プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

今井務

2014-12-28 20:16:24 | 日記
1962年

今井務…岡谷工、1㍍76、70㌔、左投げ左打ち。

・今井投手は左腕から投げおろす速球に威力がある。北海高の吉沢以上といわれるほどで、本格派としては将来性はじゅうぶん。今夏の県予選では帝京高戦で一試合3ホーマーを放つなど、大石同様打者としても働けそうだ。
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古井紘司

2014-12-28 18:56:20 | 日記
1962年

古井紘司投手…北陸銀行、新湊高卒、1㍍77、75㌔、右投げ右打ち

巨漢古井はテストを受けて入団した。一人ずば抜けて大きかったので、入団が決まったという逸話もある。

古井投手は新湊高時代に南海、阪急から誘われた好選手だが、自分の希望する大洋へ、テストを受けてはいったもの。バネのきいた本格派。
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大石勝彦

2014-12-28 18:51:00 | 日記
1962年

・大石投手は甲府商のエース。今夏の甲子園大会に出場したが(三回戦まで進出)ダイナミックなピッチングは高校球界でも定評があった。また、打者としても(大会では三番)すぐれた素質を持っている。大石二軍コーチの実弟。

大石投手の話 大洋は兄もいるので好きなチームだ。今後投手で進むか、打者に転向するかは、キャンプで監督さんに決めてもらうつもりだ。自分としては打者として一年でも長くプレーしたいと思う。

・甲府商を甲子園に出場させる原動力となった大石は、オーバーハンドの本格派。力まかせのピッチングは荒けずりだが、それだけに将来を楽しませる。いますぐ戦力になるという投手でスタートはあくまでも投手。しなやかなからだの持ち主だからその成長が注目される。
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高井保弘

2014-12-28 17:29:54 | 日記
1963年

阪急は二十五日午後二時から大阪梅田航空ビル内シルバーで岡野代表が立ち会い、高井保弘外野手(18)=今治西高ー名古屋日産モートル、1㍍78、80㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。高井選手は今春名古屋日産に入社、ことしの成績は30試合に出場し、打率は・310、ホームランは6本を記録、長距離打者として将来を期待されている。

高井選手の話 中日、近鉄からも交渉を受けましたが、もっとも阪急が熱心だったし、やりがいのあるチームだと思いました。やる以上は早く第一線に出たい。バッティングでは山内さん(大毎)を目標にしてやっていきたい。
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浜田総国

2014-12-28 17:24:42 | 日記
1963年

中日ドラゴンズはかねて入団が内定していた浜田総国捕手(熊本八代一高)の正式入団発表を九日、中日球場のプレスルームで行う。同選手は1㍍80、75㌔、の大型捕手でファイター型、俊足巧打の持ち主なので、足を生かしての野手へのコンバートも考えられている。

浜田選手の話 熊本は巨人川上監督の出身地ですが、僕はドラゴンズが一番好きなチームです。江藤さんのような選手になるよう一生懸命がんばります。
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堀井和人

2014-12-28 15:11:36 | 日記
1969年

堀井は元南海外野手、現スカウト堀井和男氏の長男。

堀井は法大三年からレギュラーとしてリーグ戦に出場。その年・410でベストテン5位にランクされた。今秋は調子を崩して振るわなかった。しかし百㍍11秒台の俊足と強肩は各球団スカウトから注目されていた。リストアップ後、プロ入りを迷っていたが、野村監督から「すべての力をぶつけてみろ」といわれたことと、四十二年南海からリストアップされたのを振り切りノンプロ入りした法大の先輩鶴岡泰氏(元南海監督鶴岡一人氏長男)からも「チャンスを逃がすな」とアドバイスを受けプロ入りを決意した。

堀井選手の話 南海は子供のころからのあこがれだった。一時迷って野村監督に相談したところプロで力を試せといわれたので暴れてみるつもりになった。
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門田博光

2014-12-28 14:55:54 | 日記
1969年

門田は四十一年クラレ岡山入社後、四年間主力打者として活躍。通算打率・350、本塁打15本の成績を残している。シェアな打者で昨年阪急にリストアップされたが「自信がない」とプロ入りを拒否した。今年は左腕投手に対する苦手意識を克服、クラレ岡山・奥田監督からも「これなら…」と折り紙をつけられ、南海入団に踏み切った。

門田選手の話 左投手にも自信ができたのでやっと踏み切れた。プロの力は具体的にわからないが第一線に出れるよう努力する。
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上垣内誠

2014-12-28 14:50:59 | 日記
1969年

上垣内誠外野手…182㌢、78㌔、右投げ右打ち

同選手は広島商から東洋大を経て河合楽器に入り、三年間強肩強打の外野手として活躍。今年春の選抜大会で最高殊勲選手、そして今季社会人野球のベストナインにも選ばれている。ノンプロ三年間の通算アベレージは・310、ホームラン20本、ベース1周13・8秒の俊足の持ち主。東洋大卒業のとき巨人にリストアップされている。
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高井諭

