「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「氷室神社」(ひむろじんじゃ)

2012年03月30日 08時00分17秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 氷室神社は、その名の通り「氷室(ひむろ。氷の貯蔵庫)」があったことに由来している。
 元明天皇の和銅3年、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌4年に初めて献氷の勅祭が行われ、毎年4月より9月末まで平城京に氷を献上。奈良朝7代70余年間にわたり継続したが平安遷都後に廃止。それより150年を経て、清和天皇の貞観2年、左右二神を増して三座となる。春日大社の別宮に属したが、今日、氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持されている。

 平城遷都の頃から、吉城川の上流に氷池を作り、厳寒期に張った氷を氷室に貯蔵し平城京に奉納していたが、その後、途絶えていたこの風習を、1961年に大阪の氷業界などに呼びかけて復興。毎年5月1日に「献氷祭」が行われ、海の幸の鯛・川の幸の鯉を凍結した、高さ1mほどもある氷柱が奉納される。

 祭神は、「大鷦鷯命」(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、「闘鶏稲置大山主命」(つげのいなぎおおやまぬしのみこと=是冷の応用を教え、氷室を創始し、貯氷の術を育む)、「額田大仲彦命」(ぬかたのおおなかつひこのみこと=貯氷の術を奏上)。
 奈良で最も早く桜が開花する「奈良一番桜」の樹齢100年というしだれ桜がある神社としても知られ、奈良国立博物館(新館)の道路を挟んだ真向かいにある。あまり目立たない神社だが、桜の開花時期は大勢の花見見物で賑わいを見せる。

 門の脇にドンッと1本の大きなしだれ桜が満開になっている姿は、さすがに見事で、桜の木の連なりのような迫力はないが、神社の建物を覆うように垂れ下がる桜の姿は、本当に美しい。

 所在地:奈良市春日野町1-4。
 交通:JR奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通の市内循環バス約5~10分、氷室神社・国立博物館前にて下車すぐ。
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「生駒聖天宝山寺」(いこましょうてんほうざんじ)

2012年03月23日 07時24分19秒 | 古都逍遥「奈良篇」
生駒の聖天さんとか単に生駒さんと呼ばれ、商売の神さまとして全国的な信仰をあつめている「歓喜天尊」は、約300年前開祖湛海律師(たんかいりっし)によって勧請された霊天で、正しくは「大聖歓喜天」と称する。

 聖天を、はじめて此処に勧請した湛海津師は江戸中期の憎で、永年天尊奉伺の霊地を探し求め、不動明王の冥示を得て延宝6年(1678)此の地に入山したと伝わる。この地が弥勒浄土(都史)の内院であるとの古説に基づき、天和2年(1682)弥勒菩薩像を造らせ岩屋の本尊とした。また岩山は不動(無動)明王の座所とされたころから、不動明王像を自作して当寺の本尊とし、都史陀山大聖無動寺と称したが、のち宝山寺と書いた弘法大師の真蹟が見つかり寺号を改めたとある。

 元禄12年(1699)東山天皇から皇子誕生祈願の勅命を拝して法験を顕し、長宮、秀宮の二皇子が続いて誕生した。この御礼として拝領した宝剣は天皇の諱である朝仁の一字を受けて朝日宝剣と云い、当山の寺宝として今に伝持されている。
 以後代々の天皇から毎年撫物(天皇の身代りになる肌着の類)を預って、玉体安穏万民豊楽の長日祈願を修する習わしとなり、明治の初めまで勅願寺とされてきた。宮家や摂家もまたこの例にならい、幕府でも6代将軍家宣から嗣子誕生の祈願を請われ、このたびも祈りの験は忽ち顕れ、七代将軍家継の誕生を見た。

 のち文化2年(1805)第八世義山和尚の時、天堂を西の山手に移し、唐破風付きの割拝殿をその前に設けた。現在の八棟造りに改増築したのは明治10年(1877)という。
 十一面観世音菩薩が聖天の御本地仏であることから、天堂の建立に先立ち、天和4年(1684)郡山藩梶氏の助縁を得て観音堂を造営。天保15年(1844)第十三世法慶和尚がこれを増改築し、大阪、堺の信者から寄せられた西国、坂東、秩父各霊場の小観音像百体をここに併祠して今日に至っている。

 開祖入山当初の居所であった奥の院には、貞享2年(1685)光明院が、宝永2年(1705)には惣持院が、それぞれ自作の不動明王を本尊とする修練道場が建てられ、のちに奥の院本堂となる。

 このほか、明治17年(1884)に建てられた擬洋風建築獅子閣(重文)があり、愛染明王を本尊として昭和32年(1957)に多宝塔が建立された。

 一方、背後に見える般若窟は伝承によれば役行者と空海が修行をした岩窟であると言われる霊地で、太古の火山噴火によって出来た火山岩の山だという。般若窟のど真ん中には、弥勒菩薩像が安置されているが、危険なため参拝者の立ち入りを禁じており、残念ながら中には入れない。

 所在地:奈良県生駒市門前町1の1。
 交通:近鉄奈良駅から生駒駅、生駒駅からケーブルで宝山寺駅下車。
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「三輪山平等寺」(みわさんびょうどうじ)

2012年03月09日 07時29分10秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 敏達天皇(びだつてんのう)581年、聖徳太子が賊徒を平定するため三輪明神に祈願して賊平
定後十一面観音を刻んで寺を建立し、大三輪寺と称したのがはじまりと伝わるが、史料上明確な記述はない。

 当寺が史料上、明確に現れてくるのは鎌倉時代以降で、鎌倉時代初期、中興の祖、慶円上人(三輪上人1140~1223年)を迎えるに及び、東西500m、南北330mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有したとある。

 当寺は三輪別所とも呼ばれ、仏法の奥義をきわめんとする行学一如の根本道場として栄え、鎌倉時代には、仏法、学問の奥義を求めて多くの人々が参詣したという。また、室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し、80石の朱印地を持ち修験道の霊地となっていた。慶長5年(1600)9月15日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み難を逃れたという。

 明治元年(1868)神仏分離の太政官布告が出され、同3年(1870)には、平等寺は三輪社の社人が管理するにいたり、堂舎は取り払われ、平等寺は廃止となり、宇堂は存在せず、一切の建物も残っていない状態となっていた。曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。

 廃仏毀釈より100年目を迎えた昭和52年(1977)6月4日付で曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」の寺号が復興され、多くの人の喜捨により本堂、鐘楼堂、鎮守堂、翠松閣、釈迦堂(二重塔)をはじめ前立本尊十一面観世音菩薩の造立をみた。

 所在地:奈良県桜井市三輪38。
 交通:JR三輪駅より東へ徒歩10分、JR・近鉄桜井駅より徒歩30分。
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