「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

 「宝塔寺」(ほうとうじ)

2009年05月23日 18時20分34秒 | 古都逍遥「京都篇」
 深草の街を一望に見渡せる七面山中腹にある深草山(じんそうざん)宝塔寺は、通称「七面寺」(しちめんさん)と称し、平安時代に関白藤原基経(もとつね)の発願ではじまり、昌泰2年(899)嫡子の藤原時平(ときひら)によって完成した極楽寺が起こりと伝えられている。

 極楽寺は源氏物語にも登場する真言律宗の寺院で、現宝塔寺からその南の瑞光寺など、稲荷山の南嶺に続く丘陵地一帯を寺領とした大寺であったが次第に衰退していく。鎌倉後期、京都で布教活動を行っていた日蓮宗日像(にちぞう)上人が、極楽寺住職の良桂(りょうけい)と出会う。
 良桂は日像に感服し宗派を日蓮宗に改めるとともに寺名を宝塔寺とした改名している。

 なお現在、総門左前に石枠に囲まれ「極楽寺礎石」が残されており、また、塔頭霊光寺の向かいに日像上人の「荼毘(火葬)処」の碑と本堂の背後に日像廟所がある。宝塔寺は応仁の乱で荒廃し、天正18年(1590)第8世日銀が再興し現在に至っている。宝塔寺という寺名は、日蓮、日朗、日像の三代の遺骨を納める塔があることに由来する。

 総門(重要文化財・室町中期建立)を潜ると、一直線のなだらかな石畳の参道が仁王門まで続いており、そこに並ぶ塔頭の白塀と手入れされた植栽が美しい。
 仁王門は近年修復されていることで、艶やかな朱がまぶしいほどで、中央に橘紋を描いた赤い提灯が吊下がり、頭上の天井板約250枚の1枚1枚には色鮮やかな牡丹の花が描かれている。正面が本堂(重要文化財)で、江戸初期の慶長13年(1608)の創建とある。入母屋造で七間四方,三間向拝を付した日蓮宗本堂では最古のものとされる。本堂には、本尊の釈迦如来と十界曼陀羅の画像、左右に日蓮・日像の両木像が安置されている。

 本堂南側の多宝塔は、市内に現存する市内最古の多宝塔(重要文化財)という。一層目は行基(ぎょうき)葺きで、二層目は本瓦葺きで、永享10年(1438)以前に建立されたものと伝わる。山側にある境内墓地には、江戸初期の儒学者三宅寄斉、江戸末期の科学者山本亡羊。そして「夫婦塚」と呼ばれている肺病治療の名医宗有とその妻妙正の墓があり肺病平癒(へいゆ)の信仰を集めている。また、宝塔寺総門から参道沿いに並ぶ塔頭の霊光寺の奥に信長から桂馬の一字を与えられた二代目将棋名人大橋宗桂と江戸末期の棋聖天野宗歩の墓がある。この墓碑は、将棋の駒型で裏面に宗桂は「桂馬」、宗歩は「歩」と、ともに得意の使い駒が刻してある。

 本堂背後の七面山に当寺の鏡守社があるというので上ってみた。勾配のきつい150段の階段を上りつめたところに古びた「七面堂」がある。寛文6年(1666)に勧請されたもので法華保護の吉祥天である七面天女(七面大明神)が祀られ
ている。途中に鬼子母神の祠、日像上人の入寂堂などがあり、京洛から遠くむ離れたこの地に、かような壮大な寺院があったとは思いがけない出会いであった。

 当寺は、伏見稲荷大社の南、石峰寺を経て徒歩15分ほどのところにあり、観光寺院ではないので境内は静か、自由に拝観できる。

 所在地:京都市伏見区深草宝塔寺山町32。
 交通:京阪電車「深草駅」から東へ徒歩約12分、JR奈良線「稲荷駅」から東南へ徒歩約15分。
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 「本法寺」(ほんぽうじ)

2009年05月14日 07時34分01秒 | 古都逍遥「京都篇」
 日蓮宗京都十六本山の一つ叡昌山本法寺は、法華経の行者であった日親(にっしん)上人によって永享8年(1436)、東洞院綾小路(四条烏丸の東南辺り)に建立されたのが始まり。本尊は十界曼荼羅。
 日親は、永享11年(1439)のある日、三代将軍足利義教(よしのり)の屋敷へ訪ね、将軍義満に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と法華経受持を説き諌暁(かんぎょう/諫め諭す)を図った。この行動に無礼だと怒り諌暁を禁止するが、それでも日親は諦めることなく、翌年、諌暁書「立正治国論」を著したことから幕府の逆鱗に触れ、寺を焼かれ、投獄され、火あぶり・鞭打ち・焼き鍋を頭に被せるのどの拷問を受け、改宗を迫られたが応じることは無かった。このことから、後に“鍋かぶり日親”と称されている。

 この後、嘉吉元年(1441)、赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀反で義教が殺されたことで日親は赦免される。出獄後、獄中で知り合った本阿弥清信(法名本光)の絶大な帰依を受け、本法寺を再興する。この縁により、後に本阿弥家の菩提寺となる。

 天文5年(1536)当寺は、「天文法華の乱」で他の法華宗寺院と同じく、一時期和泉(大阪)の堺へ避難するが、法華(日蓮)宗本山の帰洛が許され一条堀川(現晴明神社あたり)に再建。更に天正15年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第造営にあたり、強制的に替地として与えられた現在地へ移転している。このとき、移転工事を監督したのが本阿弥光悦。その後の天明八年の大火により堂宇の殆どを焼失したが、徐々に再建され現在の堂宇となっている。

 当寺の見所は、本阿弥光悦作とされる枯山水庭園「三つ巴の庭」であろう。
 書院の東側を主体に南側へかぎ型になっており、東南の隅の枯れ滝石組みが美観で、しばし目をとめる。書院東側の縁先近くの石囲いの蓮池も特徴的な景観で静けさを漂わせている。本堂の脇には光悦手植えの松もある。

 本阿弥家は、代々刀剣の鑑定や研磨を業とする家系であった。本阿弥清信(清延とも)の孫が光悦で、光悦(1558~1637)は書画や工芸に秀でた芸術家として知られていた。徳川家康から鷹峰一帯の地を寄進され、広大な芸術村を造営している。現在も光悦芸術村として観光名所にもなっている。また先祖の菩提をとむらう光悦寺も建立している。
 墓地には、本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓がある。また、展示館では長谷川等伯筆による総丈約10mの「佛涅槃図」の複製品(秋には本物を公開)など絵画10点のほか、本阿弥光悦筆の法華題目抄など書2点の重要文化財がある。

 当寺の表門が面する小川通には、茶道の表千家・不審菴、裏千家・今日庵や茶道具・茶器を売る店が並び、侘び寂びの古都文化に身を包むことができる。表千家は千利休(1522~91)の子の少庵が千家再興を許されたとき、利休の不審菴をこの地へ移建し「表千家」とした。表門は紀州家からの譲り受けたのもで、内側は国指定の名勝庭園となっている。この表千家の北側(本法寺表門の向正面になる)に在るのが「裏千家」。千少庵の子の宗旦が表千家の裏に隠居所を立てたのが始まり。一間腕木門の内側は国指定の名勝庭園である。

 小川通をさらに南へ徒歩4~5分程の所、武者小路通東入るに武者小路千家・官休庵がある。
 武者小路千家は三千家のひとつで、千利休の孫、一翁宗守(いちおうそうしゅ)の子孫が受け継ぐ家元。寛文7年(1667)、宗守が仕えていた高松藩を辞したとき造られたので官休庵とも言われている。

 所在地:京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617。
 交通:京都駅前から市バス⑨西賀茂車庫行き、「堀川寺之内」下車徒歩約1分、京都市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅徒歩15分。
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 「雙林寺」(そうりんじ)<西行堂>

2009年05月04日 07時48分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 祇園祭りで知られる八坂神社を東に抜けて、ねねと秀吉が祀られている高台寺へ向かって、山鉾を象った建物の祇園閣を目印に歩くこと八分、藁ぶきの小屋(西行堂)に出合う。
 「この寺は ならぶはやしもなかりけり 一木の松に青む芝草」と詠まれた「雙林寺」は、薬師如来(重要文化財)と歓喜天を本尊とする天台宗(本山は比叡山)の寺である。西行堂から右手に坂を上がり円山音楽堂の隣り合わせに雙林寺「薬師堂」がある。京料理で名高い「菊乃井」の向いあたりになるが、石材店と並列していてかなり分かりにくい。

 開基は今を隔たることおよそ1200年前、延暦24年(805)天台宗宗祖伝教大師(最澄)の創建と言われている。大師が唐から帰朝後、宮中において、天下泰平・国体安穏・万民快楽の大祈祷を奉修されたのが我が国初の護摩供でといわれている。そして、請来された天台密教経疏5百巻及び護摩の器具を桓武天皇に献上した。

 天皇は、左大使尾張連定鑑(むらじさだみ)に勅して、この地に伽藍を創立し、経典などを置き、日本初の護摩祈祷道場とした。この土地が唐の沙羅双樹林寺によく似ていることから、「霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院」(正式名称)としたと伝わる。

 弘仁14年(823)、比叡山延暦寺建立後は、その別院となった。
 永治元年(1141)には、鳥羽天皇皇女綾雲女王が住持し、建久7年(1196)には、土御門天皇皇子静仁法親王がこの寺で得度し、双林寺宮と称するなど、皇室とのかかわりも深く鎌倉時代までは、数万坪ともいわれる広大な寺領に17
の支院を有していたが、建武2年(1335)足利尊氏と新田義貞との戦場となり荒廃した。

 至徳年間(1384~87)国阿上人が入寺し、時宗国阿派の本山東山道場となり「中霊山」と号し、再興した。後小松天皇の帰依もあり、至徳3年、金玉山の宸額を下賜するなど栄えたが、その後、応仁の乱により再び荒廃した。

 中世以降は桜の名所で知られ、天正12年(1584)羽柴秀吉(豊臣)が花見の宴を催し、前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てさせている。翌年には秀吉により本堂が再建された。

 享保21年(1731)に摂津池田李孟寺の天津禅師により、現在の地に移築再興され、その後、明和7年(1770)、冷泉為村が修繕している。

 堂中央には、為村筆の「花月庵」と書いてある横額が掲げてある。当時は「西行堂」という名称ではなく、為村がそのように命名したという。
 明治の中頃、丸山公園が設置された際に多くの寺地を失い、現在は本堂の一宇にその名残をとどめだけとなったが、明治26年(1892)宮田小文法師によって、隣接するお茶席(浄妙庵・皆如庵)が移築され、現在の状態になった。
 堂内には、西行法師僧像、頓阿法師僧像が祀られていたが、現在は雙林寺本堂に祀ってある。(拝観可能)
 現在どこにも頓阿法師の肖像画や像は残っていないので、法師を偲ぶに貴重な像といえよう。

 西行法師(1118~90)は、平安末期から鎌倉初期の歌僧で、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」といい、元は鳥羽上皇に仕えていた北面の武士であったが、23歳の時、突然出家した。
 26歳の時から京都を離れ全国を行脚し始めている。陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅、それから数年の後、高野山に入り、以後30年ほどは、高野山を拠点に諸国を遍歴している。

 詠んだ歌はざっと2000首あまりで、なかでも約1500首を収めた歌集「山家集」は有名である。
  雙林寺へは出家の翌年、永治元年(1141)から、塔頭である「蔡華園院」に止住していたようで、「山家集」(上、冬歌)には、次の一首がある。

 野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける。
「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」

 また、有名な「山家集」(上、春歌)にある。
「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」

 この歌は、いつごろどこで詠まれたのかは不明だが、西行物語では、晩年雙林寺で庵をむすび修行に明け暮れたことになっており、その庵前の桜のもとで詠まれたのではないかとも言われている。文治6年(1190)2月16日、桜満開の時に没した。墓は、大阪河内弘川寺にある。

 西行堂の入口は石材店と隣り合わせで分かりにくいが、入口に「不許葷肉入門内」という石碑が立っている。「葷(くん)は、ニンニク、ネギ、ニラなどを指すことから、「葷、肉の入門を許さず」という意味で、これに「酒」を加えたものも、禅寺などの門前に見かける。修行に必要ないものは持ち込み禁止というわけだ。

 所在地:京都市東山区下河原鷲尾町527
 交通:JR京都駅(鳥丸中央出口)市バス乗場D-2より206号系統で八坂神社、京阪電車「四条駅」下車、徒歩25分。





 
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