プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大野芳一

2019-02-28 19:42:43 | 日記
1955年

京都育ちで監督がつれてきた大野芳一(16)(西京高)

大野は正確にいうと満十六歳と十一ヶ月。さる一月十五日の合宿開始以来一貫五百匁ふとって現在は十七貫。それだけに一升飯は軽く富士山は十二合目が頂上だといわれてもその真偽より十二合とはすなわち一升二合ナリと頭にひらめくほど目下コメの飯にとりつかれている。しかしスムースなフォームの持主で球のキレがよく、このまま伸びれば大投手と幹部連中に先物を買われている。五尺七寸
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浜岡浩幸

2019-02-28 19:36:54 | 日記
1979年

身長181㌢、体重75㌔の堂々たる体格の左腕投手浜岡を中心とするオーソドックスなチーム。本格派の浜岡は速球が勝負球で球質も重い。スタミナ、度胸も十分でプロのスカウトに成長株として目をつけられているほどだ。難点は走者を出してからのピッチングと制球力。

1978年

投手の浜岡は左の本格派。180㌢を超す長身から投げ下ろす速球は威力十分。監督も「速球で押させる」と信頼をかけている。課題は後半のスタミナ。走り込みと一日二百五十球の投げ込みで養成に懸命。
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川本和宏

2019-02-26 21:48:30 | 日記
1980年

一、二回に好打を続けて得点を重ねた天理の攻撃には驚いた。熊本工のエース大津は、一、二回戦では制球力よく不安を感じさせなかったが、天理には、各打者の気迫に押されたようにコースが甘くなってしまった。また天理の左腕、川本は、思う存分直球とカーブを投げ分けていたが、コントロールもまずまずで熊本工打者を六回まで無安打に抑えた。その後、伊東の本塁打などで追い込まれたが、あわてたり、力んだりせずに投げ通したプレート度胸は立派だ。まだ二年生で、体は大きくないが、投球術、駆け引きなど、投手としてのセンスがいいので、将来が楽しみだ。
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浜岡浩幸

2019-02-26 21:37:17 | 日記
1983年

浜田とともにハマ・ハマコンビといわれるルーキーの浜岡が先の巨人戦(14日)で一軍入りした。だから、このコラムには本来似合わないのだが、ちょっと彼のことを紹介しておこう。生年月日=昭和36年9月8日、熊本県出身、熊本・荒尾高から日立造船有明を経てドラフト6位で入団。身長182㌢、体重78㌔、左投げ左打ちの21歳。出身地・熊本県玉名郡は、真弓の生まれたところで、「ウチの親父と、真弓さんのお父さんが同じ会社(東洋高圧)にいたんです」と浜岡はいう。縁は異なもの味なものというところか。デビューは14日の対巨人戦で、先発の小林に次いで2番手で登板、いきなり代打のクルーズを三振にとったが、山倉、江川に打たれ、結局2/3回を投げ、2安打1三振の自責点は0。貴重なサウスポーだけにどこまで伸びるかー。
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藪上敏夫

2019-02-23 19:15:06 | 日記
1969年

上西と投げ合った向陽藪上投手(178㌢、76㌔)も、なかなかの票が出た。ボールの速さは上西ほどではないが、シュート、カーブ、フォークボールと球種は豊富。巨人青木氏は「シュート回転の珍しいタイプ。人さし指と中指に同じような力でボールを離すのが理想だが、大抵長い中指に比重がかかっているものだ。しかし藪上は人さし指の方がまさっているような癖があるから面白いのではないか」という。確かに藪上の人さし指は普通の投手より、中指と大差ないほど長かった。広島木庭氏も「土台がしっかりしているし、これからが楽しみだ」とまずまず。だが「ピッチングがうまいから目にはつくが、技巧に走り過ぎてみすみす将来伸びそうな芽を、自らつみ取っているきらいがあるようだ」(中日田村氏)と疑問視する向きもあった。
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安木祥二

2019-02-23 19:08:49 | 日記
1969年

五回投げて外野に飛球を打たせなかった。安打は大下の1本だけ。三振は6個取った。ひとフロ浴びた安木は黄色のタートルネックのセーターにカーディガンを羽織って、ロッカーから出てきた。球場出口へ歩く間「ナイスピッチング」と何度も祝福されていた安木。そのたびに「ありがとうございます」と新人らしく丁寧に頭を下げていた。「きょうは、最高の出来ですね。特にシュートがよかった。カーブでカウントをかせいでシュートで勝負する。あれが、僕本来のピッチングです」と安木は胸を張った。ニコニコ笑いが絶えない。自分の持ち味を存分に発揮出来たことがよほどうれしかったと見える。この東映戦で、安木は三度目の登板。初先発の阪急戦(十八日、西京極)は上がってリキんでしまい、矢野の一発に泣いた。しかし、この日は、マウンドでも落着いていた。左の軸足を一たんグッと上げて、一気に投げ込むフォームにリズムがった。安木がいうように、シュートがよく切れていた。カウントを有利にする大きなカーブのコントロールも申しぶんなかった。そして、秘密兵器のナチュラルスライダーも低めへ決まっていた。ボールをコントロールできたこと、これが好投の原因だ。直球を投げても自然にスライドする。これは安木の指に由来する。「握りが悪いと新聞に書かれたこともあるけど、決してそんなことはないんです。僕は人さし指と中指の長さが極端に違うんです。だから・・・」という。なるほど、指をそろえると人さし指が中指の第一関節までしかない。秘密兵器は指にあったわけだ。安木は自分の指を見つめながら「この有利な条件を生かさねば・・・」と自らにいい聞かせていた。安木は、大杉、森安の後輩に当たる。出身校は岡山・関西高(ドラフト第五位指名)。先輩大杉も「タイミングの取り方がつかめない」状態なので、安木のシュートにお手上げだった。とんでもない試合の結末に「驚いた」を連発していた別所監督も安木について「あそこまででしょう」とクギをさしながら「でも、よく投げてくれた。ウチは左投手が少ないだけに助かるな。これで、使える見通しがついた」と目を細めていた。佐伯キャンプ打ち上げのとき「いいと思ったんだがちょっと予想がはずれたかな」といっていた別所監督は自らの力で新たな目を向けさせたようだ。
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黒原祐二

2019-02-23 18:53:37 | 日記
1985年

西武はプロ七年目の黒原が初勝利を挙げる好投で、両リーグ20勝一番乗りした。二番手として二回途中から登板した黒原は球威のある直球、シュートで5イニングを2安打に抑えた。

秋山はトップに並ぶ11号本塁打、田尾が6打席連続安打で3打点、渡辺がプロ入り初セーブと、ヒーローがずらりと並んだ西武。だが、広岡監督は「殊勲者?やはり黒原ですよ」と、初勝利のプロ七年生の名前を挙げた。同点で迎えた二回、無死二、三塁のピンチで登板。黒原は「点を取られてもいいから自分の投球をしよう」と心に決め、藤田を三ゴロ、四球後の一死満塁から、福本を二塁併殺打に打ち取って、試合の流れを西武に呼び込んだ。自分の投球ーそれは「コントロールに細心の注意を払うこと」と黒原。自信がないはずの速球も走り、5イニングを散発2安打、無失点。打者の内角を思い切り攻め、のけぞったブーマーがにらみつけるシーンも。「球威がないから、ああいうこともしなけりゃね」と、自分の力をよく踏まえての投球だった。五十四年、都城工高からドラフト四位で入団、一軍に上ったのが一昨年からで、おもな仕事は敗戦処理だった。「何度も限界を感じた。いつも、これが最後と思ってやっている」と黒原。「続けてきてよかった」と、喜ぶ言葉がふるえていた。
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山田真実

2019-02-21 20:08:47 | 日記
1985年

フォーム…オーバースロー 球種・・・ストレート、カーブ、シュート。

南部は気力で立ち向かったものの、高野山・山田、朝間の伸びのある速球、シュートを打ちあぐみ、堅田の右中間三塁打と高垣の中前打だけに封じ込められた。
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嵯峨山幹雄

2019-02-20 22:49:37 | 日記
1966年

ようやくカーブを会得した段階。本格的な投手修業はこれから。
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椎木孝彰

2019-02-20 22:48:43 | 日記
1966年

左特有のシュートは買えるが、全体に線の細いのが弱い、からだ作りがまず必要。

左手中指が曲がっている。それを利用した? 沈むタマを研究中。今シーズン答えを・・。
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木村茂

2019-02-20 22:13:59 | 日記
1999年

4月21日のロッテ戦でデビューしたが、3点を失ってファーム落ち。6月に再び昇格、7月10日の近鉄戦では大阪ドームのスピード提示で150㌔を記録した。秋の黒潮リーグでは速球に磨きがかかり、フォークボールでストライクもとれるようになった。99年が期待される。
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杉本潔彦

2019-02-20 20:17:48 | 日記
1998年

萩商時代の92年夏は山口県大会で2回戦敗退。社会人の日産自動車九州で大きく成長した。144㌔の速球に高速スライダーが武器。それに加えカーブ、フォークボール、シュートと変化球も多彩。ヒロとともに野村の後継者候補だ。本名は杉本潔彦。
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山田真実

2019-02-18 21:31:27 | 日記
1984年

上手投げの山田は長身を生かし重い速球を投げる。

山田は一八五㌢の長身から投げ下ろす速球を武器とする。
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川畑泰博

2019-02-18 20:51:52 | 日記
1988年

フルハウスといえば、今やすっかり小野の特権? 守る方はしんどいがその分、バッターもジレる。バッターをジラせて打ちとる。フルハウス第二号が川畑だ。真骨頂は、5月8日の巨人戦(東京ドーム)。7回まで7安打を浴びた。だが、1点も与えない。四死球2。打者27人に対し、カウント1-3、2-3となったケースはのべ10人を数えた。終盤、郭の救援を仰いだものの、先発4試合目で初勝利。フルハウス№2となった川畑は、この先、同じフルハウス投法で勝ち星を伸ばすと誰もが思った。「ボクだって、そのつもりだったんですよ」苦笑する理由は、せっかくかけてくれた星野監督の期待にそうことができなかったからだ。しかし、わかっている。快速球のない川畑。シュートでバッターの上体を起こし、スライダーで凡打に仕留める。そう、打者をジラしジラしながらのフルハウス投法に活路を見い出すしかないのだ。「課題は制球力です」と、ちゃんと自分を知っていることも川畑の大きな強みだ。
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吉井英昭

2019-02-18 20:19:29 | 日記
1991年

高校2年の春、控え投手ながらセンバツに出場できたこと。3年の夏は、南北海道大会ではベスト8で札幌第一に負けた。

高校生としては北海道№1の実力派投手。140㌔台をコンスタントにマークする速球と牛島バリのフォークは魅力十分。楽しみな素材だ。
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