「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

 「雨宝院」(うほういん)

2008年10月28日 07時55分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 今出川通智恵光院を北へ徒歩5分ほどの2筋目の上立売通を西に入ったところに北向山雨宝院がある。本隆寺の北塀に面して表門があるが、西門から入ると頭上は時雨の松に覆われいささか薄暗い。また、隠れた桜の名所として都人には知られている当院は、平安時代の弘仁12年(821)嵯峨天皇の病平癒を祈願し、智積院を本寺として空海(弘法大師)が大聖歓喜天像を安置した大聖歓喜寺が始まりで、その当時は境内は広大で千本五辻まであったという。
 当院が西陣にあって本尊が歓喜天であることから、洛中では「西陣の聖天さん」として親しまれ、商売繁盛の神様としても参拝者が多い。

 応仁の乱により堂宇ことごとく焼失、天正年間(1573~92)に雨宝院のみが再興された。
 観音堂に安置されている漆箔の木造千手観音立像は、像頭人身六臂(ぴ)の等身像で、嵯峨天皇の御病平癒祈願に一刀三礼して造られたといい、藤原初期の重要な作風を示す秀逸で、国の重要文化財に指定されている。
 
 この他、境内には不動堂、稲荷堂、庚申堂などが建ち並ぶ。また、境内南東にある「染殿井」は涸れることなく湧いている。染色に使うと良く染まるとされ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていた井戸だそうだ。現在は清めの手水に使われている。この「染殿井(そめどのい)」は西陣5名水の1つに数えられている。(他は「千代井(ちよいの)」、「桜井(さくらい)」、「安居井(あぐい)」、「鹿子井(かのこい)」)。
 また、本堂前の八重桜は「歓喜桜」で、御室(仁和寺)の桜と同じ品種という。その横で枝を張る松は、久邇宮朝彦親王が当院へ参拝された折、突然の雨にこの松の下で雨宿りされたことから、いつしか「時雨の松」と呼ばれるようになったという。

 洛中きっての自然美に溢れた花の寺である。福寿草、椿、枝垂桜、八重桜、山吹、ボタン、ササユリ等など30種類ほどの四季折々の花が境内に植えられ野趣に富む。写真愛好家、スケッチ、俳人などの好むところとなっている。
 境内は自由拝観できるが、堂宇の拝観は事前申込みが必要(075-441-8678)

 所在地:京都市上京区智恵光院通上立売通上ル聖天町9-3
 交通:市バス「今出川浄福寺」下車徒歩5分
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大悲山「峰定寺」(ぶじょうじ)

2008年10月21日 14時54分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鞍馬をさらに北へ、花背で最も奥深い山中、清流に面した急斜面に立つ日本最古の舞台造建築として知られる本堂をもつ大悲山「峰定寺」は、仁王門から20分くらい石段を登り、一息つきたくなる所からふと見上げると、まさに崖に張り付くように凛とした勇姿の本堂が見える。

 「源平衰勢記」に名をとどめる峰定寺は、大峰熊野の修行者、観空西念が鳥羽法皇の帰依を受けて、大悲山に久寿元年(1154)に建立、白檀の二尺の木造十一面千手観音像(像高31.5㌢)を安置し本尊とした。
 奈良の大峰山に対し北大峰と呼ばれ、古来修験道の道場となっている。舞台造りの本堂や仁王門は室町時代の建物で、重要文化財に指定されているほか、不動明王、毘沙門天、釈迦如来像、金剛力士像なども重要文化財になっている。

 周辺は古くから落人の隠れ里で、流罪となった俊寛の妻子が近くの谷で病没したため、俊寛と妻子の供養塔もある。大悲山は、京都の中心部から北へ35キロほど離れた丹波山地の東南部に位置し、桂川の源流も流れる自然豊かな場所に位置しており、春は石楠花、秋は紅葉の名所でハイキング客でにぎわう山岳信仰の霊境となっている。

 本堂から奥は修行場の岩場もあるとのことだが、これ以上奥へは行けない。
 見回すと崖に鎖がぶら下がっていたりして、修験場の雰囲気は感じられる。境内から東に行くと、周囲一七・八㍍の巨大な三本杉や、参道の大杉、仁王門そばの槙の木など名木も多い。
 本堂は方五間、寄棟造の柿(こけら)葺の懸崖造り。蟇股、破風の懸魚、鰭(ひれ)、格狭間など古建築の趣を残している。特に鰭は現存最古のもの。
 貞和6年(1350)再建の仁王門(重文)は、二躰の良元作木造彩色金剛力士立像(長寛元年/1163)が安置されている。
 阿伽井(重文)、日本現存最古の供水所で、一間四方のすっきりした軽快な建物、これだけでも見る価値あり。
 近世には峰定寺は荒廃していたようだが、延宝4年(1676)、時の後西上皇の勅により、上皇の皇子である聖護院宮道祐親王が貴船成就院の元快に命じて、伽藍を再興したという。以後、峰定寺は聖護院末の本山修験宗の寺院となった。なお、再興時期については享保年間(1716-36年)とする資料もある。

 仁王門から奥は入山料が必要で、ここから先は撮影不可(撮影機器はすべて寺に預けないといけない)。

 収蔵庫は平素は非公開で、例年5月3日前後と11月3日前後の3日間及び9月17日(採燈護摩供という行事のある日)のみ公開される。

 所在地:京都市左京区花背原地町772。
 交通:京都バス32系「大悲山口」より徒歩30分(1日4~5往復、出町柳から1時間40分)。
 入山:冬季(12~3月)と荒天時閉山。団体・子供入山禁止。仁王門から奥は大人500円、駐車場あり。
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 観音寺「山崎聖天」(やまざきしょうてん)

2008年10月13日 07時35分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 桜と木蓮の名所として知られ、天王山の東側の中腹に建つ真言宗「妙音山観音寺昌泰(しょうたい)」通称「山崎聖天」は、昌泰2年(899)に寛平法皇(宇多天皇)が創建。

 江戸時代初期の延宝9年(1681)、宮中に出入りしていた摂津国の勝尾寺(箕面市)住僧の木食以空(もくじきいくう)上人が住友家、三井家など巨大豪商の援助を得て、聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊とし中興開山された。以降、歓喜天(かんぎてん)を祀り、霊元、東山、中御門天皇の厚い帰依と商売繁盛・家運隆昌を願う住友家、鴻池家、三井家などの信仰や、京都、堺など商人の参詣を得て大いに発展した。こうしたことで本尊の十一面千手観音菩薩よりも歓喜天の信仰で賑わい、“山崎の聖天さん”として知られるようになった。
 歓喜天信仰により栄えていたが、元治元年(1864)、長州の浪士隊が山崎から出陣、そして敗退、朝敵として追われた禁門の変(蛤御門の変)の兵火で天王山一帯は灰滅(かいめつ)した。
 
 観音寺は、隣接する島本町の西観音寺(廃寺)の本堂、聖天堂、鐘楼などを移して再建され、さらに明治23年(1890)以降、順次復興して現在に至る。
 本堂前に立つ大燈籠は高さ3㍍余り、元禄10年(1697)大阪の豪商住友吉左衛門友信が寄進したもの。平成7年(1995)の阪神淡路大震災で燈篭の一部が損傷したが、住友家や住友グループにより補修されている。本堂前には、ほかに桂昌院(5代将軍綱吉の生母)寄進の梵鐘もある。

 神社造でありながら列記としたお寺で、鳥居がある。一の鳥居には観音寺、二の鳥居には聖天宮の扁額が掛かっている。毎年四月初旬に行われる花まつりには多くの人が訪れる。
 山号の妙音山は地中から現れた薬師如来石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」と彫ってあったことにちなむ。観音寺の表参道から仁王門への石段は長く、しかもに仁王門からは足が震えるほどの急斜面。心臓や足腰の弱い方は、ゆっくり休み休み登られることをお勧めする。しかし、左脇に本堂前の休憩処に至る比較的ゆるやかな石段が作られており、こちらを登ると手摺り設けてあることからお年よりにも登れるだろう。

 観光寺院でないので、境内は静か。休憩処でぼんやりと床机に腰掛けていると、小鳥のさえずりが耳に心地よく聴こえる。

 所在地:京都府乙訓郡大山崎町大山崎白味才。
 交通:阪急バス・高槻・樫原線「聖天前」下車、徒歩約10分、JR山崎駅、阪急大山崎駅から徒歩で約15分。


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「勝龍寺」(しょうりゅうじ)

2008年10月07日 00時12分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平安京の前に置かれた「長岡京」、その長岡京の南部からサントリーの工場がある大山崎にかけて、いまから400年以上も前に、本能寺で討たれた織田信長の仇を撃とうと、備中松山から昼夜走り続けて挑んだ明智光秀との「天下分け目」の山崎の合戦が、この一帯で繰り広げられたとは想像もつかないほどの静かな住宅地・田園地帯が広がっている。
 長岡京市の勝龍寺公園の南、狭い道に囲まれた住宅街の一角に隠れるように勝龍寺がひっそりと佇んでいる。

 真言三宝宗「勝龍寺」は、平安時代初期の大同元年(806)空海(弘法大師)を開基として建立、寺名は空海が唐長安で学んだ「青龍寺」の名を付けたと伝えられている。応和2年(962)の干ばつの際、当時の住職・千観が雨乞いをしたところ雨が降り、村上天皇から「龍に勝り雨を降らせた」として勝龍寺という寺号が与えられる。以後、付近一帯の地名になった。
 
 本尊は十一面観音立像で重要文化財に指定されている秘仏、木造素地で鎌倉時代の作という。ほかに聖観音像、持国天像、多聞天像が安置されており、いずれも鎌倉時代の木像。毎年8月18日と11月第2日曜に十一面観音立像がご開張される。
 本堂階段の右につやつやと輝きをはなっている坐像が置かれている。「おびんずる様」と仏の名が紹介されているが、通称、「なでぼとけ」と言われているようで、「おびんずる様」の神通力で、自身の身体の悪いところを、「おびんずる様」のその部分を触ると、不思議に治るとの言い伝えがあり、さっそくご利益にあずかろうと病んでいる胸(心臓)を撫でさせていただいた。お賽銭を入れ忘れたからご利益はないかも知れない。

 ここの鐘楼は数奇な運命があり、1615年、家康が実質的な天下人となった大坂夏の陣の戦いのとき、どさくさまぎれに誰かに持ち去られ、後に源八堤(旧淀川、造幣局の上手)に捨ててあるのを能勢の伊豫守頼次が発見、地元の布留神社に奉納、その後、転々とし現在大阪豊能町の真如寺に現存、大阪府の文化財に指定されているという。
 2代目は第2次大戦末期に供出されている(初代の鐘の返還交渉も行われたようだが実現されなかった)。現在のは3代目で、大晦日の夜は、長岡京市の人たちの厄を払って鐘がつかれている。
 訪ねたころは猛暑の夏、参拝者は誰もおらず、本堂前に咲く蓮の花が私を出迎えてくれた。
 
 所在地:京都府長岡京市勝竜寺19-25。
 交通:長岡京駅下車徒歩7分。
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