2014-12-28 12:56:59 | 日記
1967年

高井投手は中京商時代の三十八年夏の甲子園大会に出場。また同年の選抜出場校の対抗試合でも、岐阜東商相手にノーヒット・ノーランを達成している。名商大に進学後、アジア大会最終選考会に出場。オリンピックのエキシビジョン日米親善野球にも参加している昨年十一月、在学中に中日が誤ってドラフトにランク。これがもとで退学、日本コロムビアに就職した。同投手の親代わりの広瀬中京商OBは「シュートがすばらしい速球も威力があり、コントロールもまずまず。もちろん本格派の投手だ」と評価している。同投手の契約金は500万円、参加報酬120万円。(いずれも推定)

高井投手の話 早く第一線に出られるようにがんばる。
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簾内政雄

2014-12-28 12:52:20 | 日記
1967年

簾内投手は秋田・能代高校時代の三十八年には、夏の甲子園大会にエースとして出場、三十九年日紘日立に入社、今年春の選抜社会人東京大会では、4試合に完封勝利を飾り、優勝投手となり、最優秀選手賞を獲得した。決勝戦では日石・平松(現大洋)と投げ合い自ら本塁打を放つなど、ハデな働きをした。同球団では先のドラフトで中野についで二番目にランク小山スカウトが獲得に乗り出していた。荒削りながらノンプロ界でも快速球の持ち主で鳴らし、同スカウトは「巨人の嵯峨によく似ている」と推奨している。契約金は700万、参加報酬は144万円。

簾内投手の話 1試合でも多く投げたい。プロ野球はテレビで見ている程度で、やれるかどうか自信はないが、とにかくがんばります。阪神の村山投手のように向かっていく投手になりたい。
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平井誠一

2014-12-28 11:11:03 | 日記
1962年

小倉中学にはいったばかりのころグラブを買ってもらった。野球の盛んな小倉のこと、平井少年もほしいほしいと思っていたグラブを手にするとさっそく野球部に籍を置いた。だがチビの悲しさ、一二年生のころはボール拾いばかり、三年生になってやっと三塁のポジションを与えられたぐらいで、中学時代は普通の野球好きな少年と少しも変りなかった。小倉高校に進学すると野球から縁が切れた。野球部員としてやっていける自信がなかったからだ。そして二年生のとき、家庭のつごうで中退した。本格的に野球に取り組んだのはノンプロ西部ガスへ入社してからのことだ。三番で三塁手。中軸選手として大いに期待されたものだ。しかしこの西部ガスは軟式、それもスポンジ・ボールのチームだった。国体出場四回で昨年は準優勝、ことしは四位という輝かしい成績を残しているが、まさかの軟式の野球のチームからプロ野球選手が生まれるとはだれひとり考えなかった。近鉄の瓜生スカウトと西部ガスの米田監督は顔見知りだった。「オレのとこの平井っていうやつ、おもしろくなりそうだぜ」「フン、いっぺん見てやるか」そんなていどの知識で平井を見た瓜生スカウトは、一目でこいつはモノになりそうだと見抜いた。七月はじめごろ平井は瓜生スカウトに「プロ野球を見にいこう」と誘われた。なんの気なしにいわれるままについて行った先が大阪球場。瓜生スカウトは約束どおり南海ー近鉄戦を見せてくれたが、もう一つおまけがあった。それは試合前の練習に平井を参加させたことだ。別当監督、岩本、木塚コーチら蒼々たる顔ぶれの前で、このルーキーはあがりっぱなし。生まれてはじめて握った硬球を投げてみるとシュートしてダメ。岩本コーチのノックを受けたら打球のスピードに押されてクタクタ。なにがなにやらわからぬうちにテストが終わっていた。自分がまさかテストを受けさせられるとは思っていなかったので、たった一日の練習で「できるだけ早く出てきてくれよ」といわれたときはキツネにつつまれた気持ちになったそうだ。まさかという気持が先に立ち、軟式しか経験のない自分が、硬式の、それも最高の技術が要求されるプロの選手になれるとは思っていなかったのだ。それがたった一度のテストでOK。平井は半信半疑のうちに大阪をあとにした。「いまから考えてみるともうすっかり話ができていたようです」と平井が話していたが、帰郷すると身の回り品を持って香椎球場で行われていたウエスタンの試合に参加、そのままチームに合流して藤井寺の合宿へはいってしまった。八月一日のことである。
テスト生だから契約金なし、そのうえ月給四万五千円という最低クラスのプロ生活がはじまった。ノンプロ時代の給料は月額一万五千円。それからみるとずいぶんましだったが、それでもプロ選手としてはボーダー・ラインの給料だ。安物のローリングのグラブとバットを買い、食費の不足分に充当すると四万五千円の初任給はアッという間に消えた。プロ生活四カ月で背広一着こしらえたのが精いっぱい。別当監督から「プロだからもう少しいいグラブを買え」といわれながら、いまだにそれができないのもムリはない。しかし平井にとって好きな野球を思い切ってやれるだけでじゅうぶん楽しかった。毎日毎日がおもしろくてしようがありません」と野球一途に打ち込んだ。むろん苦しいことも多かった。慣れない硬式のボールに一日も早くなじもうと人知れず苦労した。軟式と硬式で違うのはまずスローイング。木塚コーチの指導をかみしめながら合宿へ帰ってから鏡に向かい、シャドー・プレーをくり返した。バットスイングは一日も休んだことがなかった。他の選手が寝静まっても藤井寺球場のスタンドの下に設けられた練習場でバッティング・マシンを相手にただひとり打撃練習を続けた。赤々と照らし出された練習場。黙々とバットを振る平井の姿ープロ野球のきびしさがヒシヒシと感じられた。1㍍79、75㌔、肩幅のがっちりした選手だ。それが入団一か月後にはゴソッと体重が減った。たまたま九州の友人が訪れたとき、やせた平井をみて驚いた。ファームで練習、レギュラーの練習手伝い、かけ持ちと不慣れが重なってエネルギーを消耗、さしもタフな平井も当初はついていけなかったようだ。だが四か月たったいま、ようやくプロの水に慣れてきた。「硬球にだいぶ慣れてきたが、まだまだです。第一、ゴムのボールとではスピードが違います」目標はという質問に「なんていったらいいかなあ」と二度も三度もくり返し、最後はテレてことばにならなかった。
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半田実

