「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「吟松寺」(ぎんしょうじ)

2007年11月28日 21時13分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 宮本武蔵や沢庵和尚も親交があった本阿弥光悦の工房があった鷹ケ峯には、紅葉で名高い光悦寺が世に知られているが、そこからほど近いところに、紅葉と紫陽花がみごとな山寺がある。秋、光悦寺の門前を左手に見遣って旅館・然林房のところを過ぎた、小いさな峠の一帯から紅の林に包まれるこの寺は、地元で知る人ぞ知るという隠れ寺で、特に紅葉は京都随一と言っても過言ではない。境内は無料で自由に散策することができる。

 丁度、鷹が峯の光悦寺の崖下あたりに位置する。光悦寺の混雑は紅葉見物どころではないが、この門前をもう少し峠を上がっていくといきなり急坂の下りに出る。そこを降りて左にいけばすぐ。観光寺ではないため、住職さんも普段は居ないとのことで、取材することができなかった。
 だが、このガイドを「京都歴史案内」で紹介すると、今年の秋はきっと大勢の人が訪れるであろうから、これまでのように、閑静な隠れ寺での紅葉狩りとは行かなくなりそうだ。以前、嵯峨野の直指庵を紹介したことがあったが、その後、静かな竹林が物騒がしくなり、愛宕山を借景にした嵯峨野の田園のあぜ道にも人の列が見られるようになった。

 私が愛した静かな「吟松寺」も、これを機に観光化していくのだろうか。

 所在地:京都市北区鷹峯千束町32
 交通:阪急大宮駅より市バス6号系統、または地下鉄烏丸線北大路駅より市バス北1号系統で鷹峯源光庵下車徒歩10分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「妙顕寺」(みょうけんじ)

2007年11月21日 00時06分23秒 | 古都逍遥「京都篇」
 妙顕寺という名のお寺は全国各地でみることができるが、この名は日蓮宗寺院の代表的な名前である。
 京都「妙顕寺」は、元亨元年(1321年)に日像(1269-1342)が後醍醐天皇より寺領を下賜され、元享元年(1321)京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路(上京区)に具足山妙顕寺を建立した。当時、妙覚寺、立本寺と並んで永く帝都広布の中心地としての役割りを果たし、三山を称して「三具足山」と言われた。
 
 この時代、新興宗派であった日蓮宗の布教には様々な迫害を受けたが、建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を得て勅願寺となる。2世妙実の時、暦応4(1341)に四条櫛笥(中京区)に移転。さらに明徳4年(1393)には三条坊門堀川(中京区)に移転し妙本寺と改称するが、永正16年(1519)には元の寺名に戻っている。

 日蓮宗の洛中21本山の中心として栄えるが、天文5年(1536)に天文法華の乱で焼失し、堺に避難している。帰洛を許されるのは天文11年(1542)で、二条西洞院に再建した。天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転したものの、天明8年(1788)には天明の大火により焼失し、その後再建された。現在は本圀寺と並んで京都の2大本山となった。

 本堂は「龍華年表」によると天保元年(1830)9月15日に上棟している。瓦銘に天保10年とあり、この頃に完成したものと言われている。この堂は日蓮宗本堂の伝統的な平面形式を守っており、外廻りの立面構成も旧守的であるが、内部の空間はきわめて平明で、近世的なといえるものを創出している。

 三菩薩堂は祖師堂に当るが、日蓮、日朗、日像の三祖を合祀していることから三菩薩堂と称した。三菩薩の由来は、2世大覚上人が、延文3年(1358)雨乞いの霊験をあらわし、それにより日蓮に大菩薩、開山日像とその師日朗に菩薩号の勅賜をうけたことによる。天明大災直後に仮本堂として再建され、寛政2年(1790)には法儀がここで営まれている。
 鐘楼は天明大災の焼失後に再建されたもので、大門の東隅に在ったのであるが、昭和40年に五重塔があった現在地に移築された。鐘は正徳3年の鋳造である。
 壽福院塔は客殿とその南正面にある勅使門、及び、その右手に聳える11層の大石塔である。この塔は加賀藩主、前田利家の室、壽福院日栄(徳川家康側室のお万方と並び称せられる法華外護の大信者)の壽塔であって、当山への丹精を記念して寛永5年に建立、堂々とした石造物である。
 勅使門は天皇、天皇の許可を得た勅使しか出入りが出来ない門で、戦前までは客殿の正面右手奥に天皇専用の玉座の間があったという。

 では庭を紹介しておこう。

 庭園は、客殿の前庭は龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)、書院の前庭は光琳曲水の庭と謂われているが、天明の大火の焼失後は原形を失う程であった上、古図も元の姿を伝えていないとのことだが、坪庭の孟宗竹林は見事なもので心打たれる。
 門前にある2本の枝垂れ桜、参道の両脇に並ぶ約10本の染井吉野など、枝ぶりが立派な大木が多く、桜の美しさは周辺でも随一だ。

 当寺の東隣の塔頭泉妙院には尾形光琳の墓があるので、あわせて拝観するとよいだろう。光琳(1659~1716)は中立売智恵光院付近の呉服商雁金屋の子として生まれ、本阿弥光悦や俵屋宗達の画風を学び、琳派を作り上げた。「長江軒青々光琳墓」と彫られた墓石は、100回忌の文政2年(1819)に酒井抱一が建てたもので、近年、寺内の総墓地から移された乾山ら光琳一族の墓石と並んでいる。

 所在地:京都市上京区妙顕寺前町514。
 交通:京都駅より市バス9系統西賀茂車庫行、堀川寺ノ内で下車、寺之内通を東へ、徒歩5分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西明寺」(さいみょうじ)

2007年11月15日 00時19分34秒 | 古都逍遥「京都篇」
 高尾山仁護寺、栂尾山高山寺とともに三尾の古刹のひとつとして知られる槇尾(まきのお)西明寺は、真言宗の寺。
 周山街道から清滝川の方へ坂道を下り、料理屋さんを越えたところに西明寺へ続く朱色の指月橋が見える。橋の手前に大きな「栂尾山聖天堂」の石標がある。拝観料(400円)を払って参道の石段を登ると、新緑の楓に覆われた山門が迎えてくれる。

 西明寺は、天長年間(824~34)に空海の弟子・智泉大徳(ちせんだいとく)が神護寺の別院として創建したのが始まり。その後、荒廃、中興を繰り返して正応3年(1290)に 後宇多(ごうだ)上皇から西明寺の寺号を賜り神護寺から独立した。
 その後、永禄年間(1558~70)に兵火にみまわれて焼失したが、慶長7年1602)に明忍法師により再興されている。

 現在の本堂は、元禄13年(1700)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の寄進により再建された。表門は一間幅の薬医門で、本堂と共に造られた。
 唐様須弥壇上の本尊木造釈迦如来立像(重要文化財)は運慶が彫った清凉寺式の立像(像高約52㌢)といわれ、本堂に千手観音(重文・藤原時代)、愛染明王とともに安置されている。

 本尊の前に座って、時を止めてしまったかのような静寂の中に身をゆだね瞑想にふけると、深い森のどこからかさえずる鳥の声が、清涼感となって伝わってくる。なんとも美しい時間を過ごしている。

 見所は、清滝川のせせらぎと共に、春の桜や三つ葉つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と四季を通じて自然を楽しめる静かな山寺である。

 所在地:京都市右京区梅ヶ畑槙尾町1。
 交通:市バス8系統「高雄」下車徒歩15分、JRバス「槙ノ尾」下車徒歩3分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「玉鳳院」(ぎょくほういん)

2007年11月08日 08時11分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 花園上皇がこの地に営んだ花園離宮を改めて禅院とし、関山慧玄(かんざんえげん・無相大師)を開山として妙心寺を創建、その後、上皇は参禅のため伽藍の傍らに一院を建て、これを「玉鳳院」と称した。玉鳳院は妙心寺の塔頭の一つというよりは開祖慧玄の開山堂といえよう。

 後にこの禅宮は慧玄に付与され、正平15年(1360)に慧玄が入寂したとき、禅宮の傍らに桁行三間、梁間四間、一重入母屋造本瓦葺の開山堂(微笑庵=みしょうあん・重要文化財)が建てられた。
 開山堂の東北隅には、武田信玄・勝頼の石塔や織田信長・信忠の石塔などが並んでいる。また、枯山水庭園の奥には、豊臣秀吉の第一子・鶴松の霊屋(祥雲院殿)もある。

 建造物は明暦2年(1656)に改建されたもので、方丈の内部は狩野安信による襖絵、狩野探幽の甥・益信の作の秋草図がある。法堂(はっとう)では狩野探幽による天井画「雲龍図」や国宝「黄鐘調(おうじきちょう)の鐘」などが拝観できる。また「花頭窓」(かとうまど)も時代の変遷を偲ぶことができ、花頭窓の特長的なのが、室町時代のものは、肩が怒り、高さのある形で下部の裾はあまり開いておらず、江戸時代になると、肩は撫で肩になり裾は開きぎみになっている。「繧繝縁」(うんげんぺり)、「大瓶束」(たいへいづか)、「海老虹梁」(えびこうりょう)などと称される建築法の語源をうかがう勉強にもなり、実際にその形容を見ることができる妙心寺最古の塔頭である。

 ちなみに古刹禅寺「雲龍図」画が有名な寺院を紹介しておこう。
◇妙心寺「雲龍図」(狩野探幽筆)(重文)
◇南禅寺「雲龍図」(今尾景年筆)
◇東福寺「雲龍図」(堂本印象筆)
◇天龍寺「雲龍図」(加山又造筆)
◇相国寺「蟠龍図」(狩野光信筆)
◇大徳寺「蟠龍図」(狩野探幽筆)
◇建仁寺「雲龍図」(襖絵、方丈)  

 庭園(史跡名勝)は、渡り廊下をへだて禅宮と開山堂の周囲に趣き深い蓬来式枯山水庭園が配されているが作庭者は不明。作庭時期は建物が改築された頃と推測されている。
 南側の前庭は、白砂と白色切石の延段を基調とした構成で、植栽は黒松と五葉松だけのシンプルな庭園。平面的な白砂敷きに幾何学的な砂紋のデザインで、むしろそれが凛とした緊張感をかもし出している。
 北側は青苔を基調として飛石、石組、刈込みが配され、庭園内の主要な位置に「風水泉」と呼ばれる井戸が配されるという珍しい構成である。渡り廊下を挟んで、趣きを異にする庭園が対峙し、国の史跡・名勝に指定されている。
 後小松天皇が御所より移築したとされる平唐門があり、門には応仁の乱のときに受けた弓矢の跡がくっきり残っている。
 通常は一般公開しておらず、京の冬の旅で特別公開され、拝観料600円。公開時期は概ね1月中旬頃から3月中旬まで。

 所在地:京都市右京区花園妙心寺町60。
 交通:市バス10・26番で妙心寺北門前下車すぐ、市バス51番、京都バスで妙心寺前下車、JR山陰本線花園駅下車、京福電鉄妙心寺駅下車。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「龍泉庵」(りょうせんあん)

2007年11月01日 16時54分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
 龍泉庵は、臨済宗妙心寺四派(龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤)の、塔頭寺院である龍泉派の本庵である。文明13年(1481)に景川宗隆(けいせんそうりゅう)禅師が師匠である雪江宗深(せっこうそうしん)禅師から敷地を賜って、室町幕府の管領家である細川家の庇護を受けて創建された。妙心寺山内の塔頭寺院の方丈としては最大級の規模を誇っている。

 方丈の襖絵は平成11年の開祖500年の法要に合わせて、日本画家の由里本出氏によって描かれ、また、桃山絵画の巨峰、狩野永徳と並ぶ日本最高の画家長谷川等伯作の重要文化財「枯木猿猴図(こぼくえんこうず)」の複製(本物は京博に保管)も展示されている。
 元は六曲一双の屏風で加賀前田家に伝わったもので、今残っているのは各2枚の2組を軸装したもの。
 方丈の枯山水庭園も悠然とした落ち着きがあり、時の経つのを忘れてしまうほど座していたいほどの名庭である。

 通常は非公開とされており、京の冬の旅で特別公開される。拝観料は600円、公開期間は概ね1月中旬から3月中旬まで。

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町107。
 交通:市営地下鉄烏丸線北大路駅下車、または京都市バス「妙心寺前」か「妙心寺北門前」停下車、徒歩すぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする