない。7年間やれるだけのことはやったつもりだが、1軍の選手にはなれなかった。でも、悔いはありません」昨年暮れ、自由契約になった橋本は、いま福岡に帰って父親の経営する洋品店を手伝いながら過ぎ去った7年間を思い出す。8年前、国体の優勝投手として博多工から入団、契約金も当時では破格の1700万円だったが、勝ち星は一つしか挙げられなかった。「これからは商売を熱心にやって父親を助けたい。プロでのいい思いではないが、近鉄には愛着があるので福岡に来たら応援に行くつもりです」といっていた。第二の人生は是非成功してもらいたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする