プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

橋詰文男

2017-02-27 22:39:47 | 日記
1966年

昨年暮れ、東映を自由契約になった橋詰文男投手(29)=身長1㍍77、体重72㌔、左投げ左打ち=が、サンケイアトムズの秋季練習に、十一日からテスト生として参加した。約一年間、大阪で兄さんの会社を手伝っていたが、ユニホームへの愛着が断ちがたく、こんどテストをうけることになったもの。飯田監督、中原ヘッドコーチらにこってりしぼられた橋詰は「トレーニングをしていなかったから、ヘバった」といっていた。アトムズでは、投手としての力量をみることになっている。
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橋詰文男

2017-02-27 22:32:39 | 日記
1964年

一口にリリーフといっても、大きく分けると、ロングとショートの二つに分かれます。そのうちボクには、ショートのほうが適しています。なぜか? となると、説明しにくいのですが、プロ入り以来そうした使われ方をしてきたから、慣れ切ったせいかもしれません。学生時代は、もちろん「完投主義」でしたが、カーブさえ投げていればまず大丈夫だったからです。ところがプロは、そんな具合に簡単にいきません。目先きをかえて、いろいろな球を投げるわけです。それでもボクの球が、もっとスピードがあれば、ロング・リリーフか、完投も夢ではなくなるのです。がなにせスピードが足りないのです。しかも無理してスピードを出そうとすると、手ごろになったり、球のキレがかえって悪くなります。そこでロング・リリーフは、よほど好調でない限り、うまくゆかないのです。やっぱり好きなのはショート・リリーフです。このショート・リリーフの中にも、①ワン・ポイント、と②このイニングのケースと、③2イニングの場合があります。しかしこれなら、どちらでも十分いける自信を持っています。あらかじめ監督から指示が出ますが、かりに指示がなくても、ブルペンにいて三つのうちのどのケースかは、状況次第ですぐわかります。というのは、ボクの場合は「左打者用のリリーフ」が多いから、このときの左打者だけか、それとも次に右がいて、また左がいる場合はそこまでとか、すぐピーンときます。以上のような関係から、ボクは重点的に左打者(関根、榎本、ブルーム、杉山さんなど)を、研究することになります。初球からよく打ってくるひと、杉山さんのように、なかなか打たないひと、打ち気のときは表情が違う関根さん、カーブばかりをよく狙ってくるひと・・・など、十分知っておかねばならない材料です。案外左打者に、カーブを打たれているのは、打者がシュートを捨ててカーブを狙っているか、それともカーブの数が、シュートや落ちる球より、多いせいかもしれません。ところで、登板時機は、大抵ランナーがいるピンチです。だからブルペンの準備も、圧倒的にセット・ポジションです。捕手にも、投球のキャッチボールがすんだら、すぐ構えてもらって、ただちに変化球の練習に入ります。大抵20球ほどの練習で、準備OKです。最初にお話した通り、学生時代はこんなふうでなかったのですから、習慣さえつければ、大抵のひとが少ないウォーミング・アップでいけるようになるはずです。しかし問題は、過不足なしの練習量が、一番大切です。だから試合の状況判断が、肝心な要素です。待ちくたびれては精神的にイライラするし、実際肩も冷えます。あくまで、グッド・タイミングの選定が、成功のカギともいえましょう。更にもう一つは、第一球(またはファースト・ストライク)が勝負の半分をにぎる、ということです。そこで、バッターが極端に打ち気にきているときは別にして、まずストライクをとって、打者を追い込む自信を持つことです。しかも、そのストライクは、どんな変化球でもとれてこそ、効果が大きいのです。こうして打者より気分的に優位に立つと、失点を妨げて、火消しの役が務まることが多いのです。ことしもボクは、リリーフで頑張ります。
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東条文博

2017-02-27 21:34:43 | 日記
1969年

昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人兄弟(兄五人、姉一人)の末っ子という甚だ恵まれない環境に育ったのである。御多分にもれず幼い頃からの野球好きであったが鹿児島に帰ってからも当時のわが家計からはとてもボクのグローブを買う余裕なんてなかった。そこで小学校の先生にたのみこみやっとボクの小さな願いがかなえられた。もちろんスパイクなんて代物は金があろうはずもなく素足のトレーニングである。下伊集院小学校から東市来(いちき)中学校に進んだボクはなんのためらいもなく野球部に入った。練習にあけくれてとても勉強どころではなかった。中学二年のときには「野球でメシを食う」決心をし野球好きの三番目の兄貴は大いに後押ししてくれたが両親は猛反対。けっきょく兄弟力を合わせて両親を説得することに成功した。中学時代は投手をやり年間六つの大会のうち五回は優勝するという好成績を残した。そんなボクであるから授業中は睡眠にこれ務めて放課後のトレーニングのスタミナを十二分に貯えていた。ある日苦手中の苦手であった数学の先生にこっぴどく叱られた。「大事な授業に眠っているようじゃプロで通用なんかせんぞ!」この怒りがかえってボクをふるい立たせたのである。人間ちょっとしたキッカケで運命がかわるものである。名門・鹿児島実業から「ゼヒわが野球部に・・・」という願ってもない勧誘にボクは喜びいさんだ。「これでプロ野球への足がかりが出来るかも・・・」と内心ではずいぶん欲張っていた。ところが一年間で肩を痛めてしまいサードにコンバート。三年のときに南海の九州地区担当の石川スカウト(現コーチ)からプロ入りの話があり即座にOK。広島からも誘いがあったが優勝の可能性ということから考えてボクは南海を選んだ。三年目にファームの成績が良かったので待望の一軍入りをはたし前途のかすかな光明に自己満足していた。しかしながらその年蔭山さんの死それに南海のチーム事情がからんで岡本、中原両コーチそれにボクと無徒がサンケイ(現アトムズ)にトレードされることになった。正直いってプロ生活にようやく自分の生きがいを見いだした矢先だけにショックであった。それから四年たった現在トレードされた後悔はミジンもない。ザルといわれた内野守備にも自信がついてきた。どんどん打ちまくるだけだ。
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菊川昭二郎

2017-02-27 20:51:13 | 日記
1974年

九回裏、中前にサヨナラ打を放った菊川は、うれしさを隠そうともしない。「無死だったので、気分的には楽だった。皆川はあまりよく知らないが、カーブが甘いようなので、カーブにヤマを張った」という。無死満塁、フルカウントからの6球目にすべてをかけた菊川の読みは当たった。「見逃せばボールだった。でもアウトコース低めの好きなコースに、思ったとおりのカーブ。思い切って振ってやったよ。押し出しして勝つよりも、ヒットしたほうがカッコいいからね」-。貯金ゼロの太平洋を救った菊川の表情はさわやか。
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菊川昭二郎

2017-02-27 20:45:59 | 日記
1973年

この日、稲尾監督は打線に手を入れた。ビュフォードを三塁にコンバートするなど、やりくりして東田を三番、福富を六番に置いた。太平洋にしてみれば基を負傷で欠いたとはいえ「最上級のオーダー」(関口コーチ)これで華々しく打ち勝つ計算だったろうが、皮肉にも打の主役になったのは下位の七番を打った菊川だった。復調になった江本にやや押され気味の太平洋。四回までわずかに1安打とサッパリ。そんなところで三塁側の歓声がドッと沸いたのが五回。二死後1-1から菊川の一打は左翼席にはずんでいた。「まさか」そんな表情で打球を見送った江本。「失投だ。ナメてかかっていたのがいけなかった。畜生ッ」南海の大黒柱に地団駄踏ませる菊川の一発だった。すがすがしい顔でベンチに引き揚げてきた菊川は「内角の速球でした。ねらったって?冗談じゃない。ワンヒットするつもりでした。でも最近ポイントが合っているのは確かです。いつもヒットコースに打球が飛んでいるからね。ウフフ」今季初ホーマーにやはりうれしさを隠せない。八回には左前打の福富を置いて、こんどは西岡から一、二塁間安打と巧打者ぶりを披露。「エンドランはサインどおり桜井が二塁カバーに入る気配だったので流し打った。しかも外角にスライダーがきたのでもっけの幸いで振った」とまくし立てながら目は左翼席のほうをジッと見ていた。ホーマーの味を確かめるようだった。「いい風だったネ。打った瞬間手首に感じたもんネ」打撃30傑とただ一人。ノー本塁打だった菊川は「これで何とか格好がついたナ」顔は笑いで照れっぱなしだった。
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門野利治

2017-02-26 23:33:26 | 日記
1967年

近鉄バファローズは、三十日午後三時から、大阪市東区森之宮の球団事務所で、芥田球団社長、須古球団部長、父親久吉さん(61)立ち会いのもとに、平安高・門野利治投手(18)=身長1㍍78、体重70、左投げ右打ち=の入団発表を行った。背番号は「18」。門野投手は二月一日からの明石キャンプに参加する。門野投手は平安高のエースとして、昨年の春、夏と連続甲子園のマウンドを踏んだ。夏の大会の地区予選では、対堀川高戦にノーヒット・ノーランを記録したほか、昨年五月五日の大阪学院との試合では江夏(阪神)と延長16回を投げ合い、26三振を奪うなど左腕の本格派投手。近鉄は昨年十一月八日の第二回新人選択会議で第一位にランクして交渉権を獲得。一度は進学に傾いていた門野を、二ヶ月にわたる熱心な勧誘が実って入団にこぎつけた。近鉄では、ことし獲得した加藤英夫(中京商)加藤英治(PL学園)とともに、将来を背負って立つ投手として期待している。

芥田球団社長の話 「これで今シーズンの補強はすべて完了した。とくに若い有望な投手が入団してくれたので投手王国をつくるだけのコマはそろった。かれらには順調にのびてくれることを期待している。とくに門野君は左腕であり、鈴木とともに、左打線封じに活躍してもらいたい」

ープロ入りに踏み切った理由は。また、近鉄について予備知識は・・。
門野 いろいろ考えましたが、最後は父親の意見に従いました。しかし、自分でも一度プロでやりたいとは思っていました。近鉄についてはなにも知りませんが、みんな若そうですし、いいチームだと思います。
ーキャンプには、いつから参加するか。不安はないか。
門野 最初から参加します。でも、はたして自分の力でやっていけるだろうかという不安でいっぱいです。
ートレーニングはしていたか。
門野 ことしになって、五日から毎日支度近くの山で約5㌔くらい走っていたのですが、最近は試験のため軽くやっていただけです。
ーどういうタイプの投手になりたいか。
門野 チームから信頼される投手になることです。目標は金田さん(巨人)です。
ーどんなタマを覚えたいか。
門野 高校時代は直球、カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを投げていました。プロでは、もっとスピードを増し、正確なコントロールをつけたい。
ー自分のピッチングをどう思うか。
門野 立ちあがりさえいいピッチングができれば、あとはその調子で投げられるんですが、欠点は打たれたら投球のテンポが速くなることです。この点を改めたい。
ーライバルは・・・。
門野 同期の両加藤くんだけには負けたくありません。
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坂井勝二

2017-02-26 21:39:34 | 日記
1966年

ネット裏で観戦していた成田が「坂井さんのスライダーは、ものすごい。あんなピッチングじゃ、近鉄さん、1点がとれるカナ。ぼくも、あんなスライダーを早くマスターしたい」とさかんに感心していた。内角に鋭いシュート、外角にはスライダーを配し、近鉄を3安打散発に押え、今シーズン二度目の完封をマークしてロッカー・ルームにひきあげてきた坂井は「はじめはボールが走らず苦労した。でも、六回に1点取ってくれてからは、ゆとりがでた。そうしたら、急にタマが走りだし、終わったから完封してた」とひとごとのような口ぶり。ビンちゃんのニックネームもこんな、のんびりムードからくる顔つきがマンガのビンちゃんに似ているので生まれたもの。こののんびりムードが、わざわいしてか、今シーズンの出足は悪かった。初白星は、六度目に登板した五月四日の近鉄戦。しかも、それまでに3敗を喫していた。それからも調子の波に乗れず、前半戦を5勝10敗で折り返した。それなのに、この夜、10勝目を完封で飾っても、うれしそうな表情は全然見せない。中西ピッチング・コーチ、田丸監督らに「ナイスピッチング」と背中をたたかれても「どうも」という軽い返事だけ。小山と並んで二本柱と大きな期待をかけられながら、終盤戦にきて、やっと到達した10勝ライン。それだけに、本気になって喜べないのかもしれない。「完封できたのは、ピッチングにゆとりがでたからだ。このリラックスさが前半戦にでておったら・・・」という。入団八年目を迎えベテランと呼ばれる男が、しみじみともらす。前半戦でのつまずきが、よほど骨身にこたえているのだろう。ネット裏でボールペンを走らせていた三宅スコアラーは「前半戦の不振は、シュートの切れと、外角に投げたストレートに伸びがなかったからだ。だが、きょうのピッチングは満点だ。外角のストレートはスライダーがかかり、シュートは内角を鋭くえぐっていた。完封は当然だヨ」という。ぶっちょうヅラで、10勝目のインタビューをつづけていた坂井だが、人垣がとけたところで「10勝じゃネ。あと5勝はしなくちゃ・・・」と真剣な表情。ビンちゃんとはぜんぜん別人だった。
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宮崎昭二・山崎武昭

2017-02-26 19:17:06 | 日記
1974年

捨てる神ありゃ、拾う神もまた健在・・・といってはちょっと失礼だが、阪神入りが決まった宮崎をはじめ、日ハムをクビ(自由契約)になった選手が、他球団に飛ぶように売れている。すでに山崎がロッテに決まり、森中は太平洋に・・・。「けっこうなことですヨ。そのための自由契約ですから」日ハム・三原社長は胸を張るが、戦力アップをはからなければならないどん尻がポンポンクビに、それを上位球団が拾うのは、おかしな話で・・・。

「地獄に仏とはこのことです。大阪に骨を埋めるつもりでがんばりますよ」引っ越しの家財道具の山の中から、宮崎は笑顔をのぞかせた。つい、二週間前、宮崎は失意のどん底にいた。「十三年間もプレーしてきたのに、球団から事前に何の連絡もないとは・・・」チームメートの契約更改が報道されているのに、自分のところには何の連絡もない。不思議に思って球団に出かけると「自由契約にしたからご自由に」と返事が返ってきた。「野球をやめて国(佐賀)に帰ろう」と決心しかけた時、阪神からのラブ・コール。「長田社長にこういわれたんです。小山君(投手コーチ)が君にぞっこんなんだ。低めに変化するタマはセ・リーグ向きで、ロッテ時代から君に目をつけていたというんです。大杉のトレード話の時も宮崎もつけてくれと申し込んでいたというんです。ボク自身も低めのタマには自信がある。感激しましたよ。年棒なんて問題じゃないです」宮崎の意気込みは、もう大変なものだ。山崎も、左腕だけにカネやんをホクホクさせている。「うちはちゃんとオーバーホールして使いまっせ。いまどき、素材のいい左腕は貴重品や」と、クビにした日ハムがふしぎでしようがないというニュアンス。山崎も「1勝しただけではクビもやむを得ないけど、今度は日ハムからご恩返しの勝ち星をいただきます」森中の場合は異色。日ごろ「日本には適任の投手コーチは数少ない」と発言をしている三原社長のおメガネにかない、二軍コーチを要請されたが、これを断っての自由契約。「現役でやりたい」という希望は太平洋でかなえられそうな雲行きだ。今季、日ハムをクビになった選手は全部で七人。そのうち自由契約の三人は売約済みの赤札がプラリ。「使える選手は自由契約にしてやるのが当然です。選手の生活権まで奪うつもりはありませんから」と三原社長。三人を任意引退にして身柄をしばらなかったのは温情あふれる措置というところか。それにしても、うち二人は、来年から日ハム戦にも登板してくる。大杉を放出し、他球団が欲しがる選手をクビにするあたり、来シーズンの戦力によほど自信があるようだが・・。
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高垣義広

2017-02-26 18:19:40 | 日記
1972年

試合開始とともに、激しい雨が降り出した。だが、審判は中段のそぶりもみせない。なんとか五回までやって試合を成立させようというわけだ。その雨の中で、高垣が懸命に投げた。立ち上がりは、雨のためコントロールに苦しみ、先頭の西田に2-2から高めのカーブを左前打され、バントの失策で無死一、二塁のピンチを招いたが、菱川をカーブで二ゴロ併殺にうち取り、二回からはねらったコースへ小気味よく投げ込んだ。二回の三人を、全部遊ゴロに仕とめたのは、カーブに落差があった証拠でもあろう。三回までの予定だったのに「調子がいいからもったいない」と、五回まで投げさせられた。五回、大島に2-3から高めの直球を左前に打たれ、2本目の安打を許したあとも、飯田を遊ゴロ併殺にうち取った。中日に調子が出ていないとはいえ、上々のスタートだった。試合前の高垣は、思いつめていた。「なんとか好投して、認めてもらわねば」-竹村に先を越され、鵜沢、間柴ら若手にも追い抜かれそうになっていることを、ひしひしと感じているのだ。「ことしの高垣は精神的に大きく成長した。若いピッチャーが伸びてきたのが、彼の刺激になったのだろう」と鈴木コーチはいう。例年、この段階での評判はいい。四十二年大洋に入団したときも、キャンプでは「拾いもの」といわれた。だが五年間の勝ち星は、新人のときの1勝だけ。公式戦にはいるとキャンプでの評価はいつも消えてしまう。そのたびに精神面の甘さを指摘されたものだ。「自分でいうのもおかしいがことしのキャンプは、息を抜かずにがん張った。球威、制球力とも自信がついたので、公式戦でもやれそうな気がする」心に期した緒戦に、好投できたので、高垣の表情は明るかった。「球威が増したし、変化球の切れが良くなった。野村が抜けたアナを彼が埋めるのだから、やってくれなくては困る」と鈴木コーチの期待も大きい。春先は、低めに変化球を投げていればそれほど打たれはしない。しかし、これからは打者が低めについてくるようになる。このとき高垣は、精神的な成長をバックに、どんな武器で対抗するか、これが春先返上のカギである。
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菅原勝矢

2017-02-26 17:25:37 | 日記
1974年

巨人・菅原が、十八日、退団届けを球団に出した。三年前の阪神戦(札幌・円山)で左目に打球を受け、完治しかかった翌年に、今度は練習で同じ左目にタマを当てた。二重の不運でとうとう、引退までに追い込まれたものだ。「体には自信があるんですが、もうこれ以上苦しむのは・・・」と菅原。今後の身の振り方は球団に一任することになったが、それにしても、直径約70㍉の小さな白球は、あまりにも菅原に非情な結果を招いた。球団本部の応接室。菅原は佐伯常務に医者からもらってきた診断書を差し出した。その後、小声で「野球をやめます」とつけ足した。言葉にすればたった一息だったが、この言葉をいうために、どれだけ苦しみ、悩んだかしれない。「ときどき、夢を見るんですヨ。マウンドで投げている姿を・・・」途中で目がさめて、何度もくちびるをかんだ。順天堂病院に始まって慶應病院、東京労災、慈恵医大・・・。人から「あの病院がいい」と聞くと、幾つもの病院を訪ねた。しかし、どの病院でも「野球をやっているかぎり・・・」と冷たい宣告を受けた。「ことしの夏ごろ、吐き気とめまいで一人で歩けなかった。そのころ、もう野球はダメだとあきらめました」不運といえばあまりにも不運だった。三年前の夏、札幌・円山球場で阪神・安藤の打球を左目に受けた。そのままだったら、野球生命も断たれなかっただろう。それが翌年、また左目・・・。「二度目のタマが当たらなければ・・・」と菅原は嘆く。視力は右目が1・5。左目は裸眼で0・3。なんとか視力は回復しているが、目につながっている神経を痛めたのが、引退につながった。東京・阿佐谷の自宅には、美代子夫人と一粒種の真美ちゃん(三つ)がいる。左目を痛めていらい、家族三人の苦しみが始まった。「女房にどれだけ迷惑をかけたか・・。こどもにパパお仕事は?と聞かれるのが一番辛かった」本もテレビも新聞も見られない二年半。一時、左目が回復、ことしの宮崎キャンプで一軍入りしたとき、菅原は目にいっぱい涙をためて喜んだ。しかし、それもほんのつかのまの喜びだった。捕手の出すサインがダブって見えた。そのことをコーチに内証にしていた。どうしても、もう一度、マウンドにあがりたかったからだ。「41年にサンケイ(現ヤクルト)戦で初先発、初完封をしたのが一番思い出に残っています。三年前のあれがなければ」どうしても、一つのボールが頭から離れない。プロ入り13勝をあげ、さあ、これからというときのアクシデントだからなおさらだ。「今後の身の振り方は球団にお願いしてきました。なんとくれると思うんですが・・・」球団側では正力オーナー、佐伯常務が話し合って、いまのところ球団職員で採用する予定だ。選手契約でもらっていた年棒三百十万円(推定)も、十二月で切れる。「給料のほどんどは治療費で消えました。本当に神にすがりたい気持ちです」-。引退届を出した菅原の言葉は弱々しかった。
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鬼頭洋

2017-02-26 12:36:01 | 日記
1967年

試合前のベンチ。三番手のリリーフに予定されていた森中(前南海)が、ニヤニヤしながら先発の及川と二番目の鬼頭をつかまえて、あつかましいことをいっていた。「センジ(及川)は、にらみのきいた顔で5回はもつし、つぎはメダマ(鬼頭の愛称)でほうるから、きょうはオレの出番はなしヤ。たのんだぜ」-これには二人ともニガ笑いするばかり。森中の自分勝手な予想?は、回数が逆に出たが、鬼頭は5イニングを全力で飛ばした。打者十七人にヒット1、三振1、四球2、失点0。首脳陣が「今シーズンはぜひとも左の先発に育てたい」という期待にこたえた力投だった。だが、立ち上がりは速球が上へ浮いてボールを連発。これには大洋ベンチもハラハラのしどおし。「風があったから、風を利用してビュンビュンいってやろうとしたのが失敗でした。ついリキんじゃって・・・」代わったばかりの五回はこのため白、青野ら打者四人に23球も投げてヒヤ汗をかいた。しかし、秋山コーチから「バックスイングに力がはいりすぎるとるゾ。もっと軽くいけ」と注意されてから、とたんに本来のピッチングにかえった。六回からの投球数は6球、10球、20球、5球。ノビのいいスピードボールを低めへ集めてやっと落ちついた。「十九日の紅白戦(四回で被安打1)のときよりボールはおそかったと思うんです。でも七回ごろからやっと自分のピッチングができました。最初からストレートで押すつもりでしたから、直球とカーブの割り合いは7-3ぐらい。フォークも投げましたがスッポ抜けが1球だけ」特徴のある大きな目をうれしそうにクルクル動かした。名古屋商大を中退して、ことしでプロ入り三年目。過去、痛めたことのない左腕と、タテ21㌢もある大きな手を持ちながら、昨年まではもっぱらイースタン専門。一軍では昨秋の巨人とのオープン戦(銚子)で貴重な1勝があるだけ。毎シーズン「ことしこそは」といわれながらキャンプ男に甘んじていた鬼頭だった。しかし、今シーズンはちょっとばかりの中身が違ってきたようだ。「一番ダメだったコントロールに自信が持てるし、シュートもよく切れる。ことしはボク自身なにかやれそうな気がするんです」と鬼頭はいっている。こんごの一番大きな問題は、リキみながらボールを連発して自滅しないことだろう。昨年までのこの欠点さえなくなればタマそのものは、とにかくすばらしいものを持っている。切れのいい速球とカーブ、シュート。それに急角度に沈むフォークボールで左の一番手にのし上がれる可能性はじゅうぶんだ。秋山コーチはいう。「きょうはシリ上がりによくなってきたが、まだまだ、リキむ一方でいい点はやれない。しかし、ことしはなんとか先発でノビてほしいんだ。三年目のことし、精いっぱいやってダメなら、あきらめろと鬼頭にはいってある」それはともかく小野、平岡ら左投手が力不足の大洋には鬼頭のこれからの成長ぶりが楽しみだ。
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奥柿幸雄

2017-02-25 20:38:49 | 日記
1966年

静岡県小笠郡浜岡町ー。遠州灘の荒波が、目の前に迫るような町。そこが奥柿の生まれ故郷だ。プロ野球で名をなした選手には、家が漁業だったというケースが多い。父親の手伝いで、舟に乗り、ろをこいだことが、結果的に強ジンな腰をつくるからだ。だが、奥柿は、そうではない。母親のこうさんの手ひとつで育てられた。八人きょうだいの末っ子。世間一般に通用する甘えん坊なところは小指の先ほどもない。朝は六時に起き出して、近くの病院へ働きにいく母親の姿をみながら、奥柿は浜岡中へかよった。プロ入りを決めたとき、奥柿は「親孝行がしたい」といった。口先だけではない。大地に足をふまえた実感がそこにあった。サンケイ入りしたら「おかあさんといっしょに住みたい」といった裏には、高校生活三年間の下宿生活の愛情飢餓状態とはまるでちがう。加えて、浜岡中は野球では伝統ある学校だった。毎年、静岡商へは、何人かの優秀選手が送りこまれている。静岡商野球部の本間文雄部長は、中学時代の奥柿に目をつけていた。「ピッチャーをしていたが、やはりバッティングが鋭かった。投手より打者でいったほうがいいと思った」という。奥柿は、正直だ。ドラフト会議でサンケイが第一位にランク、交渉権を獲得したとき、奥柿の周囲は進学説で固まっていた。「大学受験の勉強を始めなければ・・・」という声に、奥柿は苦笑してこういった。「オレ、参考書はほとんどないよ。教科書でじゅうぶんだ」野球でもそうだ。今夏の甲子園大会で、金沢商の庄田からホームランを打つと、マスコミは長距離打者ともてはやした。だが、本人は、それを真っ向から否定した。「予選じゃ、本塁打は打っていない。ぼくは中距離バッターです」自信がないのかというと、そうではない。言動すべてに、慎重なのだ。サンケイ入りを決めるときは、三時間も無言の行をつづけたすえOKした。何を考えていたのかと聞いたら、ケロリとしてこういった。「プロ野球でやれるかどうか、自分で自分に問いかけたんです。いいかげんな気持ちではなく、自分に聞いてみて、それでよしという返事が出るまで、考えぬきました」奥柿は、一度、こうと決めたら、あとは、一歩もひかない。堂々と自分の道を進む。高村光太郎の詩に「牛はなかなか一歩を出さない。しかし、出した一歩は絶対に引っこめない」という意味の一筋があった。そういうシンの強さを、奥柿はヒシヒシと感じさせる。入団発表後、飯田監督がこういった。「学帽の校章を、変にかくすようなかぶり方をしない高校生を、久しぶりにみたよ。奥柿って、いいね」
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川畑和人

2017-02-25 19:43:27 | 日記
1970年

プロ入り四年目の初完投。川畑の移籍後初勝利はバックの援護もあって、さっそうたるものだった。立上り山本浩に四球を与えて問題のコントロールは大丈夫かと心配されたが、二回三者三振に倒すなど快速球をビシビシぶち込んでその懸念をすぐ吹き飛ばした。「きょうはタマがよく走っていたし、前半広島が高めのボールを振ってくれたので助かった。後半はさすがにスピードが落ちたが、ボールが低めに決まり出したのでこれもさいわいしました」川畑がこの夜一番の真価を見せたのは四回だった。国貞に四球、山本一に初安打され、味方のエラーで無死二、三塁のピンチ。これを2三振と内野フライでのがれたとき初完投勝利の道がパッと開けた。「最終回も苦しかったけど、やっぱりあそこを乗り切ったことがよしきょうはいけるという自信になりましたね」八回、先頭国貞に「ややコースの甘かった内角まっすぐ」を左翼席にもっていかれ完封勝ちをのがしたのは残念だったが、まだ、二十二歳と若い川畑である。この先何度もチャンスはあるだろう。これで移籍後、10試合目の登板。先発はさる八月五日の広島17回戦につづき二度目だったが、首脳陣もこの夜の川畑に大きな期待をかけていた。田辺、佐藤ー川畑と三人の移籍組のうちまだ勝ち星をあげていないのはこの川畑だけということもあるが、さる二十二日のヤクルト21回戦、二十七日の阪神23回戦でそれぞれロッテ当時のスピードを取り戻して好投しているからだ。川畑は江藤とのトレードで中日にきた。それについて川畑は「もともと江藤さんとは格が違うが、これをきっかけにこんごの活躍で勝負したい」と九州男児(鹿児島生まれ)らしいことばをはいた。川畑は野球選手らしくない色白の顔でひ弱そうに見えるが、シンは強いのだ。初勝利のインタビューを終えたあと、スタンドの少年たちと握手をかわしたり、ロッカールームに戻ってくるとこんどはナイン一人一人に「ありがとうございました」と頭を下げて回った。こんな川畑に大島コーチは「この1勝を飛躍台にググッとのびる投手になってほしい。そのチャンスもどんどん与えたい。コーファックスぐらいの速球投手に育ってくれることを楽しみにしている」と目を細めていた。
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早川実

2017-02-25 00:19:43 | 日記
1975年

早川投手は、中継ぎ投手の人材不足から球団が熱心だった戦力。特に低めにコントロールされたシンカーがすばらしく、プロでもすぐ通用すると各球団の評価も高かった。ことしの都市対抗では一回戦で電電東京を完封。カナダで聞かれた世界選手権(インターコンチネンタル)でもリリーフで活躍、先に社会人野球のベストナイン表彰を受けたばかり。しかし、ノンプロの全日本制覇をねらう西濃運輸にとって早川投手は欠かせないエースとしてプロ入りを踏みとどまるよう強く慰留。これには二番手の宮本好宣投手が同時に日本ハムに指名され(すでに入団決定)大幅な戦力減が懸念されたこともある。球団側はドラフト会議(十一月十八日)直後に、同社へ本人と交渉したいむね了解を求めたが、こうしたいいきさつから正式に承諾が得られないままだった。ところが早川投手は、プロ入りに踏み切るのは年齢的にこれが最後のチャンスだと決断。すでにさる十日、会社へ辞表を提出。田口利正野球部長らが再三にわたって説得したが、本人のプロ入りの情熱は動かなかった。

福岡工大時代は大学選手権に二度出場しているが一回戦で敗退。また家庭の事情で中退したため中央球界では認められるのが遅かった。西濃運輸入社後は徐々に力をつけ一昨年、昨年とエースで都市対抗に出場。いずれも二回戦で敗れているが、ことしはカナダで開催の世界選手権に全日本代表として選ばれ、全部リリーフながら五試合に登板。なかでも対カナダ戦、四回一死満塁のピンチに救援、以後九回まで零封して勝利投手になった。四十八年、四十九年、五十年と三年連続で東海北陸地区の社会人ベストナイン。ことしは初めて全日本のベストナインの栄誉にも輝いた。落ちる球(シンカー)が主武器。
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早川実

2017-02-24 23:14:11 | 日記
1976年

私は早くからドラゴンズ優勝説を唱えてきたが、十、十一日と二日つづきの大逆転ドラマを見て、その意をさらに強くした。ことし優勝したら、三年といわず五年以上、ドラゴンズの天下が続くと予言してもよい。十一日の試合直後、ホエールズの近藤昭仁コーチは、ドラゴンズの塚田直和ランニングコーチと球場の廊下でばったり顔を合わせると、思わず「まるでもう悪夢ですよ」ともらしたという。敵に弱音を吐くとはー。鯨たちの集団憂うつ症が目に見えるようではないか。「悪夢ですよ」の一言に、私はホエールズのドラゴンズ恐怖症の芽生えを見る。カモを多くつくることが優勝の第一条件なのだが、近藤昭仁コーチの一事はカモの嘆きとみていいのではないか。

この逆転の福夢に狂喜乱舞する竜たちの中で、最高のラッキーボーイはルーキーの早川実だ。十日、わずか19球で初勝利をつかんだとき、彼は「この喜びをさっそく坊主に知らせます」と言った。彼は昨年暮れ、くしくも入団発表直後に生まれた功君がいる。まだ口もきけない赤ちゃんだが、早川はそれほどうれしかったのだろう。彼の喜色満面の顔を見て、私は小川健太郎たちを思い出した。彼も高岡英司も、そして三年前、谷木恭平がドラゴンズのユニホームを着たときは子連れ新人であった。また名古屋は、中利夫、高木守道、江藤省三など三十を過ぎて選手がよく育つ土壌だ。早川にもその土は合うはずである。ド心臓の持ち主だし、ほがらかな男だ。ファームの若手投手の面倒をよく見ており、彼らからも「ムーミン」というニックネームをたてまつられていると聞いた。新人を育てることのうまい近藤貞雄ヘッドコーチ門下に入った幸せ者だが、私は彼にことしのドラゴンズの道を見た思いだ。彼がドラゴンズの幸運派の筆頭なら、ドラゴンズ快進撃の軸は星野仙一だと見る。

早川投手の話 みんなからツキ男だと言われますが、結果的に見て勝ち星が転がり込んで来ただけ。プロ入り初登板の初勝利なんてラッキー以外の何ものでもないですよ。これまでも野球では、ここという場面でツイているな、と思ったことは何度かある。野球以外では別にない。せいぜい十年近く前。自動車の運転免許を取り立てのころ、ミゾに突っ込んだり、横っ腹に衝突されても、ケガ一つしなかったことはありますがー。ピッチングは、ストレートの伸びがもう一つない。でも1イニングぐらいの救援は変化球で勝負した方が無難だと思った。これからも首脳陣の要求に応じ、ワンポイント救援でも全力を尽くしたい。もし、打者ひと回り投げられたらというのが、いまのボクの夢です。
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