「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「室生寺」(むろうじ)

2011年09月29日 11時48分01秒 | 古都逍遥「奈良篇」
「室生寺」(むろうじ)
 日本で残したい風景百選に選ばれている「室生寺」は自然が豊かだ。当寺への道すがらものどかで空気もうまく風も清らかである。当寺に至る細い道の左手には室生川が流れ対岸の山の緑(秋は紅葉)が楽しめ、右手には土産物を売るお店が一昔風に建ち並び名物らしい草餅やこの土地で栽培された野菜、きのこ、果物(柿)やうどん屋等から、威勢のいい客引きの声が聞こえてくる。

 白鳳年間(7世紀末~8世紀初頭)天武天皇の勅願により、役行者が山林修業道場として開創、一時荒廃していたが、唐より帰国した空海が恵果阿闍梨より授かった如意宝珠を室生の山に納め、復興を計ったと伝わる。もう一説では、宝亀8年(777)山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒祈願のため、興福寺の僧・興福寺の僧・賢憬ら5人が室生山中で「延寿法」を修した。この功により室生山寺の名を賜わり、勅命により、賢憬の高弟修円が建立したという。
  以来、室生寺は山林修行の道場として、また、法相、真言、天台の各宗兼学の寺院として独特の仏教文化を形成した。江戸元禄年間に真言宗として、独立、女人の参詣が許され、高野山の女人近世に対し、「女人高野」として多くの人に親しまれてきた。

 太鼓橋を渡ると表門があり、傍らの石柱には『女人高野室生寺』とある。
 鎧坂を登ると深い木立の中に平安初期の建立とされる穏やかな柿葺(こけらぶき)の単層寄棟造り「金堂」(国宝)がある。本尊の「釈迦如来立像」(平安初期・国宝)をはじめ、「薬師如来像」「地蔵菩薩像」「文殊菩薩像」(平安初期・重文)、「十一面観音菩薩像」(平安初期・国宝)、運慶作の「12神将像」(鎌倉時代・重文)が安置されている。鎌倉時代の延慶元年(1308)の建立とされる檜皮葺(ひわだぶき)の「本堂」(灌頂堂・国宝)は、真言密教の最も重要な法儀である灌頂を行う堂である。

 空海が一夜で建立したとの伝えがある五重塔(平安初期・国宝)は、屋外に建つ五重塔では最も小さく約16mの高さで、均整のとれた美しい塔である。平成10年(1998)9月22日、台風7号により塔の脇の杉の大木が倒れ、五重塔は大きな被害を受けたが、平成12年(2000)9月修復工事が完了した。
 
 五重塔の横の道を行くと、奥の院まで450段(下からでは720段)の階段が続いている。上りつめると、深い森のなかに弘法大師を祀っある「御影堂」(重文)が見えてくる。鎌倉時代の建立で、方三間の単層宝形造、厚板段葺で、頂上に石造りの露盤が置かれている。

 秋の紅葉は見事なものだが、原生林に囲まれた境内には本石楠花が無数に自生し、「石楠花の寺」としても有名である。花の時期には花の寺めぐりのバスツアーのコースにもなっている。

 所在地:奈良県宇陀市室生区室生
 交通:近鉄室生口大野駅から奈良交通バス室生寺方面行き、室生寺前下車、徒歩5分。
 車は、名阪国道針ICから国道369号、県道28号、国道165号、県道28号経由で約15km。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光院」(じこういん)

2011年09月18日 10時01分21秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 大和郡山市にある、茶の湯と庭園で有名な禅寺「慈光院」(円通山)を訪ねた。
 奈良には珍しい禅宗様式の庭が見られる寺院だが、観光寺ではないため参拝者も少なく、一服の抹茶をいただきながら、茅葺の農家風造りの広々とした座敷から、静かで清楚な庭を独り占めできるのが嬉しい。

 「慈光院}は、寛文3年(1663)に「片桐石州」が、父の菩提寺として建立したのが始まり。石州は、4代将軍の徳川家綱や水戸光圀に茶の湯を教え、「茶道石州流」の開祖となった人物で、京都「大徳寺」や奈良県葛城市の「当麻寺中之坊」の茶室も造っている。

 当寺は境内全体が一つの茶席として造られたような構造になっており、表門からの小道、書院(重要文化財)や庭園、そして露地を通って小間の席という、茶の湯で人を招く場合に必要な要素をひと揃えした様式となっており、全国的に見ても貴重な場所となっている。

 本尊は藤原中期の作とされる「釈迦如像」。両脇には「開山玉舟和尚」「片桐石州」の坐像が安置されている。本堂は昭和59年(1984)に再建されたものでまだ真新しい。
 茅葺屋根造りの楼門「茨木門」は、片桐石州の出生地の摂津茨木城の楼門を移築したもので、よく手入れが行き届いており美形である。

 書院の一角には「高林庵茶室」(重文)という茶室が設けられており、右壁には、小さな「にじり口」も設けられている。また、黄色っぽい壁は茶室「閑茶室」(重文)で、「高林庵茶室」よりも薄暗く造られおり、その二つが対になって陰陽を表しているかのようだ。

 書院から眺められる庭には、白砂の中に丸く刈り込まれたツツジなどが植わっており、禅寺の庭にしては配石が少ないのが特徴。きれいに刈り込まれた70種類もの植物が植わっており、ツバキ、サツキ、キキョウ、サザンカなどが咲き、四季折々を楽しませてくれるという。庭のところどころに「角ばらず」「独坐」「女の字(めのじ)」という三つの手水鉢(重文)と水戸光圀から贈られたという手水鉢が配置されており、れぞれに個性があって面白い。

 境内では「石州料理」(精進料理)などをいただく食事処があり、特に麺好きにはたまらない「石州麺」がメニューにある。何でも石州侯が客人をもてなした「油不入素麺」を再現したものだそうで、秋田の「稲庭うどん」の元祖と言われているそうだ。手土産としても販売している。「石州料理」は事前予約が必要。

 所在地:奈良県大和郡山市小泉町865。
 交通: 近鉄「郡山駅」から、奈良交通バス法隆寺行き、慈光院下車、徒歩5分。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「白毫寺」(びゃくごうじ)

2011年09月01日 07時51分06秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良市東部の高円山山麓に建ち、奈良盆地を一望にできる花の寺「白毫寺」を訪ねた。
 霊亀元年(715)、天智天皇の第七皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたことに始まると伝えられているが、高円山付近にあった「石淵寺」(いわぶちでら)の一院であったともいわれている。

 「石淵寺」は空海の剃髪の師であった勤操が建てたとされる寺院で、鎌倉時代になって西大寺の叡尊によって再興され、叡尊の弟子である道照が将来し経蔵に収めた宋版一切経の摺本によって、一切経寺とも呼ばれ庶民信仰として繁栄した。室町時代の「応仁の乱」から「明応の政変」へと続き、明応6年(1397)古市(古市澄胤)と筒井(筒井良舜)勢による白豪寺の戦いにおいて堂宇のことごとくが焼失したが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府から朱印寺として禄高五十石を扶持され繁栄した。寺号の「白毫」は、仏の眉間にある白い巻毛のことだという。

 本堂の作りは素朴で簡素、それがまた落ち着きのある侘びを漂わせている。穏やかな表情の本尊「木造阿弥陀如来像」(重要文化財)を中心に、脇侍の「勢至菩薩像」と「観音菩薩像」の三尊像が祀られている。

 本尊は檜材の寄木造で、平安時代末期から鎌倉時代頃の作といわれる。脇侍の二体は坐像ながら前傾姿勢をとっており、今にも立ち上がりそうな動きを感じる。腰の辺りの裾も風になびいたような表現になっていて、躍動感もあふれており、台座部分に虎の毛皮を模した彩色がほどこされている。

 宝蔵に安置されている元・多宝塔の本尊とされる当寺最古の仏像「木造菩薩坐像」(伝文殊菩薩)は、高く結った髻の形、両脚部の量感のある表現や荒々しい衣文表現などには平安初期彫刻の特徴がみられる。また、鎌倉時代作の「地蔵菩薩立像」(重文)」は凛々しい表情で、彩色も鮮やかである。さらに、冥界の十王の一人で運慶の孫・康円の作といわれる「太山王坐像(重文)」もある。奈良にはこうした閻魔系の仏像は少ないため、愛好家の足が絶えないという。

 当寺は花の寺としても親しまれており、奈良三名椿の一つ「五色椿」で全国的にも知られている。
「五色椿」は、興福寺の塔頭「喜多院」から移植されたもので、樹高は約5mもあもる。一つの樹に、白色・紅色・紅白絞りのなど、様々な色合いの花をつけるのが特徴で、樹齢およそ400年、県の天然記念物に指定されている。根廻り1m、根本から80cmほどのところで幹が二分している。花は大輪の八重で、白色のもの紅色のもの紅白絞りのものなど色とりどりで、楚々たる気品に満ちている。

 境内の隅には、「石佛の路」という小さな石仏が並ぶ場所もあり、それほど規模の大きな寺ではないが、とても穏やかな気持ちにさせてくれる。

住所: 奈良県奈良市白毫寺町392。
近鉄「奈良駅」から奈良交通バス「高畑町」下車、徒歩約20分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする