「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「若草山」(わかくさやま)

2011年01月13日 14時10分46秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良のシンボル的存在となっている若草山は標高341.8m、33haの全山が芝生で覆われたなだらかな山で、笠(かさ)をふせたような丘が三つ重なっている様子から「三笠山」とも呼ばれている。
 山頂からは眼下に奈良市内、奈良公園が広がり、鹿たちと戯れながら大和三山や生駒山などを眺望するのもすがすがしい。

 全国ニュースでも報道されている若草山の山焼きは、毎年1月の第4土曜日(昔は成人式の前日)に開催され、若草山の麓から、南へちょっと下った吉城川の畔に建つ春日大社の摂社・水谷神社の辺りから、松明を掲げた東大寺の僧兵数人と春日大社の神官数人が、吉城川の赤い欄干の橋を渡って、石段を登り、若草山の南麓に建つ春日大社の末社・野上神社まで行進する聖火行列に始り、午後6時に一斉点火される。

 山焼きの由来については、奈良公園を流れる吉城川を境として、南側が春日大社と興福寺、北側が東大寺の領地で、宝暦10年(1760)奈良(南都)奉行が境界争いを5万日預かると仲裁し、関係者の立ち会いのもと若草山を焼いたのが起源という説と、原始的な野焼きの遺風とする説などもあり定かでないが、建長7年(1255)にはすでに新春に野焼きを行なった記述があり、鎌倉時代にはすでに草山だったことがわかっている。若草山自体は、春日山と同様に三笠山安山岩からなる「古い火山」であることがわかっている。

 奈良公園からからは全体の一段しか見えないが、登り口から頂上へ向かう、はじめは緩やかで10分ほどで2段目(2重目)へ行きつくが、2段目付近からは足が竦む様な尾根となり、それをつたって3段目に上がると、上の出入り口(料金徴収所)があり頂上へ。ここからは北に山城の山々、南に二上山、葛城山、金剛山の山々、西に矢田山系越しに生駒山系が望まれ、真下の東大寺、その先に平城京跡が見渡せる。

 頂上には、享保13年(1728)東大寺の僧康訓が碑「鶯陵」を建てた「鶯塚古墳」がある。日本で最も高い所に築造され、軸を南北に向けた前方後円墳で、全長103m、前方部幅50m、後円部径61mの規模をもち、2段築造の墳丘に葺石や家形埴輪、前方部西南隅で石製の斧や内行花文鏡が出土し、碑文では、仁徳天皇の皇后、磐之媛命の平城坂上陵になっているが、定かではない。築造は、4世紀末と推定され、丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳で、清少納言の「枕草子」に記されている「うぐいすの陵(みささぎ)」と云われ、名前もそれからとったとされている。

 昭和3年以降、芝生保護のために(裸地化による山崩れや落石の防止)入山制限が実施されており、開山されるのは春(3月中旬~6月中旬)と秋(9上旬~11月下旬)の2回(開山日は毎年変わる)となっている。
 毎年3月20日には鹿せんべい飛ばし大会が開催(先着約1千人)され、約20センチの特製の鹿せんべいを飛ばし、その飛距離を競うもので、30メートルラインを超えた人は入賞賞品の抽選会に参加することができる。

 所在地:奈良市雑司町469。
 交通:近鉄奈良駅より奈良交通バス「大仏殿・春日大社前」もしくは「春日大社表参道」下車、徒歩12分。
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「新薬師寺」(しんやくしじ)

2011年01月06日 23時52分23秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良市街地の南東方、春日大社の二の鳥居の南方に位置する新薬師寺は、諸説あるものの光明皇后が聖武天皇の眼病平癒を祈願して、天平19年(747)に建立し七仏薬師像を安置したのが始まりとされ、東大寺と共に南都十大寺の一つに数えられていた。約440m四方の境内に七堂伽藍甍をならべ、僧1千人と記録にある華厳宗の壮大な寺院であった。『続日本紀』によれば宝亀11年(780)落雷により西塔が焼失し、いくつかの堂宇も延焼したが、現本堂のみが焼失をまぬがれている。さらに応和2年(962)台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊している。その後、鎌倉時代、華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)が一時入寺し復興に努め、現在の東門、南門、地蔵堂、鐘楼(各重文)を建立したとある。堂宇の構成は古のギリシャ建築を偲ばせるところから、シルクロードの終着点ともされている。近年、裸形地蔵尊(鎌倉時代)が発見され話題になった。平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。
寺名の「新」は「あたらしい」ではなく、「霊験あらたかな」の意味だという。

 本堂(国宝)は、入母屋造、本瓦葺きで正面は柱間七間のうち中央三間を戸口とし、その左右各二間には窓を設けず白壁を大きく見せている。また側面、背面も戸口のみで窓は設けていない。内部は土間で、天井を張らず、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」となっている。堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来像(国宝)を安置、これを囲んで十二神将像が外向きに立つ。
 南門(重文)は、鎌倉時代に建立されたもので、基壇は乱石積でその上にしっかりと大きい面取りのある4本の柱が立つ四脚門である。

 本尊如来坐像は、様式・技法からみて八世紀末頃の作と推測されている。坐像で高さ2m近い大作で、基本的構造は一木造である。眉、瞳、髭などに墨、唇に朱を差すほかは彩色や金箔を施していない素木仕上げだ、一般の仏像に比べ眼が大きいのが特徴であろう。光背には六体の化仏が配されていている。1975年の調査のとき、像内から平安時代初期と見られる法華経八巻が発見され、国宝に指定された。

 教科書にも掲載されている「塑造十二神将立像」(国宝)は薬師如来の眷属である。円形の仏壇上、中央の本尊薬師如来像を囲んで立つ。本尊(木彫)とは異なり、奈良時代に盛んに造られた塑像である。造立の謂れは定かではないが、作風や、12躯のうち1躯の台座から「天平」の墨書が見つかったことなどから、天平期の作と見なされている。同じ塑造の傑作として知られる東大寺戒壇院の四天王像の造形と比較すると、やや形式を重視した形が見られることから、東大寺像よりも時代が少し下ると見られている。12躯のうち「波夷羅(はいら)大将(国宝指定名称「宮比羅(くびら)大将)」だけは江戸時代末期の地震で倒壊し、1931年に細谷而楽が補作したもので、国宝指定外である。

 本尊に向かってすぐ右の「伐折羅(ばさら)大将(国宝指定名称は迷企羅(めきら)大将)」はよく知られており、奈良観光のポスターなどによく使用され、500円切手のデザインとしても有名である。
 観音堂(元地蔵堂/重文)も鎌倉時代のもので、方一間の小さな仏堂建築として、当期を代表するものである。間斗束の位置にある蟇股は功妙優美な線を描き鎌倉期の秀逸である。堂内には右側に薬師如来(室町時代)、左側に地蔵菩薩(室町時代)、中央に十一面観音菩薩(室町時代)、いずれも木造が安置されている。
 鐘楼(重文/鎌倉時代)は、弘安2年(1279)の棟札があり、袴腰は漆喰塗りの珍しい作例である。中の梵鐘(重文)は天平時代の貴重なもので日本霊異記にある道場法師鬼退治の釣鐘として名高い。
 さて見物したあとは、お寺の食事処で、「ゆばそうめん(550円)」「湯どうふ(1000円)」「抹茶(500円)」などを楽しんだらどうだろう。
所在地:奈良市高畑町468。
 交通:JR奈良駅・近鉄奈良駅から市内循環バスで13分、「高畑町」下車、徒歩10分。
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