「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「光照寺」(こうしょうじ)

2008年02月27日 18時57分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 竹が空に突き出る様に伸び、葉音のざわめきを聞きながら、藪椿が茂る山道を進むと墓道に出る。さらに上っていくと如来石仏などがあり、寿永2年(1183)7月、木曽義仲軍が京へ乱入した日に「法然上人」が一時避難したと伝わる光照南殿旧跡「光照寺」にたどり着く。

 「光照寺」は、音羽伊勢宿町にあり、「蓮如」の隠居所として山科本願寺の東方に営まれた。堀や土塁で囲まれていたが、山科本願寺と同時に焼失、後に光照寺として復興した。
 山科本願寺は浄土真宗の本山で、山科川、野色川、および安祥寺川を堀と見立てた地形に建てられており、現在でも山科区西野山階町の奥田邸、および山科中央公園に土塁の一部が残されている。特に山科中央公園の土塁は高さ6~8m、長さ50~60mの巨大なものである。

 山科中央公園東側には蓮如上人の廟所、西側の住宅地の一画には蓮如上人御往生之地があり、音羽伊勢宿町には蓮如の隠居所とも伝えられている南殿跡など蓮如上人の縁の地がある。
 文明7年、吉崎御坊を退去した本願寺代八世蓮如は、文明10年(1478)、海老名氏から寺地の寄進を受けた山科の地に山科本願寺を再建して布教の本拠地とした。この本願寺を御本寺北殿と呼ぶのに対して、東方の音羽に築かれた殿舎を南殿と称した。

 南殿は、蓮如が延徳元年(1489)に75歳を迎えた時に隠居所として建てられたもので、現在の光照寺を含む付近一帯に築かれ、築地、堀、土塁などが設けられた城郭的な施設を備え、200m四方程度の規模があったものと推定されており、邸内には園地が築かれ、持仏堂、山水亭、台所などが設けられた。参殿は千石の兵火により焼失したが、天文元年(1536)に光称寺(現光照寺)が、その故地に建立され、現在に至っている。南殿幼稚園の南方に堀、築地、築山、園地、持仏堂、山水亭などの南殿跡の遺構が残っている。

 ちなみに、吉崎御坊(吉崎別院=福井県あわら市吉崎1-302)は浄土宗中興の祖・第八世蓮如が、文明3年(1471)7月に道場を開き、布教活動を開始したことに始まる。
 吉崎の地は越前と加賀の国境付近にあり、東に大聖寺川が流れ、北の背後には日本海と通じる北潟湖を配した丘陵地形で、城郭築城の選地で言うなれば、後ろ堅固の要害地形であった。
 現在の吉崎は北側に国道305号線が走り、当時吉崎御坊のあった御山と称する比高40~50m小高い山にある。

 所在地:京都市山科区北花山山田町57。
 交通:東海道本線、京阪京津線、地下鉄東西線、京阪バスで山科駅下車。

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醫王山「光福寺」

2008年02月13日 18時32分36秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鳥居を通り境内に入ると大木の茂る森にであう。楠や椎が明かりをさえぎり、桜はすでに葉を落としている。
 光福寺は、平安時代の天暦9年(955)に開かれ、平安時代には都の西南の裏鬼門の鎮護を担い、室町時代から江戸時代には近郷の人々の信仰拠点として発展してきた。開祖の浄蔵貴所は、平安時代の文章博士として著名な三善清行を父とし、幼少から非常に聡明であった。伝説に残っている逸話を紹介しておくと、父の葬儀に遅れ、一条堀川の橋の上で父を一時的に生き返らせて会話をしたという逸話は有名で、安倍清明でも有名な「一条戻り橋」の名の由来となっている。このほかにも、傾斜していた「八坂の塔」を一晩で元に戻すなどの多くの伝説を残し、役行者と並び称される修験者として知られている。

 入口の仁王門には南北朝時代の金剛力士像があり、境内には、蔵王堂、弁天堂、薬師堂、子守勝手社がある。始めに弁天堂、それから薬師堂、次に子守勝手社を拝し、その後蔵王堂に礼拝するという浄蔵貴所の教えは、現在も受け継がれている。

 また、国の重要無形民俗文化財に指定されている「久世六斎念仏」の発祥地としても知られ、現在も、毎年8月31日の八朔祭の日に開催され、多くの人々で賑わう。このような「芸能六斎」系は、太鼓、鉦、笛を使って、謡曲や長唄などから取材した曲や獅子舞、祗園囃子なども演じられ、民衆の娯楽として発展してきたもので、「壬生六斎念仏」が全国的に名高い。一方、「念仏六斎」系は、鉦を叩いて念仏を詠唱する、踊り念仏の流れを継ぐ本来の念仏主体の六斎念仏で、鉦が主体で、「鉦講」とも称される。一部に太鼓が入るが動きは少なく、笛はまったく使われないのが特長で「円覚寺六斎」や「空也踊躍念仏(六波羅蜜寺 かくれ念仏)」等が知られている。この他、「空也堂」系や「干菜寺」(ほしなじ)系、一遍上人の「踊り念仏」などがある。

 所在地:京都市南区久世上久世町826。
 交通:市バス「北上久世」下車、徒歩徒歩5分。
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「一力茶屋」(いちりきちゃや)

2008年02月06日 18時36分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
「一力茶屋」(いちりきちゃや)
 「忠臣蔵」の大石内蔵助が遊んだお茶屋としてよく知られている「一力茶屋」は、もともと「万屋」と称しており、仮名手本忠臣蔵に登場し一躍その名が世にしられるようになったお茶屋。
 店名の「一力」という店の名は、維新前は「万屋」が屋号であったが、後に「万」の字を「一」と「力」に分け「一力亭」に変えたそうだが、その経緯は芝居の影響で変わってしまったという。
 今でも門の中の入り口には「万」の字の暖簾が架かっている。 「一力」だが、暖簾の文字は「万」となっている。
 幕末時代に至っても政治の場であった「一力茶屋」は、元治2年(1865)祇園に大火があったとき「一力茶屋」も被災し、その後に再建され100余年を経ている。

 3月20日の大石忌(大石内蔵助の命日)には、四条花見小路の角にあるこの「一力亭」で行われ、一力亭の仏壇には討ち入りそばや大石の好んだものが供えられる。馴染みの客を招いて、「深き心」を井上八千代師匠が舞い、芸舞妓3人が地唄「宿の栄」を舞うならわしになっており、芸妓・舞妓さんたちにより抹茶や手打ち蕎麦も振舞われる。

 仮名手本忠臣蔵では、大石内蔵助が遊興したのは、祇園一力茶屋になっていますが、実際は伏見撞木町萬屋(=ふしみしゅもくちょう よろずや、京阪墨染駅から徒歩5分、伏見税務署の近く)であったという。現在、萬屋の跡を示す石碑が建っている。

 8月1日は祇園で「八朔(はっさく)」という伝統行事がある。「八朔」は、花街の芸舞妓が、黒紋付き姿で芸事の師匠やお茶屋を挨拶して回る行事で、礼装の芸舞妓さんが数人ずつ連れ立って祇園の石畳を歩いて、一軒一軒のれんをくぐっては「おめでとうさんどす」と挨拶して回る。

 2月3日の節分の日、花街(かがい)では夜になると、「節分お化け」という行事が行われ、若い芸妓・舞妓が、グループで仮装してお座敷を回るが、一力亭の暖簾を急ぎ早にくぐる芸妓・舞妓をよく見かける。
 「白浪五人男」「越後獅子」など伝統的なものに扮するグループもあれば、最近ヒットした映画の主人公やその年話題になった有名人に変身したり、歌舞伎のまねをしたりと様々な工夫をこらしている。

 花見小路は四条通りを境にして、北側と南側では町並みの雰囲気が大きく異なり、北側はスナックやクラブなどが入居するテナントビルが建ち並び、 南側は角の一力亭を筆頭に竹矢来に格子作りの茶屋や料理屋が建ち並ぶ京都らしい風情の景観が連なっている。

 所在地:京都市東山区花見小路四条下ル。
 交通:京阪四条駅から南座を経て八坂神社の方へ徒歩5分。

 なお、「花見小路」の歴史については、既に掲載していますのでご参考に開いてみてください。

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