伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年に続き2023年も目標達成!

2013-10-31 21:39:49 | 小説
 1989年大学卒業の与党政治家の息子大江波流と小説家志望の鷹西仁の友人2人が、大江は大蔵省に入省したが父親が急死して巨額の借金を残し窮地に陥って昵懇だった引退した与党の重鎮堀口保に相談に行き口論の上殺害してその金庫にあった金を原資にIT企業を興して成功し潤沢な資金を背景に政治家となって44歳にして官房長官となって総理大臣の椅子を伺うに至り、鷹西は新聞記者をしながら小説を書き次第に人気作家となっていくが最初の赴任地で出くわしながら転勤で取材が不十分だった堀口保殺害事件に後ろ髪を引かれ続けという社会人出世物語的ミステリー小説。
 最初の方で殺人事件の犯人が明かされているので(それでここでも最初にハッキリ書いてしまいましたが)ミステリーとしては刑事コロンボ的な、順風満帆のエリート大江がいかに挫折し追い詰められるかという興味で読むことになりますが、そこは詰めの甘さを感じ、すっきりしません。
 大江側には、妻敦子とのほのぼのとした柔らかい時間が描かれ、そこが読んでいてホッとする点になっているのですが、ただ敦子が登場することで気持ちが温かくなるという以上のストーリー上の役割がなく、中途半端さというか物足りなさを残します。
 鷹西には、新聞記者をしながら小説を書き、新人賞を取っても記者を辞めず、受賞作と別分野で文庫書き下ろしで人気を集め、最近になって新聞社を辞めたという作者の経歴をほぼ踏襲させた上で、小説家としてのぼやきを多々書き込んでいて、う~ん、小説家の愚痴を書きたい小説?といぶかしみます。まぁ、そういうところはそういうところなりに読みどころともいえますけどね。
 奥書で「学生運動で命を落とした高校生の死の真実を巡り『昭和』の罪を描いた『衆』は本書と対をなす作品」と書かれているので、「衆」に続いて読んでみたのですが、どう「対をなす」のか、私にはよくわかりませんでした。共通する登場人物は、「衆」の主人公といえる鹿野が政治学者としてテレビでコメントするところが1か所出てくるのと、小沢一郎とおぼしき「藤崎総理」が登場するくらい。大江は、経歴は明らかに違うんですが、若くして官房長官で(東日本大震災の時の官房長官ですし)クリーンが売りという設定は枝野幸男をイメージさせるともいえますので、左翼(枝野幸男や民主党が左翼とは思えませんけど、ネット右翼から見れば左翼)と人権派弁護士が嫌いで貶めたいという意思が感じられる点では「衆」と共通しているということかも。


堂場瞬一 集英社 2012年8月30日発行
「小説すばる」2011年4月号~2012年3月号連載
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2013-10-30 21:44:37 | 小説
 1968年6月17日に東京から約2時間の盆地にある中規模の都市麗山にある私立大学麗山大学で医学部の学費値上げ反対闘争で正門前でピケラインを張っていた学生と機動隊が衝突する中に紛れ込んでいた高校1年生が死亡し、闘争の退潮につながった「麗山事件」の真相を、麗山大学が新たに設けた地域政治研究所の所長に招聘されて2011年に麗山に戻った麗山大学出身の政治学者鹿野道夫が調査を始め、事件を忘れたかった人々の反感を買いながら調査を進めていくミステリ仕立ての全共闘批判小説。
 学園紛争当時、死んだ高校生が憧れていた闘争のリーダー実川誠と鹿野道夫を、実川は闘争当時から直情径行型で客観的状勢判断ができない人物と描いた上で仲間を粛正して長期間刑務所に入り出獄後はヤクザと麻薬取引を行い元の仲間の鹿野を恐喝するという非道で低劣な人物として描き出し、鹿野は転向してうまく立ち回り政治学者として名を上げたが独善的で傲慢で反省しない人物と描き出しています。
 最初は鹿野が語り手で始まりますが、1963年生まれ(1968年の事件当時5歳)の大学での鹿野の教え子だった元新聞記者の市会議員石川正に語り手が移って行き、後半はもっぱら石川の視点からの鹿野・実川批判に終始します。全共闘世代というか全共闘の活動家は傲慢で反省せず展望もなく破壊ばかりして何も創造しなかった、その後の世代にとっては迷惑千万と、要するにそれが言いたい小説なんだなと、思いました。既に現役を引退している現在も権力を持たないかつて反権力の側にいた人々を、これまでもずっと安全でいて今ますます安全な体制側・警察側の視点でこき下ろすような小説を書いて何がうれしいんだろ、この人は、と思ってしまいました。その全共闘活動家実川・鹿野コンビを批判する作者の化身といえる1963年生まれ元新聞記者という設定(作者はこの小説を書いてるときは現役の読売新聞記者だったそうな)の石川は、事件被害者の遺族という設定にして批判を正当化しています。この設定自体、そういう設定にしないと、こんな時期になって安全な場所から全共闘の元活動家批判をすることが恥ずかしいこと、そういう設定なら理屈抜きで批判が正当化されやすいという浅ましい意識が感じられます。
 人権派弁護士もお嫌いなようで、遺族が真相を解明したいと起こした裁判も弁護士の売名のために行われ遺族も批判的だったしただ傷ついたと描写しています。子どもが死んでその犯人もわからないという状態では遺族が事件の真相を知りたいと裁判を起こすことはよくありますし、その心情はよくわかります(私自身の経験で言えば、松本サリン事件でお子さんを亡くされた遺族の方からは、損害賠償そのものよりも事件の真相を少しでも解明したいということとオウム真理教を潰して欲しいという要請を受けました)。弁護士としての経験で言えば、そういう事件は多くの場合かなりの労力を注ぐことになり奉仕的な色彩が強いと思うのですが。元全共闘の活動家に対する視線と合わせ、この作品では、左翼や人権派に対する敵意・非難の感情が強く感じられます。
 率直に言って、そういう政治的なメッセージ性が表に出すぎて、作品としては今ひとつに思えました。例えば鹿野の元同級生の秋月祐子とか、さらりとしたキャラでその後の展開に私は少し期待しましたが、書き込まれないままにしょぼい脇役で投げ捨てられています。事件をめぐる思いも最初の方はいろいろな登場人物が出て来たのにその後フォローされずに、石川正だけに収斂しています。もう少し周囲の人物を書き込んで膨らませたら作品としての味わいが出たと思うんですが。


堂場瞬一 文藝春秋 2012年5月30日発行
「オール讀物」2011年7月号~12月号連載
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ニューレフト運動と市民社会 「六〇年代」の思想のゆくえ

2013-10-29 19:44:56 | 人文・社会科学系
 1960年代から1970年代初めにかけて青年を中心に広く支持を獲得した学生運動、ベトナム反戦運動、青年労働者運動が現代の私たちにどのような影響を及ぼしたか、逆に言えばヨーロッパでは反原発運動などを通じて既成政党の変革や緑の党の創設につながったニューレフト(新左翼)運動がなぜ日本では現在の政治に影響力を持ち得ていないのかを考察する本。
 日本における新左翼運動の特徴を、管理との闘いであるとともにベトナム戦争等の捉え方として自己の加害者性という視点を持ち、加害者である(加害者側にいて黙認してきた)自己の変革を必要としその自己の変革、自己の行動を通じて社会を変えていくという信念にあったと、著者は捉えています。沿革的には、60年安保の敗北後、「ふるさとへ民主主義を」をスローガンに帰郷して郷里で受け入れられなかった学生たちが自らの啓蒙的な姿勢、「上からの運動」を反省し「内からの運動」でなければならないという考えを培い、1960年代後半の学費値上げ闘争、ベトナム反戦をめぐる佐藤訪米阻止闘争(羽田事件)、エンタープライズ寄港阻止闘争(佐世保事件)を通じて、自己変革と直接行動という思想とスタイルが固まっていったと論じられています。これらの闘争を通じて、自己に忠実に正直に生きること、自己を変革することが問われ、とりわけ羽田事件での京大生山崎博昭の死を見て衝撃を受け己の命を賭けてまで打ち込めるものがあるのかという問いかけを自己に課して、直接行動に出ていった者が多数いたことが強調されています。
 他方において、直接行動はマスコミから批判され続け、佐世保闘争では市民の支持を得て(その際記者も警察の暴力を受けたこともあり)マスコミの批判も緩んだものの、その後の大学・街頭での直接行動は商店街の自警団の登場や警察側の「過激派」「暴力」キャンペーンとマスコミの批判で否定されていきますが、その際、新左翼活動家側が自分の生き方、自己の変革が最重要という捉え方であったために世論を味方につけようとか広報戦略という発想が希薄であったために警察側の広報戦略に簡単に負けてしまったことが指摘されています。そして、直接行動という自己解放の場を失っていった新左翼活動家は、自己の変革において内向きの自己反省・自己批判に比重が移り、しかも政策課題そのものよりも自己の変革を求めてきた結果その運動は常時かつ永続的なものとなってのしかかり、多くの者はその重圧に押しつぶされ運動への関わりを断念し挫折感にとりつかれて自己の経験に触れることさえためらわれる状態となって運動の経験が継承されなかったと、著者は論じています。
 こういった分析を元に著者は、1960年代から1970年代初めのニューレフト運動の遺産として、積極面では日本では草の根のボランティアの個人・小グループの自発的参加が多くニューレフト運動の自己変革という考えがその源泉となっていると考えられること、消極面では社会運動の政治への影響力が小さく、ヨーロッパでは広範に行われ支持されている施設の占拠や封鎖などの直接行動への嫌悪感が強いことを挙げています。後者については、自己変革を重視する思想が政治制度への影響力行使に結びつかずあるいはそれを嫌悪したり倫理観の強さが時として仲間に対して求めるハードルを上げて批判的になりがちで連帯を損ねるという新左翼の思想の特徴に起因する要素と、警察とマスコミにより直接行動を暴力と同視する風潮が広がったことが原因とされています。
 こうして見ると、自己の成長のために修行・修練を自ら課する仏教的な価値観・倫理観と警察の強さ、マスコミの警察寄りの姿勢といった点が、日本社会と1970年代の運動を特徴づけ運命づけていったように思えます。悲しいですけど、その事実を見つめつつそこから抜け出すためにどうするかを考えていく必要がありそうです。
 1976年生まれの全共闘が消え去った後に生まれた著者による分析は、全てが文献によるもので、私(1960年生まれ)ですらおぼろげな記憶を持つ安田講堂攻防戦やよど号ハイジャック、あさま山荘事件などへの記憶・経験のしがらみからの自由さを感じます。闘争を知らない世代が何を言うか、ではなく、経験として知らない故の視点を提供してくれたと読んでおくべきでしょう。


安藤丈将 世界思想社 2013年8月1日発行
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避難弱者 あの日、福島原発間近の老人ホームで何が起きたのか?

2013-10-28 23:46:12 | ノンフィクション
 福島原発事故のために避難を命じられたいくつかの老人ホームでの当日の避難の様子、避難開始後の受入と受け入れ側の態勢や事故の拡大との関係での再避難、避難後の介護、特に物資の不足と施設・器具の不備や職員の離脱・分散避難による利用者数に対する職員の不足などの厳しい条件下での介護とそれらの条件下での利用者(高齢者・病者)の死亡などについて、主として老人ホームの経営者・職員のインタビューを元にレポートした本。
 停電等によりテレビ・インターネット等の情報が届かなくなった被災地で、行政から突然避難勧告、次いで避難命令を受け、バスやヘリが来るといわれて待っていてもなかなか来なかったり、バス等の車両が来ても寝たきりの老人を乗せるには不適切だったり、すぐに戻れるという説明で着の身着のままで貴重品や資料類、特に老人介護に必要な利用者の個人情報等が記載された資料類も持ち出せず(後日は立入禁止となって取りに戻ることもできず)、行き先も事前にわからなかったり行ってみたら他の避難者でいっぱいで次の受け入れ先を探さなければならなかったり、受け入れ先では介護環境が劣悪で介護ができなかったり職員の労働が過酷になっていく様子、そういった条件の中で自分の家族の安否もわからない中、職員の一部は離脱して避難し、そのために残った職員の労働条件はますます過酷になり、しかも移動の負担や環境の変化(寒さ、ベッドや畳もなくコンクリートの床に毛布だけで寝かされる、通常の食事ができない老人に対し経管栄養剤が不足したり、そもそもふつうの食事さえ準備できないなど)のために老人が次々に命を落としていく様子が描写されています。
 読んでいて、何の落ち度もないのに、一方的に避難を強いられ、避難時の移動の負担や避難先の環境による負担で病状を悪化させたり避難前は元気だったのに衰弱したりして死んでいく老人たちや、厳しい条件の下で過酷な労働を強いられ自らの家族の安否もわからないという精神的負担といつまで続くか先の見えない避難と一所懸命に介護をしても自分の担当していた老人が死んでいくことの精神的な負担にさらされながら働き続けた職員、また家族のために避難を選択したがそのために職場離脱をしたことに負い目を感じ続ける職員らの姿に涙を禁じ得ませんでした。それぞれの場面では、直接目の前にいる人間に対して怒りの矛先が向いてしまいますので、無責任に場当たり的な対応を採る行政や、避難しないという選択をした老人ホームに興味本位の取材をかける記者や匿名の非難者たちに対して、怒りを感じますが、根本的には事故を起こした東京電力と事故対策を後回しにして原発を推進してきた行政と原発推進者たちに最大の責任があることを見誤ってはなりません。行政や報道は「震災関連死」などという言葉を使い続けていますが、この本で書かれているような避難自体の負担や避難先での環境の負担によって病状が悪化したり衰弱して死亡した老人たちは、原発事故による避難のために死亡したもので「避難死」とか「原発事故関連死」と呼ぶべきだと思います。「原発事故で死んだ人はいない」などと公言する恥知らずの原発推進者の非道ぶりを改めて実感するとともに、東京電力が犯した罪の深さ、それを恬として恥じずに被害者への賠償を値切り賠償請求に抵抗し福島原発事故の原因は想定外の津波などと嘘を言い続けあまつさえ放射能汚染水を垂れ流してその対策も費用をけちって満足に行わないまま柏崎刈羽原発の再稼働まで言い出すという傲慢な態度をとり続ける東京電力に対する怒りを、改めて感じさせられました。


相川祐里奈 東洋経済新報社 2013年8月29日発行
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目で見てわかる作業工具の使い方

2013-10-27 19:36:38 | 実用書・ビジネス書
 身の回りにある基本的な工具を中心に作業工具の使い方の基礎を説明した本。
 木ハンマは頭部の角で叩くものだそうですね(40ページ)。ハンマだから平らなところで叩けというのかと思っていました。
 マイナスドライバは先端部幅、先端分厚さ、軸の長さの組み合わせが決まっているとして表になっています(32~33ページ)。これによれば先端部幅が大きいほど軸の長さ(本体の長さ)が大きくなっています。そう決まっていた方が、ねじ(頭)の大きさとの関係でどのドライバを使うかわかりやすいとは思うのですが、実際にはそういう組み合わせでないドライバがあると思います。32ページの写真にも先端部幅が大きいけど軸の長さが短いドライバが写っていますし。
 ペンチで針金を曲げるとき、針金は横にくわえてはならず縦にくわえるように注意されています(48ページ)。たぶん、くわえ部の溝の切り方との関係で縦にくわえた方が針金がしっかりくわえられるということと思いますが、一応理由の説明があった方がいいと思いました。さまざまな工具で、使用時にハンマで叩くなという注意が繰り返されていますが、これもスパナ・レンチ系ではボルトが傷むため、ペンチ(46~47ページ)では工具の方が傷むためかと思います。多くの部分でひと言理由が示されているので、こういうところも一応書いてもらった方がいいと思いました。
 弓のこの刃の装着方向について、「押したときに切る方向」に取りつけると説明されている(87ページ)のですが、そこまでの弓のこの写真が全て右側にハンドル部がある写真なのに87ページの刃の説明が右側(右向き)が切る方向の写真が使われていて、このイメージだと「引いたときに切る方向」に取りつけてしまいそうです。88ページ以降の切る作業の写真では左側にハンドルがある写真に切り替わっているのですが、それなら最初の写真からハンドル部を左側にした写真で統一する方が親切だと思います。
 「抜く工具」では、あまり身近でない「プーラ」だけが紹介されていて釘抜きは紹介されていません。今どきは家庭でも釘なんて使わないんでしょうかね。ちょっと寂しく思いました。


愛恭輔 日刊工業新聞社 2013年8月30日発行
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東京バビロン

2013-10-26 19:46:43 | 小説
 超高ビーなトップモデル福山音菜が、同じ事務所に所属しナンバー2にのし上がってきた後輩モデルレイミの挑発に切れて、事務所の社長、ファッション雑誌編集長らに高圧的な態度でレイミの排除を求めて圧力をかけるが、上り調子のレイミの排除には皆消極的で、振り上げた拳を下ろせない音菜が売り言葉に買い言葉で感情的対応を続けて自分の立場を悪くして孤立し、周囲に嫌われて転落していく芸能界栄枯盛衰小説。
 音菜のあまりのジコチュウぶりというか専横ぶりは、遠く異朝をとぶらい近く本朝をうかがっておごれる者たけき者を数え上げてもなお心も言葉も及ばないほど(平家物語の平清盛みたい)で、音菜が置かれたシチュエーションは突き放して冷静に見れば哀れにも思えるのですが、その言動のあまりの尊大さ・傲慢さにまったく同情できず、読んでいて不快感が募ります。また転落した後の状況認識の現実からの乖離ぶりも、音菜の精神の異常を示していることはわかるのですが、それを延々とリピートし続けるのがあまりにくどくて、やはり読み味が悪いです。ふつうなら、ある程度音菜の転落と精神の失調を示唆したところで切り上げると思うのですが、ここまでくどく続け、突っ走るのはある意味で立派と言えるかもしれません。ラストシーンも唖然とさせてくれますし。
 振り上げた拳が下ろせなくて感情的な対応を続けてしまうということは、私自身少なからず経験していますので、そういう点では音菜の姿は身につまされます。闘うのが仕事でもあるのでそれが期待されている場面もありますが、それでも冷静な目でコントロールせねばと、改めて反省しました。そういう「人のふり見てわがふり直せ」小説かも。


新堂冬樹 幻冬舎 2013年5月25日発行
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リバース

2013-10-24 22:11:16 | 小説
 2016年、総選挙を控えた日本で、男性の出産を可能として出産の軛から逃れようとする極端なフェミニスト秘密結社「メデューサ」と、メデューサを目の敵とする超保守秘密結社「皇血倶楽部」が繰り広げる政争と連続殺人事件をテーマにした政治空想小説。
 「二〇一二年、民政党から再び政権の座を奪い返した新自党は、経済政策の要として大規模な規制緩和を行なったが、弱肉強食の強い市場原理が働いたことで、労働条件はより過酷になり、リストラが増え、大衆の暮らしはさらに厳しくなった。当然、格差は大きくなり」(15ページ)は、現状をよく表しています。が、続く「治安は悪化。一昨年度、昨年度と重要犯罪の認知件数には、著しい増加が見られた。」(同)はどうでしょう。日本人は格差が拡大してもそれで凶悪犯罪に走るという感じじゃないと思います。役人に生活保護の受給を妨害されてもおとなしく餓死して行ったりしますし。ましてや、政権を奪われて以降人材不足が叫ばれていた「民政党」が若くリベラルな女性国際政治学者が代表となって息を吹き返し「若年層や女性、中産階級以下、幅広い層からの圧倒的な支持を受けている」というのは、希望的観測の域を出ません(作者がそれを「希望」しているかは、またかなり疑問ですけど)。
 私の同僚の福島さんがモデルとみられる「中道左派思想の強い社守党」の森山可南子議員。同性婚を合法化するために憲法24条を改正し(婚姻は両性の合意…を「両人」の合意に改正など)男性が出産できるように無差別妊娠法案の成立をもくろんでいる(おまけにレズビアンとか)とされていますが、う~ん…フェミニスト嫌い/ネトウヨからはそういう目で見られているのかと驚きました。
 衆議院第二議員会館へ入る際、「一階の玄関ロビーにある受付へ行き、面会証に必要事項を記入した。それから、金属探知機によるボディチェックを受け、ようやく入館を許された。」(117~118ページ)とありますけど、議員会館は衆議院第一も衆議院第二も参議院もすべて金属探知機のゲートをくぐった後で面会票を書くシステムです。国会敷地内の衆議院事務局がある「衆議院第一別館」なら面会票が先でその後に金属探知機ですが。全体が荒唐無稽な小説ですからどうでもいいかもしれませんが、こういうところで取材を手抜きされると、きちんと構想した上での荒唐無稽ではなくただいい加減なのねと思えてしまいます。


中村啓 SDP 2013年7月3日発行
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図説世界史を変えた50の機械

2013-10-23 21:29:40 | 自然科学・工学系
 1801年以降に実用化・商品化された機械で世界史に大きな影響を与えたと著者が考える機械50点をリストアップして製品写真と図版をつけてその製造・製品化と構造・機能について解説した本。
 「世界史を変えた発明」ではなく「世界史を変えた機械」とされたタイトルにあるように、最初の発見・発明・アイディアよりも、商品化されて広く使用されたものを優先的に取り上げるという姿勢を打ち出していますが、先行した商品と後続でそれを打ち負かした商品のどちらを取り上げるかの選択は後半では先行して敗北した商品の方に寄っているきらいもあり、必ずしも一貫していないように見えます。そういう点も含め、取り上げている機械の選択には、著者の好みがかなり反映されている印象です。私が読んでいて受けた印象としては、イギリスとアメリカが競合する場面ではイギリス側に選択が偏っていたり、アメリカ製品でも設計者がアメリカ人でないものが選択されているような感じがしました。発明よりも商品化・世間へのアピールがうまかったと解されるエディソンは、この本の最初の方で見られるコンセプトでは取り上げられやすいようにも思えるのですが、1つも取り上げられていません。競合者としては4回も名前を挙げた上に、ヘンリー・フォードを紹介する際に「本書の読者にとってはもうおなじみの有名人、トマス・エディソン(1847-1931)のもとで働くことになる」(106ページ)などと必要性もないと思われるところで皮肉っぽく言及しています。著者がよほどエディソンが嫌いらしいということはよくわかります。
 説明にはその機械の写真かイラストがついていて、一部構造図もあり見やすいのですが、もう少し仕組みの説明としっかりした図面が欲しいなという欲求不満も残ります。本の紙面(特に四辺付近)を薄くセピア色付けし写真もモノクロ・セピア色系を多用してレトロな印象を与える作りになっています。そういうグラフィック面での志向を貫くならば、一部の機械の紹介で用いられている背景に薄く配した図面をもっと多用した方がいいと思いますが。
 記述には偏りを感じますが、工業製品や日用品に愛着を感じる人が流し見てノスタルジーに浸るにはいい本かなと思いました。


原題:Fifty Machines that changed the course of History
エリック・シャリーン 訳:柴田譲治
原書房 2013年9月30日発行 (原書は2012年)
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クモはなぜ糸をつくるのか? 糸と進化し続けた四億年

2013-10-22 19:56:30 | 自然科学・工学系
 クモの種類や進化と糸の使い方や巣の張り方について考察し説明する本。
 体重を支えられるほど強靱な糸を用いて、クモは餌を捕まえるための網を張ったり自らが隠れるための巣を作るほかにも、危険を察知すれば素早く空中に懸垂下降したり糸をたどって元のところに戻ったり、糸を風に流して放出して木の枝などに糸を張って移動したりさらには高いところで糸を空中に漂わせ風・上昇気流に乗ってふわりと飛ぶ(バルーニング)などすることができることが説明されています(77~83ページ)。こうして体重を支えられる強靱な糸や粘着質の糸などさまざまな糸が作れるようになったため、クモは空中を速く自由に移動する能力を得て活動能力が大幅に拡大し繁栄したとされます。
 人間の目には完成された美しさを持つ垂直円網(垂直な平面上の円形のクモの巣)は、制作効率がよいが、クモ自身が隠れ逃げる場所がなくクモの捕食者に狙われやすいという欠点があり、水平円網や漏斗状の網の方がクモに隠れ場所ができる、投げ縄や地上に届く垂糸を張った立体網の方が狩りの効率がいいとして選択するクモもいる(199~214ページ)など、進化の道は一直線ではなくまた人間の感覚とは異なることがあることが説明されていて、なるほどと思います。
 企業が莫大な金をかけて研究してきたクモの糸の正体と工業生産方法についてはまだ充分にはわかっておらず(はじめになど)、クモがなぜ自分の網にくっつかないのかという一般人が強く興味を持つことがらもまだよくわかっていないとか(143ページ)。
 そういう一般読者が一番興味がありそうなところはよくわからないで終わっていることもあり、クモとクモの糸についての解説書というよりは、クモを題材にして進化論を説明した本という捉え方をして読んだ方がいいかもしれません。進化論と聞いてイメージしがちな、進化はまっすぐに進むとか最も環境に適応できた者が生き残るという考えは誤りで、多様な種類の者が同時並行で生き残り最も適応できた者だけでなくほどほどに適応できた者は生き残るというようなことが度々説明されています。ゲノムに不安定な断片があり卵や精子を作るときに複製の間違いを起こしやすい生物ほど遺伝子変異を起こす頻度が高く「進化しやすい」、クモはそういう進化しやすい生物なのだそうです(216~217ページ)。
 もっぱらクモの進化と糸・網(巣)に絞っているのでクモの生態全般の博学的な記述を期待すると肩すかしになりますが、クモという存在に新たな興味を抱かせてくれる本です。


原題:Spider Silk
レスリー・ブルネッタ、キャサリン・L・クレイグ 監修:宮下直、訳:三井恵津子
丸善 2013年6月30日発行 (原書は2010年)
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B級恋愛グルメのすすめ

2013-10-21 21:23:02 | エッセイ
 恋愛小説家の著者によるラーメン等のB級グルメと私生活上の経験としての恋愛を素材にした連載エッセイ。
 初回がラーメン、2回目が日本酒なので、食のエッセイかと思いながら読んだのですが、次第に恋愛の話(といってもうまく行かない方の結果的には色気のない話が多い)に比重が移り、終盤はバツイチだった(知りませんでした…)著者が元夫とよりを戻して再婚する話で締められて、結局のろけ話かと思ってしまいます。もちろん連載開始時点ではそういうことは思いもよらなかったのでしょうけど。
 どちらかというとちょっと重い深刻系で少し切ない恋愛小説家というイメージの著者が、色気より食い気方向やうまく行かないというかそもそも深くならない恋愛(未満)エピソードばかり書いているのを読むと、だいぶイメージ変わるかなと思います。まぁ、現実がどうだとしても小説と同じような恋愛をしてるとかそれよりもっとヘビーなとか爛れた私生活を送ってると書いたら社会人としてはまずいから書けない、そういう経験をしたらそれはエッセイじゃなくて小説に書くということかもしれませんけどね。


島本理生 角川書店 2013年1月31日発行
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