マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

階段

2016-06-27 20:56:51 | 教会の風景
現在、私たちの教会は、ビルの4階で集っています。




毎週、この階段を上り下りしているみなさんの思いは...


リハビリ?

運動不足解消?

修行?


...それはともかく、心から主を仰いで礼拝をささげられることは幸いです。
再出発をして半年を迎えようとしています。



ためてしまっている、説教要旨の続きを掲載しておきます。

2016年2月の礼拝説教 旧約講解 ヨシュア記5章

 「ギルガル」という地は、イスラエルの民にとって重要な意義を持つ。ヨルダン川を渡った民が宿営した(4:19)地であり、ヨルダン川の川底の十二の石を立てた(4:20)記念の地である。その上、無割礼だった新たな世代に割礼を施し、かつての不信仰ゆえのそしりが取り除かれた(5:8,9)という地でもある。その後、ギルガルに宿営している間に、過越の祭の時期を迎えた民は、エリコの草原で過越のいけにえをささげた(5:10)。このギルガルにて、民は主の救いの御業を『記念し、礼拝すること』のために時間をとった。主はご自身の民を救い、きよめ、礼拝の民として整えておられた。この過越の祭を境に、カナンの地の産物を食したことで、マナが降るのも止んだ(5:12)。主は、今後、マナでなく約束の地の豊かな産物で民を養う。神は私たちを礼拝者へと整えつつ、養い守る方である。
 「死角」を、辞書で調べると、「ある角度からはどうしても見えない範囲」とか「身近にありながら、気がつかない事柄」とされている。私たちの信仰生活にも死角と言えるようなものがあるのではないだろうか。ヨシュアはエリコ攻略のため、あらかじめ偵察を送っていた(2:1)。エリコ攻略の時を迎えようかという時、ヨシュアはエリコの近くで不思議な人物に会い、「私たちの味方か敵か」と問う(5:13)。彼は主の軍の将として来たことを告げた(5:14)。ヨシュアは、すぐに自分の質問が見当違いだったことに気付いたようだ。ひれ伏して、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか」と返した。その将は、「『あなたの立っている場所』は聖なるところである」と告げた。エリコ攻略が主の戦いであることはヨシュアも承知していたはずだが、主は改めて鮮やかにその臨在と主権とをヨシュアにお示しになられた。今も生きて働いておられる主への信頼を新たにしよう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成長ぶり

2016-06-21 21:38:28 | ちょっと息抜き
一カ月余り前に、ワイルドストロベリーの記事を書きました。


その頃はまだこんな感じでしたが...







今はここまで大きくなりました。
蕾もつき始めました。





この回復、成長ぶりはすごい...と感心。




そうそう、二枚目の写真の窓枠の外に、ほのかに光が写っているのは、図書館です。
この時間も、まだ勉強に勤しんでいる神学生がいます。


さて、私も課題の続きに取りかかるとしましょう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

願いを新たに

2016-06-15 23:21:28 | 神学校・講座
神学校の中庭の紫陽花がきれいに咲いています。





今日のチャペルは、K先生の説教でした。
使徒の働き8章の伝道者ピリポの記事から、『散らされて、遣わされて』と題して語られました。

試練に見舞われている時も、順調な時も、すべてが神の主権の下にあります。
導いてくださる主に信頼し、期待して、折々に語るべきことばを授かり、宣教の使命に生き続けたいと願いを新たにしました。

実は、この使徒の働き8章のピリポは、聖書の中で私の好きな人物のひとりです。
まだ20代だった頃に、この箇所から献身のあり方を考えさせられて以来、折々に思い起こしてきたところです。


この学び舎での学びと奉仕の日々が続きます。
今日の一日の感謝とともに記録しておきます。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016-06-02 18:35:49 | 教会の風景
定例の祈祷会で新約聖書を1章ずつ読み進めています。
昨日は、ヨハネの手紙 第一 5章でした。


私はこの一節から参加者の方々に分かち合いました。
(新改訳 5:20)
「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」

「理解力」と訳されていることば(Gk:διάνοια/ディアノイア)は新約聖書中12回使われていますが、「理解力」と訳されているのはこの箇所だけです。
他には、「知性」、「心」、「思い」と訳されています。
辞書(BDAG)を調べてみますと、上記の箇所は「the faculty of thinking, comprehending, and reasoning, understanding, intelligence, mind」という意味の用例に分類されています。

聖書に基づいて神を知るということは、人間の知的な営みでありつつ、御子イエスが「理解力」を与えてくださって可能となることだと分かります。
与えられたこの「心」をふさわしく用いることができますように。


昨晩も、集まった方々と聖書から教えられたことを分かち合い、祈りをささげる幸いなひと時を過ごしました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする