「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「宝積寺」(ほうしゃくじ)

2008年11月18日 15時13分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 地元の人らしき人に宝積寺を尋ねると、よく分からない様子。そこで、“竜神が授けたという打出の小槌を祀ってあるお寺と”と聞くと、「ああ、それなら宝寺だね」と言い、行き道を詳しく教えてくれた。小槌を宝とするというところから土地の人は「宝寺」呼んでいるようで、大黒天宝寺とも称されている。

 当寺は、木津川、宇治川、桂川の三川が合流するところで、天正10年(1582)羽柴秀吉と明智光秀が天下をかけて戦った「天王山」の中腹に建っている。天王山の中腹ながら境内は広い。山門から一直線にのびる参道の右側に重要文化財の三重塔。この塔は、秀吉が山崎の戦いの勝利記念に一晩で建立したと言われる三重塔、通称「一夜之塔」と伝承されている。

 塔の傍に17烈士の塔が見られる。元治元年(1864)の蛤御門の変の時、長州藩に加わった久留米水天宮の真木和泉守(まきいずみのかみ)ら十七名が敗走しこの宝積寺へこもったが、討伐軍に包囲されたことから自決。住持が最期を哀れみ、忍んで天王山の中腹に埋葬した。
 さらに参道を進むと本瓦葺の本堂がある。本尊の十一面観音菩薩(国重文)が安置。本堂左横にある「小槌宮」に大黒天が祀られ、打出と小槌もこの堂に祀られている。本堂と小槌宮の間の奥に、聖武天皇の供養のために建てられた九重の石塔がある。また、本堂右後方の池畔には、弁才天堂がある。

 宝積寺は貞永元年(1232)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995-999年)寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記「明月記」には建仁2年(1202)に宝積寺を訪れたことが記されており、近年では明治時代に、夏目漱石が「漱石日記」に宝積寺について記している。

 ここで「宝寺」と呼称する由来を紹介しておこう。
 奈良時代の養老7年(723)、第42代文武(もんむ)天皇の皇子の夢枕に竜神(雨をいのままにする竜神)が現れ、打出と小槌を出して「これで左の手のひらを打てば果報が授かる」と言って天へ舞い上がった。
 翌朝、皇子が目を覚ますと枕元に打出と小槌が置かれていた。皇子は半信半疑で竜神が言ったとおり左手のひらを打った。翌年、皇子は即位、第四15代聖武天皇となったという。聖武天皇は竜神を崇敬し故事に則って恵方(乾・北西)の方に小槌を奉納することになった。平城京(奈良)からの恵方(北西)が山崎村で、打出と小槌を奉納する宝積寺が建立され、その後、大黒天神が祀られたことから、いつしか大黒様の打出の小槌の神話にあわせ、この寺を「宝寺」と呼ぶようになったという。

 所在地:京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原1。
 交通:阪急電鉄河原町線「大山崎駅」下車・JR東海道線「山崎駅」下車、北へ徒歩約8分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神童寺」(じんどうじ)

2008年11月11日 22時36分23秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都の南・木津川を見下ろす深い山の中、爽やかな鳥の声と柔らかで鮮やかな木々の緑に包まれ、千年以上の時を刻んできた古刹は、聖徳太子によって創建されたと伝わる神童寺がある。

 車で京都方面から国道24号線を奈良に向かって木津川沿いを走り、開橋の袂の信号を左折、平尾の三叉路に突き当りその信号を右折して進むと左側に山城森林公園と当寺の案内版がある交差点に行き会う。これを左折し山側に向かって進むと分岐点に案内版があるから表示どおりに進む。茶畑や棚田の山間を練って進む山里は、懐かしい郷愁にふれることができる。

 当寺は古くから奈良の吉野山と密接な関係を持つ修験道の霊地とされ、『北吉野山神童寺縁起』によると「推古天皇4年(596)に聖徳太子が開創し、千手観音を本尊として大観世音教寺と号した。のち白鳳4年(676)に役行者が来山し、石南花の大樹のもとで修行していたところ、吉野の子守・勝手・金精(こんじょう)の三神が童子となって現れ、この木で霊像を彫刻することを勧めた。これに従って役行者が蔵王権現像を彫刻したが、その時に天八百日尊(あめのやおひのみこと)と天三下尊(あめのみさがりのみこと)と称する神童2人が助力したので、たちまち霊像が完成した。

 聖徳太子創建時の本尊千手観音を祀る本堂とは別に、蔵王堂を建立して蔵王権現像を安置する。役行者に助力した二神童は伽藍擁護の神として寺の側の天神社に祭り、また霊像を刻むことを勧めた子守・勝手・金精などの吉野の神を寺の鎮守として勧請し祭った。そしてこれを機に、寺号を神童教護国寺(じんどうきょうごこくじ)と改め、これ以後は大和の吉野山と南北相対しているので、北吉野山と号した。その後も、当山には役行者の聖跡を訪ねて多くの高僧が来山し、その遺跡やゆかりの仏像が残っている。やがて治承4年(1180)に源平合戦の兵火によって焼失したが、建久元年(1190)に源頼朝が復興した。」とある。
 この縁起の内容は、必ずしも歴史的事実を伝えているとはいえないものの、神童寺の歴史を探るうえで重要な内容を豊富に含んでいて大変興味深い。

 山門は、興福寺の一乗院からの移築で、山門に鯱があるのは珍しく、本堂(蔵王堂)は室町時代の建立で、国の重要文化財に指定されており、収蔵庫には、国の重要文化財となっている藤原時代の木造不動明王立像、木造愛染明王坐像や木造阿弥陀如来坐像など多数安置されている。

 このほか境内には、行者の滝、鐘楼などがあり、春には桜の満開と同じ時期にミツバツツジが咲き、境内が一番きれいに見える時節。喧噪とは無縁の、実に豊かな時間がゆっくりと流れていくようで、生き返る思いがする。
 車で訪ねる場合、駐車場スペースがなく、門前には寺の車が常駐している。周囲の道は狭く駐車は難しいが、近所迷惑を覚悟しても1台しか駐車出来ない。取材と断り、地元消防団に家の前に丁寧に挨拶して駐車させてもらった。

 所在地:京都府相楽郡山城町大字神童子小字不晴谷112。
 交通:近鉄バス・京阪バス、京都奈良路線で高麗バス停下車、徒歩約30分。またはJR奈良線で棚倉駅下車、徒歩約30分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大乗寺」(だいじょうじ)

2008年11月05日 16時56分11秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大乗寺は、京都山科、地下鉄東西線御陵(みささぎ)駅から徒歩15分の所にある小さなお寺で、駐車場がないので少々不便だが、それだけに俗化せず、永年寺とその周辺のたたずまいが保たれてきたともいえよう。
 しかし、京都新聞で「酔芙蓉の寺」として紹介されると、大勢の人々が訪ねてくるようになり、またインターネット等にも載せられるようになると全国区となって、酔芙蓉の咲く時節は、それをお目当てに観光客や写真愛好家たちがドッと押しかけるようになった。この時期をはずすと静かな里山のお寺に戻る。

 もともと荒れ寺だった境内を、じみちに整備し酔芙蓉の挿し木を始めたのがきっかけで、今では約1、300本に増えたそうで、本堂を囲むように植えられており、9月中旬から10月中旬までが見頃だ。

 当山は今から約300年前に京都の七本松の内野という所に戒禅比丘隆韶大和尚によって建立され、後に禅宗系の寺から法華の寺に改宗されたと伝えられている。その後は代々尼寺として受け継がれ無本山の寺だっが、約二百年前に法華宗の大本山本能寺の末寺になった。
 細々とつないできた尼寺だったようで、昭和初期、松崎恵浄という尼僧が本堂・庫裡を改築し復興したが、本山の意向に基づき、山科の現在地に移転したのたが、永年住職不在の寺であったことから草茫々たる荒れ寺と化していたところ、平成4年暮れ、現・岡沢住職夫妻が転住以来、草むらに覆われた荒れ寺を、自力で参道造りからはじめ、黙々と整備した。傍ら吟詠会の友の勧めにより酔芙蓉の苗木100本ほどの寄贈を受け、それを毎年百数十鉢に挿し木して、今日までに増やすことが出来たという。

 今、市民に「文学の寺」としても親しんでもらおうと、境内に文学碑第1号、日蓮の歌碑を建てた。今後も、百人一首の歌碑を建てる構想を進めているという。
 歌碑は高さ約一メートルで、晩年の日蓮が、身延山(山梨県)の草庵で詠んだとされる「立ちわたる 身のうき雲も 晴れぬべし たえぬ御法(みのり)の 鷲(わし)の山風」が刻まれている。

 所在地:京都市山科区北花山大峰町38-1。
 交通:地下鉄東西線「御陵駅」下車3番出口より徒歩15分。京阪バス三条京阪発山科行、「日ノ岡」下車徒歩10分、または、三条京阪発大宅行、「石塚町」下車徒歩8分。駐車場がなく電車・バスで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする