「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「最勝院」(さいしょういん)

2007年12月27日 22時29分51秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都地下鉄東西線の「蹴上駅」を降り、蹴上発電所のインクラインを通り、南禅寺の境内を奥に抜け、レンガ造りの水路閣をくぐり、琵琶湖疏水を歩いて更なる奥に向かうと駒ヶ瀧最勝院がある。京都でも人気の高い南禅寺の近くにあるのだが、ほとんど訪ねる人もおらずひっそりとしていて古寺の雰囲気を楽しむことができる。
 
 訪ねたのは夏の盛りを過ぎたころで、門前のカエデの緑が鮮やかで、百日紅(さるすべり)の花も輝くように咲いていた。
 この一帯の山峡は、鎌倉時代「神仙佳境」と呼ばれていたらしく霊場の雰囲気がどこか漂っている。最勝院は三井寺の駒道智大僧正が晩年にこの地に隠棲したのが発祥と伝えられている。

 本堂の前には「縁結びの松」と呼ばれている松があり、百日紅の木と一体化していることから「縁結びの松」と呼ばれているのだが、百日紅の木の又に松の種が芽生えて大きくなったとかで、百日紅は樹齢およそ300年、松は100年といわれている。

 最勝院のさらに奥にある駒ヶ滝は、京都一周トレイルのコースとなっている。滝のそばには、古来より人々に信仰されてきた駒ヶ滝不動尊像や烏天狗像が祀られ、滝の前には駒道智大僧正が祀られている祠がある。辺りは清々しい気に満ちており、滝の水の音が耳に心地よく響いている。

 ここのここの住職さんが「般若の面」作りで有名な方だと知ったのは訪ねた後で知った。観光寺でないため、詳しい取材ができず残念であった。

 所在地:京都市左京区南禅寺福地町86。
 交通: 京阪電車東福寺駅より徒歩10分、地下鉄蹴上より徒歩20分。

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「古知谷阿弥陀寺」(こちだにあみだじ)

2007年12月20日 23時29分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
 三千院で知られる大原を3㌔ほど北の山中に忽然と姿をあらわす中国風の山門をくぐると、大海原のような見事な苔と四季折々の花々の美しい寺として知られる古知谷・阿弥陀寺は、江戸時代に入った直ぐの慶長14年(1609)、木食上人弾誓(たんせい)が開山した。

 弾誓上人は尾張国(愛知県)に生まれ、九歳のときに出家。美濃国(岐阜県)の山奥において20余年の修行をつんだ後に諸国行脚に出て修練。佐渡ヶ島において生身の阿弥陀仏を拝し、他力念仏の深義を授かり、信州国、相模国を経て、古知谷に来られたと伝える。上人は岩穴に住み念仏三昧の日々を送りつつ霊木から自身の像を作り、さらに自分の頭髪をその像に植えた「植髪の尊像」を本尊として安置し、如法念仏の道場(本堂)を造った。これが阿弥陀寺の始まりで、その4年後の慶長18年(1613)、上人63歳の時、本堂脇の岩を修行中の僧たちに掘らせ、石棺の真下に掘った二重の石龕(せきがん)に生きながら入り、即身成仏(自らの身体をもって悟りをひらくこと)となった。

 ミイラ仏となった弾誓上人の遺骸は石棺に納められ本堂横の石廟に安置された。その約100年後、近江国(滋賀県)平子山で修行を続けていた澄禅(ちょうだん)上人が、弾誓上人の行跡を慕って阿弥陀寺に入り、5年にわたって岩穴にて念仏し、享保6年(1721)に入定した。この澄禅上人の座禅所「禅公窟(ぜんこうくつ)」が実相の滝の奥にある。

 山門から庫裡までの参道は約600㍍のなだらかな登りの地道。両側には杉の古木が並び、自然の素晴らしさを体感できるのが阿弥陀寺の魅力である。また、境内は新緑の美しさも良いが、秋にはカエデの紅葉が絶品。知る人ぞ知る、知らない人は全く知らない紅葉の名所。中には樹齢800年のタカオカエデ(イロハモミジとも)の巨樹があるが(京都市の天然記念物に指定)、創建当時すでにこの地に植わっていたと伝承される古木。

 観光寺院でないため、ひっそりと静かで、聴こえるのは小鳥のさえずりだけ。書院で襖絵などを鑑賞、そして宝物館で弾誓上人の所持物ほか大聖寺、有栖川、閑院など各宮家から賜った品々が鑑賞できる。廊下伝いの奥の本堂(開山堂)には、木像阿弥陀如来坐像(重文)と「植髪の像」と呼ばれる弾誓上人自作の像が安置されている。

 所在地:京都市左京区大原古知平町古知谷阿弥陀寺83。
 交通:京都バス「古知谷」下車徒歩20分。
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「麟祥院」(りんしょういん)

2007年12月12日 23時00分16秒 | 古都逍遥「京都篇」
 妙心寺塔頭の1つである麟祥院は、寛永11年(1634)徳川第3代将軍家光の乳母「春日局」追福のため碧翁愚完(へきおうぐかん)和尚を開山として建立された。寺院内にある御霊屋(おたまや)は、仙洞女御所にあった釣殿で、方二間半、瓦葺だが、もとは木賊(とくさ)造の上に銅板を葺いたものだったようで、麟祥院所蔵の「寺跡明細書」には、後水尾天皇から春日局が拝領したもので、内部の張付壁は狩野貞信筆とされ、小堀遠州作の春日局木像が安置されている。明治30年(1897)に妙心寺南門の東から現在地に移建される。

 方丈の水墨襖絵「雲龍図」「瀟湘八景図」「山水図」「西湖図」などを描いた海北友松の子、海北友雪(かいほうゆうせつ)は春日局と関係が深かったと言われている。とりわけ「雲龍図」は豪壮な筆致で、 江戸時代初期の傑作に数えられる(非公開)。

 養老軒は寛永12年(1635)建造の寮舎、玄照軒は霊峰和尚創建の寮舎。
 通常は非公開となっていて、「京の冬の旅」の期間中(1月中旬~3月中旬)に特別公開される、拝観料600円。

■所在地:京都府京都市右京区花園妙心寺町49。
■交通:JR京都から山陰線で約10分、花園駅下車徒歩5分。
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 「退蔵院」(たいぞういん)

2007年12月05日 22時51分42秒 | 古都逍遥「京都篇」
 国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」で知られる退蔵院は、臨済宗妙心寺の塔頭の中でもかなり大きな敷地を有している。越前の豪族・波多野重通(はたのしげみち)が妙心寺第三世無因宗因禅師に帰依して、応永11年(1404)千本通松原に創建、のち日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)により妙心寺山内に移された古刹である。応仁の乱で焼失し一時期衰退するが、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉(きねんぜんゆ)により再建された。

 庭園は室町時代の画家、狩野元信が築庭した枯山水の庭で、「元信の庭」と呼ばれている。画家としての元信が立体的な絵として庭を描いたと思われ、眺めていてもいつまでも飽きがこないほどの美観庭園で、枯滝・蓬莱山・亀島と石橋など多数の庭石が豪快に組まれており、江戸時代に発行された「都林泉名勝図絵」にも著されている。
 また、垣根を隔てて築かれた回遊式庭園は昭和38年(1963)から3年の月日を費やして造園家の中根金作(なかねきんさく)が作庭した昭和を代表する名園で余香苑(よこうえん)と名付けられている。深山幽谷の趣きと平安王朝の雅びやかさをもつ広い庭
で、桜、つつじ、藤、紫陽花など四季折々に花が咲き、また大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち、深山の大滝を見るような風情があり、一面の苔の緑があざやだ。

 大休庵の季節の花を楽しみながら銘菓「瓢鮎菓子」と抹茶の一服(500円菓子付)は、まさに雅人になった気分となる。
 「つくばい」の下深くに瓶を伏せ込み、手水に使われた水が瓶に反響して琴の音のように聞こえる「水琴窟」(すいきんくつ) の清らかな音にも心がなごむ。

 方丈の廊下に掛けてある教科書などにも良く登場する国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」は、水墨画の祖といわれる如拙が描いたもので、「鯰(なまず)」(「鮎」は「なまず」の古字)を瓢箪で捕まえるという難題を当時の禅僧に考えさせたそうで、不可能な問いかけを図示したものであり、禅の公案を絵画化したものであるといわれている。現状、紙面の下半に絵があり、上半部には序文に続けて当時の京五山の31名の禅僧による賛が書かれているが、当初は座屏(ついたて)の表裏にそれぞれ絵と賛を貼ったもので、室町時代の代表的水墨画。画面上部の序文により、室町幕府四代将軍足利義持の命で制作されたことがわかる。宮本武蔵は瓢鮎図を前に自問自答したといわれる。展示されている
のは江戸時代の模作で、原品は京都国立博物館に寄託されてある。

 方丈(重要文化財)内部の襖絵は狩野光信の高弟であった狩野了慶の筆によるもので、桃山後期の優れた遺品とされる。(内部は通常非公開)本山の南門西にある「勅使門」は親柱2本、控え柱四本からなっており、様式名を「四脚門」と言います。退蔵院「薬医門」は親柱2本、控え柱2本から成り、当時、高貴な薬医にしか与えられなかった御屋敷門の形で、妙心寺塔頭でも、バランスの整った美しい形状を残した「薬医門」であると
言われており、江戸中期に建設された。

 所在地:京都市右京区花園妙心寺町35番地。
 交通:JR嵯峨野線「花園駅」下車、徒歩10分。JR京都駅より京都市バス「妙心寺北門前」(約40分)下車、徒歩すぐ。


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