「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

奈良「松尾寺」(まつおでら)

2011年05月26日 07時24分05秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 松尾寺は矢田丘陵の南端近くにある松尾山の中腹に位置する山寺で、真言宗醍醐派の別格本山、山号は松尾山または補陀洛山(ふだらくさん)と称する。延宝4年(1676)に記された「松尾寺縁起」によると、天武天皇の皇子・舎人親王が42歳の厄除け祈願のため松尾山に参内した養老2年(718)2月初めの午の日、東の山に紫の雲たなびき(瑞雲)千手千眼観世音菩薩天降り出現したという松尾山縁起により、国連隆昌・国体安穏を祈祷する勅願寺として歴代皇室の叡信厚く、後水尾天皇も持仏の如意輪観音を下賜されたという。

 中世以降は興福寺一乗院の支配下に属するとともに、法隆寺の別院とも称された(松尾寺は法隆寺の北方に位置し、法隆寺西院伽藍の背後から松尾山へ至る参詣道がある)。山門から108段の階段を登ると、眼下に奈良盆地が広がりまさに絶景である。
 本尊は鎌倉時代の作といわれる千手観音立像(毎年11月3日のみ開扉)で、日本最古の日本最古の厄除霊場・厄除祈祷の名刹として信仰を集め、2月、3月の初午の日の縁日には多くの参詣者でにぎわう。

 木造大黒天立像(重文)は鎌倉時代作。後世の福神としての大黒天ではなく、インドの武神マハーカーラの面影を残した厳しい表情の大黒天像で、日本3大黒のひとつとして知られる。
 現存する本堂(重要文化財)(元金堂)は、建治3年(1277)に焼失した後、建武4年(1337)に再建された入母屋作りで、中世の大型仏堂の貴重な遺構で和様を基調とした比較的簡素な建築とされ、大仏様式も取りいれられた新和様と呼ばれている。
 本瓦葺の三重塔(高さ約15m)は、本堂より一段高いところに建っている。現在の塔は明治21年(1888)の再建で、一部に古材が使用されている。さらに山道を登ると、松尾大明神を祀る松尾山神社がある。

 七福神堂には、空海作の日本最古の大黒天像(像高98cm)が安置されている。インドから伝わったそのままの姿(容)だという。イカの剣先のような帽子を被り、貴族風の衣服を着ている。以前は彩色が施されていたようだが、全体的に黒ずんでいる。眉は吊り上がり、眉間に一本シワが入っている。この他、歓喜天、七福神等が安置されていたが、歓喜天は秘仏の為、厨子は閉じている。

 またこの寺は薔薇の寺としても有名で、80種500株が植えられたバラ園がある。とくにツルバラは高さ3~4mにもなり、1株で3千もの花をつける木もあるという。この季節には「群生さつき」も見ごろになる。

 所在地:奈良県大和郡山市山田町683。
 交通:近鉄郡山駅から奈良交通バス泉原町下車徒歩約30分。
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「空海寺」(くうかいじ)

2011年05月21日 06時57分50秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 東大寺大仏殿より北に10分ほど歩くと、弘法大師空海の法灯を現代に受けつぐ華厳宗五岳山「空海寺」に行きあたる。
唐から帰朝した空海が弘仁年代(820年頃)草庵を営み、自作の等身大の秘仏「阿那地蔵尊」を堂内の石窟に安置、本尊(通称「穴地蔵」)としたのが寺の起こりとされている。本尊の左右に「聖徳太子」、「不動明王」を配している。
 空海は810年に勅命により、東大寺第14代別当に就任、四年余り務めていることからも東大寺との関係は深いものがる。
 享保19年(1734)本堂再建時に草堂および石窟石仏の座壇石が破壊して、空海が造立した霊窟も失われたという。

 本堂の前に立っている花崗岩で造られた「地蔵十王石仏」(室町時代後期の作、高さ180㎝、像高133㎝)は、元矢田寺の
「矢田地蔵」で、明治初期に「常福寺(現廃寺)」(笹鉾町)から移され、光背に「十王」「閻魔閻羅」(えんまらじゃ)
などを従えた風格漂う石仏である。

 境内には墓石がたくさんあり、本堂に向かって右手前には鎌倉・室町時代の古い石仏などが集められ、裏手に登る石段の横には夥しい数の石仏や板碑が埋もれかけた状態で並んでおり、哀れというか不気味というか異様な雰囲気であり、当寺で強く印象に
残っている。

 所在地:奈良市雑司町162。
 交通:近鉄奈良駅より バスで「今在家」下車、徒歩5分。
  
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「吉水神社」(きっすいじんじゃ)

2011年05月13日 07時30分51秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 南北朝時代に後醍醐天皇が行宮したといわれる由緒正しい「吉水神社」は、さほど大きな規模の境内ではない。7世紀頃に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建したと伝えられ、金峯山寺の僧坊「吉水院(きっすいいん)」が元になっているという。豊臣秀吉、源義経、静御前などとの縁も深く、歴史に名を残す多くの人たちの遺物が所蔵されており歴史愛好者には見過ごせない所である。

 金峯山寺(きんぷせんじ)からも近い位置にあり、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素ともなっているものの、奥まった場所にあるため意外と目立たない。後醍醐天皇を主祭神とし、南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀している。

 神社前の急勾配の坂を上ると、右手に「一目千本」という桜が一望できる一角があり、豊臣秀吉が花見の本陣を置いたことでも知られている。

 日本住宅建築史上最古と言われる「書院」(重要文化財)は、南朝(後醍醐天皇)の皇居として使用されたところという。また書院奥は源義経と静御前が居間として使用していたと云い、そして手前の一畳分が弁慶が控えていた所だそうで、障子を開けると舞台造りのような高台になっている。書院全体が落ち着いたただすまいで、鹿威し(ししおどし)のコーンという音が心に沁み侘しさを漂わせる。

 展示物で目を引いたのが、百人一首で有名な「蝉丸法師」の琵琶、そして豊臣秀吉が寄贈したという銅鐸、その隣に後醍醐天皇ゆかりの羊皮太鼓がある。この他、源義経の家臣で、義経四天王の一人として挙げられていた「佐藤忠信」の兜などの武具もあった。

 秀吉が愛用した二対の金屏風には目が奪われる。奥の「竹の図」は桃山時代後期の狩野山雪の作品で、手前の「桜の図」は、桃山時代前期の狩野永徳の作品。これらが間近で見られるから嬉しい。
 
 所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山。
 交通:近鉄吉野駅下車、ロープウェイで「吉野山」下車、徒歩15分。
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