マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

礼拝

2006-04-30 23:02:04 | 教会の風景
今日の午前中は、東京教会にて合同礼拝だった。第五週は毎回東京教会で合同礼拝となっている。9:30からなので、9:20にひばりヶ丘駅の改札でT君と待ち合わせた。

落ち着く雰囲気の中、賛美と説教。そして聖餐式。神様の恵みを心に覚えた。また、復活について、死後に関することについて聖書がどのように言っているのかを学んだ。しばらく前から、キリスト教の福音派の中に『死者のゆえのバプテスマ』『セカンドチャンス』という教えが起こっている。それらの教えの聖書的根拠が希薄であることを確認した。私自身はすでに耳にしたことがある教えだったし、その裏付けとなる聖書の解釈に疑問を持っていたので、語られた説明でさらに再確認ということであった。それにしても、せっかくの福音を歪めるような教えは残念に思う。

お昼は教会の食堂でおいしいカレーライスを頂いた。

午後は役員会をした。名誉牧師となられたH先生の今後のことや教会の運営上の具体的な話合いをした。きちんと整理すべきことがたくさんあることが改めてわかった。私達夫婦は何もできないが、それを埋め合わせて余りあるほど、それぞれ担当してくださる役員の方々の豊富な知識と行動力がある。その点において、イエス様という方は何もかもよくご存じでいらっしゃるとつくづく思う。

その後そのまま東京教会にいた。夕方のYouth for Jesusの時間まで一休み。

今日も十数人集まった。T君も参加した。わざわざ綾瀬からRさんも来てくれた。今日で二回目である。今日の集会では磐梯リトリートで歌う賛美の練習もした。何曲か賛美して、ショートメッセージ。「神は『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。…』と仰せられた。」(創世記1:26)から神様が私たちを体と魂と霊とからなる存在として造られたことを話した。最初の人が罪を犯した時点で、すべての人の霊の部分は死んでしまった。それゆえ神様との豊かな交わりができなくなった。

その霊が回復するために(聖書で一般的に使われる表現では「救われる」ために)、神のひとり子イエス様が十字架についてくださった。私たちはただそれを信じればいいのである。

集会後はゲーム、今日はウノアタックを2つのテーブルに別れて楽しむ。途中、I君が遅れて来た。彼の友人A君もいっしょだ。I君は今日も派手に登場した。階段からズッコケテ倒れ込むようにして現れた。彼らも加わり楽しんだ。いまいち結果は振るわなかったが、楽しかった。

その後、今日初めて教会に来た別のI君から個別の相談を受けた。しばらく話し込んだ。もう一度福音を簡潔に伝えた。彼は非常に真剣に求めている。教会に来る前にすでに個人的に聖書を読んでいた。そして「自分の中に信じたいという心が芽生えている」と言っていた。祈りながら今後を静かに見守りたい。一人でもこのように生き方を変える人が現れたことは何よりうれしい。本当に主の働きである。


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アメリカに行きたいT君

2006-04-29 20:13:11 | お客さん
今日11時に東村山駅でT君と待ち合わせた。
彼は今朝豊橋を出てきたそう。
幼なじみのO君を連れて来た。O君は東京住まいはもう数年になるとのこと。
今回、T君はそのO君のところに訪ねてきている。

まず、教会へ向かった。
西口より歩いて数分。
とりあえず教会内を見てもらった。しばらく立ち話。
妻が到着。
4人でランチへ出かける。
親しい友人とは言え、お客さんである以上、味にハズレがあってはいけない。
ただ駅近辺の店はまだ入ったことがない。
ちょっと冒険だった。
駅東口の方へ行き、店を探した。結局、和風ビストロ 磯久亭 という店に入る。
刺身御膳や寿司御膳、天婦羅うどん御膳などそれぞれ頼んだ。
当たりだった。ゆっくり話しながら楽しいひと時を過ごした。

T君はしきりにアメリカに行きたいという話をしていた。
そして、O君をしつこく誘っていた。O君は困っていたが・・・。
誰かいいパートナーが見つかるといいけれど・・・。
T君の中では、年末に行く構想がかなり具体的になっているらしい。
ただ一人で行くのは嫌みたい。
それでO君を誘っているそう。O君は渋っているが。
今後の行く末を見守りたい・・・。
果たしてT君はO君の心を変えられるだろうか?




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どこに行こうか・・・

2006-04-28 20:06:40 | ちょっと息抜き
今日は昼過ぎに床屋にいった。
こちらに来て初めてなので、家のすぐ近くにもあるけれど、どこにしようかと迷っていた。

ちなみに、今までここ数年は妻の母(元 本職の美容師・現 豊橋教会のカリスマ美容師)に切ってもらっていた。

とりあえず、東村山駅周辺にフラッと歩いていった。イトーヨーカドーの側に安い床屋があるのは知っていたので行ってみたが、二人待っていた。ふつうに店の前を通り過ぎた。何となく時間がかかりそうだったから。

そこで別の床屋の看板が目に入り、数分ほど歩いてそちらに行った。ちょうどお客が入っていない、こぎれいな床屋を見つけた。毛受(めんじょう)理容。すぐに切ってもらえた。ご主人と息子さんの二代でやっているそう。ちなみに、ご主人は愛知県蒲郡市の出身とのこと。話を聞いて「へー」と驚いた。

息子さんが担当してくれた。たぶん自分とそんなに変わらない年齢だと思う。
最初、椅子に座るなり、髪質の話になった。
快活そうな店主の奥さん(?)も現れて、ニコニコしながら「すごいって言われなかった?すこしクセ毛も入ってるのかな?」なんて言って奥に入っていった。
確かに、髪もだいぶ伸びていたからなー。髪質が硬い分髪が広がるから、頭が余計に大きく見えるし。でも、息子さんは「何もつけなくて、自然に髪が上がるっていいですね。」とフォローが入った。「えー、確かに手がかからなくていいですよ。昔はサラサラの髪もいいなーと思ったこともありましたけど・・・。」と私。面倒くさがりな自分にはぴったりかも。

気軽にいろんな話ができて良かった。地元ならでは話も聞けた。
店内もきれいにされていて、居心地は良かった。マッサージも上手だった。
サッパリした。帰り際に、わざわざ東村山の観光マップまでくれた。
次回もここに来てもいいかなと思った。

連休は久しぶりに豊橋のみなさんにも会うことになるが、
サッパリした状態でお目にかかれる。

その後、教会に向かう。
教会では、旧約聖書通論の宿題にもなっている、出エジプト記を読んだ。
「十戒」「プリンス オブ エジプト」など映画の元になった聖書の記録である。
主なる神様が、「私は口下手なので、他の人にしてください。」と再三ためらうモーセを使って、イスラエル民族をエジプトの奴隷から解放する場面で励まされた。
そんな弱気なモーセが、200万以上のイスラエル人を率いてエジプト脱出を成功させたという歴史的事実。それは、彼自身というより彼を選んで使った力強い神様の存在のゆえである。同じ神様を信じていることを深く心に留める。
もちろん自分はそんな大きな仕事ができるような人間ではないけれど、
少なくとも自分が託された仕事は、この神様にあって成し遂げられると信じている。ときには弱気になるときもあるけれど、それでも主なる神様がいる以上、必ずそれはできると言える。神様を信じることができるって言うのは本当にありがたいことだ。

後半は真面目な話になったけれど、心も外見もスッキリして連休を迎えられる。
感謝。

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部屋にこもる

2006-04-27 21:59:22 | 神学校・講座
昼前に教会へ。
月報のメッセージを準備したりして過ぎた。
午後から牧師室にこもった。
連休を前にして神学校の宿題の追い込み。

マタイの福音書のアウトラインがまだ完成していない。
なかなか進まない・・・。
意外に大変な作業であることに気付いた。
今まで註解書や聖書辞典などでアウトラインは目にしていたが、
あらためて自分でやるとなるとなかなか難しい。
内容を表す的確な見出しを考えるのも悩むところ。
あと三分の一くらいが残っている。

幸い、今日の午後も静かな時間を過ごした。
教会の役員Kさんから一つの用件でメールがきて応対した程度。
あと、妻から2回ほど教会の用事で電話があったくらい。
比較的集中できて良かった。
さあ、もう少しがんばろう。





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連休前の講義

2006-04-27 01:14:48 | 神学校・講座
連休前の講義が済んだ。今日の旧約通論と教会史の小テストも無事済んだ。

教会史は、初代教会の宣教の広がりの背景を学んだ。キリスト教がエルサレムに始まり、サマリヤ、地中海沿岸に広がっていく要因について考えさせられた。

教会内の過ちが戒められること(使徒5章)や迫害(同8章)という一見教会にはマイナスと思われることも福音宣教の広がりにも結果として役割を果たした。

また、ユダヤ人だけの教会からユダヤ人以外の民族も含む教会へと変化していく過程を学んだ。本来ユダヤ人の間には選民意識が非常に強かった。彼らにとっては異邦人が救われることは考えがたいことだった。だから、サマリヤ人が救われたという報告が伝えられたとき、エルサレムの教会はペテロとヨハネという指導的立場にある人物を派遣した。しかも聖書を見ると、二人が行くまで、サマリヤ人信者に聖霊の賜物が与えられるのは控えられていた。ユダヤ人ばかりの教会にサマリヤ人が迎え入れられるためには、当時の教会指導者二人が現場に居合わせることが望ましいとの説明。また、ローマ軍の百人隊長コルネリオ一家が救われた記事でもペテロといっしょに6人のユダヤ人クリスチャンが同行していた。その6人も目の前で異邦人が聖霊体験をするのに驚いた。彼らがエルサレムに戻ったとき、案の定ペテロはユダヤ人クリスチャンから非難を受ける。しかし、コルネリオをはじめとする異邦人に聖霊の賜物が与えられたという証言は、反対者が黙るのに決定的な決め手となる。

こうして、福音がユダヤ人から始まり、異邦人世界へ段階的に広がっていく。しかし、残念なことにやがて逆転現象が生じる。つまり教会には異邦人ばかりが集まるようになり、ユダヤ人としてのアイデンティティを捨てられないユダヤ人信者は追いやられていくのである。長い歴史の中でユダヤ人は教会から冷遇される。

しかし、20世紀末、イスラエルにメシアニックジュウと呼ばれる人々が起こされる。イエスが救い主だと信じるユダヤ人たちだ。彼らは自分達のユダヤ人としてのアイデンティティを保ちながら、三位一体の神を信じる。

それを受けて、第2回エルサレム会議を開こうという動きがキリスト教界にあるそう。かつて約2000年前のエルサレムで、異邦人が救われるのにユダヤ人の律法に従う必要がないことが確認された。救いは、ただイエスを信じる信仰による。今度は、ユダヤ人がそのままのスタイルでイエスを救い主として信じれば良い、と教会が宣言しようということだ。これも今までの教会の歴史からすると画期的な転換だといえる。


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