プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

門谷昭

2020-02-05 16:38:19 | 日記
1964年

安芸高野球部のエースとして活躍、ことし春の選抜野球大会にも出場した同校三年生、門谷昭投手(17)=高知市天神町=は、セ・リーグ広島カープから入団交渉があっていたが、このほどほぼ内定したもよう。高石安芸高校長に広島球団からさきごろ「十一月から十二月の間の適当な時期に一週間ばかり練習にこい」との連絡があった。同校長は就職試験を受けに行くという名目で許可したという。なお門谷の広島入りについて、広島球団では「大体決まっているが、正式発表は八日ごろにしたい」と話している。門谷昭君は今後、安芸高が甲子園へ出場したときの主戦投手として活躍した。身長171㌢、体重70㌔とからだは大きくないが、左腕からの角度の大きく落ちるカーブには定評があった。また打者としても三番を打ち、得点源になっていた。日ごろの同君はいたっておとなしく無口の方だ。成績もよくいったんプレートに上ると無類のファイトを燃やし、投げまくる。昨秋の四国大会では海南の尾崎と延長十四回を投げ合い、とうとう投げ勝った。この強い精神力はプロ生活にも通用するだろう。家は高知市天神町にあり、野球をするため安芸高へ入学し、現在安芸市内で下宿している。

門谷昭君の話 大学へ進学したいと思っていたが、恩人の溝渕さん(現高知高監督)や小谷監督らに相談してみた。だが結局自分の将来のことなので、いま大阪へ行っている母が帰ってきてからよく話し合い、最終的にはっきり決めたいと思っている。

高石安芸高校長の話 二、三週間前「広島から話があるので入団したい」と門谷君から直接相談を受けた。このとき門谷君は体が小さいという自分のハンディもじゅうぶん自覚し、根性でこの欠点をカバーし、プロ球界で活躍したい、と、堅い決意をみせていたので、「その覚悟でいるなら、初心を貫け」と激励しておいた。

小谷監督の話 門谷君は進学希望ということだった。十月初めごろ退部届がでたので、理由を聞くと「プロにでも行こうかと思っている。学校の方へこのために迷惑をかけてもいけないので」ということだった。本人の意思だから承認した。広島カープの話も相談を受けたが、私は全然タッチしていない。自分の将来のことだから自分でよく考えるようにと話しておいた。
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宮崎昭二・柴田晃・伊東邦男

2020-02-05 14:03:22 | 日記
1961年

東映フライヤーズでは、十七日入団が決定した三選手を発表した。

投手
宮崎昭二(十八才、佐賀県鹿島高、1㍍82、73㌔、右投右打)
柴田晃(十八才、福岡県豊国高、1㍍76、73㌔、右投右打)
伊東邦男(十八才、福井県若狭高、1㍍77、75㌔、右投右打)

宮崎投手は昨夏の甲子園大会に出場した本格派。また伊東投手は巨人との争奪戦を演じた北陸随一の好投手である。
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大宮勝男

2020-02-05 13:32:12 | 日記
1960年

今シーズンの新入団のうち一番ノッポは大宮勝男投手(宮城県大河原高)である。チームには1メートル87の木下がいるので横綱ではないが、1メートル83の長身は堂々たるもの。十六日の午後はじめて福岡入りし、合宿に入った。大河原高というのはプロ球界に縁遠く、まして西鉄にはなじみの薄い学校だが、本人の話によると、野球学校で有名な東北高とあまり遠くないらしい。東北高とは試合をしたことがないが、こんど西鉄入りする黒川、鈴木も、知っているとのこと。高校時代は、もっぱらこの長身からの速球を武器としていたらしく、一試合18三振を奪ったこともあるそうだ。「西鉄のゲームは一度も見たことがないが、豪快なカラーだといわれるのに魅せられた。福岡は、はじめてで心細いが、十年前に父親を炭鉱事故で亡くし、母親と弟の三人暮しで、自分ががんばらねばならないので、死にものぐるいでやる」と決意を述べていた。「大男はノソが多いといわれるが、大宮は見たところ、そうでもなさそうだ。鍛えようによってはおもしろいだろう」と重松二軍監督はいっている。
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中島節男

2020-02-05 11:54:47 | 日記
1961年

国鉄では、このほど奈良県高田高の中島節男外野手(18)の獲得に成功した。同選手は右投げ、右打ち、1㍍76、78㌔という恵まれた体の持ち主、一年のときから不動の四番打者として活躍していた。
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住吉重信

2020-02-05 11:38:18 | 日記
1961年

阪急ブレーブスでは、八月三十一日午後五時大阪梅田の航空ビル五階の球団事務所で、住吉重信捕手(20)=右投右打=と契約した旨発表した。住吉選手は、福岡県飯塚商高出身で、同校卒業後は社会人の松島鉱業所で活躍していた強肩強打、特に投手のリードには定評がある選手。
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中島淳一

2020-02-05 11:32:33 | 日記
1961年

去る七日の東映22回戦に五カ月ぶりで勝ち星をあげた中島が、またも南海を封じた。2-2の五回から救援した中島は大量点に助けられたということもあったが、以後南海を2安打の散発。二塁をも踏ませぬ好救援をやってのける大金星。「この前の東映戦と比べるときょうの方がスピードの点でまさっていた。ストレートとカーブ、シュートの三種類だったが、コントロールがよかったので危ないと感じたことはない。いま南海は当たっていないね。二つ三つホームラン・コースにいった球もみんなファウルになったから…。これで入団して南海から三勝目。数が少ないのでよく覚えているよ」河合捕手は「最近のジュン(中島投手)はコントロールがよくなった。彼は努力型だからな」と急によくなった因をコントロールに求める。中島は「たしかにコントロールがよくなったが、きょうのできは東映戦での自信がものをいっていると思う。それに最近しばしば登用されるようになって自分のピッチングをつかむことができた。いままではタマにしか使ってもらえずあげくの果てのポカリ、野球の選手はやはりゲームに出んことには…」話の終点は結局ここに来た。

野村捕手の話 中島の出来は大したことはなかった。カーブも特別いいと思わなかったし、ストレートにも伸びがあったとは思わなかった。

広瀬選手の話 特別どうという出来ではなかった。それなのに打てなかったのは西鉄の大量リードで攻撃意欲がわかなかったのだ。しかし今度は打ってみせる。
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種部儀康

2020-02-05 11:20:29 | 日記
1961年

巨人軍では二十七日米子鉄道管理局種部儀康(のりやす)投手(23)の入団を発表した。同投手は米鉄の主戦投手として今夏の都市対抗中国予選で3勝(2完封)をあげ、本大会にも倉レ岡山に補強されて後楽園のマウンドを踏んでいる。鳥取県倉吉農高出身、身長1㍍75、体重65㌔、右投右打、背番号は26。
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阪本泰三

2020-02-05 10:53:51 | 日記
1961年

南海ホークスでは、十日午前十時から大阪球場で新人テストを行なった。この結果、合格者には野村捕手の後輩にあたる井上修捕手(峰山三年=十九才)上平洋幸捕手(寝屋川三年=十八才)阪本泰三投手(右投げ、伊都三年=十七才)の三人が選ばれた。
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福田弘文

2020-02-05 10:50:06 | 日記
1956年

南海では二十一日専大福田弘文(22)投手=六尺、二十一貫、右投右打=の入団を発表した。福島県磐城高、常盤炭鉱を経て専大に入学、三年中退で入団したもの。
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岩永功

2020-02-05 10:46:24 | 日記
1960年

岩永は杉浦を小型にしたような投手だと、もっぱらの評判。三十四年の九州大会で福岡工をノーヒット・ノーランにおさえている。
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