プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大木勝年

2018-03-30 21:58:56 | 日記
1971年

ヤクルトがドラフト第十六位で指名した早大のエース・大木勝年投手(21)=1㍍74、74㌔、右投右打=成東高=の入団が十四日きまった。ヤクルト・浜田事務部長、塚本スカウトがこの日午後二時から千葉県東金市上谷の大木宅をたずね、父親・永好さん、祖父・勝次郎さん、伯父の大木成男さんをまじえて七度目の入団交渉。午後八時から大木側が再度親族会議を開いてプロ入りを承諾した。契約金は六百五十万円、年棒は百八十万円(いずれも推定)。正式契約は近日中に行なわれる入団発表の際にする。ヤクルトのドラフト指名選手の入団はこれで十二人となり、ねらった選手全部の獲得を終了した。

昨年十一月のドラフト会議で十二球団が指名したのは全部で百七選手。その四十七番目に名前があがったのがこの大木だった。ヤクルトを含めて、各チームが大木指名をちゅうちょした理由は、まず第一にプロで通用するかどうか疑問をもっていたこと、第二にはノンプロ東芝に早くから就職が内定していたことなどがあげられる。しかしエース格の石戸に期待が薄れてきたヤクルトは、横手投げのピッチング・フォームがよく似ている大木に目をつけ、獲得に乗り出した。初めは両親がこぞって「危険の伴うプロ入りに反対」したため話し合いはこじれた。ヤクルト側は昨年暮れからことしにかけて行なわれた早大と慶大との帯同遠征(台湾、沖縄)の前後に、中西ヘッド・コーチまで立てて説得につとめ、十三日の六度目の入団交渉でやっと本人の内諾を得、この日の七度目の話し合いの後、最終的なOKをとった。入団が決まった大木は、さすがにほっとした口ぶり。「一時はサラリーマンになる決心もしたのですが、やはり野球をやるならプロでという気持ちが強かった」と本当にうれしそう。「それなら、自信があるのかと聞かれても困るのですが、まあ内に秘めた自信は十分持っているつもりです」などと早大のエースらしい、なかなかしっかりした答えだった。しかし、三年生の秋までは小坂(早大-巨人)のカゲにかくれ、やっとエースといわれた昨シーズンも春2勝1敗、秋2勝3敗と勝ち星こそ少ないが、防御率は春が一位(0.77)秋が二位(1.07)と中身は濃い。「二年生の秋に慶大と京都に遠征し、メッタ打ちにあったことがあるんです。それですっかり自信をなくして、三年生のときもさっぱりだった。でも今度はプロですから必死にやります。まず体力を十分養ってスピードをつけることですね」早生まれのため、ことし三月まではまだ満二十一歳。選手名鑑などには22と書き込まれているそうだが「本当はもっと若いんです。だから人よりまだ伸びる可能性もあるんです」といって周囲を笑わせた。武器はシュートとカーブだが、ヤクルト・塚本スカウトは「あのシュートはプロでも通用する」と太鼓判を押している。そのうえ、やや変則的な投げ方なので「おもしろそうだ」とヤクルト首脳陣も、いまから大きな期待を寄せている。背番号は未定だが、二十日から始まる自主トレーニング(神宮第二球場)に初日から参加する。

ヤクルト・塚本スカウト「ウチの石戸、東映の高橋善とよく似た投げ方だが、シュートがとてもいいからかなりプロでも使えると思う。問題はスピードで、体力を十分つけることが大切だろう。即戦力で5勝くらいはするのではないかと期待している」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乗替寿好

2018-03-29 22:22:57 | 日記
1968年

西鉄ライオンズは二十八日午後、福岡市天神の同球団事務所で、乗替寿好投手(18)=若狭高、175㌢、74㌔、左投げ左打ち=の新入団を発表した。同投手はさきの新人選択会議で西鉄が二位に指名、城島スカウトが二十一日に内定にまでこぎつけていたもの。発表には仙吉さん(51)も立ち会った。新入団第一号の乗替投手は、さっそく二十九日から福岡市百道の雨天練習場で練習を開始する。

国広ライオンズ球団社長が、さしだしたユニホームとライオンズのマーク入り帽子を、乗替投手が胸にあてがうと、カメラのフラッシュがいっせいに光った。ライオンズ首脳が畑(元西鉄)井上(前西鉄ー巨人)いらいの左腕として期待する本格派投手。新入団第一号である。一瞬、その表情がこわばったが、甲子園出場三回、ことし国体優勝投手は、落ち着きをとりもどすのに、そうヒマはかからなかった。「小さいときからプロ野球にあこがれていました。野球は小学校六年からはじめています。ジカにプロ野球のゲームを見たことはないが、テレビではよく見ました。ええ、ライオンズのゲームも何度か見ています。西鉄に指名されたときは、それだけにうれしいと思った。内角のストレートが武器です。逃げないピッチングをしたいですね」つめえりの学生服がちぎれそうな乗替の胸囲は1㍍あるという。キリリとした顔も意志の強さをあわらすようだ。手はヤツデのように大きい。話しているうちに「あまり自信はありません」といっていたのが「国体の優勝で自信がついた」と変わった。発表に先立っては、城島渉外課長の案内で、ホームグラウンドの平和台球場や、百道の雨天練習場を見学している。雨天練習場では、河原投手がピッチング練習の真っ最中。乗替はしばらくクギづけだった。「福岡にはだれひとり知り合いがいないので、その点がいくらか不安です」ちょっぴりと親元をはなれる十八歳の胸中をうちあけたが、国広球団社長が「人情にあつい土地がらなので、すぐになじむよ」といたわった。父親仙吉さんは「小さいときから病気ひとつしたことがない。子供のときは相当の腕白だった。きっとがんばってくれると信じている」と口をそえた。なお乗替投手の背番号は70番台の予定。乗替投手の入団発表につづいて、十二月二日に東尾投手(箕島高)三日に宇佐美投手(木更津中央)の正式発表が予定されており、三新人が顔をそろえる三日に、楠根オーナーにあいさつすることになっている。

乗替投手の話 もうプロでやる踏んぎりは完全につきました。あまり勉強が好きでないので、野球以外に生きる道はないという決意でやります。ピッチングだけでなく、バッティングも好きです。サク越えのホームランを打ったこともあります。

国広球団社長の話 春から乗替君の名前は聞いていた。国体の優勝でその評価は決定的になった。

乗替寿好投手の略歴 のりかえひさよし。昭和二十五年十一月十五日生まれ。若狭高一年のとき一塁を守り、二年生の春から投手に転向して、ことしの福井国体で3試合を1失点、24三振に押え優勝した。甲子園には四十二年の春夏と、ことしの春の三度出場している。現住所=福井県小浜市下竹原1-38。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥谷元

2018-03-29 21:30:06 | 日記
1965年

中日ドラゴンズは十三日、名古屋市中区南外堀町の球団事務所で鳥谷元(とりや・はじめ)投手=十八歳、築上中部高、1㍍78、75㌔、右投げ、右打ち=と正式契約、入団を発表した。同投手はさきに入団した豊永とともに、九州高校球界で速球投手として知られ、昨年暮れ、柴田スカウトが福岡県豊前市の同投手宅を訪れ、中日入りの意思表示を得ていたもの。オーバーハンドからの速球を武器とする力投型で、足も速い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本勉

2018-03-29 19:57:14 | 日記
1969年

阪急は二十四日午後三時から大阪・梅田の球団事務所で、橋本勉投手(18)=報徳学園高。身長185㌢、体重84㌔、右投げ、左打ち=の入団を発表した。阪急の新人の入団は今季6人め。背番号は58。ドラフトに関係ない無名の選手だが、恵まれたからだに柔軟性もあり、将来性の豊かな本格派投手。控え投手だったので記録的なものはないが重い速球が持ち味で課題は下半身をきたえることといわれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪口忠昭

