プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

杉斉英

2015-03-31 19:04:53 | 日記
1965年

中日ドラゴンズは二十八日杉斉英(なりひで)選手(15)=長崎県福江市大江町、福江市立福江中学三年=の入団を発表した。身長1㍍82、体重78㌔、右投右打。

高田代表の話 杉君は出身地が大関佐田の山と同じなので、相撲界から誘われるほどいい体をしている。100㍍12秒0、走り高とび1㍍55、砲丸投げ11・5㍍の記録をもっているので、体の条件は満点だ
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室井勝

2015-03-31 18:59:21 | 日記
1962年

和歌山県立田辺市明洋中学三年生野球部投手室井勝君(15)=同市芳養町=は十二日、大洋ホエールズと入団契約を結んだ。同投手は177㌢、70㌔、右投げ右打ち。中学生のプロ入りはさきに中日入りした松本選手(長崎)についで二人目。
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金彦任重

2015-03-30 08:23:39 | 日記
1963年

南海ホークス金彦任重投手は今シーズン限りで退団、韓国に帰る。帰国後はノンプロ・チームをもつ会社に就職が決定している。また右肩脱キュウで再起の見込みがたたなかった田沢芳夫投手は早川電機大阪本社に就職、第二の人生に出発することになった。
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上別府幸一

2015-03-30 08:01:48 | 日記
1964年

西鉄ライオンズでは二十日、上別府幸一投手(17)=宮崎県ジャスパー興産、1㍍80、68㌔、左投左打=の入団を発表した。同投手は日本ジャスパー興産の軟式野球部のエースとして三十八年国体で優勝、三十九年にも国体出場の原動力となっているが、硬式を握るのは今度が初めて。軟式野球畑からプロ入りしたケースは東映の土橋投手が先輩にいる。
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山口富士雄

2015-03-30 07:51:21 | 日記
1962年

山口富士雄内野手…三十五年春の第二十二回選抜高校大会で優勝した高松商の当時主将だった甲子園の花形選手。立大経済学部2年、1㍍74、73㌔、右投右打

山口選手は三十四、五年の第三十一、二回選抜高校野球大会に連続出場、しかも三十五年には米子東高と激戦の末優勝をなしとげた。この決勝戦でサヨナラ・ホーマーを左翼ラッキー・ゾーンへたたき込む劇的な場面を生み出した。三十三年夏の第四十回大会にも一年ながら代打要員として戦列に加わり、すでに大器の片リンをのぞかせ、二年生から正遊撃手に抜てきされた。三年生になって主将の重責にありながら高松商優勝の大立役者となり、三十六年には立大に進み、いきなり同年の春季リーグ戦からベンチ入り、秋の東西対抗では正遊撃手として大型内野手の真価をいかんなく発揮した。昨春からは二塁にコンバートされたが、常時一、二番を打ち、六大学切っての好リード・オフ・マンといわれ、攻、守、走三拍子そろったプレーヤーである。ところが昨秋来、家業の理容業が極度の不振でこれ以上学業をつづけることが困難となって冬季休暇で帰省した際、再三家族会議をもった結果、大学中退にふみ切った。当然高松商というところから一時東映入りともみられていたが、山口選手自身、どこまでも在阪球団を強く志望したため、高松商OB藤井道夫(スカウト)立大OB西本監督両氏の線もあって阪急入りを決意した。

父親山口菊市氏の話 いろいろと家庭の事情があって富士雄をこれ以上大学へ通わせることが苦しくなった。年末に帰省したときにいろいろと話し合ったのですが本人も家のことをよく考えて中退することにふみ切ったようです。プロ入りについては高松商OB会などにもよく相談しなくてはなりませんが、本人はプロに行くなら在阪球団で、先輩のおられるところでやりたいと希望しております。
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黒田能弘

2015-03-29 20:33:28 | 日記
1961年

黒田能弘投手…北海道北見北斗高校卒、身長1㍍80、体重74㌔、右投右打、背番号64。

黒田投手は三十四年高校卒業後巨人へ入団、三年間籍をおいていたが、ことし自由契約選手となった。黒田選手はさっそく近鉄のテストを受けたが、過日別当監督、野口コーチが藤井寺球場でテストした結果合格、今度の近鉄入団の運びとなったもの。

黒田選手の話 近鉄におられる竹下さんとは、一年だけ多摩川やオープン戦でバッテリーを組んだことがありますし、同室で生活をともにしました。巨人で下手投げのフォームに変えろっていわれて気分的にくさっていましたが、肩をこわしたことはありません。むしろ巨人時代より、いまの方がスピードが乗っていると思います。外角のストレートと落ちるシュートでがん張りたい。来年からはさっそく合宿にお世話になります。
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安藤統夫

2015-03-29 20:21:56 | 日記
1961年

安藤統夫遊撃手…安藤選手は茨城県立土浦第一高校在学中、三年の夏甲子園に出場、卒業後農大に進学、一年の春季リーグ戦対明大二回戦からレギュラーとして出場、同年新人賞を獲得、三年生の春秋にそれぞれベスト・ナインに選ばれるなど、東京六大学では屈指の好選手で数多くの球団から誘われていた。しかし自分の意思を貫徹、阪神入りに踏み切ったもの。吉田に衰えのみえはじめた阪神にとっては非常なプラスになるものとみられている。なお阪神が東京六大学のスター・プレーヤーを獲得したのは二十三年の後藤次男(法大)別当薫(慶大ー全大阪)以来のことである。右投右打、1㍍73、67㌔、ベース一周14秒6の俊足の持ち主である。昭和十四年四月八日生まれ。

千葉県土浦一高出身、二十二歳、昭和三十二年の選抜大会に出場して注目を浴び、三十三年プロからの勧誘を退けて慶大進学、春のリーグ戦から遊撃手の正位置を獲得した。三十五年春秋連続ベスト・ナインに選ばれ、今年は主将に推された攻守走にすぐれた好選手。政治学部四年。右投右打。

安藤選手の話 阪神は子供のときから好きだったし、とにかくタイガースでやるんだという気持をもっていた。それがタイガースを選んだすべてです。ことしの春、バッティング投手をして投げすぎ、肩を痛めた、そして夏に阪大清水先生に診断をうけた。そのときは休めばなおるといわれていたが、秋のリーグ戦ではかなりよくなり、現在は八分か九分どおりなおっている。

藤本監督の話 非常な戦力となるものと思う。打、走、守と三拍子そろった好選手だ。いまのプロ野球では三拍子そろっていなければダメだが、安藤君はその点は優秀な選手である。久しぶりに東京六大学からのスター・プレーヤーであるのでみなさんの期待も大きいだろうが、それにこたえてくれるものと思う。
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城野勝博

2015-03-29 08:33:40 | 日記
1962年

城野勝博投手…同投手は鳥栖工一年生のときから同校野球部のエースとして活躍、佐賀県下高校球界では豪速球をもって定評があった。しかし一年生当時にチームが西九州代表決定戦(甲子園大会地区予選)に進出したほかは、大きな大会には出場しておらず、同投手の名は中央球界に知られていない。広島カープでは久野スカウトがノン・プロ東圧大牟田の前監督だった関係から同校野球部関係者に知り合いが多く、その線から同投手の父兄に入団勧誘を行っていたもので、広島入りは九分九厘決定的である。
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池田英俊

