「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「瑞光寺」(ずいこうじ)

2007年05月31日 22時36分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
 瑞光寺は元政上人(げんせいしょうにん)が開祖したことから「元政庵 瑞光寺」といい、別称、上人が竹を好んだことに因み「竹葉庵」とも称されている。
 明暦元年(1555)元政上人は、洛南深草の竹の里、旧極楽寺に草庵を結び、庵の名を章安大師の故事にちなんで「称心庵」と名付け、これが瑞光寺の始まりとされる。
 門前には、日蓮宗には珍しい「不許酒肉五辛入門」の碑があり、ここで元政上人は、学問と詩歌三昧に耽ったといわれている。

 「夕ざれば野辺の秋風身にしみて 鶉なくなり深草の里」(藤原俊成)

 京阪電車深草駅の東口へ降りて疎水に架かる深草橋を渡る。疎水沿いの細道へ右折し、突き当りで左へ曲がると、交差点の向かい側に「南無妙法蓮華経」と彫った大きな石碑が見える。石碑の左横を通って山手へ向かう道は、やがてJRの線路沿いになり、「宝塔寺踏切」を渡って直進すると、宝塔寺の四脚門前に至る。
 現在庫裏の建つ辺りが嵯峨天皇の皇女純子内親王の旧宅跡といわれる。その後は深草十二帝陵(後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の十二天皇と栄仁親王の陵)の料地となった。

 応仁の乱により諸堂が全て焼失したが、江戸時代に入り明暦元年(1655)に元政上人により、日蓮宗の寺として再興され「瑞光寺」と名付けられた。
 本堂の寂音堂は寛文元年(1661)に建立されたもので、丸みをおびた萱葺き屋根が情感をかもし出しいてる。元政上人は2代目彦根藩主井伊直孝の近習頭で、石井元政と名のる250石取りの武士であった。26歳のときに出家し当地に堂舎を建立した。
 上人没後25年経った元禄5年(1692)、水戸藩主徳川光圀が湊川神社に建てた「嗚呼忠臣楠氏之墓」と一対にしようとし「嗚呼孝子元政之墓」を寄進したいと申し出たが、元政上人が「竹3本以外の何物も立ててはならぬ」と遺言していたと聞き、断念したと伝わっている。竹の内の1本は法華経のため、1本は両親のため、残る1本は人々の苦難を救うためで、自身のための物は無い言ったものであった。現在も墓石は無く、石柵の中に三本の竹が立ててあるが、「嗚呼孝子元政上人之廟」の石碑と、徳川光圀に関わる話の説明を書いた石碑が、墓の両側に近年建てられている。

 もう1つの縁起として、元政の出家は江戸吉原の高尾太夫の死によるという伝説から、縁切り祈願の信仰があり、願を叶えるには「3週間×7日=21日間」お参りしなければならないらしく、縁切りは男女関係に関わらず、酒、タバコ、病気等の縁を切りたいときも、開山上人の御廟を齢の数を回れば叶うという。

 「明月や竹三竿の墓の主」(虚子)

 所在地:京都府京都市伏見区深草坊町4。
 交通:JR京都駅より市バス南5番「龍谷大学前」徒歩約10分、京阪本線「深草」、徒歩約8分。
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「養源院」(ようげんいん)

2007年05月27日 08時14分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 宮本武蔵と吉岡清十郎が決闘したことで知られる三十三間堂と隣接する養源院は豊臣秀吉の側室・淀君が建立したと伝えられている。当院は、歴史的な興味のほかに、写真愛好家たちの間では、古木の百日紅の花があることで知られている。梅雨明けの時期、祇園祭の頃は百日紅の花を撮りに来る愛好家の姿が絶えない。

 当院に関する史料としては、慶安3年(1650)に当院2世光慶が作らせた鐘銘(『扶桑鐘銘集』所載)や天明6年(1786)の由緒書(養源院蔵)などから知ることができる。
 天明6年の由緒書には「後陽成院御宇文禄三甲午年、為贈従二位権中納言浅井備前守藤原長政卿号養源院殿、秀吉公御草創、元和五巳未年炎上仕、同七辛酉年長政公為御追孝、御息女崇源院様被為仰定、台徳院様御建立被為遊侯(後略)」と記されており、養源院は浅井長政の長女で秀吉の側室となった淀君が父・長政(養源院天英宗清)の21回忌に際
し、文禄3年(1594)に秀吉に頼んで建立した寺院であることがうかがえる。本堂には秀忠夫妻と家光の位牌を安置して将軍家の位牌所に定められたとされ、現在も徳川歴代将軍の位牌がまつられている。
 元和5年に火災に遭い焼失。淀君の妹である徳川秀忠夫人(崇源院)の発起によって、元和6年8月頃に再建が始まり、翌年竣工している。

 創建時における同院の境内の様子を窺う史料は残されていないが、元和再興時以降については『養源院指図』や『養源院惣絵図』などの指図が残されている。『養源院指図』によって主要な建物の配置を知ることができ、「客殿」と記された建物が本堂にあたり、これには玄関が付属する。桁行は11間半、梁行は9間半で瓦葺であった。平面構成は六間取りのいわゆる禅宗寺院方丈形式で、四方に広縁(後方の一部を欠く)と落縁が廻る。
客殿東南端からは廊下が矩析りに出て護摩堂につながる。一方、客殿の東北端に続いて北には「内仏壇」が建ち、内仏壇の南側廊下とつながって東方には「風呂屋」がある。内仏壇の北には「書院」、「小書院・茶所」が建ち、さらにこれら書院の西方には「上台所」「台所」が「取合」でつながれている。こうした元禄11年の状況は、およそ元和再興時の建物配置を示しているものと考えられている。

 元和再興後は大きな火災もなく、寺観はさほど大きく変わることがなかったようで、明治5~6年頃から敷地や建物の配置に変化が生じ、敷地の東部が現在の東大路通りの敷設によって削られ、また賀陽宮邸の建設にともない北部が大きく後退したとある。これによって宝蔵、浴室等は移転されたものの境内に残されたが、大書院、小書院、遠州好みの茶室等は失われてしまった。現存する建造物のうち、本堂(元和年間・1615~24)・護摩堂・鐘楼・中門・表門・通用門(以上江戸時代前期)、奏者所・内仏の間(江戸時代中期)が京都市指定文化財とされている。

 当院で目を奪われるものは、俵屋宗達の筆で描かれた杉戸の絵である。本堂の襖(12面)と杉戸(8面)に、石田三成と徳川家康とが天下をかけた関が原の合戦の火蓋を切った伏見城の戦いにおいて、鳥居元忠率いる3千余兵が城を死守、もはやこれまでと3百余りの武将と共に自刃した霊を弔うために「念仏、御回向」にちなんだ絵を描いたもので、杉戸には象や獅子、麒麟など、大胆、奇抜、そして曲線美あふれる筆づかいが素晴らしい。
 また、狩野山楽が描いた牡丹の折枝の散らしの図案的な襖絵、祭壇の羽目板張付の金箔に唐獅子の雌雄を画いたもの3面がある。
 本堂には左甚五郎作と伝えられる鶯張りの廊下、その上を見ると、伏見城で自刃した鳥居元忠をはじめとする武士たちの血のりで染まった廊下を天井板として使用し、英霊を慰めている。

 庭園は、小堀遠州作で、東山連峯の阿弥陀ヶ峯を遠景とし、水が北の池より南へ注ぐ風景を造作。築山部分の涸滝石組が素晴らしく、南の池には海辺の奇岩を配した珍しい庭園である。また、園内の一文字、十文字の手洗鉢は知る人ぞ知る逸品である。

 交通:京阪本線「七条」駅下車、徒歩7分、市バス「三十三間堂」「東山七条」下車、徒歩5分

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「南禅寺水路閣」(なんぜんじすいろかく)

2007年05月24日 07時56分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平成8年(1996)、国の史跡に指定された南禅寺「水路閣」は、日本最初のコンクリート橋で、明治21年、ローマ帝国の水道を参考に建築された。取材で訪ねたときもロケが行われていた。取材で訪ねたときロケが行われていた。渡辺淳一原作の「愛の流刑地」というテレビドラマで岸谷五朗と高岡早紀が演じるという。
 役者が写真に入らないようにと撮影スタッフの要請を受けたが、私も仕事だからと断り邪魔にならないようにカメラを向けた。、
 水路閣は、レンガ造りの重厚さと紅葉に覆われる景観が人々の人気を集めているのだが、そもそもは琵琶湖の水を発電や物資運搬、灌漑用水など多目的に活用することから造られた疎水路である。
 当初、工事にあたって心にくい配慮がなされた。疏水沿線には社寺が多く点在しているため、環境を壊さないような配慮から、特に南禅寺境内に当時では画期的な異国風建造物の水路閣を設けたことから、歴史的風土に溶け込んだ景観となっている。今日のダム建設、治水工事なども大いに参考にしてもらいたいものだ。

 疎水路は、明治18年(1885)、長等山の第一トンネル掘削に伴う竪抗工事から開始され、同23年に完了。明治天皇を迎えて竣工式が行われ、翌24年疎水の付帯工事として建設されていた蹴上の発電所が完成し発電を開始している。同27年に疎水を延長して伏見まで鴨川運河を開削。翌年に岡崎で第四回内国勧業博覧会が開催され、この時、日本最初の市街電車(京電)が塩小路高倉・伏見下油掛町の約6.5㌔を狭軌道で仮開業している。

 蹴上から分岐する枝線水路として、夏の風物詩として知られている大文字(如意岳)
の山麓に沿って、南禅寺、若王子、吉田山の東北を経て、高野、下鴨、堀川と、南から北へ、その後西へ流れ、沿線各地への水力利用、灌漑、防火用水等の供給を主目的として設けられた。

 明治30年代に入ると、第一疏水だけでは電力需要等の増大に対応できなくなったほか、地下水に頼っていた市民の飲料水が質・量ともに不足が予測されたことから、第2代西郷菊次郎京都市長(西郷隆盛の子)は、京都市の3大事業(第2疏水事業、水道事業、市電開通及び幹線道路拡幅)を計画。第二疏水はその事業の中核として明治41年10月に着工、明治45年3月に完成し、急速濾過方式を採用した蹴上浄水場より給水を開始、この方式は、我が国で初めての方式であったという。
 給水開始当時の京都市人口は約50万人で、このうち給水人口は約4万人、1日の最大給水量は約3万立方メートル、今日では1日最大給水量も約70万立方メートルとなった。
 また、現在は1日最大95万1千立方メートルが給水でき、明治の偉大な先人たちが開削した疏水によって京都市民の命の水が確保できている。(参考:京都市水道局資料)

 所在地:京都府京都市左京区南禅寺福地町86。
 交通:京都市営地下鉄蹴上駅から徒歩7分。
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「錦小路」(にしきこうじ)

2007年05月17日 22時09分03秒 | 古都逍遥「京都篇」
 錦小路は、東は寺町通から西は高倉通まで、約390㍍、巾3㍍の間に130軒あまり、魚貝、肉類から京野菜、生湯葉、生麩、漬け物に惣菜まで、ありとあらゆる食材を扱っている小さな店が通りを挟んで両側に並んでいる。
 通り名の由来は諸説あるが、具足(携帯品や調度類)を売る店が並んでいて「具足小路」といったが、天喜2年(1054)に錦小路と改められたといわれている。
 その謂れが、「宇治拾遺物語」第19話「清徳聖奇特の事」の説話の中に 「くそ(糞)の小路」と呼ばれていたのを、時の帝により、四条の南に綾小路があり一対となるよう 「錦小路」とせよといわれたとある。

 これにまつわる伝説はこうだ。
 母親の供養のため3年間、何も食べなかった聖(ひじり)を、時の右大臣が屋敷に呼んで白米を食べさせた。ところが、米を食べているのは何と聖についてきた数万の鳥や獣で、やがて食べ終わると四条通の一筋北の通りにやってきては、一斉に糞をし始めた。この異様な光景から人々は、いつしかこの通りを「糞小路」と言うようになった。これを聞いた帝(みかど)は、四条通の一筋南側の通りが綾小路だったので、綾錦に因んで「錦小路」と呼ぶよう命じたというのだが…、どうもこれは嘘くさい物語で、やはり「具足小路」というのが訛って「糞小路」となり、このような伝説が生まれたのだろう。

 現在のように魚鳥の市場として開設された年月は明らかではないが、豊臣秀吉の天下統一後と思われる。この界隈が人口の密集した中枢部にあたることと、良質な地下水が涌き出るので魚鳥の貯蔵等に便利であり、御所への魚鳥の納入の往き返りに自然にこの地に魚鳥の市場が出きたといわれている。
 本格的な魚市場となったのは江戸時代に入ってからで元和年間(1615~1623)幕府より魚問屋の称号が許され、万治・寛文(1658~1672)の頃、都では上の店、錦の店、六条の店(問屋町)3ヶ所が最も繁栄を極め、これを三店魚問屋と称した。
 特に錦に店をもつ商人は、公儀から鑑札を得ることにより独占的な営業をしたという。
 明和7年(1770)に錦小路高倉に青物立売市場が奉行所により認められ、安永8年(1779)魚問屋のそばに野菜の市場が開かれた。

 三店魚問屋の特権も明治維新後は廃止され、魚問屋等も自由に開放営業されたが、同業者間の競争が激しくなり、そのため明治16年頃には倒産するものが続出し7店程になったともいわれる。
 その後、同業組合等を設け、自主的に規約を厳守し、同業競合の弊害を避ける事に勤め再び繁栄を取り戻した。
 ところで錦小路は、もともと平安京の東西道路の1つで、当初、道幅は12㍍もあったらしい。いったん荒廃し、再び活気をおびてきたのは室町時代の中頃で、現在の錦市場の西の端あたりに魚の市場ができていたという記録もある。

 錦小路通の東端に「錦天満宮」が鎮座している。社伝によると、創建はいまからざっと千年程前、場所は六条通の鴨川の西側あたりに、菅原道真の屋敷の建物を移して寺が建てられ、「歓喜光寺」と名付けられた。その後、豊臣秀吉の京都都市改造計画によって移転し、寺の境内に祀られていた天満宮が、錦小路に面していたことから、「錦天満宮」と呼ばれるようになった。
 錦天満宮の東側に、新京極と寺町通に挟まれて小さな石の鳥居が建っている。この鳥居は一風変わっていて、鳥居の上に横に渡された石の端が隣の店の建物にくいこんでいる。偶然か謂れがあるのかご利益を共存した姿とも言え、このような鳥居は錦天満宮だけにみられる。

 所在地:京都府京都市中京区錦小路通。
 交通:JR京都駅から京都市営地下鉄で四条駅下車、徒歩3分、阪急電鉄河原町駅下車、徒歩4分、京阪電鉄四条駅下車、徒歩7分。
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八坂の塔「法観寺」(ほうかんじ)

2007年05月11日 00時11分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都を舞台とした映画・テレビドラマで必ず背景として登場するのが、二年坂近くの「八坂の塔」とその街並みにある「石塀小路」である。
 「八坂の塔」として知られる「法観寺」は、飛鳥時代の592年、聖徳太子が如意輪観音の夢告により建立し、仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという説や、平安京遷都以前、朝鮮から渡来した八坂氏の菩提寺として創建されたという説もある。創建当初は延喜式7ケ寺の1つで四天王寺式の大伽藍を構える壮大な境内を持つ寺院であったという。

 八坂の塔(重要文化財)は、永享12年(1440)に足利善教(室町幕府第6代将軍)によって再建されたもの。他の伽藍は応仁の乱でことごとく焼失したが五重塔だけが残ったという。内陣には五智如来が安置されている。京都における仏教文化の起源ともされ、日本における仏舎利信仰の原点とされている。
 五重塔は高さ49㍍、6㍍四方の本瓦葺で東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さを持つ純和様建築で、初層から四層までに高欄がなく五層にだけあるという特徴を有し、円形舎利孔、石蓋孔、凹柱座のある3段式にて飛鳥時代(白鳳)の様式を留める。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。初層内部には大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔の中は公開されることもあり礎石の上の心柱や諸仏を見ることができる。また階段を二層目まで登ることもでき窓から京の町並みを眺望できる。

 塔内部他の堂塔としては、太子堂、薬師堂、茶室があり、太子堂には、聖徳太子の3歳と16歳の像がある。薬師堂には本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵、さらに12神将像が安置されている。茶室は五重塔の風鐸の音を聞くことができることから聴鐸庵という。風鐸とは塔の軒先に吊された風鈴状のもの。また、境内には光考天皇の外祖母で藤原教子の墓といわれ、延喜式にも記述がある八坂の墓、木曽義仲の首塚もある。他に八坂の塔にまつわる話題のひとつに「一条戻り橋」伝説で知られる三好浄蔵の話がある。八坂の塔が傾いた時にその法力で、その傾きを直したと伝わっている。

 所在地:京都府京都市東山区清水八坂上町388。
 交通:JR京都駅から市バス206系統、東山通北大路バスターミナル行きで清水道下車、徒歩5分。
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「毘沙門堂」(びしゃもんどう)

2007年05月08日 21時41分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 毘沙門堂は、御法山出雲寺と号する天台宗の門跡寺院で、京都御所北の出雲路に大宝3年(703)の創建と伝えられ、延暦年間(782~805)に伝教大師が下出雲路(しもいずもじ)で自ら作った毘沙門天を安置して「下出雲路寺」と名付けが、都人たちが毘沙門堂と呼び信仰したという。

 中世以降、たびかさなる戦乱により荒廃し、天正年間(1573~91)には、織田信長が上洛による戦火で堂宇を全焼。その後、寛文5年(1665)天海大僧正の遺志を受け継いだ弟子の公海堂宇により、旧地より場所を移して再興した。代々法親王が入室し毘沙門堂門跡とされた。

 境内には、宸殿、勅使門、控え書院、弁天堂などが立ち並び、本堂には、伝教大師作の毘沙門天を本尊(一寸四五分=約4.4cm)として祀っている。宸殿内部の障壁画・襖絵は狩野探幽の養子・益信の作といわれ、その筆の巧みに彷彿とさせられ、さらに方丈の杉戸絵に描かれた円山応挙の鯉が生きているかの如くである。また、谷川の水を引いて造った江戸時代初期の回遊式庭園の雄大な池には心字の裏文字をかたちどってある。緩やかな坂道を上り、極楽橋を渡れば、まさに極楽浄土に続くような70段の石段へと導かれる。
 また、鎌倉時代から桜の名所で知られ、歌人、藤原定家も『名月記』に花見に訪れたと記している。寝殿前の毘沙門枝垂れ桜は、江戸時代から受け継がれていて、現在のものは5代目で、高さは10m、樹齢100年を超える巨木である。秋には宸殿裏の晩翠園の紅葉が素晴らしく、参道から山門に至る路に零れた散り紅葉が私の好みだ。平成18年4月、NHKで「古都の桜」として紹介され多くの人が知るところとなった。

 所在地:京都府京都市山科区安朱稲荷山町18。
 交通:京阪京津線・JR琵琶湖線・地下鉄東西線山科駅より北へ徒歩15分、JR東海道本線「山科駅」下車徒歩20分。
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「伏見桃山陵」(ふしみのももやまのみささぎ)

2007年05月06日 01時11分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 桃山御陵、いわゆる「明治天皇陵」(第122代明治天皇)は京阪電鉄桃山南口駅を出ると、桃山御陵参道へと導かれる。緑に囲まれた参道は空気が澄み都会の喧騒を逃れることができる。閑静な森が続き道幅も広く、のんびりと森林浴を楽しみながら散歩をする人、ジョギングしている人も多く見られ、夏は孫を連れたお年寄りが虫網を持て昆虫採集に来ている姿を見かける。

 ゆるやかな上り坂を行くと昭憲皇太后伏見桃山東陵、西へややきつい上り坂の先に明治天皇伏見桃山陵がある。天気のいい日は、ここから石清水男山や宇治、奈良までが望める絶景な見晴らし台となる。
 ここの石段は230段の急勾配な石段で、途中で振り返ると足がすくむほど恐怖心が起こるほどだが、慣れた人たちは軽快に登っている。足に自信がある人と高所恐怖症でない人はチャレンジしてみるとよい。この階段は映画の撮影場所としても使われている。

 明治天皇御陵は、東西127㍍、南北155㍍にもわたる上円下方形で、それぞれ三段に築成。表面は小石に覆われ、周囲には二重の玉垣がある。明治天皇陵の東には、同形の昭憲皇太后伏見桃山東陵が並んでいる。
 ここにはかつて豊臣秀吉が築いた伏見城本丸跡であった。伏見城は文禄3年(1594)に築かれ、その2年後に地震で倒壊、翌年、この先の丘陵に場所を変え再建された。城は元和元年(1623)秀忠のときに廃城になり、その後に桃や梅の木を多く植えたことから、この地を桃山と呼ぶようになった。

所在地:京都市伏見区桃山町古城山
 交通:JR「桃山」下車、東へ20分、近鉄「桃山御陵前」・京阪「伏見桃山」下車、東へ30分。


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