2018-03-29 19:20:45 | 日記
1972年

河村投手コーチが就任の弁で「食うか食われるかの場面では打者にボールをぶっつけろ」とタンカを切ったのを知って一番喜んだのがこの阪口だったらしい「ぼくの持ち味は、インコースに思い切ってほうるところにあったとですからね。よけいな人には当たってもしかたがなかでしょ。広瀬さん、門田さんに当て、住友さんの頭にぶっつけてしもうたけど、ぼくは悪かったと思うたことはなかですよ。わざとぶっつけにいったわけじゃなし、またわざと投げて、見事に当てるような技術はまだぼくにゃないですからね」「遠賀土手行きゃカリが鳴く・・・」度胸千両の川筋カタギ。直方学園のワンマン投手が二年間のプロ生活でも大切に育てつづけてきたのがそれだった。「プロ入りしたときゃ、どこにタマがゆくかわからんようなノーコン投手で、タマ走りものろのろしとったでしょ。だれかのマネして手っとり早く形を作ろうとしたこともあったですよ。だけど、やめました。ほかのもんと投げ方や球質が違うとみんなにいわれたから・・・。どうせやるならだれにもマネのでけんようなピッチャーになってみようと思うたですね。ハァ・・・」まだ星のない男のままである。「早く勝ちたい」とはいうが他の投手のように早く1勝したいとはいわない。つまり「まとめて勝ちたい」わけだ。昨シーズン後半の平和台のロッテ戦に二回から登板、六回まで無失点でとばし、代打起用で引っ込んだあと、先輩投手が打たれてフイになった試合があるが「あそこで代えられないような信頼をつかまにゃあ」と力んでみせる。ルーキー加藤初の目標(10勝)を知って「新人に負けては恥だ」とばかり「おれも10勝」と、やや背伸びした目標をかかげた。さて今秋、遠賀土手にガンが鳴くころ、阪口は何勝しているだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

植木一智

2018-03-29 18:53:46 | 日記
1968年

阪神タイガースは二十五日、ドラフト二位指名の竜谷大・植木一智投手(22)=身長178㌢、体重75㌔、左投げ左打ち=と三回めの交渉を行なった結果、ほぼ入団確定へこぎつけた。阪神の河西渉外課長は同日午後一時半、京都府綴喜郡西田辺町の植木宅を訪れ話し合った。同課長は、この日初めて条件(契約金百万円、年棒百二十万円=推定)を提示したが、前回まで「ノンプロかプロか、まだはっきり決めていない」と語っていた植木も「すでに就職が決まっている三菱重工神戸に阪神側がうまく話をつけてくれれば入団してもよい」と軟化、阪神入りの意思をほのめかした。このため、内定している就職先の了解がつきしだい、入団決定の運びとなりそうだ。

河西スカウトの話 きょうは条件面のことも一応話してみた。その結果、就職先と話しをつけてくれれば入団するという返事がもらえたので近いうちに三菱重工神戸へ行って了解を得たい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上薄淳一

2018-03-29 18:22:44 | 日記
1969年

西鉄ライオンズがドラフト会議で七位に指名した鹿児島県川内実高・花田敏郎投手(18)=178㌢、73㌔、右投げ、右打ち=と、同九位指名の同校上薄淳一内野手(18)=181㌢、70㌔、右投げ、右打ち=の西鉄入りが正式に決定。ライオンズ城島スカウトは十一、十二日の二日間にわたり、鹿児島県川内市の上薄、花田両選手宅に出向き入団交渉した。上薄選手=市内東開門町=は父親淳美さん(46)が大の西鉄ファンでスムーズにライオンズ入りが決定。花田選手は住友金属への入社が内定していたので態度を決めかねていたが、十二日朝、西鉄入りに踏みきり、ただちに契約をかわした。両選手は二十日過ぎ来福、福岡市球団事務所で入団発表を行なう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望月彦男

2018-03-28 23:26:56 | 日記
1971年

「シーズン初めの練習といえばどこでも同じようなもの。プロに入ったからといって、これまでと特別に変わったことはしないし、気分のたかぶりもない」西鉄ライオンズ入団の契約第一号、望月彦男投手はベテランのような心境で平和台球場の自主トレーニングに参加している。山歩きが好きという二十九歳の静かなヒネ新人。金田(巨人OB)や梶本(阪急)のことを思えばまだ八年も、十年間もがんばれるが、こんなのは日本では例外の部に入る超人。「体力に限界はあっても、プレーの年齢には限界はないと思いますよ」入団発表のとき年齢のことを報道陣に質問されて、望月はこういった。ノンプロ時代の電気化学(静岡)では機械の計画に取り組む技術者であり、そのまま会社に残っておれば将来はなにひとつ不安はなかった。給料は八万円ぐらいもらっていたとか。ライオンズに指名されたからといって、三十三にも近づいてなぜ冒険に踏み切ったのか。野球狂かケタはずれの自信家か。あるいは金と名誉がほしかったのか。若い選手たちのなかにまじって黙々と練習している望月に、もう一度プロ入りの動機をたずねてみた。たしかに野球は「好き」といった。「あれがプロでやれるなら、オレだってと思ったことはある」そうだ。自信も持っている。しかしぬるま湯につかって、はい出せばカゼを引くし、それかといって決して居心地はよくないのに、いつまでも野球にすがりついて生きている、みじめな人間とはまるで正反対の性格。「ノンプロに残っておれば、からだに故障がないかぎりプレーを続けなければならない。コーチになり、監督にもなれば、いつまでたっても野球から足を洗えない。だから会社をやめた。あと何年投げられるかわからないが、全エネルギーを燃やしてぶつかってみたい」という。野球人生にふんぎりをつけるためにプロの世界を選び、あとで思い残すことのないように、好きな野球だけに打ち込もうというのだ。「金ですか、それだけがねらいなら、カケと同じようなもの」と実力以上の金をほしがる選手たちが耳にセンをしたいようなことをいう。どのていどの大物か、まだキャッチボールを始めた段階だから実力を計り知ることはできない。ノンプロ時代の防御率は1.59というから、打ちにくいタマはいくつか持っていそうだ。本人は「球種はストレート、シュート、カーブの三つだけ」といっているが、河村コーチは「それだけあれば十分。キャッチボールをしている姿から想像して、剛速球のタイプではないようだ。問題はコントロール。短いイニングを押えてくれるようになれば大助かりだ」と期待している。ライオンズにとっては貴重な左腕投手だ。乗替は成長がもたつき、まだたよりにならない。昨シーズンは左投手がいないばかりに、勝てる試合をいくつか落としたことがあった。河村コーチは「短いイニングでも」といっているが、望月は、ノンプロ時代は先発の完投型だった。「気が長いこと」を自分の長所にしている。自分の感情をコントロールできる大人である。この冷静さは、マウンド上で意外な力を発揮するかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤輝美

2018-03-28 22:41:31 | 日記
1971年

西鉄がドラフト八位に指名した横浜高・斎藤輝美内野手(18)=175㌢、70㌔、右投げ右打ち=の入団が、二十二日内定した。この日、午後二時半、西鉄・渡辺スカウトが横浜市金沢区富岡の横浜高を訪れ、学校側と同校野球部の渡辺監督、斎藤選手と交渉あいさつを行なったが、席上、学校側、両親、本人とも、西鉄入団に異論がないことを確認した。正式決定は、今月下旬か来月はじめに、渡辺スカウトが横須賀市鴨居の斎藤選手宅を訪問、両親と条件面で話し合ったうえで契約することになっている。この日、横浜高を訪れた渡辺スカウトは、同校の黒土理事長、沼田校務主任、渡辺監督にドラフト指名のあいさつを行なった。学校側は「直接、斎藤家と話し合ってほしい。プロ入りするかどうかは、あくまで本人しだい」との態度をみせた。同席した斎藤選手は「すでに両親や兄たちとも相談したが、みんなぼくの気持ちを尊重するといってくれた。監督も行けといっている。まだ条件など聞いていないが、ぼく自身は指名された限り西鉄でやってみたい」と、はっきり意思表示した。同選手は一年からレギュラーとして出場。最初は投手だったが、一年の途中から遊撃に転向、三年では三塁を守り、主将をつとめた。打順も二年生から四番を打ち、三年間の通算打率は・350、本塁打は練習試合を含めて20本。渡辺監督は「高校生としては、バッティング面で水準以上のものをもっている。とくにリストがいい。うちからプロ入りした飯田(中日)米山(西鉄)より素質は上」と評価した。十九日、ドラフト会議で指名されたとき、本人は漁師をしている父親新蔵さん(50)を手伝って網打ちに出ていた。しかし、「なにか西鉄が指名してくれる気がしていた」となかば期待していたという。それが現実となって「うれしい」と素直に声をはずませた。

西鉄・渡辺スカウトの話 きょうは学校側に交渉するとあいさつをした。学校側は本人しだいといってくれた。両親とは条件面で話し合うが、家族、本人とも西鉄入りに固まっているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井上幸信

2018-03-28 21:56:51 | 日記
1968年

大洋がドラフト会議で第三位に指名した尾道商の井上幸信投手(18)=183㌢、75㌔、右投げ右打ち=の入団が二十一日、正式に決まった。大洋の引地スカウトはこの日午前、広島県尾道市の井上宅で具体的条件を提示、スムーズに交渉が成立した。同投手は今春の甲子園大会の準優勝投手である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永射保

2018-03-28 21:34:46 | 日記
1971年

鹿児島県立指宿商高(指宿市)のエース永射保君(17)は、プロ野球の広島カープ入りが決まった。十五日午後五時半から鹿児島県川辺郡大浦町永田の自宅で、黒岩典雄指宿商高野球部長立ち会いで父親の明雄さん(51)不在のため、母親のマサエさん(47)と球団の藤井弘スカウトの間で話し合いが成立、契約書に調印した。永射投手は左投げ、左打ちでストレートの剛速球が武器で、ことしの夏ごろからプロ入りの話があった。身長172㌢、体重70㌔。

永射投手の話 サラリーマンの就職も内定していたが、思い切って入団を決意した。入団するからにはプロ意識に徹しがんばりたいので、私がいちばん身近に感じている広島カープを選んだ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋明

2018-03-28 21:06:42 | 日記
1968年

西鉄ライオンズは九日午後三時福岡市天神の球団事務所で、高橋明外野手(18)=柳川商、180㌢、75㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。同選手は西鉄がドラフト会議で交渉権を得、城島スカウトが獲得交渉していたもの。高橋は宮崎県日南の出身。油津中から柳川商へ進んだが、中学時代すでに百㍍を11秒9で走る快足の持ち主だった。柳川商では、現西鉄コーチの鬼頭氏が監督。同氏が投手から外野手(おもに中堅)に転向させた。ベース一周14秒2と高校生ばなれのした脚力は外野手としてうってつけ。柳川商では四番を打ち、昨年は通算打率4割2分をマークした。鬼頭コーチの話では「リキもあり、ホームランも打てるバッターだ。かれを外野にまわしたのは、ほかに高校球界で通用する左投手がいたから。足がすばらしい」とのこと。高橋は「高校とプロでは投手の投げるタマが違うから、それをたしかめるまでは、目標も抱負もなんともいえません。ただ一生懸命やるだけ」とひかえめに語り、鶴丸常務や鬼頭コーチに「プロは根性しだいだ」と励まされて大きくうなずいていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊田憲司

2018-03-28 20:04:10 | 日記
1971年

西鉄がドラフト会議で五位に指名したいすゞ自動車・豊田憲司投手(23)の入団が、十三日内定した。この日上京した城島渉外課長と担当の渡辺スカウトが、午後七時から東京・築地の花房に豊田投手を招き、条件を提示(契約金五百万円、参稼報酬百五十万円=いずれも推定)して約一時間話し合った結果、同投手の内諾を得た。正式契約は、十三日がいすゞ野球部の納会のため、十五日に退部、退社届けを会社に出したあと、今月中に行なう。この夜、渡辺スカウトが豊田投手と交渉するのは二回目。一回目は単にあいさつ程度に終わっていた。しかし、指名される前から「とにかくプロでやってみたい。どこでもいい、指名してくれないかなあ」と期待していただけに、西鉄の指名にも「自分の気持ちはそのとき決まっていた」という。ただ、会社側はチームの大黒柱だけに、一応プロ入りに反対の立場をとり、渡辺スカウトにも面会をしばらく断る態度をみせた。本人は広島県呉市に住む父親・茂太郎さん、母親・静枝さんとも相談、両親からは「プロでやってみろ」と激励されて、会社側とも話し合い、プロ入りの了解をとりつけた。同投手は、呉港高から四十一年、芝工大に入学、一年の春からリーグ戦に登板、三年の秋にリーグ優勝をとげている。四十五年、いすゞ自動車に入り、春のスポ日大会で初の1勝をあげたが、一年目は出遅れて振るわなかった。二年目の今シーズンは、都市対抗予選で日本鋼管を完封、東芝にも完投勝ちするなど、敗戦は産別大会予選の1敗だけ。先発、リリーフで活躍した。スライダー、シュートと横の変化を武器としているが、スピードもあり「落ちるシュートをおぼえればすぐ使える」(渡辺スカウト)投手。芝工大時代、西鉄の片岡捕手、それにこんどのドラフトで西鉄が二位に指名している電電北海道・柳投手と同級生である。

豊田投手の話 西鉄に指名されてかえってよかったと思う。若いこれから強くなるチームだから、わたしもやりがいがある。ライオンズは小さいころ、黄金時代を見ただけだが、プロ野球はテレビなどで見ているし、なんとかうまくとけ込めばやれるという気持ちだ。とにかく、早くプロで通用するようがんばりたい。

渡辺スカウトの話 力で押す投手ではないが、落ちるシュートをおぼえれば即戦力となる投手。それにまだ伸びる余地を残しているし、きっと期待どおりやってくれるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐々木剛

2018-03-28 19:24:29 | 日記
1969年

産経は十七日午後零時五十分から小雨降るキャンプ地・佐伯球場で試合形式による初の紅白戦を行なった。紅軍は佐々木(三年生)が好投し、武上の第一号の本塁打が出、調子の出ない白軍の石岡を打ち込み6-1と快勝した。「天気が悪く十分な練習試合にならなかった。投手では佐々木、打者では武上、溜池、福富がよかったが、問題の守備面はまだまだ」と別所監督は慎重な構えだった。石岡、佐々木というエース級と新鋭が投げ合ったが、調子は佐々木の方がグンとよかった。神宮キャンプでカゼを引き三日ほど休んだ石岡は、それだけ出おくれた感じでスッキリとしたところがなかった。わずかに大きく落ちるカーブが、石岡の面目を保った程度。一回トップの武上をいきなり四球で歩かせたあと、丸山と三塁を争う新人溜池のうまいヒット、パワーのある久代の痛打をあびた。一昨年テスト生(釜石北高)で入団した佐々木は、スタートから飛ばした。一回を三者凡退に押えた。「調子はまあまあでした。ここという時、思い切って投げ込んだのがよかったのでしょう」と佐々木。三回、東条に左中間を破られ二塁打されたあと、失策と犠飛で1点取られ、五回にも倉島に右中間二塁打、このあと落ちついて東条を中飛、代打西園寺を外角スライダーで三振に打ち取った。「昨年投げたこともないカーブと、外角へのスライダー、この二つのボールを覚えた」(別所監督)という佐々木は、5イニング投げ3安打、無四球は立派。別所監督は「スピードも申しぶんない。オープン戦からどんどん使っていく」と早くも合格点をつけ、満足そうだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡村佳典

2018-03-27 21:49:52 | 日記
1966年

西鉄ライオンズは第一次選択で交渉権を得た島根県浜田高の岡村佳典投手(18)=1㍍80、70㌔、右投右打=と入団交渉を続けていたが、このほど両者の間で金銭面の折りあいがつき、同投手の西鉄入りがきまった。正式契約は近日中に行なわれる予定。西鉄はこれまで二回にわたり川崎球団常務、直良スカウトを浜田市へ派遣、同投手の実家、学校関係者を説得して回り、進学意思(亜細亜大)をひるがえさせるところまでこぎつけていたが、肝心の条件面で両者の間にかなりの食い違いがあり、これが一度はプロ入りに傾きながらも、岡村側の態度を保留させていた。岡村側は第一次選択選手を理由に最高額の契約金一千万円を要求していたが、これを直良スカウトが球団に持ち帰り幹部と検討、新しく契約金七百万円、年棒百二十万円(推定)の線を出し、十日から同スカウトが三たび、岡村家を訪れて説得を続けた結果、交渉がまとまったもの。同投手は重い速球を武器にする山陰高校球界きっての本格派、さきの新人選択会議では西鉄はじめ、巨人、広島など六球団がリストアップしていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする