「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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花の詩「アザミ(薊)」

2014年10月17日 10時02分12秒 | 花の詩

[花言葉]:独立、厳格、復讐、満足、触れないで、安心。

『薊の花も一盛り』(あざみのはなも ひとさかり)という言葉がある。
 これは、「器量のよくない女性であっても、年頃になるとそれなりの魅力や色気が出るものだ」という喩えとして使われた言葉のようだ。
こんな言葉はもう死語となっているだろうし、現代ではもはやセクハラの疑いを受ける言葉でもあろう。
 アザミはその喩えのごとく愛される美しい花として受け止められていなかったということなのだろうが、数年前、乗鞍岳へ写真撮影旅行に出向いたとき、白樺林を背にした一輪のアザミが目に留まった。それは楚々としてまた凛とした姿が鮮烈に目に焼き付いた。その魅力、魔力に魅せられ引き寄せられるかのように私はカメラのシャッターを切った。

 こんな切ない歌がある。読者の方々もよくご存じだろう。
「山には山の愁いあり
海には海のかなしみや
ましてこころの花園に
咲きしあざみの花ならば
高嶺(たかね)の百合のそれよりも
秘めたる夢をひとすじに
くれない燃ゆるその姿
あざみに深きわが想い
いとしき花よ 汝(な)はあざみ
こころの花よ 汝はあざみ
さだめの径(みち)は果てなくも
香れよ せめてわが胸に」
 そう、「あざみの歌」である。この歌、私は大好きで若かりし頃の十八番の歌で、歌手気取りで朗々と歌っていたものだ。

 あざみを直接挿入した詩ではないが、建築家・立原道造氏がうたったものがある。
『薊の花のすきな子に』
「風は 或るとき流れて行った 
絵のやうな うすい緑のなかを
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた
ありがたうと ほほゑみながら
開きかけた花のあひだに
色をかへない青い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた
気づかはしげな恥らひが
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた… 
何もかも あやまちはなかつた
みな 猟人も盗人もゐなかつた
ひろい風と光の万物の世界であつた」

 薊は葉や総苞にトゲが多く、頭状花序は管状花のみで作られていて、花からは雄蘂や雌蘂が棒状に突き出し、これも針山のような状態となる。花色は赤紫色や紫色をしている。
 芽吹き育ちはじめたころは根出葉があり、次第に背が高くなり、茎葉を持つが、最後まで根出葉の残る種もある。草原や乾燥地、海岸などに出るが、森林内ではあまり見かけない。別名刺草。名前の由来は、アザム(傷つける、驚きあきれる意)がもとで、花を折ろうとするととげに刺されて驚くからという説がある。
 それ裏付けとなる一説が、沖縄の八重山地方で、とげを「あざ」と呼ぶことから「あざぎ」(とげの多い木)と呼ばれ、それが転じて「あざみ」になったとか。

[俳句]
「富士に在る花と思えばあざみかな」(高浜虚子)
「花は賎のめにもみえけり鬼薊 芭蕉(詞林金玉集)
「石原やくねりしまゝの花あざみ」(白雄「白雄句集)

[和歌]
「口をもて 霧吹くよりも こまかなる 雨に薊の 花はぬれけり」(長塚 節)
「あざみ草 その身の針を 知らずして 花とおもいし 今日の今まで」(作者未詳/続鳩翁道話)
コメント
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