プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

松浦信吉

2019-05-31 20:21:03 | 日記
1964年

小倉工・松浦信吉投手(17)=1㍍83、74㌔、右投右打=は九日甲子園で行なわれた全国高校野球大会の一回戦で広陵高に敗れ、プロ入りにふみきり、南海入りする。同投手は速球を武器とする正統派投手で予選決勝では、夏の国体優勝した博多工を引き分けで再試合でくだしている。南海のほか西鉄、東映もねらっていた。

松浦投手「プロ入りすることはきめているがどこかわかりません。小倉にかえってから沼津部長、藤村監督と相談してきめます」
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原田晃

2019-05-31 20:15:37 | 日記
1960年

大洋ホエールズでは五日大分県中津東高の原田晃投手(18)=右投右打=の入団が決定した。同投手は九州高校球界の№1といわれ、南海、東映、西鉄、大毎、近鉄、大洋、中日、巨人の八球団から勧誘されていた。はじめ柴田スカウトが小林中津東高監督の実兄と親しいところから中日が有力だったが、大洋は中津東の野球部後援会の会長が大洋漁業と関係が深く、しかも田村スカウトの強引な説得がものをいって逆転したもの。1㍍81、73㌔という恵まれた体をもち、速球と切れのよいドロップで春の大分県大会に優勝している。原田投手は四日田村スカウトにともなわれ上京している。

大洋・森代表の話「きのう(四日)田村君といっしょに上京した。もうウチに決定したといっていい私はまだピッチングをみていないからなんともいえないが、田村君の話ではすばらしい投手らしい」
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吉田勝彦

2019-05-31 20:14:24 | 日記
1963年

近鉄のマウンドは五回から新人の吉田(長崎東)。「南海戦用の投手に仕立てたい」(野口コーチの話)近鉄期待の新鋭だ。大量差の気楽さも手伝ってか、球はめっぽう速い。七回野村を捕飛に打ち取った内角シュートの切れは鋭かった。

登板日

1963年9月16日
1964年4月12日
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伊藤勲

2019-05-31 20:13:44 | 日記
1960年

セ・リーグ大洋ホエールズではこのほど東北高の伊藤勲捕手(18)の入団を内定した。同選手は今夏の高校選手権大会にも東北高の正捕手として出場、強肩好守の選手で知られ守備面だけでは秋田商成田捕手をしのぐといわれている。バッティングは入学当時四番を打ちリキはあるが、ややキメがあらいので夏の大会では六番を打っていた。しかし長打力を秘め、今秋の対気仙沼高戦では場外ホームランを叩き出している。同選手の入団には江田スカウトが当たっているが、契約は十一月中に行なわれる見込み。身長178㌢、体重72㌔、右投げ右打ち。

伊藤捕手の話 学校からプロ入りの話があり、大体大洋に決まりました。大洋には土井さんなどいることだし、よく勉強してやっていきたいと思います。
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福里寛

2019-05-31 20:12:57 | 日記
1960年

国鉄の自由契約選手となった福里寛投手はこのほど鹿児島鉄道局に就職がきまった。
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柴田英治

2019-05-31 20:12:10 | 日記
1960年

阪急・柴田投手は七日大阪梅田の梅田ビル地下二階特別室で岡野代表と話し合った結果、来年一月から球団職員としてスコアラーになることがきまった。
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ブルーム

2019-05-31 20:11:28 | 日記
1960年

近鉄では十六日、大阪市森ノ宮の日生球場クラブ・ハウスで外人選手ジャック・ブルームフィールド内野手(27)=1㍍86、81・6㌔、右投左打、パンアメリカン・カレッジ、テキサス州立大出=の正式入団を発表した。同選手はベティ夫人(26)長女ジャッキーちゃん(三つ)同伴で同日午前六時羽田空港着のPAA機で来日、日航機に乗りかえ、現在同選手が旅行の名目で来日しているため、居留申請などの許可のおりる約1週間後になる。宿舎は当分新大阪ホテル。

千葉監督の話「二十日すぎに来日すると聞いていたが意外に早かった。期待しているのはバッティングで、クリーン・アップの中に入ってもらうことができれば一番いいんだが…。本塁打の数が少ないがあちらのグラウンドは広いからだろう。十七日に上京するから帰阪次第一度プレーをみてどのように使うか考える。内野ならどこでもできるので重宝だ」

ブルームフィールド選手の話「アメリカでは一、二番を打っていた。日本の野球のレベルについては近鉄にいるボトラ、昨年日本にいたアレキサンダー(元東映)から少し聞いたが、実際に自分の目でみていないからよくわからない。内野なら一塁意外はどこでもやれる自信がある。すぐにでも出場できる状態だ」

一九三二年(昭和七年)八月七日生まれ。一九五六年に2A級のオースチンに入団。そのシーズンは29試合で打率三割をマーク。五七年二割七分五厘、五八年は3A級のシアトルで142試合に出場、三割一分四厘、五九年には同じ3A級のポートランド、カンサス両球団で80試合に出場して一割九分五厘。ことし五月にポートランドで自由契約選手になったが、40試合で二割六分を記録している。本塁打は通算して、五、六本しか打っていないが、シュアな打撃で遊撃を主に、一塁を除いて内野ならどこでもこなすといわれる。ボトラ選手の話では「守備、バッティングともふつうよりやや上」とのこと。趣味はゴルフでハンディ2。
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山本勲・大土富雄

2019-05-31 20:10:25 | 日記
1960年

東映フライヤーズでは二十日、山本勲外野手(18)=福岡県博多工、1㍍78、73㌔、右投右打=大土(おおつち)富雄内野手(18)=東京修徳高、1㍍76、70㌔、右投右打=の入団を発表した。山本は北九州№1といわれるスケールの大きな打者で、昨シーズンから注目されていた。今夏の予選では、県南代表決定戦で八女高に1-0で惜敗したが、山本は左翼手として四番を打ち、通算打率三割六分四輪を記録している。東映のほか西鉄、大洋、阪神からねらわれていた。正式契約は十月の予定。また大土は投手から転向した大型内野手で、百㍍11秒台の快足の持ち主。昨秋から現在までの通算打率は三割八分、本塁打三十本をマークしている。

石原代表の話「山本君は超高校級の実力を持っているので来年はすぐうちの戦力になると期待している。内、外野いずれもこなすらしいがポジションはまだ決めていない。大土君は非常に手首の強い、快足の持ち主で、ともに大型選手を目標のうちにはもってこいの選手だ」

山本選手の話「自分には東映のチーム・カラーがいちばん合うと思うので入団を決めました。ポジションはチームが決めてくれることで、自分はあたえられた位置を確保するため、努力します」
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石谷訓啓

2019-05-31 20:09:10 | 日記
1960年

島根県大田高の石谷訓啓内野手(18)はこのほど大毎入りが決定、十一月中旬正式契約する。石谷内野手は大田高のトップ打者で、シャープな打撃と俊足は山陰地方の高校球界随一の定評があった。1㍍74、70㌔、右投右打。

石谷選手の話「プロにはいってどれだけやれるか見当がつかなかったが、大毎の青木スカウトが熱心にすすめてくれたので、入団にふみ切った」
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牧田政彦

2019-05-26 20:48:40 | 日記
1961年

球団の色やチームカラーというものはそのチームの歴史が古ければ古いほど、そうした色やカラーをぬこうとしても、なかなかぬけないものらしい。阪急は昔から好投手の生まれるチームで、古くは森幸太郎投手や現コーチの天保や今西の活躍した時代から現在の米田、梶本といったように続いている。今シーズンは、今までの看板の投手力に打撃力を付け加えようと現役時代打撃の天才といわれた大下をコーチに迎えて仕上げに懸命だが、いくら天才児大下といえども基礎からでは時間がかかるのは当然のことだ。この打撃にくらべると投手陣の方は土台もオモヤもできているのだから若手を育てるのにはもってこいだ。だがいくら投手が売りものといっても米田や梶本のような大ものはそうざらにいないものだ。左右エースをつぐ候補者ほど見渡せば右では石井、左なら牧田の二投手がうかぶ。この二人はことしで同じ四年生で身長もほぼいっしょだ。牧田の生まれは信州。小畑実のヒット曲伊奈の勘太郎で名高い伊奈の産だ。阪急にはいったときから球が速くて、われわれ仲間内では将来の大ものと目をつけられていた。それが一、二年は泣かずとばずだったが、三年目の去年やっとプロ入り初の1勝をあげた。しかも、その相手がパ・リーグのペナントをとった大毎。「さあーいよいよ牧田ダンナのお出ましだ」と期待したが、あとは皆さんご承知の通り頭デッカチしりスボミで終ってしまった。あれやこれやと前年のことを思い出しながら、阪急のキャンプ地姫路まで足をはこんだ。グラウンドを見渡す。いんがなもので私が投手出身のせいかどうも投手陣の練習に目がむく。いたいた外人とまちがえるような六尺男、しかも足がめっぽう長いのが、一球一球ていねいに投げている。背番号35が右左に動くたびに白い球が捕手のミットの同じところえすいこまれていく。そばで伊勢川コーチがじいっと見つめている。見る方も真剣なら投げる方も慎重だ。牧田の今までに見られなかった姿だ。私は内心これはいけると思った。そこで総大将戸倉監督にさぐりを入れて見た。すると「牧田か、ああ、まあまあやるだろう」と軽くいなされた。そこでこんどはコーチの伊勢川氏に聞いてみたら「まだ十分とはいえないが、コントロールがついてきたから、ことしはつかえそうだ」と。これまたやんわり受けとめられた。そうこうしているうちに紅白戦が始まった。ブルペンで早い球を投げる牧田が本物のプレートの投げ振りはどうかと見ているとプレート上の態度も去年にくらべれ落ち着きがあるし、フォームも安定してきている。球の威力はとみれば左投手の武器の一つであるシュートがホームプレート真ん中へんから外角一パイに決まっている。外角から右打者のヒザに食いこむカーブはまだあまいがシュートとのコンビネーションがよいのでなかなかレギュラーの打者も手こずっていた。三回投げて1安打しか打たせないのだからたいしたものだ。その1安打も外野手がグラブにあてておとした安打だから、驚きだ。そこでまた戸倉監督に「なかなか牧田はやるではないの」といったら返事のかわりに監督はニッコリ笑った。そばて評論家の青田氏が「マキ(牧田)もピリッとしたところができた」と自分のことのようによろこんでいた。こんどは本人をつかまえて聞いて見た。人なつこい顔で、はにかみながら「どうにかストライクが投げられるようになりました。でもまだ勉強することが多くて」と六尺の身体をもてあますようにしていう。聞いている私まで、なんとなく若々しい気分にさえなった。彼のようなのをかくれたホープとでもいうのだろうか・・・。
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桂本和夫

2019-05-26 15:28:58 | 日記
1960年

球界をさる人々の№1はなんといっても大毎の西本前監督。スポーツ評論家に転向することになったが、リーグで優勝しながらやめさせられたのだから、60年最大の悲劇でもあった。巨人の川上監督は「とても無理な話だが、西本君をファームの責任者に迎えれたらいいだろうなあ」とその人柄、技量を惜しんでいた。コーチ陣からは浜崎(巨人)松木(東映)原田、牧野(中日)の四人が去る。浜崎氏は川上監督から残留を望まれたが「人心を一新しようというのにオレが残ってはかえって哲ちゃん(川上のこと)のためにならない」とユニホームを脱ぎ、毒舌で鳴らした評論家にカムバック。松木氏はNHKの解説者に、原田氏は東海ラジオのスポーツ課長となる。牧野氏は浪人中だが明大時代からインサイド・ベースボールにひいでている人だけに、もう一度球界で生かしてみたい。選手の中からファンの記憶に残る名前を拾ってみると・・・。枝村(大洋)緋本(広島)桂本(国鉄)サディナ(南海)中村(阪急)杉山、大崎、後藤(近鉄)など。レスリングから転身で話題となった桂本、かつて南海、阪神のエースとして活躍した中村、大崎、中日でセ・リーグのホームラン王になった杉山と、いずれも一度は球界をにぎわせた人たちだ。このうち桂本は北海道に本社をもつ観光会社の会社員に、中村はパ・リーグの審判になる模様で、後藤は近く南海のテストを受ける。ノンプロで野球をつづけたいという希望者も多いが、ノンプロ側に前プロ選手のうけいれは一年三名にかぎる規約があるため思うにまかせない状態。大洋のように野球部のある傍系会社の多いところはまだいいが、チームによっては、幹部が走りまわってもなかなかつぎの就職口のみつからないところが少なくない。いまのところノンプロ入りの確実な選手はつぎの通りだが、枝村のように家業につく選手もある。

土橋(大洋ー北洋水産)
飯田(大洋ー大洋漁業横須賀工場)
高城(大洋ー長崎大洋クラブ)
田中(阪神ー門鉄)
重光(広島ー山門鉄鋼所)
内山(中日ー愛知マツダ)
小川(中日ー黒崎電機)
内田(東映ー川崎トキコ)
福里(国鉄ー鹿鉄)
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里見祐輔

2019-05-26 14:56:56 | 日記
1987年

ロッテからドラフト2位指名を受けた静岡市立高の里見祐輔投手(17)=182㌢、75㌔、左投げ左打ち=の入団が四日決まった。三宅スカウトが静岡市千代田三丁目の同校を訪れ、井ノ上孜校長、佐野邦男監督、両親の里見公三さん(49)則子さん(41)を交え話し合った結果、契約金四千万円、年棒四百万円(いずれも推定)で合意に達し、仮契約を結んだ。同校からのプロ入りは、昭和三十年代初め、西鉄(当時)に籍を置いた長坂投手以来二人目。指名を受けた時点でプロ入りを決意したという里見投手は、仮契約の記者会見で「元気のいい有藤監督に負けないよう頑張る積もり。少しでも早く一軍に上がり、ストレートで勝負し、西武を倒せるような投手になりたい」と抱負を語った。夏の県大会では開幕戦で静岡工に1-2で屈したものの、通算42勝21敗、防御率2.20の実績を誇る大型左腕。三宅スカウトは「球の伸びが素晴らしく、ひじの使い方が実に柔らかい。将来、ロッテのマウンドを支え得る素材」と将来性を高く買っている。恩師の佐野監督は「背伸びしないでじっくりトレーニングに励み、大きく育ってほしい」とまな弟子に温かい視線を送っていた。
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ブラウン

2019-05-26 14:41:54 | 日記
1962年

先に、阪神へ入団が決まっていたブラウン投手(カリフォルニア大出身)は、十四日のお昼すぎ、甲子園に姿をみせた。戸沢社長につれられ、三塁側ベンチで休けい中のナインのもとへ・・・。「ミスターブラウン」とソロムコがとびたし、がっちり握手。日やけした四角ばった顔、身長188㌢、体重90㌔のブラウンとならぶと、ソロムコは小さくみえる。コーチ陣を紹介されたあと、ブラウンは記者会見の場、球場内の喫茶店にむかう。「あれがブラウンか」とスタンドにいた三百人余のファンもブラウンと並行。一塁側選手入り口の方へ歩く。ブラウンの人気、なかなか上々である。「日本の野球は世界的水準にあり、アメリカでも評判だ」と前置きし、ブラウンはゼスチャアもまじえ、よく話した。
ー日本の野球はどれくらい知っていますか?
ブラウン カリフォルニアにも日本のノンプロチームがきたことはあるが、ボクは見ていない。日本にくる前、東映におられた武井やミケンズ(近鉄)などから話を聞いていたし、ドジャースのコーチ、ドローチャーには、日本の野球についておそわった。
ー向こうで練習してきましたか
ブラウン ロサンゼルスは雨が多く、ほとんど練習していない。コンディションの調整はこれからです。(ところが、ブラウンはこのあと左翼ブルペンでピッチングをするさい、梶岡コーチに「二週間ほど前からピッチングをしていた」といっている)
ー武器は何ですか。
ブラウン 速球だ。(きっぱりとした口調で)カーブも投げるが、武器は速球だ。上から投げるのが多いが、ときには横からも投げる。
ー日本の生活について。
ブラウン ロサンゼルスですしも天ぷらも食べた。別に困らないと思う。趣味ですか?ベースボールです。それに最近は日本に関する書物も多く読んだ。両親も日本で野球するのを喜んでいる。コーヒーについている角砂糖を一つ口にほうりこみ、ブラウンは着がえに席を立った20分後・・・ブラウンは出てきた。背番号18のユニホームを実にうまく着こなしている。ラバーコートを脱ぎ、外野のヘイにそってランニング、体操をしたあと、ブルペンにあがった。手首のかえしが鋭く、腕がしなるようにして投げる。「体がやわらかい。外人独特のフォーム」と梶岡コーチ。30球ほど、五分ぐらいの力で投げた。球の回転が不規則で球はスライダーしたり、シュートしたりしたが、球は重く、コントロールもいいようだ。三時間前、練習が終わり、ナインがひきあげたあとも、ブラウンは、グラウンドを走っていた。なかなか、マジメな選手のようである。

阪神が期待する外人ブラウンが先発を承り、初登板したが、ゲーム前から降り続いている雨のためにグラウンドがやわらかく、体重の重い彼には不利な条件のスタートだった。足元がすべるのを気にしてか、スタートからピッチングは荒れもよう。一回4四死球を連発。須藤に左翼線二塁打を打たれて3点をとられるさんざんのできだった。だが球威はかなりある。王をフルカウントからカラ振りの三振にとった。左打者の外角いっぱいに落ちる球、いわゆるシンカーはみごとである。また、同じシンカーで長島を三ゴロに退けたのがせめてもの慰めだ。
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里見祐輔

2019-05-26 11:06:49 | 日記
1987年

くしくもドラフト当日は、母校の開校記念日。校内で待機中、佐野邦男監督の知人から「ロッテ2位氏名」の一報が届いた。「もっと下位だと思っていたので、びっくりしている。本当にうれしい。(入団については)前向きに考えたい」上気したほお。切れ長の目がギラリと輝いた。身長182㌢、体重75㌔と長身。左上手から投げ下ろす直球は打者のひざ元を鋭くえぐり、多くの強打者をきりきり舞いさせた。夏の地方大会では開幕戦で静岡工に1-2と逆転負けを喫したものの、三年間の通算成績は42勝21敗。防御率も2.20。夏の大会後、広島、近鉄などセ・パ8球団が接触。迷った末、十月初めにプロ入りを決意した。「監督は進学を勧めてくれたが、小さい時から野球一筋だったし、どうせやるならプロで、と思った。体力的には不安もあるが、自分で決めたことですから」と、決意を語った。理想は、直球で押し通すピッチング。「西武の清原選手とぜひ対決したい」と、笑顔をのぞかせた。
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1960年 巨人 テスト生

2019-05-26 10:35:49 | 日記
1960年

巨人は関東、関西での第一次テスト通過者のうち五名を採用した。

投手 銚子商・吉野晃司(17)国学院久我山高・大熊伸行(18)
捕手 成田高・酒井繁夫(18)岡谷高・八幡英男(18)
内野手 木本高・岩本進(18)
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