住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「キリスト教は邪教です」(講談社+α文庫)を読んで

2005年05月29日 16時59分22秒 | 仏教書探訪
 19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳です。これまで哲学書と言えば難しい哲学用語のオンパレードで、なかなか最後まで読破するのに骨が折れたものですが、この本はとっても分かりやすく、ほんの3時間もあればじっくりと読めてしまう作品。

 「名著、現代に復活、世界を滅ぼす一神教の恐怖」と帯にある。アメリカ大統領の演説などにさりげなく神という言葉が使われるように、他を認めない唯一の神への信仰が国際間の紛争に利用されていることを意識した復刻なのであろう。

 題名も目を引くが、帯の背表紙には「仏教のすばらしさを発見」とある。読んでみるとニーチェは仏教を絶賛している。仏教ほど理知的で現実に正面から向き合っている宗教はない。真に幸福のための具体的な道しるべを示し、実行しているという。

 ニーチェはこの著作の中で、仏教の素晴らしいところをこう記している。『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう。』

 そして仏教が注意していることを二つあげています。『一つは感受性をあまりに敏感にすること』『もう一つは、何でもかんでも精神的なものと考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること』

 仏教は様々なことに気づくことを教えてはいるが、そこで終わり、その先にあれこれ考えない、つまりそこから怨み、ねたみ、おごり、怒りを高じさせないことを大事にしている。また、あまりに頭だけで考えることも推奨していない。修行実践が大切だと教えられている。この辺りのことをニーチェは指摘しているのだと思われる。

 また『重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。普段の状態が、宗教的にも完全なのです』

 『ところがキリスト教の場合は、負けた者やおさえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。・・・キリスト教では最高の目標に達することは絶対に出来ない仕組みになっているのです』

 『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。

キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによってです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的処方箋なのです』

 まだまだ引用したい部分が沢山あるがこの辺りに留めておきたい。あまりに的確な指摘をされているのではないかと思う。世界にもたらされている現代の様々な紛争の原因がどのあたりに隠されているのかもこの著作から伺われる。実に示唆に富んだ名著である。ぜひ読んでみられることをお勧めする。

 ところで、私は何もキリスト教をここで断罪する気は毛頭無い。それよりも実は、現実には私たちの仏教がキリスト教化してはいないかと懸念しているのだ。信仰ばかりを語ってはいまいか。読経、写経もよいがニーチェの唱える仏教の本来あるべき姿勢、論理的に冷静にものを考える伝統をおろそかにしてはいないか。

 教えの何たるかも知らせずに、ただ手を合わすことばかりを強要してはいないかと問いたい。ニーチェは、ものを信じ込む人は価値を判断することが出来ず、外のことも自分のことも分からず牢屋に入っているのと同じだとも指摘する。

 ニーチェの時代にはヨーロッパに仏教は浸透していなかったであろう。しかし現代のヨーロッパには、沢山の仏教信奉者がいて僧団を供養し真剣に学び修養に励む人々か少なからず居る。私たち日本人は仏教徒という意識も希薄で、この本の訳者(適菜収氏)も指摘しているが、誰もが知らず知らずのうちにキリスト教的考え方、行動パターンの中に巻き込まれているのではないかとも危惧する。

 自己の価値観を他に押しつけて、恩をきせ利益を貪るということの愚かな行為を、ただ称賛したり羨望するのではなく、「やはりそれはおかしいだろ、そんなことしてたら地獄行きだよ」という昔の日本人が普通に持っていた素直な感情、正論を取り戻したい。ニーチェも指摘するように仏教は万民の肉体的精神的健康を目指す教えなのだから。
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四国遍路行記4 みられてござる

2005年05月25日 16時47分15秒 | 四国歩き遍路行記
慣れない寝袋でも初日の疲れからかよく眠れた。5時頃薄明るくなって目を覚まし、境内の水場で顔を洗い身支度を調え本堂に向かう。縁のふちに座れるように長椅子が作りつけられている。座って静かに延命地蔵尊へ経を唱える。その間に地元の信者さんらしき人たちのお詣りがあった。

普通みんな遍路や巡拝の時には立ってお経を唱える。そのせいか座ってお経を唱えていると違和感がある。しかし座って落ち着いて唱えるお経には立って急いで唱えるお経とは違う味わいがある。本尊様のお姿を想像し、香の香りを楽しみ、深としたお寺の空気を吸い込みながら聞くお経には有り難さがある。

今日一日の最初のお勤めを終え、大師堂へ向かう前に、五百羅漢堂に寄る。本堂の左奥の方へ道が続いていた。かなり距離があったが行ったかいがあった。どの羅漢像も素晴らしい。弥勒、釈迦、大師像も大きくて立派だった。ここで大阪からお詣りの小さな団体の方からお接待をいただく。早速遠くまでお詣りした御利益があった。大師堂へ詣り、6番に向け歩き出す。

6番安楽寺は、山号を温泉山という。途中に温泉旅館がいくつかあった。山門をくぐって正面に本堂、右の立派な建物が大師堂だった。本堂には沢山の御守りや値付けなどが並んでいる。商売熱心なのだ。ところで、後に団体を連れてここに宿泊した際、売店で「四国へんろの春秋」という年表を買った。

それによると、四国遍路は、辺路(へじ)の修行と言われ、弘法大師よりひと時代前の修験道の開祖役行者や行基までさかのぼるという。平安時代も後期になると、東大寺の大勧進をしたことで有名な重源や西行法師、法然上人なども四国の辺路を旅して若き日に修行に励んだと言われる。もともと修験、聖、持経者などが盛んにしていた辺路修行に、とともにそうして念仏勧進聖が加わって今日の基礎をなしたという。

この年表は実に丁寧に四国に関する記事を引いて各時代の日本仏教史を四国遍路を基点に展開している。編纂されたのは安楽寺住職の畠田秀峰師だ。実に貴重な研究をなされている。四国遍路から見た日本仏教史、弘法大師伝を執筆中だという。早く拝見したいと思っている。

7番十楽寺。庫裏を覗くと大きな字で「みてござる」とあった。味わいのある字だ。その字を見て、全くその通り、見られてござると思った。人に見られていなくても、みんな自分が見てごさるのだ。自分をごまかして生きてはいけない。懺悔するときには懺悔するのだと思いながら、ここで反省が止まってしまうのを恐れる。お詣りし歩き出す。

濡れた落ち葉を踏みしめる 足が冷たい

歩きながら 気がついたら 遍路道

張り上げる声を聞くのは自分だけ





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山川草木悉有仏性ということ

2005年05月19日 20時44分09秒 | 仏教に関する様々なお話
日本の仏教ではよくこんなことを言う。山も川も草も木もみんな仏なんだ。悟っているんだと。分かったような分からないような。それでもこの言葉は一人歩きして自然は仏なのだから大切にしようということになって、環境問題の会合で突然この言葉が飛び出してきたりしているようだ。

悟るのはものを考える能力のある人や神々のような存在であって、本来仏教では植物や自然環境は輪廻の中に含めないのだから、悟るということはないし、解脱もない。それでも我が国の仏教ではよくこの言葉が使われる。

円空仏という独特の荒削りの木像仏がある。江戸中期の臨済宗の円空という坊さんが、自らの修行と教化のために、12万体の仏像を彫る大願を起こして、木の中に仏を見てそこに仏を掘り魂を入れた。また大きな石や岩にそのまま仏を刻んだ磨崖仏というのも全国各地にある。これらは何れも自然の中に仏を見出した例と言えよう。

しかし、私はこの言葉、山川草木悉有仏性とは、自然に仏性があるとか、もともと悟っているということではなく、その自然の中にお釈迦様が教えられた悟りへ至る教え、真理、法則がそのまま見いだし得る、私たちが悟るために学ぶべきものがある、あたかも仏が説法しているかの如くそこから教えが聞こえてくる、ということではないかと考えている。

だからこそ自然は仏なのだ。なぜならば、仏とは私たちを悟りへ至らせるために教え導く存在であるのだから。何気なく見る草や木々の生態に、自然界の法則がそのまま窺い知られる。川の流れ、大地の転変にこの世の真理を見いだすことが出来る。

だからこそ、そこに仏陀の本性が見いだされるのであり、仏と言われるに匹敵する智慧が隠されている。ということは、本来、あらゆるすべてのものから私たちは教えを得ることが出来るということになり、やはり必要なのは私たち自身のそれを受け取る能力、感性、探求心が求められているということなのだと思う。
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四国遍路行記3 

2005年05月17日 17時34分21秒 | 四国歩き遍路行記
二番極楽寺は、国道の案内板もあって国道の右側に大きな赤い楼門が目に付き、すぐに分かった。ぐるっと境内を進み、石段を上がると本堂だった。理趣経を唱えると、本堂に座っていたお婆さんが鐘を打ってくれた。木々に囲まれ少し薄暗い。その奥に大師堂。古びたお堂がありがたさを感じさせている。

三番金泉寺へは、途中国道から右にはいる。松山の遍路道保存会の人たちが作ってくれた赤い矢印の小さな白い案内板を見て先に進む。それでも慣れないため、次の矢印まで道を間違えたのではないかと心配しつつ道なりに歩く。少し畦道に入った先にお堂が見えた。子安観音像が境内を飾っていた。

四番大日寺までの道は初めての遍路には手ごわかった。なかなか先が読めない小道が続く。だんだん暗くなり、第一日目の寝場所のことも頭をよぎる。途中地元の公民館の前にさしかかった。ここの軒先にでも寝かせてもらおうかとも考えながら歩く。白い掲示板もよく見えなくなった頃、養豚場の横を過ぎた先が大日寺だった。残念ながら5時を過ぎ閉門していた。門の前で遙拝し、理趣経一巻に般若心経。納め札も御朱印帳も持たずの遍路旅なので、読経だけで札打ちとさせていただく。

五番地蔵寺。何とか暗くなるものの辿り着く。既に7時になろうとしている。この辺りの木の下にでも寝ようかと考えて、まずは腹ごしらえ。地蔵寺の先にお好み焼き屋があり、そこで一品頂戴する。「お一人ですか」と問うので、「この辺りで寝ようと思います」と言うと、「そうですか、風邪を引かないように」とでも答えられたのであったか、まったく歩き遍路にも慣れた様子で、何の感動もない。その日は結局地蔵寺の大師堂隣のお堂の縁に寝袋を広げた。
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大法輪誌について

2005年05月16日 06時45分23秒 | 仏教に関する様々なお話
大法輪という雑誌がある。「仏教の知恵を現代に生かす総合誌」とある。創刊は昭和9年。戦時中の休刊があるから、今年で72巻を数える。仏教雑誌の老舗の老舗である。と言うよりも他にこれといった雑誌は仏教にはない。それぞれ宗派や宗教団体が自分の所の布教誌として発行しているものくらいだ。だから、この大法輪という雑誌は私たちにとって貴重な存在なのだ。

私も至らぬ乍ら原稿をこれまでに何度かご掲載いただいている。大学で仏教を学んだわけでもない。ただ独学してきただけなのに、他の優秀な学者さんたちに混じって原稿を寄せるのも申し訳ないと思っている。実は、今出ている6月号にも、「ガンを患ったNさんからの手紙」と題する小文をご掲載いただいている。勿体ないことだ。

ところで、今私の手元に、この大法輪誌の創刊号がある。昭和9年10月1日発行。ここ國分寺の先々代泰雄師が購入し秘蔵されてきたものだろう。表紙には、国宝信貴山縁起の一部、「剣の護法飛行の図」が描かれている。醍醐天皇の病を癒したという首の輪に沢山の剣を吊した剣の護法が法輪を転じつつ剣を光らせ信貴山から内裏へ飛行する光景を写したものだという。

法輪とは、お釈迦様の教えのことで、衆生の迷妄を碎破することが車輪転じて瓦礫を砕くようだとの例えから法輪と名付けられた。法輪は、仏教のシンボルであり、軸から出た八つの棒が車輪を支えていることから、四聖諦とともに教えの根幹をなす八正道を意味する。

創刊号には、加藤拙道、高楠順次郎、武者小路実篤など蒼々たる顔ぶれが執筆されている。萩原井泉水の名も見える。荒井寛方画伯の絵も巻頭を飾る。また沢山の小説に加え、今も連載する短歌や俳句のコーナーもこの当時からあった。

創刊の辞に、「時は正に非常時、国運進展せんとて、東亜の新黎明に、警鐘が鳴る。思想問題に、国防問題に、農村問題に、生活問題に、その徹底せる解決を求めんとするの声は、喧々囂々として耳を聾するばかりである。しかも国民は、今なお統一ある帰趨を見出し得ない。そは何故か、真の信念なき為である。

この時にあたりて、仏降誕二千五百年をむかう。大聖釈尊の教法、そはこの無明の長夜を彷徨する大衆に、与えられたる唯一の大燈炬ではないか。ここに於いて、『大法輪』は正法を大衆に伝うべき使命をもって、創刊せられたのである」とある。

時代の雰囲気が醸し出す意気込みが感じられる素晴らしい「創刊の辞」ではないかと思う。時代に対する憂いが現代にも通じるのではないかと読んでいて思った。時あたかも改憲が叫ばれ、自衛隊という軍隊が海外に派兵される時代だ。民営化という名のアメリカ式システムへの移行が粛々と進められ、全てのものがアメリカンナイズされて、物事の判断思考基準、より所、真実と思えるものを失っている時代なのではないか。

今こそこの創刊の辞にあるような志を多くの人たちと共にしたい。そうあらねば手遅れになるのではないか。仏教の心が生きていた古き良き日本の心を枯渇させることのなきよう、益々大法輪誌には気を吐いて欲しい。定期購読をお勧めする。
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タイの僧侶と語る会3より 

2005年05月15日 10時12分09秒 | 仏教に関する様々なお話
タイ比丘藤川清弘師をお招きしての「タイの僧侶と語る会」は、11日に地元紙中国新聞朝刊に案内が掲載され、檀信徒はじめ遠方からも大勢お越しになり、熱のこもった講演に続きこの度は、質疑応答も活発であった。

はじめに、藤川師から、「アジアの各国を訪問し、様々な戦争の傷跡を目にし、また慰霊をする中でやはり慈悲の大切さを痛感する。慈悲は日本では、他人に利益のある行いをしたり、苦しみを取り除いてあげることといった教え方がなされるが、本当の慈悲とは、慈・悲・喜・捨という四つの心を言うものだ。

慈とは、誰をも友と思う心であり、悲とは、その友が、つまり誰もが苦しんでいるときに助けてあげようとする心、喜とは、その友が喜んでいれば自分も我が事のようにうれしく思う心であり、捨とは、あるがままに物事を見て動揺しない心のこと。

私たちは自分だけのことを考えがちであり、ともすれば他を押しのけてまで幸せになりたいと思う。これでは何も変わらない。これら慈悲の心を強引にでも心にたたき込むために慈悲の瞑想をする必要がある。毎日慈悲の瞑想をするなら、平安な日々が送れ、老いてもぼけないと言われる。是非実践して欲しい」

それから質疑応答に移り、日本の仏教では信ということを大切にするが、どう思われるかとの質問に対し、「やはり大切なのではないか、自分も坊さんになってから勉強して勉強してお釈迦様の教えに対する信が確立してから本当に気持ちが楽になった。やはり信がなくてはいけない」

また、日本の仏教の将来についてどう思うかとの質問に対し、「一番の問題点は、志もって在家から坊さんになった人の道が閉ざされているように思う。お寺の息子さんが寺を継がれるのも結構だが、やはり、悩んで揉まれて、自ら発心して坊さんになった熱意ある人たちが然るべき役割を担える仕組みがなくてはいけないのではないかと思う。

仏教というと日本では葬儀法事となるがその辺の役割を決めつけてしまっている在家の皆さんの考えもいかがかと思う。お釈迦様は弟子たちに墓地で人の身体が埋葬され変化していく様を観察し瞑想しろと命じられた。無常、全てのものは変化していく、美しいものもあえなく汚れていくさまを見よと言われた。

その辺から坊さんと死が結びついていったのではないかと考えている。昔ネパールに行ったとき、行列について行くと川原で死者を火葬にした。その後、何を思われたのかその参列者が自分の所に来てお布施を一人一人置いて行かれた。そんなことが仏教と死者儀礼との出発点だったのではないか。つまり本来葬儀に参加するのは、あくまで自らの修行のためということであって、葬儀のために坊さんが居るのではない。」

後半ではアジアでの活動に触れ、「ミャンマーの日本、英国、インドの激戦地域メッティーラというところでは、日本語学校を作った。初めは現地の人のためと思っていたが、日本人の若者で心を病んだ人たちに行かせたところ、現地の人たちの純粋な笑顔、優しさに触れみんな元気になって、新しい生きがいを見出して帰ってくるようになった。

それが既に15人ほどになる。ミャンマーのためと思ってしたことが、実は自分たち日本人のためになっていた。人のためだからと思って逡巡することなく、良いことをしていたらきっと自分に返ってくるということではないか」

最後に仏教の瞑想に話し及び、「仏教の瞑想は坐禅と一緒と思われるかもしれないが、随分違う。ヴィパッサナーと言って、よく観ること、観察することだ。何を観察するかと言えば、自分の身体、特に呼吸と心。腹が立っても、そのことに自分が気づけば冷静になれる。

まず呼吸を見る。鼻から出入りする息の温度や勢いなどを観察する。しかしすぐに心に雑念が湧く。そんなことを一つ一つ細かく知っていく。私たちは何に対しても過去の様々な経験から物事を判断しているが、その判断もせずにものを見るように心がける。そうするとただ変化していくものが分かる。

つまり無常ということが分かってくる。人に対しても初対面でも見てくれで何か判断している。だが、みんな変化していくのだから、その人の真実などない。呼吸が乱れたときは心が動揺している。気づいたら、すぐに呼吸を整えるようにすれば心が落ち着く。

こうした瞑想の前には、必ず慈悲の瞑想をする。上座仏教では、自分が幸せでなかったら人も幸せに出来ないと考える。自分が病気で伏せっているときに人に優しい心で接することは難しい。やはりまずは自分が幸せでありますようにと念じ、それから親しい人たちが幸せであるように。そして生きとし生けるものが幸せであるようにと願う。

それから大事なのは、自分が嫌いな人も自分を嫌っている人も幸せでありますようにと念じられてはじめて本当に安らかな気持ちになれるものだ。なぜなら、自分に対して向かってくる敵をも幸せにしてしまうことで自分が無事になるのだから」

最後に参加者一同で慈悲の瞑想を実習してこの度の講演を終えられた。この後、メッティーラから同行された敬虔な仏教徒マンゲさんから、日本の仏教徒に向けて、輪廻についてお話があった。

「私たちは、死んで終わりではない。死んでも次に行く来世がある。来世は生きてきた違いによって、地獄や餓鬼、畜生の世界に行くかもしれないし、修羅の世界に行くかもしれない。人間に生まれても様々な違いがある。だから私たちは良いことをして沢山の功徳を積まなければいけない。お坊さんに施しをしたり、困っている人たちの手助けをして功徳を積む、そして瞑想したりして心を清める生活こそ私たち仏教徒の勤めなのだと思う」以上

この後藤川師は、長野での瞑想会に向け14日早朝にここ國分寺をお発ちになりました。
来年も新たなご経験お考えをもって来山されることと思います。来年も沢山の方々のご参加をお待ちしています。ご期待下さい。
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玄侑宗久師の書を読んで

2005年05月10日 17時45分25秒 | 様々な出来事について
今をときめく玄侑宗久師の書は、既に受賞作「中陰の花」を以前読ませていただいた。流麗なその文章はさすがに賞を受けられるに値するものを感じさせていた。ただ、もう一つ何か物足りなさを感じたことを憶えている。僧侶としてもう一つ突っ込んだ主張が感じられなかったのだ。読んだ人に考える題材を与えた、その後はどうぞお好きなように、と言うプラスアルファを読者におまかせする。そんな後味の悪さを感じた。

そして、小説ではない解説書として、筑摩書房刊「死んだらどうなるの?」をこのたび、拝読させていただいた。様々各界を代表する人の所見を取り上げ、科学的な最先端の情報も加味した死に関するパンフレットというような内容であった。それはそれは私などが知り得ない、よくもまあ調べられたものだという豊富な内容となっている。懐かしい名前も続々登場してきた。デビット・ボーム、キューブラー・ロス、荘子・・・。

荘子は高校生の時、倫理の時間に自由研究で読破し発表したものだし、キューブラー・ロスは最近亡くなられた有名な死に関する研究者だ。デビット・ボームは、かつて盛んに読んだインドの哲人クリシュナムールティとの対談で精神世界を重要視する物理学者として記憶に残っている。

死んだらどうなるの? 結局その結論はこの本にはない。題名に偽りありとも言えるし、その通りの題名だとも言えよう。最後まで、クエッションなのだから。それにいくつかの疑問点が浮上した。仏教のことしか分からないが、次のような部分には是非その論拠を引いていただきたいと思う。

お盆の亡くなった人たちがどこから帰ってくるのかとの問いに対して、「仏教僧侶としては、当然阿弥陀の浄土である極楽からと考えるべきなのだろう」(P48)とある。私はそう思わないし、そう思う坊さんがどれだけ居るのだろうか。

また「お釈迦様にとって地獄とは、この世に何度も何度もさまざまな境遇で生まれてくる「輪廻」そのものだった。そして「もう決して生まれかわって来ない者」だけが極楽浄土に生まれるのである。」(P75)とあって、輪廻の苦しみと地獄を同等視してしまっていて、加えて、極楽と解脱まで同じものと捉えていて、余りにも大ざっぱな書き方になっているのは気になる。

さらに、「インドの輪廻観は中国で議論のすえ否定される。だから仏教は、日本には輪廻を抜きにして中国から伝わるわけだが、・・」(P118)ともある。本当だろうか、是非その根拠となる文献を示して欲しいものだ。

檀家さんから「死んだらどうなるんですか?」と問われて、この本のような答え方を宗久師はなさるのであろうか。それではあまりにも、敢えて問うた人を突き放すような感じがするのではと思うのは私だけであろうか。本当はあなたはどう思っているのですか? そのことを聞きたかったのにというのが、私の正直な読後感であった。
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四国遍路行記2 四国へ 

2005年05月07日 17時41分40秒 | 四国歩き遍路行記
インドから帰って、身辺の状況が変わったりして、信玄師の庵にお邪魔する回数が増えていった。一緒に臨済宗のお経や陀羅尼を唱え、坐禅させていただいた。2時間もかけて土肥や戸田の温泉街まで歩き托鉢して、帰りに無料温泉で汗を流した。そして信玄師の師匠のあたる高知の護国寺へ坐禅に行った。

臘八接心と言って一週間ぶっ続けで一日十時間ばかり坐禅する参禅会だった。12月1日から8日まで。期間は短いが、真言宗の四度加行より厳しいものだと感じた。作法がある方が楽なのだ。一週間経つと、首筋から腕の先にかけて筋が張って痛いほどであったことを記憶している。

とにかくそんなことで信玄師の指導宜しく、その翌年には三島の龍澤寺でも接心を経験した。そしてその時、龍澤寺住持宗忠老師の計らいで真言宗の衣を脱いで臨済宗の雲水衣を着用し坐禅した。早朝の作務での裸足の足の指が箒の風でしみる冷たさと晩の坐禅後に出たクリームパンの極上の味わいは今も忘れることができない。

そして一週間共に過ごした雲水衣は、ずっしりする藍木綿の重さと腰に巻いた太い手巾が殊の外坐禅には適しているように感じ、東京に戻り早速雲水衣を新調した。そしてそれから二月後いよいよ、網代傘にビニール紐の草鞋、作務服に脚絆を巻いて雲水衣を身にまとい、平野屋さんから供養していただいた錫杖を着きつつ、四国へ旅立つことになる。

東京の有明埠頭から晩の7時頃乗船し、翌3月27日の昼頃徳島港に接岸。そこからバスと電車を乗り継ぎ四国一番霊山寺に向かう。途中電車の中で早くも御接待ですと言われ、子供連れのご婦人から紙に包んだ五百円玉を頂戴した。高徳本線の板東駅に着く。

駅を出て、霊山寺へ。網代傘を脱いで、楼門をくぐり、池の横を通って本堂に向かう。大勢の参拝者の間を通って奥へ進み、お釈迦様の足元で、この遍路の成満を祈願して理趣経一巻を唱える。大師堂前では般若心経。多宝塔や諸堂に詣る暇もなく歩き出す。
二番極楽寺へ。国道をまっすぐ西に向かう。
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四国遍路行記 プロローグ

2005年05月06日 14時54分56秒 | 四国歩き遍路行記
四国を歩いて遍路したときの話をしたい。しかしその前にしばしインドにバックパッカーしたときのことを話さねばならない。なぜなら私が本気で四国を歩こうと思ったのはインドのリシケシだったから。高野山を降りて2年目にインドへ行った。インドへ行かねば仏教は分からないそんな強迫観念にも似たものを感じていた。

何の予備知識も持たずに行った5月の熱いインドで、逃げ込むかのようにリシケシまでたどり着き、冷たいガンジス河の水に火照った身体をつけていたとき、どこからともなく一人の雲水さんが目の前に来られた。臨済宗で修行する信玄師であった。

信玄師は、私より十ばかり年長で、普段は伊豆の小庵に住み托鉢をして生活しておられた。その師匠は昭和の白隠禅師と言われ時の歴代首相のご意見番でもあられた山本玄峰師のお弟子さんで、信玄師はその孫弟子に当たっていた。

玄峰老師は、幼少の頃目を悪くされ、それが為に一人歩いて四国を遍路する途上、高知の雪渓寺で倒れられ、そのままお坊さんになられた。それが為に、後に白隠禅師開山の三島の龍澤寺を中興されたり、臨済宗の妙心寺派の管長になられるなど影響力のある方が四国を歩かれて坊さんになられた。また隠居されてからも歩かれたとあっては臨済宗の坊さんたちは四国を歩くことが一つのステイタスとなり、一周歩けばそれだけよく坐禅ができるようになると言われているということだった。

そんなことを聞いて真言宗なのだから当然歩いているのでしょうね、と問われたとき、何とも困ったことになり、これから歩く予定だとでも言ってしまったのだったと記憶している。それで、それならと色々と四国の歩き方をインドのリシケシでガンジス河を眺めながら毎日聞くことになった。

靴はいけない歩いていると夕方には足が膨らむので草鞋がいい、それもわらはすぐ擦れるからビニールの太い荷造り紐で編むとか、それも二足のわらじと言うけど四国も二足で歩けるのだとか。なるべく荷物は少なく、寝袋と下着くらいにすること。下着も褌だけでいいとか。荷物は一つではなく二つにまとめて前と後ろに分散するのだとか。傘はいらない、ポンチョのようなものがいいとか。とにかくその話は実際四国に行ったとき大変役に立った。

それでその3ヶ月後、インドから戻ると、私はとにかく伊豆の信玄師の庵をお訪ねした。信玄師の庵には小さいながら、囲炉裏が切ってあり、抹茶をご馳走になった。外には露天風呂があって、入りながら相模湾が見渡せる贅沢なロケーションでもあった。早速草鞋の編み方を学び、それを履いて一緒に西伊豆のまちまちを托鉢に歩いた。続く
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今日の法話

2005年05月04日 15時26分26秒 | 仏教に関する様々なお話
法事に行ってまいりました。平安祭典という全国ネットの葬祭業者の会館での法事だった。通路の両側に長椅子が何列かあり、まるで教会のような会場。正面にはテカテカ光った宮殿があって中に小さな大日如来の掛け軸が掛けられていた。その前にお位牌と二つ霊供膳が並んでいた。

お経の後法事の意味合いを話し、お経の起こりについて話した。どのお経でも始まりは、如是我聞で始まっている。かくの如く私は聞きましたという決まり文句である。この私とはお釈迦様に長年随侍したアーナンダ尊者のことだ。

お釈迦様歿後の雨期にマハーカッサパ尊者が五百人の阿羅漢をラージギールの七葉窟に召集してお釈迦様生前の言説をとりまとめる会議を開いた。仏典結集という。このときいわゆる説法であるお経を誦出したのがアーナンダ尊者であり、そのアーナンダの唱えたお経をみんなが再度唱えて確認し、今に残る経典として暗記されることとなった。

筆記されて残されるようになったのはそれから500年も後のことなので、それまでは、パート毎にそれぞれが暗記して師から弟子へと伝えられた。それが今あるいわゆる南伝のパーリ経典となるのだ。

が、私たちが漢訳で目にするお経はその殆どが大乗経典であり、それらは初めから筆記され聖典語であったサンスクリット語で書き残されたもの。こちらは形式的には如是我聞とあってかくの如く私は聞きましたとあるが、本当はお釈迦様の言説ではなく、別に作者があったと言われている。

それはともかくとして、お釈迦様が80才で亡くなる目前になって、そのことを確信したそのアーナンダ尊者は大層悲しんだのだと言われている。それはそうだろう20年以上にわたって居を共にし、秘書のような役割を勤めてきたのだから。

そのことを知られたお釈迦様は、「アーナンダよ、悲しむな嘆くな、私は長年説いてきたではないか、作られしもの、生まれしものはいつかは滅び亡くなることを。生者必滅、会者定離はこの世の定めではないか。そのことをそなたが一番多く耳にしてきたのではなかったか」

このように言われて、自分が居なくなっても、自らをより所として法をその指針として生きなさいと、自灯明法灯明と言われる教えを諭されたと言われる。お釈迦様という大きな支えが無くても自分を信じ、しっかりと物事を判断し、それまで語った教えを土台に生きよと言うことだ。

私たちはつい権威ある人の言葉、御上のなす事、また社会通念、新聞に書いてあることを鵜呑みにして、寄りかかりがちではないかと思う。それでは自灯明とは言えない。一人一人がしっかり仏教の教え、つまりはこの世の中の真理に照らして、自ら考え判断していかねばならないのではないかと思う。

亡くなった方を追慕すると共に、一人一人が自立自尊してこそ故人も浮かばれると言えよう。
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