「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「飛鳥寺」(あすかでら)

2010年01月24日 00時02分52秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 聖徳太子(厩戸皇子)の叔父にあたる蘇我馬子(聖徳太子)の建てた飛烏寺は、蘇我氏の氏寺として六世紀末から七世紀初頭にかけて造営されたもので「法興寺」と称した。明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び、日本最古の本格的仏教寺院である。

 『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事に勝利したので飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てることにしたという。

 この寺にはいくつもの呼び名があり、馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)といい、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)と称するが、「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにもあり、また「飛鳥寺式伽藍配置」など学術的なものにも使われていることから、一般的には「飛鳥寺」で通っているようだ。
 山号を鳥形山(とりがたやま)と称するが、古代の寺院には山号はなく、後になって付けられそうだ。なお「鳥形山」は寺の北東、「飛鳥坐神社」(あすかにいますじんじゃ)のある山を指すという。

 発掘調査の結果によると、ほぼ東西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であった。造営には百済の馬具などを作る工職人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が著しい。
 本尊「飛鳥大仏」(約4m85cm)は、推古天皇17年(609)に、中国渡来した仏師鞍作止利(くらつくりのとり)によって銅15t、黄金30kgを用いて造られた。年代のわかる現存の仏像では日本最古のものといわれている。後世の補修が著しいが、面長な顔や、目の形などに法隆寺釈迦三尊に共通した止利式(とりしき)の仏像の特色が現われている。花崗岩(かこうがん)の台座も当初のもので現在左右に脇侍を立てた柄穴(ほぞあな)が残っている。

 東大寺の大仏よりも150年も前に作られたもので、顔を比べると東大寺大仏よりも厳しい感じがする。また、飛鳥大仏の特長なのだろうか、手の指と指の間には水鳥の足のようにひだがついていて繋がっているのも珍しく、そのわけを聞くと、“何人たりとももらさず救い上げるという慈悲のあらわれ”だそうだ。この飛鳥大仏は二度の金堂焼失などにより雨ざらしにされていた時期がありかなり破損が激しかった。調査をはじめた当初は頭と指しかなく、以後発掘により様々な部分を見つけ修理をした結果、ようやく現在の形に整った。かなりつぎはぎが見えるのはそのためだそうだ。
 またここは大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で最初出会ったと伝えられている。蘇我入鹿を天皇の前で暗殺して大化の改新となる。

 大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の1とされて、朝廷の保護を受けるようになった。
 都が平城京へ移るとともに「法興寺」も現在の奈良市に移転し、「元興寺」となったが、飛鳥の法興寺も存続し「本元興寺」と称された。旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、室町以降荒廃したが、江戸時代の寛永9年(1632)、また文政8年(1825)に大坂の篤志家の援助で再建されたとある。

 現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかる。
 当寺のすぐとなり合わせの田畑のあぜに、忘れられたかのように蘇我入鹿の首塚と伝える五輪塔がポツンとたっており、もの悲しむかのように枯葉がひらひらと舞っていた。

 入鹿の首は斬首された後にフラフラと飛んできて、ここでついに力尽きたのだとか。ここより正面に見える丘が、大化の改新の舞台ともなった「甘樫丘」ある。

 所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥682。
 交通:近鉄橿原神宮駅下車、岡寺前行バスで飛鳥大仏下車。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「平城宮跡」(へいじょうきゅうあと)

2010年01月17日 10時03分45秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 古都逍遥京都篇約300箇所ほどの古刹・名刹・名所を紹介してきたが、昨年、区切りをつけて京都篇の幕をおろした。それから改めて遷都1300年を迎えている、古都・奈良の取材をはじめたが、序として遷都1300年祭のメイン会場となる「平城京跡」を訪ねたのでご紹介しよう。

 【古都逍遥 奈良編】
「平城宮跡」(へいじょうきゅうあと)

 『あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり』(小野老 万葉集3-328)

 約6年ほどにわたって紹介してきた平安京(京都)にひとまずくぎりをつけ、そもそもの大和の国の原点となる都を探訪することが平安京のことをさらに知ることになるだろうと思いたち、古都逍遥「奈良編」として紀行を続けていくこととした。
 第1回目をどこにするかいろいろと迷ったあげく、今年、平城遷都1300年祭で盛り上がりを見せている「平城京」から始めることがもっともふさわしいと思い取材に出向いた。
 平城京(へいじょうきょう) は8世紀、奈良に営まれた都城で、和銅3年(710)に藤原京から遷都してきて以来、延暦3年(784)長岡京に遷(うつ)るまでの間の約70年間にわたって政務が司られていた。その間、藤原広嗣(ふどわらひろつぐ)の乱(740)後の5年間ほどは難波(なにわ)を都としたため空白期間がある。

 平城京は奈良盆地の北端に位置しており、山背(やましろ)国(京都府)へ抜けると木津(きづ)・淀(よど)川の水系につながり、山陽・山陰・北陸・東山道方面に連なる交通の要地であり、また南も大和川(やまとがわ)水系によって瀬戸内と連絡することができる位置を占めていた。
 条坊制を伴う古代都城の代表的なものの一つであり、天皇の居住地であり、かつ政府の官庁が営まれた平城宮を京の中央北端に設定し、その中軸線に沿って南へ、幅80mに及ぶ朱雀大路(すざくおおじ)が設けられていた。
 「平城宮」は、南北1km、東西1.3km、中心に方形の天皇の居所である内裏(だいり)を置き、その南に公的な政治・儀式の場である朝堂院を設けていた。各官庁はそれを巡る平城宮域内につくられていた。

 では、平城宮のシンボルともいえる「朱雀門」からご案内しよう。
 平城京の入り口である羅城門をくぐると、幅75mの朱雀大路が北に向かって延び、その先に平城宮の正門である朱雀門が威風堂々たる姿で建っていた。
 朱雀門の構造形式に関する直接的資料は残っていないとのことだが、復原では平安宮朱雀門が二重門であることなどから二重門と設定し、その基本様式を同年代の薬師寺東塔を参考にしたとのことで、また、朱雀門の規模が大きいために、各部材の大きさや比例関係などは、より近い条件を持つ東大寺転害門も参考にしたという。西部は、たとえば軒の納まりは海龍王寺五重小塔、風鐸は四天王寺講堂出土品、尾垂木のこぐち金物は薬師寺出土品、鴟尾は唐招提寺金堂・橿原市太平寺出土品、難波宮出土品などをさまざまなものを参考にしたと3る。
 つぎに「第二次大極殿跡」へと足をすすめた。
 「大極殿」は天皇即位や元旦の朝賀、外国使節の謁見などに用いられた重要な宮殿で、平城宮には新旧二つがあった。
 現在堂々たる基壇が復元されていて、柱の跡には丸い石が縦列に埋め込まれている。ここに立ち目をつぶると、往時の絢爛な都が目に浮かんでくるようだ。今年3月には、もうひとつの大極殿「第一次大極殿」が復元され、その巨大な朱色の大極殿が建つと、幻想の都の姿が現実になっているだろう。
 「東院庭園」へと進むと、ここが復元された遺跡の中で一番絵になる光景だった。一部に築地が建てられた広大な敷地に、趣のある奇形な池に清らかな水が満たされ、朱色の寺院風の建物や太鼓橋が水面に映えている。
 1967年、平城宮の東張り出し部の南東角に大きな池が発見され、この場所が「続日本紀」に記述されている「東院」に該当することから、「東院庭園」と名付けられた。東院では宴会や儀式が行われたようだ。
 平城宮跡の発掘は1924年から始まり、59年以降は奈良国立文化財研究所が発掘を行っている。それほど長期間をかけて発掘を続けていても、まだまだ全容があきらかにならないというから、それだけ平城京の規模が大きかったという証なのかもしれない。とにかく広大で、跡地として残されている面積は、甲子園球場の30倍という規模とのこと。
 「遺構展示館」は平城宮の北東隅にあり、発掘調査で発見された遺構をそのまま見ることが出来る。
 また、第一次大極殿や内裏の復元模型が展示されている。入場料は無料、休館日は月曜日・年末年始、見学時間は9時から4時30分。
 
 所在地:奈良市二条町2-9-1。
 交通:近鉄大和西大寺駅より徒歩10分。JR・近鉄奈良駅から奈良交通バス二「条大路南4丁目」下車すぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする