「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

新選組壬生屯所旧跡「八木家」(やぎけ)

2009年08月29日 23時45分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幕末の文久3年(1863)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護のために上洛した浪士達は、洛西壬生村に宿所を求めたが、程なく江戸に呼び戻されることになった。しかし「八木家」を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京都に残り、同年3月16日、八木家門柱に「松平肥後守御領新選組宿」という表札を掲げ、新選組が誕生した。

 当時、八木家は壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめており、当主は11代目の八木源之烝應迅であった。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも分宿していった。
 文久3年9月18日、近藤一派と対立していた芹澤鴨派を、酒席で酔いつぶさせたどしゃ降りの深夜、奥座敷で寝込んでいた芹澤鴨とお梅、平山五郎ら四人を襲撃し斬殺した。今も芹澤を斬りつけた刀傷が鴨居に生々しく残りその凄惨さを物語っている。
 この後、近藤勇が実権をにぎっり規律のある戦う軍団となり、新選組の最盛期を築いた、慶應元年(1865)夏、壬生が手狭になってきたことから西本願寺の太鼓番屋に屯所を移した。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがあった。

 建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804)主屋は文化6年の造営と知られる。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を3室ずつ2列に配する。入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある。長屋門の外観は腰に下見板を張り与力窓や出格子窓を開くなど昔のおもかげをよく残している。昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。

 八木家には元々但馬の国(兵庫県養父郡朝倉の庄)に祖を発し、鎌倉時代初期に、遠祖より八木安高によりて起る。
 源頼朝の富士の裾野の巻狩りの時、関東一円を震撼させた白い猪を射止めた功績で、頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したといわれている。(鎌倉武鑑)
 十数代の後、越前朝倉を経て天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え、江戸時代には十家程の郷士(壬生住人士)と共に、村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役をも勤めていた。また、壬生村と京都守護職や所司代とも大変深い関わりがあった。(八木家文書)

 壬生は湧水の豊富なところで、水質にも恵まれ、壬生菜、菜種、藍などの産地でもあった。その藍で染めた水色は壬生の色でもあり、壬生狂言に使用する手拭いの色にも古くから使用されている。新選組が使っている羽織の段だら模様の水色は、この壬生の色を使ったものといわれている。

 八木家は、天正年間より現代まで15代を数え、代々血脈相続している。
  入観料は1000円(京都鶴屋鶴寿庵の抹茶、屯所餅付き)で、説明係りの人が朗々と語ってくれる。観光を急がれる人には、いささか説明がながすぎる(約30分)ので、中座されるとよい。

 在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24。
 交通:阪急京都線大宮駅より四条通り西へ徒歩6分、坊城通り南へ4分。

 長きに亘ってご愛読いただき心より感謝申し上げます。ここいらで一端、筆を置かせていただき、改めて「奈良編」として再開を考えております。目下、取材を重ねておりますが、しばらくの間、更新を休止させていただきますので悪しからずご容赦ください。
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「宝慈院」(ほうじいん)

2009年08月14日 07時24分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 宝慈院は、烏丸通りを上がって行き、同志社大学の北西にあたる寺之内の交差点を左折、3つ目の通りを右折し100mほど行くと小さな山門がある。車だと一方通行で進入禁止、一つ手前の通りを右折し、「無学寺」を通り過ぎて一筋目の離合できないほどの小路を左折、一筋目をさらに左折。知らない人は気が付かずに通り過ぎてしまうようなひっそりと佇んでいる山号を樹下山(じゅげざん)という臨済宗の尼門跡寺院である。

 鎌倉時代の弘安年間(1278~87)、現在の上京区西五辻東町には日本で最初に女性として禅僧となったと伝えられる無外如(むげにょ)大禅尼が開山した「景愛寺」(けいあいじ)の塔頭の一つとして創建された。宝慈院は、はじめは「資樹院」と称していたが、応仁の乱の後に宝慈院と改められたという。そして、南北朝時代の光厳天皇の皇女・華林恵厳(かりんえごん)尼(人形の寺として知られる宝鏡寺の創建者)が住寺の時に、無外如大禅禅尼の幼名に因んで「千代野(ちよの)御所」と号し、紫衣を許され、以降、宝慈院の住持は皇族か公卿の女子と定まり、江戸時代には比丘尼御所の一つに列した。

 本山の景愛寺は、足利氏の庇護をうけ、京都尼寺五山(景愛寺・檀林寺・護念寺・恵林寺・通玄寺)の第一位として、南北朝時代には大いに栄えたというが、応仁の乱以降に衰退消滅した。宝慈院には景愛寺の貴重な寺宝が継承されている。
 無外如大禅尼は、幼名を千代野(ちよの)といい、鎌倉幕府の有力御家人重臣・安達泰盛の娘と伝えられている。
 金沢文庫を開いた北条氏一族の金沢実時の子・顕時に嫁いだ後、中国(南宋)より来日して臨済宗を広めた高僧・無学祖元に従って出家し、永仁6年(1298)、76歳で死去した。生涯に不明な点も多いが偉大な女性宗教者として語り継がれている。

 現在の本堂は天明8年(1788)の天明の大火後の再建で、収蔵庫に安置されている本尊・阿弥陀如来像(重要文化財)は、平安時代末期の作といわれ寄木造で丈六(約2.8m)の大きな坐像で景愛寺の旧仏といわれている。また脇壇には木造仏光国師像と木像無外如大坐像(共に重要文化財)を祀っている。

 一説によれば、「千代紙」の名前の由来は、この宝慈院(千代野御所)で尼僧らが書いた絵から始まったために、「千代野御所」をとり「千代紙」と呼ばれるようになったというが、これには諸説あり、土佐藩の藩主となった山之内一豊の妻・千代(見性院)が考案した小袖の柄から起こったという説や、京都で鶴亀・松竹梅などめでたい柄を刷ったのが始まりで、千代を祝う意から名づけられたとか、千代田城(江戸城の別名)の大奥で使われたのが始まりということから付けられたともいわれている。

 所在地:京都市上京区衣棚通寺之内上る下木下町171。
 市バス51・59・102・201・203系統「烏丸今出川」」下車、徒歩6分。地下鉄「今出川」下車、烏丸通を北へ徒歩7分。
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「上品蓮台寺」(じょうぼんれんだいじ)

2009年08月07日 23時51分03秒 | 古都逍遥「京都篇」
 千本通鞍馬口を北大路の方に上がって行き、千本ゑんま堂を過ぎてほどないところに、手入れの行きとどいた清楚な門前が見える、ここが真言宗智山派「上品蓮台寺」である。正式名「蓮華金宝山九品三昧院」(くほんざんまいいん)と称する。
 寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建と伝え、当初香隆寺と称したが、一説によれば天徳4年(960)宇多法皇の勅願により、寛空(882-970年)が創建したとも伝えられる。

 当時は、広大な寺域に伽藍が建ち並び壮大なものであったが、応仁の兵火により悉く焼失した。豊臣秀吉などの帰依を受け文禄年間(1592~96)性盛上人が復興し、当寺の外に12の支院を建立したことから、俗に12坊の名で呼ばれるようになった。現在支院は三院を残すのみである。観光的にはあまり知られていないが、京都有数の古刹である。船岡山の麓に立ち、千本通に面して長い築地塀が続いている。

 本堂には、村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には、本尊延命地蔵菩薩像を安置している。現在、嵯峨清凉寺にある釈迦如来像は、永延元年(987)然(ちょうぜん)が唐から請来し当寺に安置されたもので、後に清涼寺に移されたという。寺宝の天平時代の「著色絵因果経」(国宝)は、京都最古の絵巻物(京都国立博物館に寄託中)だ。
 他に「著色文殊菩薩画像」「著色六地蔵画像」(ともに重要文化財)など、多くの文化財を蔵している。
 また境内に藤原期の代表的な仏師・定朝の墓(廬山寺にも有る)がある。寺の西側には東の鳥辺野(とりべの)、西の化野(あだしの)とならぶ葬送の地とされた蓮台野(れんだいの)が広がっている。

 五輪塔は、空海の母親である阿刀氏(あとし)の塔と伝えられている。墓所の北隅の大きな椋(むく)の木の下に蜘蛛塚という奇妙な塚があるが、「源頼光塚」とも称されている。源頼光の熱病の原因となった土蜘蛛が棲んでいたといわれる塚で、この老木を切り倒そうとした植木屋が、不思議な病にかかって死んだともいわれる。

 境内の枝垂れ桜が見事で、春ともなれば爛漫と咲き誇り、ピンクの雲のなか優雅な香りに包まれる。知る人ぞ知るの花見の穴場となっている。通常非公開寺院であるが、桜は自由に見てもいいようだ。

 所在地:京都市北区紫野十二坊町33-1。
 交通:JR京都駅から市バス205系統で、千本北大路下車、徒歩3分。
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 「御髪神社」(みかみじんじゃ)

2009年07月31日 20時54分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
 四季を通じて訪れる者が絶えない京都・嵯峨嵐山。百人一首で有名な小倉山を美しく映す嵯峨野小倉池のほとり、亀山天皇御陵の近くに理容の業祖・藤原釆女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき)を祭神として称え祀った御髪神社がある。

 西暦1200年代人皇90代亀山天皇の御代に藤原鎌足の末孫で、皇居の守護職(武士)であった北小路左衛尉藤原基春卿の三男・藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)は、基春卿死後の弘安4年(1281)に鎌倉に住まいを移し、建武2年(1335)4月17日に歿したが、功績があったとして従五位を賜っている藤原采女亮政之が、髪結職の起源とされる所以を伝承史料・職分由緒書で紐解くと、「亀山天皇の御代(1209~74)に、皇居の宝物守護にあたる武士であった藤原基晴卿は、御預かりの宝剱・九王丸紛失の責任から、三男・采女亮政之とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関に居を構え、髪結業を営み探索を続けた。これが髪結職の始めなり」とあり、由緒に「髪は人間の最上部に位置し、御神より賜わった美しい自然の冠です。御髪神社は理容・美容等の髪や化粧に携わる業の始祖を祭神とする日本唯一の神社です」と記されているように、御髪神社は髪の御神徳をもつ唯一の神社として、理美容関係者のほか、多くの人びとから厚く信仰されてきた。

 境内には、願いごとをしながら切った髪を納めると御利益があるとされる「髪塚」があり、献納された髪は日々神官により祈拝を受け、献納されている。合格祈願で髪を納める学生も居るとのことで、若者たちの参拝も多いとのこと。また、毎年春・秋の御大祭日には業祖神奉祭と髪供養が行われる。

 所在地:京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町10-2。
 交通:嵯峨観光鉄道、トロッコ嵐山駅前。JR京都駅から山陰本線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩15分。京福嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩8分。阪急嵐山線「嵐山駅」下車、徒歩25分。
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広徳山「慈受院」(じじゅいん)

2009年07月23日 09時39分42秒 | 古都逍遥「京都篇」
 織物の街、西陣の堀川寺之内に佇む慈受院は、足利四代将軍・義持の正室・日野栄子(慈受院浄賢竹庭尼大禅師)が、亡夫の遺言により、天皇家の菩提を弔うため正長元年(1428)に建立したといわれている。その後、宮家、摂関家から住持し、また伏見宮息女も入寺した由緒ある門跡寺院で、創建当時は天皇家を弔うことから「薄雲御所」または「烏丸御所」、「竹の内御所」と呼ばれていた。境内の毘沙門堂には、日本三体随一といわれる毘沙門天像が祀られている。
 現在の地へと移ったのは最近の事で、大正8年(1919)に同じく比丘尼御所の一つであった総持院を併合して、この地に再興した。

 天皇家に関係する寺院として非公開を続けていたが、源氏物語ゆかりの寺として平成20年、源氏物語千年紀を記念して4月26日から5月6日まで本邦初公開となり、拝観料800円を志納して拝観。

 狩野探幽直筆の「花鳥図金屏風」のほか、全長30メートルの及ぶ藤原鎌足の涯を描いた「大織冠(たいしょくかん)絵巻」(上下二巻)は金泥で彩色され、唐の皇帝の后(きさき)となった鎌足の娘から贈られた宝珠を、鎌足と竜王が争奪する“大スペクタクル”を描き、さすがに迫力がある。また、1200年以上にわたって伝わる聖武天皇正室・光明皇后の髪の毛を、横糸として編みこんだ光明真言髪織「経文」や羽柴秀吉の書状、源氏物語ゆかりの寺宝(明石・須磨図屏風)などがある。

 書院の前には苔に覆われる枯山水の庭がしっとりとして美しい、入寺した皇女たちがその寂しさを癒したであろうあせびの花が咲いている。樹齢千年以上といわれる楠の古木が歴史の風格を物語っている。応仁の乱、宝永の大火、蛤御門の変など幾度も大火に見舞われ伽藍は灰燼に帰しているが、不思議にもこの古木だけが残ったという。今も皇室との結びつきは深く、美智子皇后が下賜された「侘びすけ椿」が奥庭にある。

 所在地:京都市上京区寺之内通堀川東入百々町540。
 交通:京都市営地下鉄、今出川からすぐ。JR京都駅から市バス9号系統で堀川寺之内下車すぐ 。
駐車場は無い。通常非公開。
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「千本ゑんま堂」(せんぼんえんまどう)

2009年07月14日 07時42分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 光明山歓喜院「引接寺」は本尊に閻魔法王を祀っていることから、通称「千本ゑんま堂」として親しまれている。
 開基した小野篁(おののたかむら)(802~53)は、百人一首の歌人として知られるが、この世とあの世を行き来する神通力を持っていたとされ、昼は宮中に、夜は閻魔法王に仕えたと伝えられている。
 あるとき小野篁は、閻魔法王より塔婆供養と迎え鐘を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える法儀「精霊迎えの法」を授かり、この地をその根本道場として自ら閻魔法王の姿を刻み朱雀大路頭(現西陣の西北千本通り)に建立した祠(ほこら)が当堂の初めとされている。また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土している。当堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれている。

 その後、寛仁元年(1017)藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覺上人がここを「諸人化導引接仏道」の道場にするため「光明山歓喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山した。ちなみに「引接」とは「引導」と同じ意味で、人々を導くという意味を持つ「諸人化導引接仏道」からといわれる。
 現在の閻魔法王(高さ2.4m、幅2.4m木製)は長享2年(1488)に作られたもの。
 
 ところで、ゑんまは地獄の支配者のように思われているが、人間を三悪道には行かせたくない為、怒りの表情で地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いている誠実で温かな仏である。

 5月に演じられる無形民俗文化財の「千本ゑんま堂狂言」は、壬生狂言、嵯峨大念仏狂言と並んで京の3大狂言の1つとされ全国的に名高い。他の2つが無言であるのに対して、ここの狂言は有言(セリフが有る)の仮面喜劇として広く知られている。寛仁年間(1017-21)定覺上人が教言として始めたのが起こりで、現在「千本ゑんま堂大念佛狂言保存会」によって演じられている。

 公演で最初に演じられる「えんま庁」と「芋汁」のみが笛・太鼓の囃子にのって無言で演じられる。鉄杖を持った鬼・不思議な力がある巻物を持った善人の亡者・閻魔法王・帳付(記録係)が登場するというもの。天正10年(1583)織田信長が上杉謙信に下された狩野永徳筆の洛中洛外図屏風の中にも、この「えんま庁」が描かれている。
 公演は5月1日~4日行われ、1・2日は夜のみ、3・4日は昼夜2回。見学所要時間は1演目につき約30分、見学無料。

 このほかの見どころは、紫式部の供養塔の傍らにある後小松天皇から下賜されたといわれる境内の「普賢象桜」(ふげんぞうさくら)が見事で、花の芯から双葉の芽が出て、それが普賢菩薩が乗っている象の牙の形に似ているところから名付けられたといわれている。遅咲きの八重桜で、散るときは花びらが散るのではなく、椿のように花冠ごと落ちる不思議な桜である。なんでも、花冠のまま落ちる散り様が、さながら斬首される囚人の姿に似てるため、中世の所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたとも伝わっている。応永15年(1409)、後小松天皇の薦めで当山を参詣した将軍・足利義満は、境内に咲き誇ったこの桜に感服し、50石の知行米を与えたといるほどの銘木だ。現在の樹は、佐野藤石衛門の寄進。開花は4月下旬。

 境内の西北隅に紫式部の供養塔(高さ6m、幅・奥行き1.85m/花崗岩)が建立されている。南北朝時代の至徳3年(1386)圓阿上人の勧進により建立と刻銘がある。紫式部のあの世での不遇な姿を見て成佛させんがために建立した伝えられており、「十重塔」としても珍しく重要文化財にも指定されている。

 所在地:京都市上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町34番地。
 交通:市バスで千本鞍馬口下車、徒歩約2分。



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「長岡宮跡」(ながおかぐうあと)

2009年07月07日 07時38分46秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幻の都といわれていた長岡京を訪ねた。延暦3年(784)から10年間しか続かなかった都の大内裏跡。
 桓武天皇が奈良からこの地へ都を移したが、不祥事の続出や天災のため、延暦13年(794)平安京に再び遷都し、長岡京は荒廃し「幻の都」とも称された。

 長岡京は、山城国乙訓郡(現在の向日市、長岡京市、京都市西京区)にあり、近年の発掘調査により平城京の条坊制を踏襲しながらも官衙(かんが)の配置や規模には独自性を有し、平安京の造営に少なからず影響を与えた大規模(東西4Km南北5Km)な都であることが判明している。

 大極殿跡・小安殿跡は昔から「大極天(殿)」とよばれ早くから注目されていたが、昭和34年・36年に発掘調査され、その規模がようやく解明された。
 大極殿跡は、基壇(コンクリートの凹凸が基壇の裾を示している)は、東西41.4m、南北21.6mあり、南側3ヶ所、北側2ヶ所に階段を設け、北側中央に削られてしまっているが、その規模は聖武天皇の難波宮大極殿とほぼ同じで、難波宮式の瓦が多く出土することから大極殿は難波宮から移築されたものと考えられている。

 大極殿の北側には小安殿という建物が建てられ、東西31.2m、南北13.5mあり、北側3ヶ所、南側二ヶ所に階段が設けられている。建物は 柱の根石から東西7間 南北2間の切妻造りで柱間は4.25mの等間隔であったことが判っているようだ。(コンクリートの円盤は柱の位置を復原したもの)

 小安殿は長岡宮で初めて設けられたといわれ、それまでの都と違って内裏が大極殿から独立したため天皇が大極殿に御す時の休憩所として機能したようだ。
 これらの建物は 周囲を回廊で囲われ、北には昭慶門(しょうけいもん)、南には閤門(こうもん)が設けられ、大極殿院を構築している。大極殿の南には東西四堂ずつの建物を配する朝堂院があり重要な儀式や外国使節のもてなしはここで行われたという。

 平成9年(1997)の発掘調査で、「宝幢」(ほうどう)を建てた柱の掘形が発見されている。宝幢は、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ約9mの大柱の上に、青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)の四神の絵がはためき、鳥・日・月の華やかな飾り物が付けられる。宝幢は、天皇の権威を象徴するものであった。
 即位式と、元旦に盛大に行われる「朝賀の儀式」でのみ、大極殿の前に七本の宝幢が建てられるとのこと。

 延暦13年、都は葛野郡に移され平安京となり、長岡宮の大極殿や小安殿も解体されて平安京に運ばれた。
 以後 1200年近く、この地は「大極天(殿)」という地名だけが残った。 
 昭和40年(1965年)には国の史跡に指定され、現在このように公園として保存活用されている。
 発掘された木簡などの遺物は、向日市文化資料館に展示されている。

 所在地:京都府向日市鶏冠井町。
 交通:阪急電鉄西向日駅下車、徒歩8分。
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「笠置寺」(かさぎでら)

2009年06月30日 09時39分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
 笠置寺は、京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内とする真言宗智山派の仏教寺院で、山号は鹿鷺山(かさぎさん)と称する。

 創建については諸説あり定かでないが、『笠置寺縁起』には白鳳11年(682)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。一方、『今昔物語集』(巻11)には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について、こう記されている。
『天智天皇の子である大友皇子はある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。
 鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ、無事に助かった。大友皇子は次に来る時の目印として、自分の笠をその場に置いていった』(地名の由来)、その後、『皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだ』(弥勒磨崖仏の由来)。とあり、笠置寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを物語っている。

 また、歴史的に奈良の東大寺や興福寺などと関係が深く、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、さらに東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁(ろうべん、789-773)や、その弟子で「お水取り」の創始者といわれる実忠にかかわる伝承も残っている。良弁は笠置山の千手窟に籠って修法を行い、その功徳によって木津川の舟運のさまたげとなっていた河床の岩を掘削することができたという。一方、良弁の弟子・実忠にかかわるものとして、笠置山には龍穴という奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の住む兜率天へつながっていると言われていた。実忠はある日、龍穴で修行中、穴の奥へと歩いていくと兜率天に至った。兜率天の内院49院をめぐった実忠が、そこで行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺(二月堂)のお水取りであるという。

 平安時代後期には末法思想(釈迦の没後二千年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かったという。寛弘4年(1007)、藤原長の参詣(御堂関白記)などが記録に残っている。

 「笠置寺」を世に知らしめた出来事が「元弘の乱」である。
 元弘元年(1331)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り挙兵した。笠置山は同年9月に陥落、後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。その後、天皇は秘かに「隠岐島」を脱出し、建武元年(1334)「建武の中興」を成し遂げたが、二年後足利尊氏と仲違いし、吉野へ逃れた。笠置の近くには柳生一族の里があり、後醍醐天皇に「南に頼るべき大樹がある」と楠木正成を紹介したのは、後の徳川幕府指南役、柳生宗矩の先祖たったと伝えられている。
 後醍醐天皇側についた楠木正成は、千の兵で足利尊氏軍数万を千早城にこもって持ちこたえた、その戦ぶりは後世に語り継がれている。

 「元弘の乱」で山内49ケ寺の全てが焼失、わずか虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみがの姿をとどめた。像容は「覚禅鈔」(図像集)所収の図像や、「笠置曼荼羅図」に、弥勒磨崖仏と木造13重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。
 暦応2年(1339)に再興されるが、文和4年(1355)再び焼失。永徳元年(1381)には本堂が再興されるが、応永5年(1398)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなく、現在の寺は
明治9年(1876)に再興された。

 「二の丸跡」から西へ進んで、左(南)へ回り込むと、大きな「貝吹き岩」がある。昔は、修験者がこの岩の上で法螺貝を吹いたと云い、また、「元弘の乱」の折りには、後醍醐天皇方の武士が、岩上より法螺貝を吹いて士気をたかめるためたともいわれている。この辺りから眼下に木津川に架かった朱色のトラス橋「笠置大橋」なども見え絶景である。
 「貝吹き岩」の南真下が「もみじ公園」で、10月には「秋まつり」が行われ、「元弘太鼓(げんこうたいこ)」が鬼の面を被った僧兵によって打ち鳴らされる。
 「もみじ公園」を右下に見て左へ曲がり、笠置山の山頂へ石段を上がると、史蹟「後醍醐天皇行在所跡」がある。

 「さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家もなし」(後醍醐天皇)

 所在地:京都府相楽郡笠置町笠置山。
 交通:奈良駅からJR関西本線・笠置駅下車、徒歩約40分。
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 「観音寺」(かんのんじ)

2009年06月23日 17時46分13秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京田辺市南部、同志社大学京田辺キャンパスが所在する丘陵の南側には普賢寺川が流れ、それに沿って東西にのびる小さな平野は普賢寺谷と呼ばれている。川の北側の京田辺市普賢寺下大門には大御堂観音寺があるが、そこには天平16年(744)に木芯乾漆「十一面観音菩薩立像」(国宝)が安置され、華やかな天平の息吹を今に伝えている。菩薩像は柔らかみのある女性的な顔立ちをしており、衣紋の線もしなやかに揺れているように見え、全体的に流美な印象である。
 また、輪光と呼ばれる輪が、肩にかけられているように広がる光背を負っていることも目を引きつける。

 木芯乾漆とは、木彫りで原型を造り、それに木屎漆などを厚く塗り盛り上げて形作る技法をいい、ここの菩薩像はその木心乾漆造りの代表例とも言える。
 観音寺は、今から約1300年前、天武天皇の勅願により義淵(ぎえん)僧正が開基し、天平年間(729~48)聖武天皇の命により良弁僧正が伽藍を増築、再興したと伝えられており、その後奈良の東大寺のお水取りを初めた実忠和尚が第一世として入寺したという。たびたび火災に遭ったが、奈良・興福寺の別院でもあったため藤原氏の援助によりその都度復興されたが、藤原氏の衰退とともに寺運も衰えた。

 説明によると、往時には諸堂13、僧坊20余りを数える大寺であったようだが、現在は本堂(大御堂)と繁栄を偲ばせる数個の礎石が残っているのみである。
 当寺で行われる「竹送り」が有名である。

 竹送りとは、二月堂の「お水取り」の用いる真竹を当寺から二月堂まで送り届ける行事で、当寺の南西500メートル周辺の竹藪から根付きの竹を7本掘り起こし、お水取りに使われる松明(たいまつ)として運ぶというもので、今年(09年)で31回目となる。お水取りには211本の松明を使用されるが、そのうちの7本をイベント的に届けている。他の竹は京都や奈良から密かに運ばれるそうだ。

 当寺から運ぶようになったのは、昭和52年に60年に一度と言う花枯病により真竹がなくなり、二月堂は四国や九州まで竹を集めたとのこと。それを聞いた人が、山城の村の藪に、まわりが20cm以上の真竹がある事が分かり、持ち主に聞いてみたところ、由緒ある行事に使われるのならということで、寄進する事になったとのこと。

 当寺は古代・中世には「普賢寺」と呼ばれており、のどかな里山の景観に溶け込んで佇んでいる。春は菜の花畑が前面に広がり、参道を囲む桜並木と溶け込んで、極楽浄土の世界を醸し出す。参拝者もこの時期は特別に多いが、カメラ愛好家たちも大勢訪れる。また、秋には紅葉も見られ、四季折々の美を堪能できる。

 所在地:京都府京田辺市普賢寺
 交通:近鉄三山木駅から奈良交通バス水取方面行き、普賢寺下車、徒歩5分。車だと、京奈和道田辺西ICから生駒方面へ向かい10分。
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「聚楽第跡」(じゅらくだいあと)

2009年06月16日 10時43分58秒 | 古都逍遥「京都篇」
 そこは何もなかった。ぽつんと冷たい石碑が物悲しく立っているだけだった。
 天下をとった豊臣秀吉がその力を鼓舞するかのように、諸大名に命じ10万余の人夫を動員させ、着工から1年余りで金箔瓦に覆われた豪華絢爛の「聚楽第」を完成させたのは、天正14年(1586)であった。

 平安京の大内裏旧跡の内野に構築した邸宅で、北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通を外郭とする規模だと推定されている。周囲を深さ5.4m、幅36m、全長1800mに及ぶ濠で囲んだという。
 内郭には本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたそうで、これだけでも立派な城といえるだろう。そして周辺には武家屋敷、公家屋敷、町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈し、千利休も葭屋町(晴明神社に隣接)に「聚楽屋敷」を与えられている。

 九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務を行った。天正16年(1588)に、後陽成天皇の行幸を迎え饗応した。また、天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われ、天下に自らの力を誇示した舞台となったところである。
 また、天正19年(1591)、秀吉は洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じた。
 お土居は、東は鴨川、北は鷹峰、西は紙屋川、南は九条に至る延長22.5km、高さ約4~5mという大規模な土塁であったという。
 
 この造成とともに、各寺院を強制移転させる寺院街の建設も行われ、市街地東側に「寺町」を、北部に「寺之内」を造成させた。これにより京の都は、聚楽第と御所を中心とした城下町的形態に変容していった。
 この年(天正19年)12月、秀吉は甥である豊臣秀次に関白職を譲り、秀次は聚楽第に移り住んだ。

 文禄3年(1594)は秀吉は隠居後の居所として伏見城の築城を始めるが、翌年、謀反の疑いで関係が悪化していた秀次を高野山に追放したのち切腹を命じるに及んで、聚楽第は取り壊された。
 聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたが、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという建造物も少なくない。その後、新たに京都新城とよばれる京屋敷が造営(現在の京都御苑内の仙洞御所)された。京都新城には関ヶ原の戦いまでは、豊臣秀吉の正室である北政所が住んでいたが、戦い後、徳川家康により破壊された。

 「聚楽」という名の由来については、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『天正記』のひとつ『聚楽第行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とあり、歴史家の間ではこれが秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっているようだ。

 現在、聚楽第はわずかに痕跡をとどめる程度で、確かな遺構は残っておらず、「梅雨の井」跡と伝える史跡が松屋町通下長者町上ル東入ル東堀町内にあるが「聚楽第遺構]との確証はない。また、智恵光院通出水通下ルの京都市出水老人デイサービスセンター付近に[加藤清正寄贈」という庭石も残るがこれも定かではないという。浄福寺通中立売の正親小学校北側に[聚楽第跡]の石碑が建っている。なお近年行なわれた調査では堀の跡などが発掘され、金箔瓦なども出土している。
 まさに、「夢のまた夢」のあとと言うにふさわしい聚楽第である。

 所在地:京都市上京区中立売通裏門西入南側
 交通:市バス千本出水下車徒歩5分、京都駅より市バス50番で、智恵光院中立売バス停下車すぐ。
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