2015-03-29 07:27:47 | 日記
1962年

池田投手は31年福岡高から明大に進み、同年の春季リーグ戦ではメンバー表にも名を連ねることのできなかったまったくの無名選手で高校時代はさして注目されるような活躍はみられなかったが、続く春の新人戦、対慶大戦に先発で初登板、五回まで三者凡退の好投を示したことで明大の主力選手の一人に仲間入りするとともに、秋季リーグの対立大二回戦デビューして以来、つねに明大投手陣の重鎮となっていた。とくに32、33年の春、秋4シーズンは持前のコントロールのよさにものをいわせて、八面六ヒの活躍でプロ球団からもかなりマークされた。しかし四年になって一時腰を痛めピッチングが出来なくなったためプロからの誘いも自然遠のき、35年卒業と同時に誘われていた八幡製鉄に入社した。八幡に入社してからの池田投手は気候的に恵まれたこともあってすっかり腰の負傷も回復、大学時代の快刀乱麻なピッチングが復活するようになった。そして今春の九州社会人野球を観戦していた広島カープの白石重役が本人に直接入団方を交渉したが、そのころは彼自身プロでやる自信がなく、話は進行しなかった。しかし今夏の都市対抗で日炭高松(北九州代表)の補強選手として出場したことで自信をつけ、プロ入りにふみ切り、産業対抗野球終了後、入団先を決める予定になっていたところ、去る十日の鉄鋼部門予選で日本鋼管に敗れ、十一日帰福したナインとは大阪で別れて広島入りを返答したもの。右投右打、1㍍69、66㌔。

広島カープ白石重役の話 まだハッキリいえないが、八割ぐらいまでウチにくるだろう。あとは本人が入団かどうか意思表示すればよいという段階だ。

八幡製鉄石橋監督の話 試合後、池田君はプロ入り予定のためかどうか分からないが、われわれより遅れてかえる。彼のカープ入団はうすうす聞いているが本人からまだなにもきいていないので、なんともいえない。ただ本人の動向や大阪での試合に報道陣の注目を集めていたことから、かなりプロ入りの話は進んでいるようだ。
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羽村起夫

2015-03-29 07:11:08 | 日記
1964年

十一月に行われた南海ホークスの秋季トレーニングに参加、このほど南海入りが決定した羽村起夫投手=倉敷工高出身、身長1㍍83、体重78㌔、右投右打=が二十一日山下スカウトに連れそわれて南海球団事務所に姿をみせた。同投手は今春センバツ大会に出場し、倉敷工のエースとして活躍した本格派投手。なお同投手の南海との正式契約は近日中に行われる予定である。
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大熊忠義

2015-03-29 07:01:35 | 日記
1963年

大熊は昨春浪商から近大へ進学、すぐレギュラーとなったが、36年浪商時代には春、夏甲子園へ連続出場。夏の大会では一年後輩にあたる尾崎(東映)らと全国優勝を成し遂げた。シュアーな打撃は当時から光っていたが、今春の関西六大学リーグ戦では、ベスト・テン第七位(3割2分7厘)この秋季リーグ戦では一躍ベスト・テン第二位(3割7分5厘)にあがり、その好打ぶりは注目されていた。阪急では春のリーグ戦あたりから大熊三塁手に目をつけ、西本監督、藤井スカウトもたびたび足を運んで近大のゲームを観戦に行っていたが、夏ごろ一時中退はしないということで、阪急はもちろん他球団も手を引いたかたちとなっていた。だが、秋のリーグ戦終了後、家庭の事情のため、このまま学業は続けられないという結論から中退ープロ入りを決心、早くから熱心な態度を示してきた阪急へ入団することを決めたもの。大熊は十四日午後、電話連絡で近大の松田監督へ中退の意思を明らかにし、退部届けを提出したことを最終的に報告、了解をえた。松田監督はかねてから大熊選手の苦しい家庭の事情をよく知っており、その点で積極的に引きとめられなかったようだ。「プロですぐには活躍はムリだろうが、素質は十分ある選手」というのが同監督の評だ。
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村上雅則

2015-03-29 06:25:43 | 日記
1963年

村上雅則投手…法政二高、左投げ左打ち、身長1㍍81、体重81㌔

同投手は柴田(現巨人)の一年後輩にあたり、法政二高が昭和三十五年夏、三十六年春と高校球界の連続制覇を達成した当時エース柴田のカゲにかくれて、甲子園のマウンドをふむ機会は少なかったが、今夏の神奈川予選で、慶応高校に準優勝で5-1と敗れたが、本格派の大投手として将来を嘱望されていた投手である。村上の入団に際し、鶴岡監督みずから上京のたびごとに交渉に当っていた。また大毎、近鉄が誘いにのり出し、大洋ホエールズは同投手の先輩にあたる的場選手を仲介にして、入団の交渉に当ったと伝えられている。なお背番号は10。
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小野坂清

2015-03-28 20:39:17 | 日記
1963年

近鉄バファローズではこのほど社会人球界随一の左腕小野坂清投手(20)=1㍍77、67㌔、大鉄高出、不二越=の獲得に成功した。小野坂投手は大鉄高時代から左腕にはめずらしいコントロールのいい投手として注目されていた。そして三十五年春の選抜には中井(阪神)伊藤(近鉄)らとともに甲子園へ出場している。今夏の都市対抗予選では名門不二越のエースらしい活躍で信越代表とし、後楽園出場への原動力となった。近鉄では早くから左腕投手を物色していたところ、伊藤、大井両選手が小野坂投手を別当監督に推薦別当監督も小野坂投手のピッチングを一見みるなり、入団交渉を行い、このほど獲得に成功したもの。
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磯田毅

2015-03-26 06:00:01 | 日記
1963年

磯田投手は早くから本格派投手としてプロ球団からマークされていた投手で、昨秋の兵庫大会では明石商、姫路南を相手に、二度までノーヒット・ノーラン記録を樹立している。近鉄をはじめ、阪急、西鉄、大毎、巨人、阪神などの間でかなりは激しい争奪戦が演じられたが、磯田投手が子供のころから別当監督のファンであったことなどから、近鉄入りが決まったもの。

別当監督の話 磯田投手は体もあり、本格派投手としての素質も十分なので大いに期待している。ファンを引きつけるなにものかをもっていると思う。

磯田投手の話 小さいときから別当監督のファンだったので、野球をやるなら別当監督に一度コーチをしてもらいたいと思っていました。これが近鉄を選んだ理由です。進学も考えましたが、同じプロでやるなら、一日でも早い方がいいと思ってプロ入りにふみ切りました。武器は速球ですが、まだまだこれからいろいろと勉強しなくてはいけないと思います。
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別部捷夫

2015-03-25 07:13:51 | 日記
1962年

今秋はじめて四番打者に抜てきされ明大のAクラス進出に大きく貢献している。今秋の打率は明大に入学して最高のもので、42打数12安打、打率2割8分6厘(15位)シーズンはじめは辻の故障欠場があって、鳴門高での経験をかわれてマスクをかぶった。鳴門時代は大型捕手として注目されていたが、明大に進学してからは辻捕手がいたため、打力を生かして外野に転向、代打専門として二年生の春神宮にデビューした。待望のレギュラーを獲得したのは三年生の春のことだった。そのシーズンはクリン・アップ・トリオに名を連らね、明大を完全優勝にまで引っ張っていった。翌シーズンは33打数5安打、1割5分2厘(37位)と不振にあえいだが、開幕カードの対東大戦で長田投手から痛烈なホーマーを奪い、長距離打者の片りんを十分うかがわせた。レギュラーになって以来の通算打率は158打数33安打で2割1分1厘と少し物足りないが、持前の負けん気の強さで、チャンスにはしばしば好打をみせている。明大合宿では「キヨシ」の愛称で通用したが、これは顔形が喜劇俳優渥美清に似ているからだそうだ。趣味は散策

別部選手の話 プロに入るつもりはなかったが、六月の韓国遠征で7ホーマーを打ち自信がついた。オープン戦しかみたことがないのでプロの力はわからない。しかし徳武さん、杉本さん、丸山さんら先輩の活躍をみると自分も一度やってみたい気持ちにかられた。とにかく一生懸命やるだけです。

浜崎監督の話 打てない国鉄といわれるのでバッティングのいいのを集めているわけだ。来シーズンは研修制度ですぐ戦力になるとはいえないが、将来の国鉄の中心打者になってもらわねばならない。
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