「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「誠心院」(せいしんいん)

2009年04月17日 09時05分53秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都を訪れる修学旅行の学生たちに人気のある通りの一つが新京極通であろう。土産物を物色する子供たちのはしゃぐ姿が絶えない通りでもある。東西を分かつように通る新京極通り、通称「寺町通り」は距離にして1キロ弱で、天正年間に豊臣秀吉が洛中の寺々を京の町を東と西に南北に並べるたことにはじまる。

 新京極通は明治の初めに槇村京都府知事が、三条・四条間の寺々の境内に道を通して造られた。 華やかな賑わいを見せる界隈だが、そんな一角にある六角公園の少し南に間口の狭い山門を構えた寺が「誠心院」である。よくよく注意して歩かないと見逃してしまいそうな小さな山門で、その入口を露天商のような衣装店が山門を見えにくくしている。

 華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)誠心院は、藤原道長が和泉式部のために建てた小御堂が始まりと伝えられ、昔は「じょうしんいん」と称していたが、先代住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれ、界隈では和泉式部寺(いずみしきぶでら)と呼ばれている。

 寺伝によると、初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼といった。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺(現兵庫県)の性空上人に勧められ誓願寺の本堂に籠り本尊に教えを受ける。女人の身でも六字の名号を唱えれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ浄土へ往生した。

 上東門院彰子が父藤原道長に勧め、万寿4年(1027)法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立、東北寺誠心院とした(現在の京都御所の東、荒神口辺り)。
 鎌倉期には小川通りの一条上ル誓願寺の南に移転している。この頃に泉涌寺の末に成ったという。
 その後、天正年間(1573~92年)に豊臣秀吉の命令で現所在地(寺町六角下ル)に移転したおり、宇治田原の城主山口甚介により建立されている。
 時を経て、禁門の変による元治元年(1864)の大火で山門をはじめ堂宇を焼失、寺門は荒廃を極めた。平成9年の末、山門が再建された。

 本尊の「阿弥陀如来像」と「二十五菩薩石像」は、それぞれ楽器を持ったり、歌ったり、音楽を奏でて、西方極楽浄土の阿弥陀仏が、念仏の行者を迎えるという。また、「百親音巡拝」成満を記念して、「式部千願観音」と「百八観音」、「神変大菩薩」の石像を建立。
 高さ約4m、幅二・四m和泉式部宝筐印塔(ほうきょういんと)は、正和2(1313)に改修建立された。江戸時代には、旅の案内書に寺や石塔のことが書かれ、和泉式部を慕い多くの参拝者があったという。

 毎年、和泉式部の命日に当たる3月21日には本堂において、午前11時より式部所縁の謡曲「東北」「誓願寺」の奉納がある。 

 参拝者に人気がある「鈴成り輪」(すずなりくるま)は、和泉式部の古い灯篭の竿と台座を使った、鈴なりの輪で、魔尼車とも呼ばれ、知恵授け・恋授けにご利益があるといわれている。魔尼車を一回転させれば、経典を一回読誦した功徳が得られるという。私もご利益にあずかろうと社運を祈願し1回転させ念じた。
 
 所在地:京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487。
 交通:JR京都駅から市バス17・205系統で四条河原町下車、徒歩5分。阪急河原町駅から徒歩8分。
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 「補陀洛寺」(ふだらくじ)

2009年04月11日 18時47分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鞍馬・貴船から市街地に戻る途中の鞍馬街道沿いに、市原野と呼ばれる集落がある。このあたりは、古くから小野氏の領地であり、小野小町と深草少将の亡霊が僧侶に百夜通いの物語をする謡曲「通小町(かよいこまち)」の舞台でもあった。
 補陀洛寺は、叡山電鉄鞍馬線「市原駅」から鞍馬街道・府道38号線へ出て、南へ向かって(市内方向)200mほど歩く、小高い丘の(篠峠)上にあり、往古は近隣の村の死者を葬る成仏の霊域で、墓守の寺が幾つか建てられ、補陀洛寺もその一つと聞く。天慶8年(945)天台宗座主・延昌僧正によって創建された発願寺で、一時廃絶したものを現在の寺が寺名を受け継いだとなっている。
 後冷泉天皇皇后の小野皇太后の山荘でもあった地で、境内には鎌倉時代の小野皇太后供養塔が残っており、本堂は平成11年に再建されている。

 当寺は通称「小町寺」(こまちでら)と呼ばれている。世界三代美女に上げられている小野小町の終焉の地と伝えられている。
 晩年、年老いた小町は漂泊の果てに、懐かしい昔、父が暮らした市原野の生家を訪ね、昌泰3年(900年)4月1日、「吾死なば焼くな埋むな野に晒せ 痩せたる犬の腹肥やせ」との壮絶な歌を残し朽木の倒れるように息絶えたと伝えられています。野ざらしになっていた小町の菩提を恵心僧都が弔ったという。

 「通小町(かよいこまち)」で知られる物語は、八瀬の山里の僧に、市原野辺に住む姥から毎日、木の実や焚き木が届けられることから始まっている。不審に思った僧が名を尋ねますと、小野小町の霊であることをほのめかし、市原野での回向を、僧に願い出、消え入るように失せていく。
 約束通り、露深い市原野で僧が念仏を唱え始めると、小町ともに、深草少将の亡霊があらわれ、「煩悩の犬となって、打たるると離れじ」と、百夜通いの苦悩と恋心の執念を訴え、小町に追いすがるが、やがて、二人共に、「佛道なりにけり」と成仏していく。という話である。

 観光寺でないこともあり、ほとんど人と出会うこともなく山門の石段を登り本堂へ。ガラス戸の入り口に、「猿が入りますので鍵がかかっております。御用の方はインターホーンでお呼びください 小町寺」と白い紙に書かれて貼られていた。サルが出没し、仏前のお供養物を荒らすのだそうだ。
インターホンを押すと幸いにも住職さんが出てきてくれた。
 本堂の本尊阿弥陀三尊像を拝すると、その横にひっそりと祀られている鎌倉時代に彫られた木像が目に入った。像は「小町老衰像」と伝わるもので、骨と皮ばかりの体、落ち窪んだ目に皺だらけの顔、絶世の美女と謳われた小町の面影は全くなく、老婆の姿に何とも言えない無常が漂っていた。 背面を見せていただいたが、「京都博物館蔵」という明治時代の紙札が貼ってあり、博覧会に出品されたという添え書きがある。京都博物館が保管していたものが、後にこの寺に戻された。

 本堂の右手に「小町姿見の井戸」があるので近づき覗いたが、水は枯れていた。
左手には小町のもとへ百夜(ももや)通いしたとされる深草少将の宝篋院塔(江戸中期造立)、その奥に小町の供養塔(五重層塔・鎌倉時代)など、小野小町終焉の地として、そのゆかりの遺跡がある。
 「小町姿見の井戸」のすぐ脇、如意山の石塔横に、樹齢80年と伝えられるさざんかの木が、この季節、花を咲かせていた。薄紅色の花々をこぼれんばかりにつけて、凛と枝先を空に伸ばす立ち姿は、美女小町を思わせるようであった。

 所在地:京都市左京区静市市原町
 交通:京阪電車出町柳から叡山電車で市原駅下車、徒歩13分。

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 「羅城門跡」(らじょうもんあと)

2009年04月04日 00時05分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 『今昔物語集』や、芥川龍之介の小説『羅生門』で知られている羅生門は、平安京の中央を南北に貫く朱雀(すざく)大路の南門(正門)として、延暦13年(794)の平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門で、北端の朱雀門と相対していた。天元3年(980)の暴風雨で倒壊し、その後平安京の衰退とともに荒廃し、次第に盗賊のすみかとなった。暴風雨で倒壊したが都度再建されたが、三度目の倒壊以降は再建されずその姿を消した。現在は児童公園(唐橋花園公園)の中に石碑が立っている。

 「羅城」とは、都市を取り囲む城壁のことをいい、羅城門を境にして、洛中と洛外が区別されていた。
 構造は、正面約32m(十丈六尺)、奥行約8m(二丈六尺)、高さ約21m(七十尺)、二重閣九間五戸、入母屋造、瓦屋根造で、木部は朱塗り、壁は白土塗り、屋根の棟の両端には、金色の鴟尾(しび)が乗っていたという。
 2階部分には、都を外敵から守る神、兜跋昆沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう=国宝)が安置され、侵入者に睨みをきかせていたといわれている。中国 唐の時代の作といわれ、高さ約190㎝(六尺四寸)、頭上には宝冠と輪宝をいただき、小鬼を踏みつけている羅城門が崩壊したときに、東寺によって保護され、以後、東寺の宝物館に安置されている。

 羅城門を守護する東西に「東寺」と「西寺」が置かれていた。唐橋西寺公園の中に西寺跡がある。こんもりと土を盛った丘の上に石碑と礎石が残っているだけで、他に往時を偲ばせるものはない。

 東寺といえば、世界遺産の一つだが、西寺については知っている人は少ない。西寺は創建当初は東寺と並び壮麗さを誇ったが、徐々に勢力が衰え、天福元年(1233)に五重の塔が焼失し、その後再建されることなく姿を消す。現在、草むらに大きな礎石がごろごろと転がって、哀れすら感じる。

 羅城門跡の横に、矢取地蔵という目立たない地蔵がある。
 何気なく手書きの説明文を見ると、1100年前の天長元年に空海が神泉苑で雨乞いの祈祷を行い、見事3日3晩雨が降ったのだがライバルの守敏に妬まれ、矢を射られたという。そのときに身代わりに矢を受けたのがこの地蔵だという。何でも背中に傷があり、これがそのときの矢傷だという。
 羅城門跡から東へ7~8分ほど歩くと、東寺がある。

 所在地:京都市南区唐橋羅城門町。
 交通:近鉄東寺駅下車、徒歩約10分。車では、 名神高速京都南ICから約15分 。
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