プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鈴木隆

2016-12-25 22:09:23 | 日記
1959年

桜島の山ヒダがはっきりと浮び、海の青さが目にしみる鹿児島市外鴨池、その明るい感じの球場スタンドの外側・・・そこにいかにも急造といった感じのブルペンがしつらえている。スタンドのかげになるせいで、文字通り日の当たらぬ場所ぜんとしているが、ここで秋山、権藤、大石が投げ、ノンプロ球界のナンバーワン、サウスポーだった鈴木が気負いたった表情でピッチングしている。そして話題をまいた早大の桜井も、十八日にはここのマウンドを踏むことになっている。鈴木ーこの1㍍75、65㌔というスマートな投手は、コーチ格である石本秀一氏から10勝はすると評価された。事実、内角に食い込む速球はベテラン連中の手にあまるほど速い。しかしカーブはまだそう投げていないが甘い。極端にスピードが落ちてしまうのだ。それに高めには伸びがあるのに、低めにきまる球にはそれがないことと、ドロップによる高低の変化がみられないことがさびしい。迫畑総監督は「出来るだけ権藤とならんでピッチングをさせ、見よう見まねでドロップを覚えさせる」計画だという。低めに球がいかないのはボールを放す瞬間、上体が反り気味になるためだ。もう一歩上体が前にかかるようになれば、低めの球がきまり、彼自身の前途も開けてくるのだが・・・。迫畑総監督は「昨年明大から入った関口も鈴木ぐらいの力はもっている」というが、ベテラン児玉は「関口よりずっとスピードがあるし投げ込んでくる度胸のよさはまた格別」と反論している。結局、鈴木を現在支えているものはノンプロで着々腕をあげ、世界選手権で最高殊勲選手になったという自信であろう。それだけにプロでうまくスタートが切れたら・・・、彼の速球は一段とさえてくるにちがいない。迫畑総監督は「鈴木、大石、桜井の先発、秋山、権藤のリリーフ」という構想をもっているが、要は鈴木をいかに使ってプロになれさせるかである。権藤は「鈴木は防御率2・5ぐらいにはいくでしょう。そのくらいの成績ならウチのバックでは10勝というところですかね。とにかく早く相手打者の欠点を覚えることです」といっている。ピッチングを見ていると、とにかくやれそうな感じがする。本人も「スピードをつけることとカーブをマスターしようと思っている」というが、威力のあるシュートをもっているだけに、前半戦はこれで活路を見出すだろう。調子にのれば15勝に手がとどくと踏んでも過大評価ではなさそうだ。
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井手峻

2016-12-25 18:32:04 | 日記
1967年

吉江代表がベンチにかけ込み、井手をだきかかえた。木下広報課長は特別にタクシーの用意をし、ゆっくりインタビューに答えられるようにはからった。周囲の方が興奮している。「長かったなあ。ほんとうによかった。おめでとう」と吉江代表。東大から二人目のプロ選手とさわがれたストーブ・リーグ。卒業試験でキャンプ参加が不可能になったときは、中日は村野コーチを臨時捕手として東京に送り込み、東大の駒場球場で試験のあいまにピッチングをやらせた。「球威不足」という屈辱的なレッテルをはられたのは入団直後だった。プロの威力に自分からも恐れをなし、サラリーマンになっていた方がよかった、と深刻に悩んだ。「小川のほかに勝てる投手はいない。ほかの投手は魂のないピッチング・マシンだ」という周囲の声が井手に球威を与えたのかもしれない。八月下旬からは休日なしの特訓でしぼられつづけてきた。松原、土井を三振にとったのはフォークボール。大学時代にはもっていなかった武器だ。出ては打たれていたところ、あみだした苦心の策がやっと生きてきた。直球とカーブだけでは押えられないという忠告から生まれた新兵器だ。「よかった」が初勝利のただひとつの感想。喜びより好奇の目に耐えぬいて「ホッとした」のが本心らしい。「ことしはもう勝てないと思っていた。堅い守りにささえられたおかげです」大学でわずか4勝、プロにはいってからウエスタン・リーグで1勝しただけで、勝利の快感はポツリ、ポツリとしかやってこないのだ。ベンチで大声で声援をつづけた近藤コーチは「カーブがよくなってきた。初めて使わせたフォークを決め球にしていくよう指導したい。進歩してきています」とうれしそう。終盤投げあった先輩の大洋・新治(今季初登板)とカメラマンの注文で堅い握手。「オレもまだ投げる。お互いにがんばろう」との励ましの言葉にうなずいていた。合宿での生活をある選手は「自由奔放に楽しく、しかし礼儀正しくやっている」という。深夜まで名古屋の町で同僚と飲むことおある。十一日の東京移動日は、三週間以上もなかった久しぶりの完全休養日。婚約している藤森美弥子さんが東京には待っている。
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土橋正幸

2016-12-25 16:36:17 | 日記
1963年

ロッカーをふさいでいた報道陣が去ると、細金トレーナーと土橋はだまって手を握り合った。「肩はベスト・コンディション。思いきり投げてもだいじょうぶですよ」試合前太鼓判を押してくれた細金トレーナーに土橋はいった。「速球がよくのびていた。風向きと審判の判定を考えて、ボールと宣告されやすいスライダーは五球くらいしか投げなかった。南海のバッターがボールになるカーブを振ってくれたので助かったな」プロ野球九年のキャリアを生かした読みが、南海を五安打の散発に押えたのだ。「南海のバッターは力の強い者が多いから、スピードがないとダメだね。七回同点にされたときもいままでのように手先だけで投げていたら逆転されていた。樋口だってピートだって広瀬だって、ガンと打っていたよ。同点で終わったのが勝因」監督かコーチのような口調だった。「八回の二塁打、はいるかと思った」という声に「ダメ。バットの先っぽに当って・・・。それに風向きも悪かった。オレの力じゃはいらないよ」16勝をかせぎ出した太い腕をたたいて笑いながら、惜しそうに「オレ、左の速球投手は大好きなんだ。初球はきっとまっすぐがくると思って内ぶところにヤマをはっていた。大阪球場だったらホームランになったかな」とつけ加えた。右肩の痛みは「昨年は痛くてフロにはいっても湯をかけられなかった。ことしもつい先ごろまでふると痛むので手先だけで投げていたんだ。どうにもたまらなくなったので八月末から電気治療に通ってね」おかげで肩はすっかりよくなったという。「九回のピンチ?あれはもうなにも考えずに投げたんだ。カッとなったら打たれてしまうから。それに野村とかハドリとかがボックスにはいればもっと緊張したろうが・・・」コーラを飲みほすと、さらっといった。「投げやすい気候になってきましたね」東映は優勝から遠のいたが、土橋は打倒南海の意地をとうした。
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桜井憲

2016-12-25 10:56:05 | 日記
1966年

さがしまわって連れてきた選手ではない。高橋監督の教え子のいる会社に桜井投手の実兄、照也氏がおり「弟を東京の学校に入れたいのだが・・・」と相談をもちかけられ、日大一高を勧めたのが入学の動機だ。茨城県の境一中時代には二年からエースとなり、三十七年の県下の大会では準優勝投手。野球だけではなく、陸上大会でもこの年の猿島郡大会で二千㍍、三種競技(百㍍、砲丸投げ、走り高とび)にそれぞれ優勝、県西大会の出場権を獲得している。学校の成績も三年のときは全校生徒で一番。「日比谷高校を受けたら」と学校から推薦されたほどだ。日大一高の入学試験も三百六十人の合格者の中で、六番目の成績だった。英語、数学が得意。また「夏目漱石の作品は全部読んだ」という文学好きでもある。「お説教されるとすぐ涙を流すかと思うと、入学の手続きのときぼくがはいったので、また甲子園にいけますよなどと、大口をたたいて事務員をびっくりさせたりもする。強気と弱気が同居している」高橋監督は桜井の性格がまだよくつかめないと笑う。父親は茨城県猿島郡境町で精米所をやっている。五人兄弟の三番目で、兄二人はともに境高で投手。長男の照也氏は十五年ほど前に巨人のテストを受け、不合格だったが、とにかくスポーツ一家。桜井の望みは甲子園に出場して全国優勝。だから関東大会に優勝しても、うれしそうな顔ひとつしなかった。高橋監督の注文はこまかい野球をやってほしいこと。「相手の心のうちを読むことができない。大事なところで気をぬいたボールを投げたりするからね」ということだった。三年生、十七歳。
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伊藤芳明

2016-12-25 09:40:42 | 日記
1963年

ベンチへ引きあげてきた伊藤は、目を何度もパチパチやった。ただでさえくぼんでいる目がいっそう引っ込んでいる。しかしこれは心配する症状ではなく、完投で、しかも勝ったとき目がくぼむのだそうだ。ベンチのクギにひっかけてあった黄色いバスタオルを首に巻くとロッカーへ。ニヤニヤしながらタオルを持ったのには理由があった。「ジンクスといえるかどうかわからないけど、このタオルを使うと不思議に勝つんですよ。この前ピンクのを持ってきたら、途端に打たれてね」隣にいた須藤がこれを耳にはさんですぐヤジをとばした。「オッチャン、ピンクなんてガラじゃないよ」こんなときの伊藤はいつもだまって笑っている。お人よしで、案外忘れっぽいのも特徴のひとつ。七日の阪神戦に完投で勝ったとき、大阪の宿舎へ伊藤あてに二通の電報が届いた。一通は勝つと必ずくれる知人から。もうひとつの電報には「エイコ」と書いてあった。「エイコ?だれだろう、これは」伊藤はこういって首をかしげた。「なんだ女房か」しばらくしてやっと気がついたような顔をしたが、これは忘れっぽいというより人一倍テレ屋のせいだろう。フロからあがると伊藤はピッチングを反省した。「前半悪かったからね。左にも打たれた。あれはいけませんね。だけど七回だったか、国鉄が中日に勝っていると聞いてよし負けられんとハッスルした。八回の朝井の左飛?あれにはまいった。もうダメだと思った。マウンドで目をつぶりましたよ。真ん中の絶好球だったからね」身じたくは早かった。よごれたアンダーシャツや、ストッキングをサッサとビニールのふくろにしまった。伊藤の身じたくは昨年末結婚以来、えらく早くなってきた。だが本人の告白によると家ではたいへんな亭主関白だという。「そりゃ自分で選んだ女房ですから自由にやりますよ。負けて帰ったとき?もちろん気分がよくないから女房に当たりつけることは再三です。えっ、そんなとき?女房のほうがうまいね。うまくあやつられていつの間にか負けたことを忘れちゃう。むこうの方がうわ手ですよ」最初は勇ましかったが、後半はニヤニヤしどおし。最後に伊藤はもう一度ゲームのことを笑いながら話した。「大量得点なんかしてくれると案外バカバカいかれちゃうんです。だから大事なゲームとか緊張した試合の方がいいんですよ、ぼくは」ちょっとりきみすぎたと思ったのか、伊藤は走るようにして勝った。黄色いタオルだけはロッカーにぶらさがったまま。
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安藤元博

2016-12-25 09:25:49 | 日記
1962年

「野球は早慶戦。あの大観衆の中で投げる気持ちはプロでは味わえないものだな」多田コーチの許可をもらって二日の早慶一回戦を観戦した安藤(元)は六大学野球を賛美した。五月六日の対南海戦以来一か月ぶりの勝利も早慶戦の強烈な印象とくらべたら問題にならないといったようすだ。「校旗がひるがえって、何万という学生やファンが一球ごとに応援してくれるのだから、野球をやっていてよかったと思うよ」「球が速かったね」いつまでつづくかわからない早慶戦談義に報道陣から、質問が出ると「五月にはいるとすぐ腰が痛くなって・・・。ムリして投げてたら肩がおかしくなった。やっと直りかけたと思ったら秋田で阪急にガンガン打たれて、またダウンさ」タオルを首に巻いているのに流れる汗をぬぐおうともせず、流れるままにしているあたり、いかにも東映でも一、二を争う無精者?「直球にはスピードがあったが、カーブが走らなかった。打たれたのはほとんどカーブ。五回玉造にやられたのが直球だった」七回投げて外野にとんだ打球は五つだけ。「風が強かったので助かった。二回井上(忠)に打たれた当たりなんて風がなかったらホームランになっていたろう」といい、やっとタオルでゴシゴシ顔をこすった。「アンチャン、第二試合にもユニホームを着てベンチだよ」とロッカーにはいってきた宮原が、水原監督の伝言を伝えると「冗談じゃない。七回投げれば十分だ」とケロリ。サッサとフロへいくしたくをはじめる。細金トレーナーから「やはり第二試合はベンチにはいらなくてもいいそうだ」と訂正された伝言を聞くと「オヤジさん話がわかるね。もてる方じゃないが、フロへいってみがいてくるか。なにしろ一か月ぶりの勝利投手だからな」とバスルームに向かった。貴賓室でカレーライスをバクついていた大川オーナーはもう西鉄、南海はこわくない。あとは安藤(元)と尾崎、土橋、久保田の投手陣で大毎を倒して優勝するのだ」と威勢よくスプーンをふりまわし、8連勝万歳をさけんでいた。

安藤(元)は調子が悪いのかと思っていたら、相かわらずうまいピッチングで軽く西鉄の打棒をかわしてしまった。球は決して速くはない。すごい変化球を投げるわけでもない。にもかかわらず、西鉄打者は安藤(元)をとらえることができないのだ。安藤(元)は絶対といっていいほど打者と真正面から勝負しない。高目に浮き上がる球、低く沈む球を内外角に適当に散らして打者の打ち気をさそい、ミートを狂わしてしまうのだ。玉造への一投だけがコースがあまく、流し打たれて1点を許した。西鉄の上位打者は大きく振りまわすだけで、安藤(元)の慎重に計算されたすかし球に軽くいなされていた。荒っぽくなっている西鉄の打順では安藤(元)のような目先のきくずるいピッチングは打ち込めない。
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林俊彦

2016-12-25 00:11:18 | 日記
1965年

カド番の南海を救ったのは、林のキズだらけの左腕であった。九回巨人の猛攻撃にあいながらも、終始冷静さを失わず、真っ正面から立ち向かっていったプレートさばきは、二十一歳の若者とは思えないほどの堂々たる落ちつきぶり。しかも、ナインの握手攻めに「ありがとうございました」と、ていねいに頭を下げる林を、鶴岡監督はどんな気持ちで見ていただろうか。林はシリーズ前ヒジを痛め、左手ひとさし指と中指のツメも破れかかっており、林自身ずいぶん気を使っていた。監督からカン口令をしかれたこともあったが、報道陣の質問攻めにはガンとして自分の調子を話さなかった。だがその林の苦しみも、完投勝利という夢にまでみた成果でむくわれた。「五回ごろからヒジが痛みだしたので苦しかったが、いい時に併殺に助けられたからツイていたんです。九回は早く勝とうという気持ちが出て打ちこまれましたが、すべて野村さんのおかげです」と試合前とはがらりとちがい、気持ちよさそうに話した。林は先発を三日の夜にいい渡された。「その時は緊張しましたが、もし負ければおしまいだという気持ちはなかった」そうだ。そして、自分の全力を出し切ることに心をくだいたという。野村は「林はみかけによらずシンのしっかりしたヤツだ。五、六回ちょっとへばり気味だったが、よく投げ切った。ボクは間をとることに気をくばっただけで、なんといっても林の功績だ」と手ばなしでほめたあと「親分がなぜもっと早く林を使わなかったのか不思議なくらいだ」とつぶやいた。長島の紅潮した顔は、試合後もまだ消えない。首から上がまっ赤に燃えているようだったが、その口から「いかん、完敗や」ということばが何度もとび出した。この日2安打した長島だが、七回の三ゴロ併殺がくやすくてしかたがないといった話しぶり。「林はよかったぜ。シュートとカーブは低めに落ちるし、直球のスピードもあった」巨人の3併殺は全部無死一塁から。結局この併殺打が勝負の分かれ目となった。二回遊ゴロで最初の併殺を食った森は、長島とシリーズの首位打者を争っているが、林については「攻めがうまかった」と、意外にこのシリーズでこれまでさえなかった野村の好リードをにおさせた。「惜しかった」と五回の二直併殺打を嘆息したのは土井。林の調子について質問すると、そのことはそっちのけで「あれが抜けていればどうなったかわかりませんよ」と無念さを押し殺せない表情だった。
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池田英俊

2016-12-24 18:12:34 | 日記
1966年

最近の池田はヘア・スタイルにこっている。この日の試合もスポーツ刈りにカットした頭をカガミの前でしきりにいじっていた。昔流にいえば七・三、いまのアイビー・スタイルだ。「ぼくもそろそろ三十だからね。格好だけでも若々しくなければ・・・」マウンドでも若々しかった。めずらしく力で押した。「追い風だったのでストレート中心でいった。いつもは追い風だとスピードがないのだが、きょうは自分でも速いと感じだ。だからカーブをやめてスピードボールでぐいぐい攻めたんだ」どっと押し寄せた報道陣の輪の中で池田は無表情につづけた。「でも内容はよくなかった。どうでもいいと思いっきり投げてみた。ストレートを投げれば打たれるような気がしなかった」針の穴を通すようなコントロールが身上の池田だが、この日はよほどスピードに自信があったのだろう。「投げるとき腰が開くし、手首がしっくりしなかった。それにこの寒さ(七時現在16・8度)でしょう。備前さん(コーチ)に、きょうはダメですよといってマウンドに向かった」そんなコンディションで4勝目。今季三度目の完封勝ちのおまけまでつけ、ハーラーダービーのトップに立った。昨年の完封勝ちは三度だから、もうそれにも追いついたわけだ。大洋にはこれで今季二試合連続完封勝ち。昨シーズンも13勝のうち6勝は大洋からかせいでいる。「大洋に強いって?別にどうってことはない。だがきょうはこの前の中日戦(二十七日)でうまくリリーフできたので気分的にはスカッとしていたがね。それよりみんながよく打ってくれた。打った人をほめておいてくださいよ」フロからあがると池田はまたカガミの前に立ち、帽子でクシャクシャになった頭をチックできれいにかためていた。
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杉山知隆

2016-12-24 17:55:29 | 日記
1967年

大学時代

二年生だがベンチ入りしたのは今シーズンから。今春の熊本・八代キャンプにも連れていってもらえず、夏まではまったくの下積み生活。だから今シーズン三度目の登板で、もちろんリーグ戦初白星。それもホームラン・バッターの大橋など強打の亜大を一安打、15三振で完封する大殊勲を立てた。奪三振15というのは、十二年間(昭和二十九年前は連盟に記録の集計がない)東都ではなかった記録だ。高校二年の春まで上手、夏から下手、そして専大二年の今春からまた上手と投げ方も何度も変えている。投法を変えさせた鷲野・専大監督はこう説明する。「あれだけの上背(1㍍83)がありながら、下手から投げていたのではもったいない。上から投げればストレートに角度がつき、打ちにくいはずだ」今春、監督就任と同時に杉山にアドバイス。そしてこれまで投げられなかったドロップを練習するようにいいつけた。この指導法が実り、垂直に落ちるドロップは杉山のウイニングショットになった。高校時代は三年夏に県の準々決勝まで進出したのが最高だが、三振は毎試合十個以上とっていたという。当時からのびのあるボールを投げるので、大洋・入谷スカウトから目をつけられていた。しかし、あと一歩力がなかったのと清水商・和田監督の強い勧めで同監督の母校専大に進学した。両親とも野球が好きで、この日もネット裏で声援を送っていた。1㍍83、75㌔、右投右打、清水商出、商学部二年生。
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米田哲也

2016-12-24 17:34:50 | 日記
1966年

とにかく変わった男だ。暑くなって不快指数があがれば食欲がまし、白星もグングンのびる。昨シーズンもオールスター戦前の前半の勝ち星が9勝7敗。後半にはいってアッという間に20勝をマークした。今シーズンはオールスターまでまだ10試合を残しているのだから、この日の10勝は、米田にとってはことしも20勝を約束したといってもいい。フラッシュを浴びる顔から首スジはすごい汗だ。「よく満塁(七回)を切り抜けたな」まず七回、満塁で浜崎をリリーフした場面から話を切り出した。「1点もやってはダメだ。だからイチかバチかの勝負をしたんだ。青野の遊ゴロはシュート。まず併殺で切り抜けることしか考えていなかった。毒島さんはフォークボール。張本はやはりシュートだ」1点もやれない米田の気迫を西本監督は「きょうの米田は燃えていた。打てるなら打ってみろという前向きの気持ちがあのピンチを切り抜けられた最大の要素だ」という。「あと六つだな。オールスター戦まではムリだが、八月の中旬までにはなんとか達成したい」プロ入り通算200勝にあと6勝。八月の中旬まで200勝をマークする自信は十分あるのだろう。大粒の汗を払いながらそんな言葉がスイスイ出た。「昨年はオールスター戦まで何勝していた?9勝・・。じゃ、ことしは勝ちすぎだな。まず10勝がひとつの区切りだから、きょうは肉でも食べにいくか」宿舎(文京区小石川のホテル、ダイエイ)のすぐ近くに米田の好きな焼き肉屋がある。東京遠征では欠かさず通う店だ。「実は一人で、三人分くってきたんだ」そして後楽園にくるバスに乗る前にも、ファンから差し入れのモモを五つも腹につめ込んだ。そしてまたホテルの焼きメシを平らげた。「よく食べるね」に「きょうは投げる予定じゃないから、うんとくってあすに備えるんだ」だが足立のくずれで思いがけない勝ち星をものにしたものの、石井茂が故障で苦しい阪急だけに、十日も米田の先発は間違えないようだ。

毒島選手「七回一死満塁で米田にやられたのは(三邪飛)外角のナックルだった。コースはぎりぎりだと思うが、2-0なので、バットをださないわけにいかなかった」

張本選手「七回二死満塁の左飛は、外角いっぱいのシュートだった。九回の見のがし三振はそのひとつ内側の直球。きょうの米田さんは文句のつけようがない。全くお手上げでした」
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柳田利夫

2016-12-24 17:32:50 | 日記
1964年

一番あとから帰りのバスにとびのってきた柳田の顔をみて長島がすっとんきょうな声を張りあげた。「いいぞ、リュウちゃん、きょうは気分最高だなあ」ナインの笑顔につつまれた柳田は、タナの上にそっとバットをおき、みんなにこづかれながら補助イスにすわった。「あのバットでもう三ホーマーしたわけです。どこにもころがっているようなしろものだけど、これから大事に使わなくちゃ・・・」七月六日北海道シリーズに遠征する前日に買った二百四十匁(900㌘)の平凡な国産バットだが、これで十九日の国鉄戦で2、3号をたたいている。「藤尾さんが四球を選んだのが大きかったんじゃないですか。あれがなかったらゲームセットでぼくのところまで打順がまわってこないし、もちろんホームランなど出ない勘定になるでしょう」真顔でおかしなことをいった。「それに実は藤尾さんが塁に出たとき盗塁のサインが出ていたんです。藤尾さんが走る気配もないのでどうしようと監督さんの方をみたら手で打てというゼスチャアをしている。もしあそこで盗塁失敗でもしていたらすべてはパーだったわけでしょ」近藤とは大毎時代に何回も顔を合わせている。「三十五年だったかな。彼が西鉄にいたころ平和台でホームランを打ったこともあります。きょうはもう藤尾さんを歩かせたところでバテてたんですね。二球つづけて真ん中にストレートを投げてくれればだれだって打てますよ」昨年の秋、手持ちの背広の裏生地に白い絹糸でリュウのししゅうをつけさせた。そのかわりネームは全部はずしてしまった。リュウの絵がネームがわりになると思ったのだろう。「だけどこんどはあの背広は着てこなかった。きょうのビクビクしている近藤の顔をみて考えたんだけどこれからこの無精ヒゲのこわい顔をしてボックスにはいってやろうかな」話を聞いていた王がニヤニヤしてふり返ると気のいい柳田はすかさずいった。「この一本ワンちゃんにやりたいよ。ワンちゃんが打ったことにするわけにはいかんかな」
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塩津義雄

2016-12-24 15:21:09 | 日記
1963年

三塁走者だった山内が目をパチパチさせた。ライナー。一直線に左翼ポールぎわをとおって上段にとび込んだからだ。山内が感心するほどのすごい当たりを、塩津は恥ずかしそうに説明した。「内角高目。スライダーのようだった。手もとに引きつけて打ったのでラインの上をまっすぐとんでいったけれど、ファウルになるとは思わなかった」話しながら何度も両方の手首をさすった。1㍍81、78㌔、そのうえ、鹿児島出身にしては気が弱い。「気が弱いのが塩津を六年間も一軍と二軍の間を生きかえりさせた原因のすべてだ。足もある、肩もいい、おまけにウチの外野は西田、石谷らの若手に切りかえようとしているところだから、レギュラーのポジションを奪うには最も有利なはずなのに・・・。とにかくあんなに気が弱くてはね」中川スコアラーはいう。左の手首に幅約二㌢のばんそうこうが腕輪のようにまいてあった。ほんの申しわけのようでばんそうこうも、気の弱い証拠だ。「二か月ほど前にねんざした。めったに痛くはないのだがばんそうこをまいているとなんだか痛まないような気がして・・・」試合が終わるとそのばんそうこうは、めくってポンと捨てられてしまった。背番号25。これは塩津が入団したころの別当コーチ(現近鉄監督)が「大物だ。きっと大スターになる」とPRして自分が阪神時代につけていたものを与えた。ことし大毎のコーチに就任した藤井コーチも、キャンプで別当と同じようなことをいっていた。「すばらしい素材だ。中心選手になるぞ」昨年の打率が二割七分九厘。ことしも三十一日現在で二割六分二厘。それなのにまだレギュラーの位置を獲得できないのはー「問題は外角低目の球をどう打つかだ。六回低目を遊ゴロしたが下半身がバラバラだった。一軍に定着しようとするならば、これを克服しなければならない。妙な細工をするより荒さは残るが、南海のピートのように思い切って外角球でも引っ張るようにすれば、力があるから長打力が発揮できる。今夜のホームランはツボにきた球だった。両足のバランスがよくとれて、腰でボールをよび込んだ理想的なフォームだったが・・・」と岩本章良氏はみている。
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渡辺泰輔

2016-12-23 09:45:27 | 日記
1966年

大リーグの名監督だったステンゲル(ヤンキース、メッツ)は、優勝のための三種の神器にあたるものをこういっている。「ストッパーと、リリーフ・エースと、代打の切り札だ」この試合には負けられないというときに、先発させて勝てる目やすのつく投手がストッパー。西鉄最終戦の完封をはじめ、渡辺は後半戦の決定的な一番にはみんな登板している。ペナント・レースのストッパーは、日本シリーズのストッパーにもなった。「第一戦は名刺がわりみたいなピッチング(28球)だったでしょう。きょうは投げたいと思っていました」汗の顔を西日に照らされてお立ち台にあがった渡辺はいった。だが、その彼も前夜はさすがに荒れ模様だった。「・・・心はやみさ。外は雨」いつも行くおにぎり屋さんは宿舎の近くの小路にある。その細い通路に妙な節のついた渡辺の声が聞こえた。それから約十二時間後。試合前、宿舎の鶴岡監督の部屋で「どや、タイスケ、もう一回いくか」といわれたとき「ありがとうございます。お願いします」と笑ったムードとはだいぶ違う。杉浦はそこに大物の片りんがあるといった。「またやられるかと不安をもつ選手はダメだ。こんどこそはと押し込んでいくのがエースだ」気分的には第一戦とはまったく違ったそうだ。「直球がのびたし、コントロールもあったから。パームボールは何球投げたか覚えていない。一回の王の三振?あれはカーブです」野村はパームボールがきまらないから、直球、シュートで押した、と補足した。「柴田にツー・ナッシングと追いこみながら三度も打たれるなんて、バカですね。ホームランは、はずそうかどうかと中途はんぱにほうった直球ですから・・・」悪びれずにスラスラといった。鶴岡監督は一度は林、皆川の先発も考えたらしい。だが「渡辺は連投の方がいいピッチングをする」といった松井コーチの意見も取り入れ、本人にただした。「そのときはね返ってきたタイスケの声でワシの腹はきまったわ」と鶴岡監督はいっている。「巨人の打線がいいか悪いかなど観察する余裕はありませんよ。自分のピッチングが満足にできるかどうか、それでいっぱいでした」(渡辺)公式戦と比較して河村英文氏は「カーブもよかったし、調子はかわらなかった。リラックスすればこれだけ投げられるということだ」といっている。日本ではストッパーとリリーフ・エースを兼務できることがエースの資格になっている。稲尾(西鉄)杉浦(南海)らもみんなそうだった。逃げ込みでもいいピッチングができるようになることが、渡辺の来シーズンの課題だ。その条件はバックスの信頼度。その点「第一戦でやられてもすぐにまたいいピッチングをして盛り返した。ナインの目がタイスケに集中してきている。このような大試合でそれをやったことは飛躍するために大きなプラスだ」と私はみている。
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小川健太郎

2016-12-21 21:10:59 | 日記
1967年

長島(二割五分九厘)の攻め方は、打撃練習のときに腰がすわっているか、落ち着きがなくおよいで打っているかを見きわめることがポイントになる。腰がどっしりすわっているときは内角高め、外角低めは禁物だ。腰のふらついているときは逆で、外角の高い球でも泳ぎながらスタンドまで運び込んでしまう。だから、こんなときは内角の高めと外角の低いコースに配球する。その日のコンディションを試合前に読みとってしまえば、あとは比較的料理しやすい相手だ。王(四割九厘)にはよく打たれた。警戒しすぎはまずい。有利なカウントに追い込んでおきながら変化球でコースをねらってボール数を多くし、結局カウントがつまってしかたなく勝負にでたところを打たれたのが多かった。逃げるのが一番いかん。ポンポンとストライクをとったところでもうひとつポンと速球で攻めれば意外ともろい。変化球でかわそうなどという弱気は失敗につながる。これは巨人打線全体にもいえることだが、土井や黒江は有利なカウントになったら、迷わず強気に攻めること。そうすればハッとしてあっさり凡退というケースが多い。サイン・プレーが徹底しているチームの盲点なのかもしれんな。いまひとつ、巨人の打者は横の変化にはよく目がついていくが、高低の変化にはもろい共通した欠点がある。高めからストライク・ゾーンいっぱいに落ちるシンカーは効果的だ。内角高めならボールくさい球でもホームランにする柴田でさえも、内角高いところからシンカーを落とせば球についていけずに苦しんでいる。同じタイプでよくひきあいにだされる阪急の足立くんなど、シュートの使い方がポイントになると思う。カーブと落ちる球に目をならさないよう、ホップする速球とシュートをどう使っていくかがカギだ。その点、昨年まで産経にいた根来の頭脳は貴重な存在だ。ことし連安打をあびなかったのは巨人打者の弱点がだいたいわかったこともあるが、打者との勝負を考えなかったのがよかった。つまり相手の投手と投げくらべ、力くらべをやっていると思えば、両リーグ一の高打率を誇る打線の重圧感から解放されるというわけ。恐れずに、強気で早め早めに勝負をかける。そうすれば巨人はいともかんたんに弱いチームになってしまう。
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鈴木皖武

2016-12-20 22:13:18 | 日記
1966年

秋山(大洋)小川(中日)杉浦、皆川(南海)坂井(東京)足立(阪急)と、代表的な下手投げ投手をあげると、一つの共通点がある。神経質で胃腸が悪そうでほっそりとやせていることだ。鈴木もこの例にもれない。二十五歳。1㍍71、61㌔。猛暑の八月になって五連投、七連投で、すでに十二試合に登板したスタミナがどこにあるのかと首をかしげたくなる。青白い顔にマーロン・ブランドを思わせるニヒルなまなざしは、およそ野球選手らしくない。だが裸になるとやはり違った。右肩の筋肉がこんもりと盛り上がり、左肩と奇妙なアンバランスをなしている。「体力はないがキヨ(鈴木)のからだのバネは抜群だ。だからあれだけの酷使に耐えられるんだ」と岡本捕手。「酷使なんてとんでもない」と鈴木は笑った。「いまでは登板しないで家へ帰るとなにか忘れものをしたみたいで気分が悪い。さすがに七連投目の日曜日の巨人戦(二十一日、神宮)で、延長十一回に負けて帰った夜はメシがくえず吐いてしまった。そのうえねむれないで弱った。ぼくはもともと夏場には弱かったんだが、ことしは自分でもビックリするくらいタフになった」タフになった理由は飯田監督が説明してくれた。「キヨは去年までコーチの目を盗むようにコソコソと練習をさぼっていたことが多かった。ことしは自分から進んで走っているよ」千代子夫人との間に三月長女直子ちゃんが生まれたことが励みになったのだろうか。それをきくと鈴木は笑った。「ことしはたしかにキャンプからずっと走った。よく運動の基本はランニングにあるというでしょう。だからランニングというのがどれほど効果があるものか一つためしてやろうと思ってやってみた。効果がなかったら来年はやめようかと思ったが、やっぱり効果はありました」土居高三年のとき、グラウンドに土を運ぶ作業中土砂くずれで左骨盤を骨折、約束されていたノンプロ伊予銀行入りがダメになった。「それなら一つプロでやってやろう」とオリオンズのテストを受け、最後の二人まで残ったが落とされた。当時監督だった別当薫氏は「まったくおしいことをした」といまでは残念がる。ノンプロ東鉄での三年間の実績が認められ国鉄(現産経)入りしたのが五年前。いまでは巨人キラーといわれるまでになった。しかし巨人キラーはいまにはじまったことではない。プロ入り初勝利が巨人戦。二十日の対巨人十六回戦(神宮)の白星がプロ入り13勝目で、そのうち7勝が巨人からだ。「巨人は去年も小川によくやられたし秋山にも弱い。左投手と同じで下手投げにも弱いのはたしかだ。キヨにはそのうえ球威がある。それで真っ向から勝負に出るからONにも打たれんのや」と中原コーチはいう。「ONさえ押えればあとは中日よりこわくない」という鈴木の自信もあるだろう。だがいまは巨人に強いということより、やっと一人前のプロ選手になれたことを喜んでいる。「なんでも一番になってやろうと思っていた。これで登板数(四十八試合)が板東さんを抜いてトップになった。防御率もいい。チャンスだからことしは防御率十傑をねらいたい。登板数も去年の宮田さん(巨人)の六十九試合を抜いてみたいな」ちっちゃなからだにでっかい望み鈴木の出番はまだまだへりそうもない。
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