「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「安井金毘羅宮」(やすいこんぴらぐう)

2008年09月30日 07時57分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 人気作家・田口ランディさんの短編小説「縁切り神社」にも登場した安井金毘羅宮、讃岐の金毘羅宮が洛中にもあるということから訪ねてみた。
 なんでも「悪縁を切り、良縁を結ぶ」というご利益のある神社ということから近隣の信仰は言うに及ばず全国から訪れるという。

 第38代天智天皇(てんちてんのう:668~671)の代、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まると伝えられている。
 崇徳天皇(すとくてんのう:1123~41)は特にこの藤を好んだと言われ、久安2年(1146)に堂塔を修造して、寵妃(ちょうあい)する烏丸殿(からすまどの)を住まわしたが、保元の乱(1156)にこの戦いに敗れて讃岐(香川県)に流された。この地で上皇は大乗経を書写し、都に納めてほしいと送ったが、信西入道(1106~59)が呪詛のためではないかと疑い、経を送り返した。このことに憤った上皇は、「大魔王となって天下を朕がはからひになさん」と言って指の血で願文を書き、経の箱に「奉納竜宮城」と記して海底に沈めた。すると海上に火が燃え、童が出てきて舞踏し、これを見た上皇は「所願成就す」といい、それより爪髪を切らず六年の後、崩御した。
 それ以後、都には火災や疫病がおこり、崇徳帝の呪いだとささやかれ始める。そんな中で彼の霊がこの神社に降り、夜な夜な光を放つようになる。大円法師という真言の名僧が参籠し、崇徳帝の御霊を見る。大円法師は後白河天皇にこのことを奉じ、詔により建治年間(1275~77)に建立された光明院観勝寺堂塔を建立、御霊を鎮めたと伝えられ、当寺が金刀比羅宮の起こりといわれている。

 しかし、光明院観勝寺は応仁の乱(1467~77)により荒廃、元禄8年(1695)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建された時に、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになったという。

 明治維新の後、院を廃して安井神社と改称したが、第二次大戦後安井金比羅宮となり現在に至っている。
 ご利益があるとされる「悪い縁を切り、良縁を結ぶ」の謂われについて尋ねてみると、主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)をしたことから、当宮は“断ち物”の祈願所として信仰され、また、保元の乱によって烏丸殿と別れざるを得なかった、崇徳帝の悲しみの気持ちをくみ、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ち切ってくれると信じられてきた。

 男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切ってくれて、良縁、快方、善行が授かるという。
 また、海上安全にもご利益があるとされ、釣り人やマリンスポーツを楽しむ人たちの信仰も集めているという。

 見所としては、高さ1.5㍍、幅3㍍の巨石の「縁切り縁結び碑(いし)」で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれているという。
 「○○君と幸せに結婚できますように」という願い事や、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」、「禁煙・禁酒」「サラ金から逃れられますように」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあっり、碑が見えないくらい覆い尽くされている。

 まず、形代(百円)に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結び、最後に形代を碑に貼って祈願します。
 私も願い事を記し、メタボの身体を小さな穴に這い這いして往復、身体の重みで膝頭がチョッピリ痛かったが、ご利益、ご利益と祈願した。

 当宮は、藤・山吹の名勝の地としても知られ、第62代村上天皇の御製に
「まとゐしてみれとも あかぬ藤なみの
      たゝまくをしきけふ にもあるかな」
 と詠まれており、往昔、新更科とも称えられた観月の名勝でもあり、中秋、洛陽の文人墨客が此処に集い、東山の月を賞したという。現在月見町などとあるのは、その名の残りであるようだ。
 9月27日に「櫛まつり」が開催され、花街(かがい)花見小路を華やかな時代行列が繰り広げられる。
 この祭りは、女性のいのちともいうべき髪に彩りと華やぎを与えてくれる櫛に感謝するというもので、使い古した櫛や折れた櫛に感謝し、古代から現代までの髪型と衣装を装った女性が祇園界隈を練り歩く。女性の髪を美しく飾る櫛。
 東大路通に面した鳥居から参道、境内に至まで人で埋め尽くされ、写真愛好家たちの撮影場所の取り合いでひしめき、各局の報道陣までまきこまれる賑わいとなる。

 所在地:京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70。
 交通:JR「京都駅」から市バス206系統「東山安井」下車、徒歩1分。東大路安井交差点、高台寺参道の鳥居の向かい側。

 
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 「石像寺」(しゃくぞうじ)

2008年09月22日 23時59分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 釘抜き地蔵の名で庶民に親しまれている石像寺は、西陣の古い家並の中にまぎれるように建っている。平安時代の弘仁10年(819)に空海(弘法大師)が開基したと伝えられ、後に俊乗坊重源が真言宗から浄土宗に改めたという。地蔵堂には、大師が自ら刻んだとされる石造の地蔵菩薩が安置されている。

 東京巣鴨の「とげ抜き地蔵」と並んで、京都の「釘抜き地蔵」さんとして多くの信仰を集め、朝から晩まで多くの人が、体の痛みを直してもらいに願をかけ、治った人は、釘と釘抜きのついた珍しい絵馬を奉納していく。

 釘抜地蔵と呼ばれる由来は、弘治2年(1556)頃、油小路上長者町あたりに住んでいた富豪の大商人・紀伊国屋道林が、何事もないのに両手に激痛がはしり、名医の治療を受け諸々の薬草を煎じたが全く効果がなかった。そこで霊験あらたかだと評判の苦抜地蔵にお参りして願掛けをした。すると、道林の夢の中でお地蔵様があらわれ、「汝のこの度の痛みは病ではなく、汝が前世で人を恨み人形の両手に八寸の釘を打ち呪った事がある為に、その罪がかえり苦しみを受けているのだ。汝が祈り救いを求めたので、私が神通力をもって昔の恨みの釘を抜き取ろう。これを見よ」と2本の釘を指し示した。
 道林が夢からさめてみると、両手の痛みがたちどころに治っている。そこで、急いで苦抜地蔵へお参りに行くと、地蔵菩薩像の前に血に染まった2本の八寸釘があった。道林はそれより100日間日参し、感謝の気持ちを捧げたと伝えられている。

 お堂の外壁には、釘抜きを貼り付けた絵馬がびっしり奉納されているのは、お礼に絵馬を奉納する習わしからである。地蔵の後には、重要文化財の石像弥陀三尊像が安置されている。この三尊像は、鎌倉初期の元仁2年(1225)に開眼され、花崗岩石仏として古くて美しいのものは非常に稀だという。
 阿弥陀如来坐像の高さは91.5㌢、大ぶりの螺髪(らほつ)の割に頭部が小さく造られており、目鼻立ちも明快で長めの体躯と厚い膝頭が安定性を保っている。光背も一石からの丸彫りで二重円相に種子(しゅじょ)が彫り込まれ円相を刻み出している。台座は仰蓮(ぎょうれん)と反花(かえりばな)が薄い敷茄子(しきなす)を挟んでいる。
 脇侍は観音菩薩と勢至菩薩の立像で、観音菩薩は冠紐と垂髪を肩に垂らし条帛と天衣(てんね)をかけ、腹前にかまえた左手は未開敷蓮華(みかいふれんげ)の柄を執り、右手に花を添え、天冠台正面に水瓶をあらわした勢至菩薩は合掌している。
 また、境内には藤原定家、家隆の墓と伝えられるものや、また弘法大師三井の一つといわれる加持水があるので是非みておきたい。

 所在地:京都市上京区千本上立売上ル花車町503。
 交通:市バス51番で千本今出川下車、徒歩6分。
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「妙喜庵」 (みょうきあん)

2008年09月16日 15時26分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 妙喜庵は、臨済宗東福寺派に属し、室町時代の明応年間(1492~1501)に建立され、開山は、東福寺の開山聖一国師法嗣である春嶽士芳禅師で、もと連歌の祖であった山崎宗鑑の屋敷を、宗鑑が晩年に四国に移ったあとを寺にしたと伝えられている。寺号山号は、開山春嶽禅師が名付けたもので、”妙喜庵”という庵号は宋の大慧禅師の庵号からつけられたという。

 なかでも必見は茶室で、待庵(たいあん)と称されている。天正10年(1582)羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を討つために構えた山崎の地の陣中に、千利休に命じて二畳隅炉の茶室を作らせた。その後に、解体されて妙喜庵に移されたと伝わる。
 待庵は、わが国最古の茶室建造物で、千利休の現存する遺構として唯一の茶室。藁すさ(わらすさ)を見せる荒壁仕上げ、抽象画にも似せた窓配置で、入り隅(いりすみ)の柱を隠し、天井まで壁で塗り込めた室床(むろどこ)などによって二畳という狭さを感じさせない。
 連子窓、下地窓の配置、やや広い躙口(にじりぐち)、隅炉などと共に利休の特徴が随所に見られる。茶室に窓が付けられたのは待庵が最初といわれ、国宝に指定されている三棟の茶室(犬山の如庵、大徳寺の密庵)のうちの一つとされている。

 山崎宗鑑は近江源氏佐々木義清の子孫で、後土御門天皇の寛正6年(1466)に滋賀県常盤村に生まれ名を弥三郎範重といい、足利九代将軍義尚の祐筆となった。義尚の死後、髪を切って尼崎に隠居したが、一休禅師の教えを受けその禅風を伝え、明応年間に山崎に隠居し妙喜庵に籠った。それから山崎を姓として連歌にふけり、油を荷って京に出て終日売り歩き帰庵するのを常としていた。

 「宵毎に都を出づる油売り ふけてのみ見る山崎の月」

 後世宗鑑の油筒を模して花入れとした“油筒の花入れ”は妙喜庵名物の一つとされている。晩年宗鑑は、この庵を春嶽禅師に譲り、西国に旅して讃岐の地に一夜庵を造って住んだとのこと。
 縁側にある扁額は東福寺の南宗流という書道の開祖の筆で室町時代のもので、書院は京都妙心寺の霊雲院書院を模したものとも伝えられてる。仏壇正面には聖観音を祀り、左手には千利休像を安置している。

 明月堂は山崎宗鑑の住居を移したと伝えられるが、現在のものは後世、建て替えられたもので、書院の正面に石清水八幡宮がある男山山麓があり、その頂より月が上るのが眺められたため明月堂という名がつけられたという。今では残念ながら、周りに高い建物が立ち並び昔のような景観は望むべくもない。

 庭前に一株の老松があり、秀吉が通ったとき衣の袖が触れたということから「手摺の松」の名がつけられた。
 何でも初代の松が江戸時代に枯死し、表千家六代覚々斉、7代如心斉、裏千家8代又玄斉がこの枝より作った老松の茶杓は当庵の名物となっている。「都林泉名勝図」の松は初代のものと思われますが、現存の松は、親松より生えたもので3代目といわれている。

 「松老いぬ 紙子の袖も すれたらめ」嘯山(しょうざん)

JR山崎駅を出ると駅前のロータリーを隔ててすぐそばにある。
 見学には、往復ハガキで1ヶ月以上前に申し込みが必要。見学時間は向こうの指定する時間に絶対的に合わせなければならない。見学時には「志納金千円」(拝観料)が必要、茶室は中に入ることはできず、にじり口から内部を眺めるのみで写真撮影も禁止、高校生以下は拝観できない。詳しくは妙喜禅庵ホームページ「拝観申し込み」参照。禅庵の入口には、「予約のない方は拝観謝絶」の立て札が立っている。
電話:075(956)0103

 所在地:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎子字竜光56。
 交通:JR京都線山崎駅から徒歩すぐ、阪急電鉄京都線大山崎駅から徒歩。

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「西寿寺」(さいじゅじ)

2008年09月09日 07時45分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
 洛西の西大路通りを金閣寺方向に向かって車を走らせる。西大路通りは高校生の全国マラソン大会などのコースとしても知られている。左大文字を目標にしながら北上し金閣寺の手前のわら天神の交差点を左折し、木辻馬代の交差点を左折して高尾方面へと進み、立命館大学前を経て、石庭で名高い龍安寺、徒然草にも登場する仁和寺を右手に見ながらさらに進むと福王子の交差点に至る。そこを右折すると国道162号線・周山街道を高尾へと通じる。ここから3~4分ほど走っていると総合病院の看板があり、その信号を右折。細い急な上り坂を上りきると黒い鳥居の山門が目に入る。
 幹道からの目印が分かりにくく、すんなりとは当寺の場所を見つけることができず、この界隈をグルグルと探し回って、ようやく見つけた。小寺のわりに駐車場が広く確保されていることに驚いたが、その理由が取材していて分かった。そ理由は最後に紹介する自然葬にあった。京都に詳しい人は、天神川通りを北上し、仁和寺の門前通りから左折し医王子交差点に出ると近い。

 西寿寺は浄土宗の尼寺で、江戸時代初期の寛永4年(1628)、浄土宗の高僧・岱中(たいちゅう)良定上人を開山に念仏三昧道場として創建されたのが始まり。
 本尊は平安末期に円派の仏師によって造られたという阿弥陀如来坐像。万治元年(1658)、近江の新宮大明神社(現甲賀郡甲南町)に祀られていた本地仏を遷座したとされる。身の丈は約3㍍もあり「丈六の弥陀」さまと近隣の人々に親しまれている。

 観光寺院で無いため参拝者は少ないが、境内は美しく清掃されていて、谷間の静かな空間が広がっている。山号の由来は、本堂建築の造成中に太陽と星と月が彫られた三光石が現れ、その下から泉が湧き出したことから清水が湧き出したことから泉谷山と名付けられたとされる。この清水は、日照りが続き旱魃が起きても枯れることなく湧き出していて、今日も手水に使われている。三光石は、現在鎮守社・三光石神社のご神体として大切にお守りしているそうだ。

 本堂の左手にある三重塔は近江(滋賀県)の石塔寺にある阿育王(あしよか)塔を模したものという。
 当寺には現存する水琴窟の中の最高傑作だと言われて水琴窟がある。陰陽一対の水琴窟の音色を聴くことができ、陽は「三光石」、陰は「丈六」と名ずけられ、静寂な山寺で癒しの音色が満喫できる。
 
 水琴窟は基本的には公開されておらず、希望者は往復葉書で希望の日時、住所、電話番号と氏名(人数)を書いて送る必要がある。
 また当寺は、大覚寺や仁和寺のように、TVや映画の時代劇の舞台として利用されているが、とくに「必殺仕事人」など必殺シリーズに多く登場し、「暴れん坊将軍」や「隼人が来る!」「子連れ狼」「水戸黄門」のロケにも度々使われている。

 もう一つ、当寺では自然葬(庭園葬)が行われており、それも一般的な樹木葬とは異なり、遺骨は生前の本人や遺族の希望の場所に埋葬する。埋葬ヶ所に墓石や植樹はせず、目印として“竜の髭”(玉龍)を植えるという。先般6月24日、「新しい葬送」について、筆者とも縁がある第一生命経済研究所の小谷みどり主任研究員が講演を行っていた。

 所在地:京都市右京区鳴滝泉谷町16。
 交通:市バス福王子下車。嵐山電鉄鳴滝下車。 京福電気鉄道北野線鳴滝駅下車か市バスで福王子下車。
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「妙法院」(みょうほういん)

2008年09月02日 10時00分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東山区にある天台宗寺院で、山号を南叡山と称する。
 皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られ、近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置いている。妙法院という名称は、永暦1年(1160)比叡山西塔本覚院の昌雲が法住寺殿に接して里坊を開いたことに始まる。

 当院で唯一国宝に指定されている庫裏は、文禄4年(1595)頃の建築で本瓦葺入母屋造、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養をおこなった際の遺構といわれる。庫裏は屋根を切妻造とするものが多いが、ここの庫裏は入母屋造で、内部は土間、板間、座敷の三部分に分かれ、土間・板間部分は天井板を張らず、貫・梁などの構造材をそのまま見せており、桃山期の豪快な建築様式をとどめている。

 大書院は元和5年(1619)東福門院の女御御所の建物を移築したものといわれ、狩野派の筆による「唐美人図」「四季花鳥図」など、大画面の豪華絢爛な金碧画、桃山の美がたっぷり楽しめる。しばし身動きができなくなるほど目がくぎ付けになったというのは大げさでもない。

 伽藍は西側を正面とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。境内は西側正面に玄関、その左手に庫裏、右手に宸殿が建ち、東側の境内奥には大書院、白書院、護摩堂、聖天堂などが建つ。これらの堂宇の間は渡り廊下でつながれている。本尊普賢菩薩を安置する本堂(普賢堂)は、やや離れた境内東南方に建つ。

 庫裏-桃山時代の建築。庫裏は寺院の台所兼事務所の役割を果たす内向きの建物である。妙法院庫裏は、豊臣秀吉が先祖のための「千僧供養」を行った際の台所として使用されたと伝える豪壮な建物である。 

 史料として興味をひきつけたのが、ポルトガル国印度副王親書(天正16年(1588))で、これは、インド半島西岸に位置するポルトガル領ゴアの副王から豊臣秀吉に宛てた羊皮紙の書簡で、内容は当時の日本が行っていたキリスト教弾圧政策の緩和を求めたものである。豊臣秀吉を祀る豊国廟が破却された際、妙法院に移管された。

 「太平記」にこのような話がのっている。
 佐々木道誉は、鷹狩りの帰り妙法院の前を過ぎる時、モミジの枝を従者に折らせる。それを咎め立てした妙法院の手の者ともめる。腹の虫が治まらぬ道誉は、後日、事もあろうに妙法院に火を放つ。比叡山延暦寺の強硬な抗議により上総の国への配流ということになったが、その地に向かう時、見送りと称して多くの配下の者が、猿の面などをつけたり、腰に猿の皮をぶら下げたりして妙法院の前を通過した。猿は日吉大社(延暦寺)の神使であり、妙法院に対し面当てをしたという訳だ。

 「妙法院」は非公開寺院で、例年11月頃に特別公開されるが、内部の写真撮影は禁止されている。

 所在地:京都市東山区東大路通り渋谷下ル妙法院前側町。
 交通:市バス東山七条バス停下車すぐ。京阪電車七条下車、徒歩約10分。
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