2014-12-28 09:48:23 | 日記
1968年

半田投手は関西高校球界では五指にはいる好投手といわれていた。すでに大阪高島屋に就職が内定していたが「どうせやるならプロで」と近鉄入団を早々に決めていた。

半田投手の話 プロ野球へはいれたという喜びでいっぱいです。一日も早く一軍入りしたい。
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岡田光雄

2014-12-28 09:45:32 | 日記
1968年

岡田投手は島根県邇摩(にま)高時代に超高校級の右腕と騒がれ四十一年春の選抜大会では真っ向から投げる快速球でスカウト連の注目を集めた。昨年は東京オリオンズが二位にリストアップしたが「プロでやるという自信がなかった」ことから今春ノンプロ松下電器に入社。夏の都市対抗では富士鉄広畑の補強選手に加わり、優秀投手賞を獲得した。

岡田投手の話 昨年、東京から誘われたが、ほんとのところ自信はなかった。一年間、ノンプロでやってみてやっとプロでやろうという決心がついた。金田さんのような寿命の長い投手になりたい。
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島崎基滋

2014-12-28 09:40:40 | 日記
1968年

阪急ブレーブスは、二十日午後三時から大阪・梅田の球団事務所でドラフト会議で六位に指名した大分商島崎基滋内野手(18)=1㍍75、72㌔、右投げ、右打ち=の入団を正式に発表した。同選手は、昨年の全国高校野球選手権大会に河原投手(西鉄)らと出場、準決勝まで進出、同年秋の国体でも準優勝している。当時は九番を打っていたが、三年になったことしは、終始四番を打ち、チームの中心となっていた。ベース一周14秒という俊足で高校三年間の通算打率が・480、本塁打10本、巧守巧打の内野手として将来が期待されている。

島崎選手の話 足の速い選手、たとえば巨人の柴田さん、高田さん、阪急の阪本さんなどを目標にがんばり一日も早く一軍にあがりたい。
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高木喬

2014-12-27 20:47:23 | 日記
1962年

近鉄バファローズは十二日午後三時から大阪市阿倍野の球団事務所で、永江代表、別当監督が立ち会い、法大高木喬選手(22)=1㍍80、77㌔、左投げ左打ち=の入団を発表した。同選手は高校時代三国ヶ丘高の投手として活躍したが、大学進学後シャープな打力を認められ、一年生のとき服部監督のすすめもあって一塁手に転向した。レギュラーとして出場したのはことしの春のリーグ戦だったが、期待どおり四番打者の責をはたし優勝に貢献した。また秋のリーグ戦では打率・352をマークしてベストテン4位に入るなど、そのすぐれた素質ははやくからプロ球界に認められていたもの。背番号は5。

高木選手の話 近鉄、南海、阪急から誘いがありましたが、終始誠意をもって交渉してくださった近鉄を選びました。とくに法大の先輩関根さんもおられるし、別当監督を大いに尊敬していたからです。プロ野球はテレビでみるくらいで、あまり知識はありません。しかしこの世界に入った以上一生懸命努力して、一日も早くレギュラーになることが第一目標です。

別当監督の話 高木君のプレーをみたのは四度ぐらいだ。どの程度やれるかといわれても困るが、彼のすぐれた素質からみても、けっこうやれると確信している。
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