「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「城南宮」(じょうなんぐう)

2007年02月23日 00時59分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 古都の南端、名神高速道路京都南インターチェンジより目と鼻の先に位置する城南宮は、「国常立尊」(くにのとこたちのみこと)、「八千矛神(=大国主命)」(やちほこのかみ)、「息長帯日売命(=神功皇后)」(おきながたらしひめのみこと)の三柱の神様を中心に祀っている。
 社伝によると、はるか昔、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され戦が終わるとその御旗は宮中で大切に保管していた。そして平安京に都
を定めた時その御旗を城南のこの地に御神体として納め、国土守護の神、国常立尊と神功皇后の御霊をあわせ祀って都の守護神とした。

 城南宮が鎮まる鳥羽の地は、平安京の表玄関に当たる交通の要衝であり、また鴨川に臨む水郷の景勝地でもあった。やがて貴族の別荘が建てられるようになり、平安時代の末には白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を執り行った。その後、鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年にわたり政治・文化の中心となり華やかな賑わいを見せたという。
 全国的に知られている「曲水の宴」や、離宮の池に舟を浮かべて四季の移ろいを賞でたり、競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)が行われた。平安後期の右大臣・藤原宋忠の日記「中右記」(ちゅうゆうき)に、永長元年(1096)、白河上皇がた鳥羽離宮で「流鏑馬」を催したとあり、日本で最古の流鏑馬と言われている。
 また、後白河法皇は今様(いまよう)を好み「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を残したが、その中に「いざれこまつぶり城南寺の祭り見に…」というのが記されている。白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の精進所として城南離宮を選び、ここに7日程籠って身を清め、道中の安全を祈願して熊野詣に旅立ったといい、当宮の方角の災いを除く方除、旅行安全の信仰もこの時代にはすでに始まっていたのではなかろうか。

 歴史的にも大きな転換を見つめた地点ともなっており、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が城南宮の祭礼の流鏑馬揃えと称し兵を集め「承久の乱」を起こし、貴族社会から武家社会へと転換していくことになった。時代は移ろい慶応4年(1868)1月3日、城南宮の参道に並べられた大砲が火を噴き、鳥羽伏見の戦いが勃発、武家社会から明治へと転換、当宮は、大きな社会の転換の舞台ともなった。

 では、当宮の名庭を紹介をしておこう。
 社殿を取り囲むように広がる楽水苑は、伏見名水である地下水を引き入れた清々しい庭園である。春の山・平安の庭・室町の庭・桃山の庭・城南離宮の庭と趣の異なる5つの庭からなっている。

■源氏物語花の庭 
 源氏物語に登場する約一○○余種の花木が植栽され、雅の心に浸ることができる。春の山は、椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が彩る。6月の末には、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われる。白河上皇は城南離宮を築く際に、源氏物語に描かれた光源氏の六條院をモデルにしたといわれている。

■平安の庭
社殿を背景に広がる池に、清らかな水が滝と遣水から流れこんでおり、池の周囲には、オミナエシや萩、リンドウが咲き目を楽しませる。城南離宮は大半を池が占め、舟を浮かべることができるように深く掘り下げ、またその土で中ノ島を築き、各地から名石を集めて景色を整えたという。そして管絃の遊び、花見の宴、和歌の会と四季折々に風流を楽しんだといい、ここで、4月29日と11月3日、王朝の雅を今に伝える「曲水の宴」が行われている。

■室町の庭
 池泉廻遊式の静寂な庭に茶室(楽水軒)が建ち、その前には礼拝石、池中央の蓬莱島の奥には三尊石など石組みが配されている。入口に雌滝、奥まったところに雄滝があり、その横の舟付き場の藤の花、そして色とりどりのツツジが賑わいを添える。

■桃山の庭
枯山水様式で、桃山時代の絢爛な風様を醸している。紅枝垂れ桜は見事で、花の咲く頃は多くの観光客とカメラ愛好家でひときわ賑わいを増す。

■城南離宮の庭
城南の地が最も華やかであった離宮時代を偲ばせている枯山水庭園。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を象徴しているという。

 所在地:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
 交通:JR京都駅から地下鉄あるいは近鉄で竹田駅下車、⑥出口より徒歩15分、④出口より市バス南系統5分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「伏見界隈」(ふしみかいわい)

2007年02月16日 08時12分56秒 | 古都逍遥「京都篇」
 伏見といえばまず頭に浮かぶのがお酒。街に入ると、どっしりとした白壁の酒蔵が旅人を迎える。昔の船着場は、旅籠「寺田屋」の前にある。
 ここからは深い堀と、ほとりに続く酒蔵が眺められる。しだれ柳が水面まで枝を垂れほのかな詩情を漂わせ、川畔につながれた小舟が幕末へとタイムスリップさせてくれる。

 運河に接する「長建寺」は東光山と号し、真言宗醍醐寺派に属している。鎌倉時代後期の作と言われる弁才天を本尊としており、この地では「島の弁天さん」として親しまれている。元禄12年、伏見奉行だった建部内匠頭政字が中書島を開拓するにあたり、深草大亀谷即就院の塔頭多聞院を移築し弁才天を祀ったのが始まり。
 寺内にある「亀石」は、その昔、伏見は伏水(白菊水)と書いた。良質の水が湧き酒造りが発達した。ここに湧く水も同じ水脈で、この浄水で身も心も、お札も洗い清めた。蛙に似た石が祀られ、カエルの語音の縁起を担いで祀られた。

 伏見で何と言っても有名なのが旅籠「寺田屋」であろう。坂本竜馬とお登勢の物語は映画、ドラマ、小説の世界には欠かせない竜馬の物語である。
 寺田屋に潜伏していた竜馬が役人に知れるところとなり、寺田屋が捕縛にきた役人たちに取り囲まれた。入浴していたお竜がその気配に気づき、身を包むことも忘れ竜馬を逃がす件は余りにも有名で、多くの物語になった。竜馬は南浜づたいに逃れたといわれている。寺田屋と書かれた提灯、古びた格子、何もかもが昔のまま残されている旅籠。

 寺田屋は、慶長2年創業の船宿で、現在は旅館兼史跡博物館となっている。
薩摩藩の定宿であった事から、1866(慶応2)年坂本龍馬が幕吏に襲撃をうけ危うく難を逃れた坂本竜馬襲撃事件の場所でもある。
 建物内では、1階に寺田屋事件現場となったお登勢の部屋、坂本竜馬襲撃事件のときおりょうが入浴していたお風呂場、2階では坂本竜馬の部屋、柱の刀痕などが自由に見れる。外では、坂本竜馬像、薩摩九烈士碑などがある。  

 伏見港は今は整備されて観光地化しているが、ここを弁天浜と言っていた昔、船上で行われた弁天祭は関西一円に知れ渡っていた。
 向かい側を大倉浜と称し、明治22年東海道本線が開通するまで、この浜で米が降ろされ、酒が積まれた。北側は伏見南浜港と言われて江戸時代は参勤交代の大名の御座船をはじめ、30石船、伏見船の発着場としてわが国でも珍しい川港であった、この一帯はよく映画のロケーションで使われていたが、昨今は滋賀県近江八幡の掘割りにその舞台を奪われているものの、新京都百景の一つに指定されて、日本の原風景をみることができる。

 所在地:京都市伏見区南浜町。
 交通:京阪電車中書島から徒歩7分、近鉄桃山御陵前から約15分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「流れ橋」(ながればし)

2007年02月09日 07時56分58秒 | 古都逍遥「京都篇」
 時代劇映画やドラマに必ずといっていいほど登場している長い木橋、時代劇の雰囲気づくりには欠かせない風景となっているが、このような橋、いったいどこに架かっているのだろうか、とその場面を見るたびに思っていた。ところが、ふとしたことから、その橋がわが家のほんの目と鼻の先にあると知ったのはそんな昔のことではない。川の風景写真を撮ろうと愛用のカメラを持って近くを流れる木津川沿いを歩いていると、目の前に、どこかで見かけた欄干の無い大橋が現れた。時代劇ファンの私にとては感動の出会いであった。そこに中村主水や暴れん坊将軍がすっくと立っている幻想に襲われた。

 木津川に架かる八幡市と京都府城陽市久御山町を結ぶ上津屋橋(こうずやばし)の通称であるこの橋は、全長約356.5㍍、幅3.3㍍、現存する最長級の木橋で、昭和26年に架けられた。当時の資料を見ると、当初永久橋を架ける予算がなく、かといって普通
の木造橋では増水の度に流されてしまう。そこで水の流れに逆らわない構造の橋が架けられた。つまり、木津川が増水して橋板まで水に浸かると橋板が自然に浮かび、8つに分割してワイヤーで繋がれた橋板が吹き流しのように流れるという「流れ橋」である。水が引けばワイヤーを引っ張り橋板をたぐり寄せ元にもどすという優れものである。

 この付近一帯は木津川の砂地の河原が広がり、コンクリート護岸や電柱もなく、橋をバックに時代劇を初めとする映画・テレビのロケーション等に利用され、NHKの朝のドラマ「オードリー」で主人公が少女時代に飛び込むのはこの橋が使われた。最も映画に登場したのが「座頭市」「必殺仕事人」「暴れん坊将軍」など。休日には家族連れや、若者のグループがバーベキューを楽しむなど、四季を問わず市民の憩いの場となっている。その土手のたもとには流れ橋の建設資料や地域の物産、蕎麦打ち道場、宿泊施設をもつ「四季彩館」がある。

 日本最長の木橋は、静岡県島田市の大井川に架かる「蓬莱橋」(ほうらいきょう)が897㍍あるから、流れ橋木橋としては八幡のものが日本一と言えるだろう。また、岡山県下には小田郡矢掛町の小田川に架かる「観月橋」をはじめとする流れ橋がある。


 橋は、三重県を水源とする「木津川」(きずがわ)にかかっているが、少し下流の山崎で、琵琶湖から流れる「宇治川」(うじがわ)、丹波地方から嵐山を経て流れる「桂川」の三川(さんせん)が合流し淀川(よどがわ)となって大阪府に流れ込む。
 三川が合流する地点の西側対岸にある天王山(てんおうざん)は、明智光秀、豊臣秀吉の決戦場となった。また川沿の東側山麓・男山の山頂にある石清水八幡宮は、徒然草の「仁和寺のある法師」の章の中にでて来る。京都に存在する神社の第1位の位を持つ由緒ある神社である。。 
 司馬遼太郎の「国盗物語」にでてくる斉藤道三は、三川が合流する山崎の近くで御所を警護する北面の武士の松波左近将監基宗(まつなみさこんしょうげん もとむね)の子として生まれたことでも知られている。

 毎年4月の末の日曜日に時代劇祭が河川敷で行われる。このとき、参加料を支払えば好みの時代劇立役者に扮装し、橋を渡ることができる。東映京都撮影所のスタッフが着付けやメーキャップをしてくれるもので、写真も含めて参加料は、昨年は3万円であった。申し込み問い合わせは:やわた流れ橋時代劇祭実行委員会事務局:やわた流れ橋交流プラザ
四季彩館内〒614-8173 八幡市上津屋里垣内56番地の1。 TEL(075)983-0129。
 
 所在地:京都府八幡市上津屋里垣内
 交通:京阪電鉄八幡市駅下車、京阪バス2番乗り場、岩田方面「内里西岩田循環・新田辺・岩田南」行、上津屋下車すぐ(バス約20分)・タクシーで約15分。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「三条大橋」(さんじょうおおはし)

2007年02月02日 00時30分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東海道五十三次の出発点で重要な交通上の要衝であった三条、そこに架かる橋が「三条大橋」である。かつて橋の東北隅に橋の建設の由来を記述した「駒札」があり、京都市の名前で次のように記載されていた。
 『橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期にはすでに簡易な木橋が鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1580)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造をした。また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるものなり。磐石の礎は地に入ること五尋(約9メートル)、切石柱は63本也(略)…」』とあり大工事であったことがうかがえる。
 以後たびたび流出したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復されてきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74m、幅15.5m。

 しかし「駒札」は、平成2年春まで存在していたが、翌年秋には無くなっている。橋の西北隅には、天正18年と刻まれた石柱が電話ボックス横の狭い場所に風雪に耐えてポツリとあった。 ここの橋脚用石柱を7代目庭師・小川冶兵衛が、平安神宮と円山公園にある池の飛び石(沢渡)や舟場に利用している。平安神宮では、神苑見学コースの最終出口のところに3本の石柱が置かれており、駒札には「この石柱は天正年間(370余年前)豊臣秀吉公が造営した三条・五条大橋の橋脚で、神苑内には50数個が保存されており、「津国御影天正17年」と銘のあるものもあり、中神苑の飛島にもこれらの石材が使用されている」と記されている。

 西より2つ目の南北擬宝珠には池田屋騒動時についたとされる刀傷がある。また、橋の西詰には十返舎一九の「東海道膝栗毛」の主人公・弥次喜多像が立っている。

 野次喜多は清水寺に詣でて、「清水の舞台から傘をさせば飛び降りても平気か?」と聞いて嫌がられたり、三条大橋付近に宿泊し、まんまと梯子を買わされる話などがユーモラスに出てくる。
 また、野次喜多像の下には旅の安全を祈願する「撫で石」がある。この石は鞍馬から産出した鞍馬石で、鉄錆色の珍しいもので、還来神社の「無事に還り来る」という信仰に習ったもので、撫でて旅の安全を祈願したという。

 京阪三条駅側、東詰には寛政の三奇人と称された高山彦九郎の「皇居望拜之址」の像がある。天下の公道で跪座した面構えは、悲壮感が漂っている。彦九郎は尊王の志厚く、当時の天皇家の衰微を泣いて嘆いたと伝えられる。

 近接の史跡を紹介しておくと、京阪三条駅の南、京阪三条南ビルの敷地内に「小川亭跡」を示す石碑が建てられている。小川亭の女将てい(大正12年7月10日、90歳歿)は、勤王ばあさんとして有名で、特に肥後藩の志士と親交が深く、その世話をした。当時、小川亭に出入りした志士として名を記録されているのは、住江甚兵衛、河上彦斎、轟武兵衛、宮部鼎蔵、山田信道、高木元右衛門、藤村紫朗、桂小五郎など。
 また、NHK大河ドラマになった「花の生涯」(舟橋聖一作)のヒロイン村山たか女が、長野主膳とともに大老井伊直弼に協力したという理由で捕縛され、生き晒しにされた場所でもある。(後、救出され金福寺の尼僧となる)文久8年(1863)2月13日早朝には等持院の足利三代(尊氏・義詮・義満)の木像の首が三条河原に晒されたこともあった。当時から三条大橋は人の往来が多かったので、そういった舞台に利用されることになった。

 三条大橋が駅伝の発祥の地であることを知る人が少なくなったが、最初の駅伝は、大正6年(1917)4月27日に行われた読売新聞社の主催による「東海道五十三次駅伝競走」とされる。京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池までの23区間、約508kmのコース、到着したのは翌々日の午前11時34分と記録に残る。この競走のスタートとゴールである三条大橋と上野不忍池の近くには「駅伝発祥の地」の碑が建っている。

 所在地:京都市中京区三条通
 交通:京阪電鉄三条駅下車、駅前。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする