住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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自己発見の旅-インドから神戸へ [平成7年(95)3月記]

2019年11月30日 10時45分19秒 | ナマステ・ブッダより
自己発見の旅 -インドから神戸へ(インド編)
 [平成7年(95)3月記]



1992年2月、二度目のインド巡礼の旅の途中、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートを訪ねた。そこで、既にインドに十四年も住み込み、現地の人達に囲まれて暮らす一人の日本人僧に出会った。

この方から私はインドで仏教が生き続けてきていたことを知らされ、そして今こうしてお寺の中で日曜学校を開き、次には無料中学校を設立しようと計画していることをうかがった。お寺の近くに住むモウリアというアショカ王の子孫たちと共に貧しい子供たちのための中学校を作りたいと言われた。

私は何か出来ることがあるなら手伝わせていただこう。こう即断し、次の日からサールナートの仏跡地に一緒に出かけ、旅行者に寄付を呼びかけたり、日曜学校の手伝いをして過ごした。

そして、一週間後には一旅行者としてではなく、ここに住み込んでもっと深くかかわりたいと思うようになった。ヴィザのため一度日本に戻って留学の手続きをし、またインドの僧侶として戒律を授かり正式にこのお寺に住み込むことを決めていた。

自分の将来に対して決められた方針があったわけでもなく、一僧侶として何ができるのか、何をすべきなのか、そう常日頃考え続けていたこともあり、ここでの生活に自分を必要としてくれる場を見い出したのであった。

こうしてひと月を過ごした後、日本に戻り、ヒンディ語の学習とベナレスにある大学への留学手続きを進めた。殊の外スムーズにすべてのことが進み、この間新聞や雑誌などに「個人ボランティア奮闘中!インドの子供に学校を・サールナートの邦人僧が設立運動.カンパ募る」という見出しで広報活動も行えた。

そして、その年の10月アヨディアでの聖地奪還をめざすヒンドゥー教徒とイスラム教徒の紛争が起き、ますます宗教対立、階級闘争という内患を抱えるインドに仏教の平等と慈悲の精神を基礎にした教育の必要性を実感させられたのであった。

そして、翌年の93年3月いよいよサールナートのチベット上級研究所の隣に位置する法輪精舎(ベンガル仏教会サールナート支部)に住み込むことになった。私にはベット一つ置かれた八畳程の部屋が用意され、お寺の中で日本人住職と二人の生活が始まった。

毎朝、暗いうちに起き出し、水をくんだり食事を準備したり掃除をしたり。日中は日常使うヒンディ語と仏教語であるパーリ語の習得や寺の雑用を済ませるという生活。そして特に日本の協力者たちとの通信事務が私の仕事として与えられた。

無料中学の設立をその年の7月に控え、気温が四十度を越える4月から6月の間、お寺の中に仮校舎の建設や建物の壁面塗装といった修繕工事のため毎日5,6人の工事夫が出入りする落ち着かない毎日であった。

そして7月25日、法輪精舎根本佛教学林の開校式と第一回入学式が執り行われた。あいにくの大雨の降る中で、近隣の大学からも来賓がみえ盛大な開校式となった。中学一年生25人が入学しインドの学校制度に照らした教育がスタートした。

私にとっては日々住むところと食べることの心配がないインドのお寺でパーリ語の学習とお寺の雑用に毎日が暮れていった。ベナレス・サンスクリット大学に籍を置き、二度の儀式を経て、6月にはインドの僧侶として黄衣をまとった。

暑い時期には外にベットを出し蚊帳をつって眠り、寒い時期にはセーターを着込んで寝袋に入って休んだ。

私は法輪精舎で過ごした一年間ではたして何が出来たのだろうか。一人の日本人僧が個人の努力で地元の子供たちのために日曜学校を開き、さらに無料の中学校を開校した。そのことを日本の人達にお知らせる広報活動や募金活動、それに「法輪精舎だより」という会報も発刊した。

それらが主な目に見える活動であったと思えるが、私の本当の仕事は地元の協力者、特に日常出入りしている若いスタッフたちと拙いヒンディ語で話をすることではなかったかと思える。他愛もない会話の中に彼らの本音が現れ、お寺の仕事をする上での潤滑油となっていたのであろう。

日本から送られてきた衣類を学校の子供達に配布するという簡単な仕事にも現地スタッフの気持ちが複雑に揺れていく。日本の良質ではあるが古着をもらうことに何のためらいもなく配れる人とやはり子供たちにとってその行為がどう影響していくのかと心配する人もあり。

自分の家族にも欲しいと思う人もあれば、黙って持っていってしまう人も出てくる。与えることで与えられた側はもらって当たり前と思うようになり、乞食の気持ちを植えつけてしまうのではないか、と考える人も出てくる。

中学校の学期末試験をして数学の平均点が極端に低かったときには、数学の教師をどうするかで議論が分かれた。彼が免許のない代用教員であったことも話のこじれる原因であった。正式な教員免許を取るには高校卒業後教員養成学校へ入らねばならず、その為には相当な額の賄賂やコネが必要なのだそうだ。

能力があり、企業への就職や留学を希望しても実力本位で事がスムーズに進まない社会であることが教育の普及を遅らせている要因のひとつなのだと思える。
                              
日曜学校では、ノートとボールペンを与えお経や英語を教えていたが、生徒が増えるにしたがい、勉強をしに来ているのか、その後配るビスケットとパン二、三枚をもらいに来ているのか分からないような子供も多くなっていった。

更に小学生以下の子供たちはただビスケットをもらうだけのためにお寺に集まって来てしまうようにもなっていった。わざわざ赤ん坊をかかえて来るような子もいて、毎週300人もの子供たちが近くの村々から集まって来た。

多く集まり、お寺が有名になっていくと喜ぶ人もあれば、こんなに増えてはお寺の資金を逼迫させてしまう。それにただもらえると思わせてはやはり乞食の根性を植えつけるのではないか。そう心配する人も多かった。

そして、こうして集まってくる本当に貧しい家の子供たちはたとえ無料であっても学校へ行こうとしない。教科書代も払えず、文房具代も続かないのだという。字が読めない親たちの多くは子供にだけは教育を、という気持ちも起きないのが現実だという。

さらには、小学校から数えて8年生、10年生、12年生のときに国家試験があり、それぞれの合格率が三割に満たない厳しい状況である事も高等教育が広く行きわたらない要因になっているとのことだ。

また、日曜学校にはヒンドゥー教徒のほかイスラム教、シーク教といった様々な宗教の子供達が集まり、肩を並べて勉強し一緒に遊んでいた。しかしそれも高校大学と進むにつれ、やはり同じ宗教のそれも同じ階級の仲間との付き合いに変わっていくのだそうだ。家や仕事のつながりで自然とそうなっていくと言うのだが。

共和国憲法ではカーストは否定されたにもかかわらず、役所や大学の書類にはいまだに階級を書き込む欄があり、それは、不可触民や部族民などの指定カーストといわれている人達に大学への進学、官庁への就職に特別枠を設けるという制度があるからで、そのこともカーストを意識させられる要因であり、今では逆に指定カーストの保護が階級間の争いに拍車をかけているとの事であった。

また、日本製のオートバイが町を駆け抜け、電気製品が店頭を賑わせている一方で、社会の底辺で暮らす人々の暮らしは一向に改善の兆しがない事も大きな社会問題のひとつとして残っている。

貧しい子供たちにも教育の機会をという気持ちでインドにやって来たのではあったが、一つ一つの問題の奥深さを痛感させられる毎日であった。とにかく私の仕事は、好奇心旺盛で世話好きの若い現地スタッフたちとこのような様々な問題について話し合うことではなかったかと思える。今は、こうしたことが個人レベルの日印の相互理解につながってくれていればと念じている。

入学した中学一年生のクラスがほぼ軌道に乗り学年末を迎えようという頃、私は日本に戻ることになった。日本での広報活動のためであり、またあらためてインドでの活動に対して考える機会を持ちたいと思ったからでもある。

特に海外に出て一外国人として支援活動をする際に大切なことはその国の文化伝統に対して尊敬の念を持つということではないだろうか。たとえ貧しい生活をしているように見える人々にもそれまでに培ってきた歴史と誇りがあるはずなのだから。

ともに生活させてもらい、お互いの違いについて理解を深める段階で、互いに何かを学び合うという姿勢が大切なのではないだろうか。様々な問題を抱えつつも、豊かさという点では、彼らの方がはるかに自然と親しみその恵みを享受しているのかもしれない。

本当は私達こそ彼らから多くのことを学ばせてもらわなくてはいけないのではないだろうか。こんなことをひとり考えつつ、昨年の3月、日本に帰ってきた。無料中学校は、昨年7月に新一年生を迎え2学年となり、その後お寺の近くに600坪の土地を購入、校舎の建築許可が下り次第着工する予定である。

その後、私は10月にはインドへ戻る予定だったのがインド国内のペストの流行で行きそびれ、東京で新年を迎えた。そして、1月17日未明。太平の眠りを覚ます大震災が兵庫県南部を襲った。地震直後から何かできることがあったらしなければと思い、取り敢えず神戸市の災害対策本部宛に食料を自分なりに梱包し送ってはいたが、物足りなさが残り申し訳ない思いが続いていた。

そこへ、サールナートのお寺の日本連絡所を引き受けてくれている芦屋の知人から、カウンセラーという精神面のケアーをする人が足りないのだが、という話に早速現地に赴くことにした。・・・・

(神戸編)へ
https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fb2959a6d40127bfef7d5a6de7ddda81

(生命科学振興会ライフサイエンス誌95年6・7月号掲載)


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あるべきようは [平成9年(97)2月記]

2019年11月30日 06時50分06秒 | ナマステ・ブッダより
あるべきようは-私の十年を振り返って [平成9年(97)2月記]



最近になって「どうして坊さんになったんですか」という質問をよく受ける。僧侶になったのは既に十年ほど前のことになるが、当時はいろいろと考えを重ねて決断したように思い出される。

が、今では、その問いに対してそう簡単には答えることが出来なくなってしまった。当時考えていたことの根底にあった深層の意識が本当は私の身の振りを決めていたと思えてきたからでもある。しかし、ともあれ、この十年を振り返ってみると、自分にとってとても自然な歩みであったと思える。

<僧侶に>
「お寺の息子だったんですか」、これが、当時、僧侶になると会社の同僚に私が言ったときの返事であった。

「いやいや、出家は家庭を持たないものなのですから、もとはお寺に息子なんていなかったんですよ」とでも答え、寺の生まれでもないものが僧侶を志す正当性を主張したのを記憶している。

サラリーマン九年目にして僧侶になると決めてからの私は、まことにすがすがしく、頭の中に、もやもやと漠然と抱いていた将来に対する不安や焦燥を一瞬にして吹き飛ばしてくれた。周りと比べられ、競走し、世間の体裁を気にする生き方、常に何かと張り合い、精一杯走っていなければいけないといった強迫観念からも解放させてくれた。

<仏教との出会い>
そもそも私が仏教と出会い、こうして今日あるのは、大学二年目に再会した高校時代の友人たちに感じた反発からであろうか。彼らが語る西洋の哲学に、何か私たちがそもそも身に備えたものとの隔たりを感じていたのかもしれない。

そしてそれが、その後間もなく、その時まで宗教書など手にすることもなかった私が仏教書と出会うきっかけとなった。その最初の本は増谷文雄先生の「仏教の思想・知恵と慈悲<ブッダ>角川書店刊」であった。

パーリ経典にもとづく、ありし日のお釈迦様のお姿を彷彿とさせるその文体に惹かれ、それから次から次にと仏教書を紐解く日が続いた。いつの間にか僧侶を志し、自然と高野山への道が開かれた。

そしてこのはじめて手にした本によって得られた、お釈迦様をはじめとする仏弟子たちのお姿を慕う思いが、高野山の真言僧侶修養の道場・専修学院を経て、なお、インドの地へと私を急き立てることになった。

<インドへ>
灼熱のブッダガヤ。ヒンドゥー教の聖地リシケシの雨期。そこで私は、生命の源・ガンジス河の滔々と流れる雪解け水に体を冷やしつつ、現代インドの信仰をつぶさに垣間見ながら過ごした。

宿泊したシバナンダ・アシュラム(道場)を後にする日、荷物をまとめドネーション(寄付)を払いに行くと、そのお金を受け取るスワミジ(ヒンドゥー教の僧)は「あなたは日本で何をしていますか」と聞かれた。日本の仏教僧であることを告げると、インド服を着ていた私に、「なぜあなたは仏教徒のドレスを着ないのですか」といわれた。

私はそのとき、誤魔化しを許さないインドの宗教者の厳しさを教えられた。いついかなる時でも衣を纏い自らの姿勢を明らかにし、世間に染まらず心を浄らかに保つ。そんな簡単なことにさえ抵抗があった自分にとても恥ずかしい思いがしたものだった。

<四国遍路へ>
そして私は日本に戻り、それまで世話になっていたお寺の役僧を辞し、一人住まい托鉢をし、四国八十八カ所の徒歩遍路に出ることになる。そもそも出家とは、定住することなく、樹下を住まいとするものであった。

儀礼や祭祀によって生活するのが僧侶なのではなく、瞑想にふさわしい場所を求め、また聖地をめざし歩く遊行者が出家の理想である。今日の日本でその理想を少しでも味あわせてくれるのが四国巡礼ではないかと、私は思っている。

一人錫杖を突きつつ、網代笠の下、地面を見つめ、ひたすら歩く。遍路道で出会う見ず知らずの人たちから受ける情け、ご飯や飲み物などを施されるお接待のありがたさ。出会いの妙。それまでの自分を振り返り、そんな至らぬ自分に施しをされるお気持ちに涙することもあった。

四国遍路は、正に心を見つめつつ歩く瞑想の道場とも言えまいか。
                           
<インド僧へ>
しばらくそうした生活を続けつつも、はたして僧として自らのなすべきことは、と考え始めたとき、再度インドを訪れる機会を得た。

そしてそのときの縁で、後にカルカッタに本部を置くインドの伝統的仏教教団・ベンガル仏教会で南方上座部の僧侶として、三年あまりの間黄衣を纏い過ごすことが出来た。

カルカッタのフーグリー河に十五人の黄衣姿のインド僧を乗せた小船の上で私の具足戒式(ウパサンパタ゛ー・正式な僧侶になるための授戒式)は行われた。そして、本部僧院で他のベンガル人のお坊さんたちと共に生活し、様々な儀式にも参加させていただいた。

彼らの生活は今日でも非常に質素である。持つものが少ない身軽さ、心もまことに軽快である。生涯独身の僧院生活を送る彼らの持ち物はといえば、衣類と僅かな書籍、それに鞄やひげ剃り、傘など必要最小限の生活必需品と多少の現金くらいなもの。

昼は、仏教徒の家に招かれ、食事の供養を受けることが多い。在家の信者にそうして布施の功徳を積ませる存在であり、それだけ日頃の生活に清貧さと供養を受けるに値するものとしての気概が求められる。         

<南方仏教僧の生活>
この間私は、インドから一時日本に戻った際にも当然のことではあるが茶褐色の袈裟衣を常に身につけて過ごした。そのときはじめて実感されたことは、一つには、日本の僧侶に比べとても身軽であるということ。

衣が何種類もある日本の僧侶とは違い、出家されて五十年になる大長老から十代の見習い僧まで皆同系色の腰に巻く下衣と身に纏う上衣、普段はこの二枚の袈裟だけ。寒いときにはもう一枚袈裟を纏うか、同じ色のシャツや靴下を身につける。

足袋も白衣も数珠もいらない。白いものを身につけない手軽さ。外出時にあれこれと身支度する必要もなく、寝る際にも上衣を外すだけ。まことに簡便な合理的生活が送れるものだと実感することが出来た。

そして食事も朝と昼のみ、午後からは固形物を口にすることが出来ない。一日二食と考えるとどうも栄養が足りないのではと考えられる向きもあろうが、過食気味の食生活を送る現代人には却って適度な健康的な食習慣ではないかと思えた。

そしてこの二食のお蔭で、夕方から夜の時間がまことに有効に生かすことができた。夜外出することもなく、余裕ある意義ある時間を毎日のように作り出すことになった。日々のなすべきことに追われる生活の中に、次元を変えた充実した時間を作り出す秘策とでも言えるものだと思えた。

住まいは、インドではもちろんベンガル仏教会の僧院に逗留したが、日本では知人の寺に居候をさせてもらっていた。そのお蔭もあるが、この間日本にあっても、金銭について全くといってよいほど気遣うことなく過ごすことができた。

それは、何もせずとも常に袈裟を身につけている安心感、充実感があったればこそなのだと思える。お釈迦様の教えを学び、実践しつつ、縁あった人々と語り合う。これ以外のことから解放された存在なのだといえる。

逆に言えば常に身につけている袈裟が余計なものに心が向かうことを防いでくれるとも言えようか。インドにいる間、暑いため僧院内では上衣を外して過ごしたいところであったが、師匠からは常に身につけていなければいけないと、ことある毎に教えられたことを思い出す。

<捨戒し帰国>
九六年八月、カルカッタの僧院で上座部の僧侶の戒を捨戒し黄衣を脱いだ。インドで経験した簡素な生活は、世事に煩わされることなく、時間と活力を無駄なく僧としてなすべきことへ身を任せる礎であると思えた。袈裟そのものが普段着の仏教。お釈迦様の教えとは本来こうしたものであったのだと知ることができた。

誰しも生きている一瞬一瞬の営みがその人を作るのであって、私たち僧侶もあらためて袈裟を纏う特別な時間はその発露であるにすぎない。常に原点を忘れず、お釈迦様や宗祖の時代を慕い、自らを律する真摯な姿勢が必要ではないかと思う。

かつて明恵上人がインドの地にあこがれ、お釈迦様の時代に生まれ得なかったことを嘆かれたように、今の時代にあっても“あるべきようは”と自らに問う営みが必要ではないか。自らの生活習慣によって、自分も、周りの人々も自然と心浄らかなものとなるよう心がけることが、僧侶にとって肝要なことではないかと思う。 

アジアの仏教国を旅した人なら、それらの国々では颯爽と街を行く僧侶の姿をしばしば眼にしたであろう。多くの僧侶がいるはずの日本で、街にそうした姿を見かけることは誠に稀ではないだろうか。

心が問われている現代社会にあって、今仏教という心の教えを日々の生活や様々な問題の解決に生かしていくことが、切実に求められているのではないかと思う。仏教を今の社会の中にいかに浸透させていくか、私たち一人一人がその使命を担っていることも忘れてはなるまい。

(大法輪・平成9年4月号掲載)

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インド仏教見聞録 [平成8年(96)10月記]

2019年11月29日 06時52分18秒 | ナマステ・ブッダより
インド仏教見聞録 [平成8年(96)10月記]


今年もインドを訪ねることができました。昨年は、カルカッタのベンガル仏教会で、安居(アンゴ) というお坊さんが行う毎年雨季3か月の修養期間を他のベンガル人のお坊さんたちと共に過ごした訳ですが、この度は、2か月。

それもサールナートの以前1年間過ごしたお寺での学校建設にも携わっているため、カルカッタとサールナートそれぞれのお寺で3週間余り過ごすという短期の滞在でした。仕事を持つ皆さんにとっては2か月もインドで過ごしてと、たいそう羨ましく思われるかもしれません。

が、私の場合、ホテルでのんびりと日を過ごす訳でもなく、サールナートへの往復のため寝台車には泊まりましたが、他はすべてインド仏教のお寺に宿泊して過ごしました。この間に見聞きしたことを仏教とインドの最近の動向なども交えて、少しかいつまんでお知らせをしたいと思います。

<機内で日本人ビジネスマンと>
インドと聞いて皆さんは特に近年目覚ましく経済発展を遂げている国と連想される方もあるかもしれない。ボンベイのホテルなどは日本人のビジネスマンで年間契約されているところもあるという。今回インドに向かう飛行機の中、たまたま隣り合わせた方も颯爽とボンベイに向かう日本のビジネスマン。

ボンベイで開かれる貴金属の装飾機械の展示会に招かれて日本の機械を持参して乗り込んでおられた。勿論インドは初めて。これまで旅したヨーロッパなどの国とは違う緊張を隠し切れないという落ち着かない素振り。

安い人件費で細かい作業を永遠にコツコツ続けて作るような国で、はたして日本の機械が売れるものかと心配もされていたが、しきりにインドの交通事情やら、人の性格、付き合い方などについても質問しておられた。仏教にも関心がおありで、こちらのインド仏教についても質問されるので、一通りお話をしているうちにカルカッタに到着。続きはこれから、東京でお会いする予定である。

<本部僧院へ>
空港から、一人プリペイドタクシーでカルカッタのボウバザールという貴金属宝石店がきらびやかに軒を連ねる通りを通って、ベンガル仏教会本部へ。門番や職員さんたちと一言二言挨拶をして、早速宗務総長のダルマパル・バンテー(以下バンテーと略す)の部屋に入り込む。

荷物を置いて、右肩を出し左の腕全体を覆う着方で衣を着直す。そして黙って床に額をつけて三度礼拝をして、それから挨拶。“今到着いたしました”と申し上げると、“そろそろ来る頃かと思っていた”という返事。昨年の11月に日本に戻ってからのことをかいつまんで報告をした。

調子のでないヒンディ語で何とか説明するものの所々言葉が出て来ないこともあり始めは苦労するが、直に慣れていき、自然に言葉がついて出るようになる。勿論カルカッタはベンガルの地、ベンガル語が母国語なのだが、私の方はヒンディ語しか話せないので、ベンガル人にとっては外国語であるヒンディ語を私のために使ってくれているのである。   

<ダルマパル師のこと>
相変わらず、私のインドの師匠ダルマパル・バンテーは忙しい毎日を送られている。今年71才になられる今も、朝の5時から夜の10時まで、そのほとんどを寝室兼事務室で床にあぐらをかいて仕事をし続ける。

朝は廊下を行ったり来たり、少し早めに歩く運動に始まり、洗面を済ませると、お堂でお勤めをされる。その際には私もご一緒して、心地よい旋律にのせ唱えられる仏・法・僧の三宝の徳を称える偈文や礼拝文、それに慈しみの修習などに耳をすませ、唱和させていただく。

私もある程度唱えられるようになっていたので、ある日一人で唱えてみろ、と言われ唱えたところ、“まだまだ50パーセントの出来、もっとテープをよく聞いて反復しなくては”と無表情に言われてしまった。

6時には朝の軽食を召し上がり、その後は新聞を読む暇もなく、人が詰めかけてくる。世界仏教徒親交会(WorldFellowship of Buddhist) の地域センターということもあり、常に諸外国の人々が巡礼にやって来て泊まられる。

それら宿泊者が部屋を訪れることもあれば、近隣の仏教徒が話を聞きに来ることもある。インドの人たちは先客があっても平気で部屋に入ってきて座り込んでしまう。そうして3組くらいの人たちで8畳ほどの部屋が一杯になっていることも珍しくない。

また全インド僧侶連盟(オールインディアビックサンガ:AllIndia Bhikkhu Sangha) の理事長の要職にもあり、デリーやボンベイ、ラクノウなどで開かれる会合にも頻繁に出かけられる。高齢でもあり、飛行機か列車のときでもファーストクラスで行かれたら良いものなのだが、いつも2等寝台で20時間以上も揺られて行かれる。

さらに今進めているラージギールという、昔竹林精舎(チクリンショウジャ) というお釈迦様にとっての初めての精舎があったところでもあり、また、お釈迦様入滅後、お経の編集会議が開かれた七葉窟(シチヨウクツ)という洞窟に近いところにこの仏教会の支部を建設中で、毎月自ら出向き、資材の選定から、施工に細かい注文もつけていかれる。

本堂とゲストハウスは出来上がり、今瞑想のためのホールを建設中なのだが、バンテーのアイディアで、本堂はドーム型吹き抜けで、回りにはアジャンター石窟寺院の壁画にある蓮華を持つ菩薩をモチーフにしたグリルが張りめぐらされている。

<僧院の行事について>
ここカルカッタの本部では、満月の日にはいろいろな行事が開かれるが、そうしたときには、ホールの床に座る仏教徒が会場狭しと詰めかけるころ、ダルマパル・バンテーはそれまで人と会ったり、書類に目を通しておられる仕事を中断されて、静かに立ち上がり、悠然と会場に向かう。

白い布の敷かれた壇上に一足先に来てあぐらをかいて座って待っていた他のお坊さんたちも一斉に立ち上がり迎えると、会場の仏教徒たちは“サードゥ・サードゥ(幸いなり〃)”と唱えてバンテーを迎える。バンテーが壇上中央に座るのを待って他の坊さんたちも詰めかけた人たちに向かってバンテーの両脇に一列に座る。

そして、三帰依文と五戒を授け、説法をなされるのであるが、その声の張り、澱みなく話す話に誰もが心静まり、自然と聞きいってしまう。そして、ご自分の役目を終えるとまた静かに立ち上がり部屋に戻られる。

が、こうした行事は午前11時頃から行われることが多いので、この後食事の供養が必ずといって良いほど付属していて、お経や説法をしたそのままの場所に台を出し、大皿が一人一枚づつお坊さん達の前に置かれ、ご飯やおかずがのせられて食べる。

床で話を聞いていた人たちがすすんで給仕を引き受け、食前食後に手を洗う水を持って回ったり、デザートやお菓子までお坊さんたちの好みを聞きながら配られる。そうしたときにはバンテーはゆっくりとみんなが食べ終っても静かに味わいながら食べていかれる。

供養する人たちが十分に供養し尽くすことができたと満足できることをお考えになっているようにも思えるし、多くの人たちが集まり供養されることを楽しんでおられるようにも思われる。

我が国では法事の後のお斎にお坊さんを招かないことも多くなり、そのことに何の不思議も感じなくなってはいないだろうか。こうして供養する、施すという善行をして、はじめて亡くなった人にその功徳が回向されることを考えると、やはりこうしたご供養の原型をそのままにとどめているインドの儀礼の尊さを思う。

<ダンタプーリー物語>
ところで、バンテーは私が居ると昔若い頃に読んだ書物の中からおもしろい話をよく聞かせて下さるのだが、この度は、オリッサ州のプーリーのお寺にまつわる話を伺うことができた。インド国内には異教徒の立ち入りを厳しく制限しているヒンドゥー寺院が多いのだが、その中でも有名なベンガル湾沿いのプーリーという町にジャガンナート寺院というお寺がある。

円錐形の屋根の高さが何と58メートルもあり、ひときわ威容を誇っているその寺が、実はその昔、仏教寺院だったというのである。AD4世紀頃、この一体はダンタプーリーと言われ、ダンタつまりお釈迦様の歯を祀ったこのお寺があることで有名な国であったのだそうだ。

各地の王様が礼拝に詰めかけ気が付くと自分がその仏歯を礼拝することもできなくなったことに気づいたこのダンタプーリーの王様は、いつしかこの仏歯を参拝することを断るようになってしまった。周辺国の王様たちは何とか願いを叶えてくれるように取り計らうが、それでも頑として受けつけない。

そうした険悪な情勢の中、一人の王子がカシミールからやはりこの仏歯を拝むためにやって来た。ダンタクマールという名のこの王子を見るや、男子のない王様は自分の娘との縁談を申し出る。周辺国との軋轢など知らぬダンタクマールは皇太子となり、宮殿に住み込むが、間もなく周辺国が連合して宮城に迫っていた。

王は捕らえられて殺されてしまったが、何とか仏歯を奪われずに済んだ王子は、王女の髪飾りの中に仏歯を隠して、旅芸人の衣装で逃げ出し、船でスリランカに漂流する。そうして、当時の首都であったアヌラーダプラに仏歯は奉納され、その後の遷都とともに王権の象徴として南下し、今でもキャンディにある仏歯寺に大切にこの仏歯は祀られているのだということなのである。

そしてその後、仏歯が無くなってしまったプーリーのお寺は衰退し、時代の変化とともにヒンドゥー教徒の手によって維持されていくことになった。余談ではあるが、今日、その中に彫刻されている仏像などを他教徒の目に触れさせないために異教徒の立ち入りが禁止されているのだと言われている。

ヒンドゥー教の人たちは仏教はヒンドゥー教の一派、お釈迦様はビシュヌ神の化身と主張するが、ひょっとすると、こうした寺院の中に仏像が存在することから、逆に仏陀をヒンドゥー教の神ビシュヌの化身とせざるをえなかったという事情があったのかもしれない。さらには、先年イスラム教徒との紛争の場となったあのアョッディアの元ヒンドゥー寺院もその前はやはり仏教寺院であったということなのである。

<インドの仏教を取り巻く環境>
こうして2か月の間インドで過ごし、カルカッタのベンガル仏教会本部ではベンガル人のお坊さんたちや仏教徒たちと語り合い得た実感として、今日、インドの仏教を取り巻く環境が以前にも増して厳しくなっているように感じた。経済が外国に開放され、急テンポで発展していくにしたがい、またテレビや衛星放送の普及によって、さらに難しさは増していくものと思われる。

若い優秀な人たちはコンピューターについて学ぶことに熱心であり、今回訪れたカルカッタ、ベナレスともにコンピュータースクールの看板をどの通りでも目にすることができた。旅の途中、今年もベナレスの中央郵便局から小包を送ったのだが、宛名、送り主、品目などそのすべてをコンピューターに入力し管理するようになっていた。

こうしたハイテクノロジーの未来に夢をふくらませていくことはどの国の若者も変わらないことなのであって、周知のようにインドもその最先端を担っている。

サールナートで“日本は金持ちでいい国だ”と言うお寺の学校の先生に、“何を言うか、皆さんの家にはみんなで暮らす土地と家があり、畑では家族が食べる野菜を作り、飼っている牛のお乳を毎日飲むことができるし、昼寝もできる。しかし日本では多くの人がちっぽけな家を買うために一生駆けづりまわって仕事に追われなければならないんだ。よっぽど、みんなの方が豊かなんだよ”と言ったことを思い出す。

私の師ダルマパル・バンテーは、13才で出家してお寺に暮らし、厳しい規律の中でパーリ語のお経と仏教哲学を師匠から学びつつ成長された。が、勉強したかった英語は余計な知識、外国の文化を頭に入れては修行に差し支えるといわれ学ばせてもらえなかったという。

竹で編んだ小屋にしか住まず、衣も捨ててあるものしか受け取られなかったというバンテーの師匠は、相当の瞑想修行を積まれた高徳な方であったらしい。仏教の教えは、お経(経)と戒律(律)と哲学理論(論)に分けられるが、それらをバランスよく学ぶためには、やはり10代から寺にあって学び始める必要がある。

こうしたパンディットと呼ばれる程のどんな質問にも答えられる学識と尊敬に値する清浄なるお坊さんが、本家インドでも急速に少なくなっている今、若い人たちがこうした俗世間を離れた生き方に対して魅力を感じなくなりつつあることは、誠に残念なことだと言わざるを得ない。

バンテーは、“お坊さんたちが浄らかでいい仕事をしなければ宗教は衰退してしまう”と口癖のようによく言われていた。このことはどの国にあっても、いつの時代にも当てはまるものではないだろうか。

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インドの僧院にて [平成7年(95)12月記] 

2019年11月28日 08時19分41秒 | ナマステ・ブッダより
インドの僧院にて [平成7年(95)12月記] 
              

<インドの僧院生活>
7月の満月の次の日から3か月間、雨季の間南方仏教の僧侶はひとつのお寺にこもって勉学精進するという決まりがあり、私も一人のインド僧としてカルカッタのベンガル仏教会本部ダルマンクルビハール(仏法の芽精舎)でこの雨安居(ウアンゴ)に臨んだ。

カルカッタへは6月25日に入り、日本の生活パターンをインドの僧院生活に切り替える期間を設け安居にそなえた。特別に私だけ一人部屋が与えられたが、他のお坊さんたちはかなりの法臈(ホウロウ: 僧侶になってからの年齢)があっても二人部屋で生活されている。

ここでは起床は4時。お坊さんたちは洗面沐浴を済ませ一人一人お堂に入っては思い思いのお経を唱えていかれる。お経を終えると狭いながらも境内の端から端へと何度も黙々と静かに歩く瞑想をする人あり、また台所でチャイ(インドミルクティ)をすすり、ビスケットをつけながら味わい今日一日の予定を話す人あり。

私は4時にお経を上げた後、少し遅れて来られる宗務総長のダルマパルバンテー(バンテーとはパーリ語で尊者という意味、今では仏教僧のことを皆バンテーと呼ぶようになっている)の横に座らせてもらい、正にインドの抑揚にとんだ深みのある心が清まり吸い込まれて高みに上って行きそうな位に心地よく唱えられるお釈迦様への礼拝文や慈しみの修習などのお経を一緒に聞かせていただき唱和させてもらった。

朝の軽食は6時、野菜のカレーにチャパティーというインドパンかおかゆが用意され、昼食は11時半から、もちろん毎日が数種類のカレーに白米であった。ここベンガルの人達は毎日のように魚の料理を食べる。お寺でもさまざまな種類の魚を香辛料を使って調理したものを食べさせていただいた。日中は経典の暗唱、お堂の清掃、教団の雑務、瞑想、お坊さんや仏教徒たちとの歓談などに費やされた。

<安居に入る儀式>
そうして7月12日、満月の晩10時頃人の出入りが静まると、仏堂にこの寺に暮らす僧侶5人が集まり安居に入る簡単な儀式を行った。大理石の6畳程のお堂にみんな裸足になって右の肩を出し左の腕全体を衣で隠すように袈裟を着て、肩を寄せるようにしゃがんで合掌する。そしてお釈迦様の十徳を唱え、礼拝をする。それから二人づつ向かい合ってこれまでの生活の中で放逸に暮らしたり清浄なる生活を保てたかどうかを自らに問いただし懺悔(サンゲ )をする。

二人づつでするので、残った私はこの僧伽(サンガ:僧の集まり)の最長老であるダルマパルバンテーのところに行きしゃがんで合掌し、

パーリ語で「尊者よ、私はすべての罪科を告白します」と言うと、
バンテーは、「よろしい友よ」と答え、
続いて私は「尊者よ私は多くの罪科を犯しました。それらの罪をあなた様の前で懺悔致 します」
「友よ、それらの罪を反省しなさい」
「はい、尊者よ、反省いたします」
「友よ今後よく守りなさい」
「はい尊者よ、よく守りましょう」
「よろしい、よろしい」

こうした問答形式のパーリ語の言葉を唱えて自らの細かな修行に関係のない行為、心を煩悩にあそばせてしまっているようなことなどのすべてを懺悔し反省し、今後守っていくことをそのときの相手の方に誓うのである。

神仏に誓うというとどうしても自分の甘さ都合によって、きっと神様は許して下さるだろうとか、仏様の慈悲は限りなく深いものだから許して下さるに違いないというように、自己の決意が萎えがちなこともこうして面と向かっているともに歩んでいる人と交わす誓いはごまかしかしを許さないものだと言える。

私自身以前サールナートに居るころ、その前から既にお酒は断ってはいたのだが、たまたま訪ねてくれた日本のお坊さんと話しをしていてなぜかその話になり、もともと酒を飲まないというその方に私は禁酒を誓い、以来飲みたいという気持ちも起こらなくなってしまった。一対一で共に誓い合うという心の連帯はとても強い心を育むものなのだと言える。

そうしてそれから「この三か月間この寺で安居します」と三度一人一人申請し、総長からこの三か月間お釈迦様の心に専心するようにとの訓示の後、全員で読経し儀式を終えた。
 
安居に入ると原則として外泊ができないが、知人が病気であるとか、信者が法話を聞きたいために招待したときなどには特別7日間までの外泊が許されている。

安居一年目の私は次の日から、仏教の教えにとっての基盤ともなる、まず初めに学ぶべきものである戒律について学ぶため、まずパーティモッカ(戒本)というお坊さんの生活上の規則規範を、インド式の学習法で、つまり原典のパーリ語の戒本を暗記する程に朗読するという毎日が始まった。毎日一時間総長の部屋に行き読まされる。発音がおかしいところ、間違えて読んでいるところを直されつつ読み進んだ。
                                                                                                          
<インドの仏教のこと>            
このベンガル仏教会(正式名バゥッダダルマンクルサバー:仏法の芽の会)は1892年に設立された新しい教団である。

が、名字をバルアと名のる彼ら仏教徒はお釈迦様の時代の王国マガダ国の子孫といわれており、その昔8世紀から10世紀の間にイスラム教徒がガンジス河上流から中流域に侵入して来た頃ビハールの土地からアッサム、マニプールを通って今のバングラデシュの東部チッタゴンという丘陵域に避難した人々の子孫。

インドの今の仏教徒の中で最も古い昔ながらの伝統派といわれている人達。その彼らが日常出入りし礼拝しお経を上げ、また先祖の供養もし葬式も行う寺。この三か月の間に何度私もこうした仏教徒の家に招かれ供養を受けたことであろうか。

またお寺に遺体が運ばれて来て、他のお坊さん方と共にお葬式のお経も上げさせてもらった。こうした先祖の供養については別のページで記したので、ここでは太陰暦で行う儀式について少し記しておこうと思う。

<布薩について>
既に述べたように雨安居は満月の日の晩に儀式を行いその次の日から三か月後の満月の日までと決められている。この間に半月の日や新月の日があり、半月の日をアストミー、新月の日をアマボッシャ、そして満月をプルニマといってそれぞれに寺内で儀式が行われる。

儀式と言っても安居入りの日や安居開けのプルニマを除いては在家の仏教徒たちがお寺に来て、お寺の中で静かに清浄な生活を過ごすという程度のもの。この儀式は布薩(フサツ)とよばれ仏道に精進する日に当てられている。

この日は11時頃までに何人ものご婦人方がお寺に来て三宝・仏法僧への帰依礼拝をし、普段より三つ多い八つの戒律(通常は五戒、つまり不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の生活をするが、この日はその中の不邪淫が不淫となり、そのほかに6.非時食戒という午後には固形物を食さない、7.音楽舞踊を楽しまない花飾りアクセサリーや芳香を付けない、8.高い立派な寝床には寝ないという三つの戒を加え、八斎戒という)を授かり、そして僧侶たちに食事の供養をする。

私たち僧侶にとってのその日の最後の食事に仏教徒が家から自分で作ったご馳走を持ち寄りお坊さん一人一人の前に置かれた大皿にスプーンやものによっては素手で料理を分けて 行く。そして残ったものは自分たちが床に座り込んで分けて食べるのである。

食事のもてなしと言っても特別なご馳走という訳ではなく、もちろん肉魚などのおかずもあるがそれぞれの人達がいつも家で食べているものを持ち寄るというごく飾りけのない質素なもの。おかずの品数が多くなるのと最後に甘いお菓子や果物も皿に置いていかれるのでの皿の上はとてもにぎやかなものとなり、有り難い。

お坊さんは病気のときを除いて午後は固形物を食べないというのが原則であるから、毎日きちんと十一時半には僧伽の食事が始まる。この布薩の日は特別に八斎戒を受けた在家者も午後からは食事をしないという戒を守る必要からお坊さん達と一緒に食べて普段は二時くらいに食べている昼食を十二時までに済ませてしまう。

そうして、二時頃までみんなホールなどで横になり、休息を取ってから、お坊さんを指名して来てもらい仏法僧への帰依と再度八戒を授かりお経を聞き、法話に耳を傾ける。

そうして三時過ぎにはお茶を寺の中に住む人達みんなに施し、その後しばらくお堂などで座り静かな時を過ごし暗くなる頃家路につく。こうして週に一度はお寺で清浄な生活をし、仏教の教えの中で過ごす。仕事を抱える働き盛りの人達にはとてもこうした日に昼間から来ることはできないが、その家を代表しておばあさんが来られたり奥さんがいそいそと金属製の段がさねになった弁当箱を持って出かけて来るのである。

<授戒について>
ここで特に記しておきたいことは事あるごとにお寺にやって来ては戒律を授かりお経を聞き、法話を聞いてその日一日良い行いをして自分のために徳を積み、また亡くなった家族にその功徳を手向ける。その家の故人の命日には必ず一人か複数のお坊さんを家に招き食事を施し改めて五戒を受けてお経を聞く。

特別のことではなくこうした小さな功徳を積むということがまったく日常化してしまっているように見える。誰かが亡くなったり法事のときだけ仏教というものを意識する国民とはかなり捉え方が違うようだ。

何度も事あるごとに同じ戒を授かることをみんなどう思っているのだろうかと一人のお坊さんに聞いてみた。するとインドにあってもこの五つの戒を守ることは結構大変なことなのだという。授かっても授かっても気がつくとつい間違えをおかすこともある。そこでそのつど何度も同じ戒を授かり確認しつつ、正しい間違いのない生活をしたいということなのだそうだ。

常にこの間違いのない道徳的生活と時々貧困者などに施しをすることで来世には天界に生まれるとお釈迦様が保証して下さっているお守りのようなこの教えをみんなとても大切にしているということなのだと思えた。

思えば、お坊さんたち自身も半月に一度、新月と満月の日に布薩の儀式を行い自ら受けた227もの戒律を唱え、その中で守れなかったものがあったかどうか確認をすることが義務づけられている。

しかしこの儀式は残念ながらとても時間がかかるため完全な形で行うことが難しく今日では簡略化されてしまうことも多いが、その精神は一日一日の自分の行い思いに常に注意を払うことであり、人の行いではなく自分自身がどうであったかいうことに向けられている。

お釈迦様の側から見たら僧侶にとっての袈裟衣は、常に身と心を正すお守りなのかもしれない。それと同じ様に衣服を着て家に生活する仏教徒にとって五戒がお釈迦様のくださった最高のお守りなのだと言えそうだ。

<安居中の様々な出来事>
この安居の間、オール・インディア・ビック・サンガ(AllIndia Bhikkhu Sangha)という全インドの仏教僧の連盟の理事会がこのお寺の中で開かれたり、ブッダガヤでマハーボディソサエティ(大菩提会)というスリランカのダルマパーラという方の開いた仏跡地振興の仏教会主催の行事にも参加することができた。

またベンガル文化のルーツを訪ねてという記録映画にもインド僧の一人として出演する機会に巡り合わせた。こうした日々を過ごしつつ三か月の安居を終える日が近づく頃。9月の末頃から、ヒンドゥー教徒にとってのお祭りシーズンの始まりを告げるドゥルガープージャの準備が街の辻々で始まった。

竹で骨組みした上に色とりどりの布を張って三階建くらいのお堂を作り壇上にドゥルガー神をはじめとした神々を祀る。10月に入ると一日中シャナイという結婚式等に流される日本で言えば祭り囃のようなヴィーナとタブラの気だるい緩やかな音色が聞こえていた。

この頃には夜街に出るとどのビルにも赤や黄色の色電球が屋上から幾筋も設営され、にぎやかこの上ない。昼間のように明るく灯った通りをみんなきらびやかな衣装をまとってこの時のために新調した新しい金糸を織り込んだクルターやサリーで方々の特設寺院のドゥルガー神をお参りして歩く。

<安居開けの儀式>
こうしたカルカッタ中の賑わいも終わった10月8日満月の日、この日安居開けの仏教寺院ではパバルナプージャというドゥルガープージャに比べたらとてもささやかではあるが、やはり特別に布製の簡易ステージを設けた中庭の壇上にお釈迦様の像を起き、その後ろに菩提樹の切り株を立てその枝に線香ロウソク等のお供え物や5ルピーや10ルピーなどのお札等を吊して供えていくという年に一度の供養会が行われた。

パバルナとは安居修了式のこと。特にこの安居開けのお坊さんたちに供養をすること、食事の施しはもちろんのこと歯磨き粉や髭剃り、石鹸、糸と針、皿やコップ、線香にろうそく、タオルなど生活必需品を施すことも功徳があるとされている。

この日はまた仏前に灯火を盛大にともして五体投地を繰り返すお祭りでもある。午前中から多くの仏教徒が外に祀られたお釈迦様にお供えをしては室内のホールに入っていく。そしてやはりここでも三宝への帰依・五戒または八戒が授けられお経を聞き、法話がなされる。最後にはコップ一杯の水を大勢の人が手を添えて皿に垂らしていきつつ祈りが捧げられた。

<カティナ衣式>
さらに安居が開けて次の満月までの一か月間、多くの仏教寺院でカティナチーバラダーン(カティナ衣式)という衣の供養会が行われる。カティナとは一年に一度僧に供養する袈裟用の木綿布地のことで、チーバラとは僧侶の着る袈裟のこと。ダーンとは施しということで、安居開けの僧に一年間着古した袈裟を脱いでもらい新しい衣を施すための行事ということになる。

カルカッタ中のお寺で催されるこの行事に私と共に安居したお坊さんたちは何度も招かれて行かれたが、私はこの間お寺の仕事でネパールに行っていたため最後の三か所に出席した。

昼食に招かれて外出するときなどには出発する前に沐浴することが習慣となっていて、風邪などをひいている人以外は皆沐浴を済ませ1階に集合する。全員が揃うと両肩を隠す着方で衣を着直して、法臈の順番に一列に並んで歩き出す。路線バスに乗り込んだり地下鉄で行ったり。人数が多い場合にはお寺のオレンジ色に塗装された大型バスに乗り込んで出かけることもあった。こうした場合もやはり法臈の順で上の人はバスの前に乗る。

さて、カティナ衣式の行われるお寺に到着すると既に会場の準備などが進められているが、まずはそのお寺に日頃お参りする仏教徒たちからの心からもてなす食事を頂戴してから、在家者の家に行ったり、お寺の中の大部屋で休息を取る。

そうして会場の準備が整う3時頃から、大勢の仏教徒の老若男女たちが会場に集まって来て賑やかさを増す。お坊さんたちは皆壇上に座り、マイクも用意される。その前にはたくさんの供養される袈裟衣 や果物、米、花、線香、生活用品などが壇の端から端までを埋め尽くしている。

司会者からこの儀式の準備に特に功績のあった人などが紹介されると壇上のお坊さん方や会場の仏教徒たちからも法話がなされる。その後三宝への帰依、五戒の授受、そしてお坊さんから祝福のお経が唱えられる。

そして最後にこの供えられているカティナ衣を大皿にのせ会場にいる人々の間に持って行きその皿にみんな少しづつのお布施を置いて行く。このあたりになると会場全体が騒然と盛り上がりを見せる。

すべての人の施しが済むとその皿は壇上に持って来られ、カティナ衣の施主は前に歩み出て衣を両手で額の前にかざすように持ち準備が整うと、最長老のお坊さんからこのカティナ衣の施しの功徳を授かる偈文が唱えられる。

長老が一語唱えるとそれに続いて施主も唱えるというように唱和しつつ進行し、最後は会場全員が「サードゥ・サードゥ・サードゥ(善いかな、〃、〃)」と唱え儀式は終了する。

この後お坊さんたちだけで集まり冒頭で述べた二人づつで行う懺悔式を行った後、その日供養された衣をその寺に住むお坊さんに受け取ってもらうための簡単な儀礼を行う。

供養された一つの衣をそこに集まった全員に手渡して巡らしその後衣の角に孔雀の目くらいの大きさと表現される印をつけ、そのとき着ている古い衣を脱いで新しい衣を受け取る。こうしたときにもやはり決められたパーリ語の言葉で儀礼が進められる。この後お坊さんたちを送り出し、後に残った在家の仏教徒たちだけでそのステージを使って踊りや歌が披露されることもあるようだ。
                             

<日本との比較>
インドの僧院で4か月ほどの生活を終え思うことは、これまで南方のスリランカ、ビルマ、タイ、インドといった小乗と言われている仏教が私たち日本の大乗の仏教とは違うと言われてきたが、僧院の中に入ってその日常 を見てみるにそういわれている程には違いがない。

逆に同じようなところが多い。真鍮の座高が2mもあるお釈迦様に灯明や線香を灯し礼拝し経を上げる。亡き人をいとい葬式をし、度重なる供養を行う。そこには僧侶が招かれお経を上げることに変わりがない。

しいて違いを上げれば、日本では仏像とお棺に向かって前に僧が座りその後ろに同じ方向を向いて遺族が座るが、インドでは遺体を挟んで僧と遺族が向かい合って座ることくらいであろうか。このことは普段の行事でも同じことでインドでは僧はお釈迦様の側から信者に対面するのに対して日本など大乗は僧も信者と共に本尊様の方向を向く。

僧伽に対する信仰を持つか持たないか、三宝の一つ僧伽への帰依の心は南方の仏教特有のものだとも言える。敢えてもう一つ違いを言うならば、そうした行事に唱えられるお経の内容が上げられる。パリッタと呼ばれる日常経典は護経とも訳されるように読まれること自体が御守りのように考えられてはいるがその内容は誠に日常に役に立つ実践的なものが多いということ。

ところで僧院内でお寺に来た人々とお坊さんたちが普段とても親しく話をしている場面を何度も目撃することができた。行事儀式では画然とその立場を明らかにするのに日常ではとても気楽に話をされる。そして若い十代、二十代の子供たちが来たりすると必ず言うことはお母さんお父さんの世話を見ているかということ。

身近にいるが故に忘れがちなこと、我が身を授けてくれた父母へ感謝し思いやりの心で接するようにと何度も説かれていた。パリッタの一つ吉祥経にも「お母さんお父さんに奉仕し、妻と子を愛し護る。混乱しない仕事をすることは最上の幸せなり」とある。日本でも四恩十善という教えを説く、ここでもまず初めにこの父母への恩について語られるが普段繰り返して法話されることはないように思える。

インドの仏教と日本の仏教の違いの最も際立つところははたしてこんなところに、つまり根本的なることを大切にしているか、大事なことを繰り返し説くことによって怠らずにしているかどうかということではないかと思える。パーリ語の経典が所々でほぼ同じ句を何度も繰り返し唱えられるのもこうした意味が隠されているのかもしれない。・・・

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「両親に感謝する」

2019年11月22日 07時08分54秒 | 仏教に関する様々なお話
商工会青年部の皆様への法話「両親に感謝する」

私は皆さんと同じ普通の家に生まれました。なぜ坊さんになったのか、今思うと前世からの因縁という様なことしか思い浮かばないのです。そもそも私が仏教に興味を持ったのは、夜間大学の二年の時高校の友人らとある大学の門前で待ち合わせ、その晩語り合ったことにあります。その後仏教書をいくつも読み、坊さんになろうと思ったのですが、坊さんの世界に知り合いもなく、自分で調べ訪ねていきました。そして、そのまた紹介で高野山の山内寺院の弟子となり、26才のとき高野山で出家。サラリーマンを辞め、そのお寺で専修学院に入る前三か月間住み込みで寺の生活を学ばせてもらいました。

実は、両親は高校三年の春に分かれて暮らし、それ以来、私は父親とは疎遠でした。いよいよ専修学院に入る数日前に、父に宛てて手紙を書いたのですが、その時には、たった二枚の手紙を書くのに三時間も要し、ずっと涙が溢れていました。生み育ててくれたこと、不義理をしたこと、出家すると報告したとき応援してくれたことなど、小さなころの思い出や様々な思いが交錯して涙が止めどなく流れたのでした。

専修学院を28才の時卒業し、高野山を下山。以来12年間、東京のお寺に住み込みで仕事をし、インドを放浪、四国遍路を歩いたり。また、東京で托鉢して生活したり、インドの僧となり、その間神戸でボランティアを経験しました。それから日本の坊さんに復帰して東京の小さな御堂の堂守をして、それだけの下積みを経て、有難いことにご縁あって、ここ國分寺までたどり着きました。

先代は大変厳しい方で、14年間お寺で一緒に過ごしましたが、10年ほどして、やっと気心が知れる様になったと思ったら亡くなられました。亡くなってから、お寺のこんな事は先代ならどう考えるだろうかと思ったり、昨年あたりから親父という言葉で先代に心の中で呼びかけていることがあります。生前目の前にしたら、とてもそう思えないことが亡くなってから心が寄り添う様になってきたように思います。この地での坊さんのやり方、作法などを習い、様々な行事についても教えてもらい、朝のお供えも当時のまま今もしておりますが、同じ事をしてきている者だからこそわかる気持ち、先代の苦労のほどがわかり、今頃になって遅いのですが、先代の気持ちを思いはかり、深く感謝しています。

皆さんが先代や家族に感謝しようと思うのはどうしてなのか、それは、今の恵みに気づいてのことではないでしょうか。各々の業界の慣習や仕事はおのずから見て知っていたり、また教えられたりして、割とスムーズに習得されたかもしれませんが、その仕事がしたかった人ばかりでもないと思います。それでも親の仕事の意味、大切さ、先代と共に頑張ってきた社員の方たちを思うとき、継がざるを得なかったという人もあるかも知れません。が、それでも、こうして会社を動かし、毎月社員に給料が払え、家族を養い、いまあるのは、先代や家族のお蔭であると思えるということだと思います。業界や関係会社、また社内での皆さんの立場も先代あってのことだと思います。

若くして社長として世間の荒波に触れて、大変な事もありましょう。外の人たちから先代のことを聞いて、知らなかった、先代の頑張りや努力、偉大さなどいろいろなことを知ったという人もあるでしょう。とにかく、今の恵み、今あるのは先代のおかげなんだと素直に思えることが素晴らしいことだと思います。お釈迦様も、「善き人の立場とは、今の恵みに気づき感謝し、その恩に報いようとすること、これがまことある人の習いとすること」だと『父母報恩経』というお経で教えられています。

では、そもそも親とはいかなるものなのでしょうか。私たちは両親がいてこそ、この身体と命を授かり、何もできない赤ちゃんの時から何から何まで手を取り教えられ、食べ物や排便の世話までしてもらって大きくなってきたわけです。その『父母報恩経』というお経には、「自分が百歳になり、なお親が存命で、沐浴させ糞尿の世話をしてもなお、両親に何ごとかつぐないを果たしたということにはならない」と言われていて、それだけ両親には絶大な恩義があるということなのです。

両親も含め、仏教では、私たちの命を養うために恩を感じるべきものとして四つのものをあげています。四恩といい、父母、衆生、国王、三宝の四つであり、これらがあってはじめて、私たちは命ある人間として、つつがなく生きることができると考えるのです。その第一にあげられるのが、この命を授けて下さった父母です。では父母をどのように大切にすべきか、①両親を養い②両親の用事をし③家系を存続させ④遺産など相続を適正にし⑤先祖各霊を供養すること、と『六方礼経』にあります。

では、ご両親の立場から皆さんへどのように思われているか、おそらく、自分と同じ仕事を選択して後を継いでくれたことをとてもうれしく思い感謝されていることと思います。ご両親の願うことは、皆さんがいつも元気で幸せに会社を運営してくれることだと思います。売り上げを伸ばしたり、業界でトップになるなどということよりも何よりも皆さんの健康と幸せを願っていることと思います。

それでは、次にその命とは何なのでしょうか。命のサイクルを仏教では四有(しう)といい、今こうして生きているのを本有といい、死ぬ時を死有といいます。そして、次の身体をもらうまでを中有(中陰)、生まれることを生有というのです。この四有をグルグル繰り返しているのが衆生という存在で、生きとし生けるものは、みんな、生まれては死んでを繰り返す、何回も輪廻転生すると考えます。そうした何万回もの過去世の末に今があり、この次には来世もあるのだと思って生きる必要があるということです。

すべてのことには因と縁があって結果すると仏教では考えますが、人と人との関係にも因縁があり、今生で深く縁あった人とは過去世でも出会ってきて、来世でもまたまみえると言う方もあります。(『前世療法(ブライアン・L・ワイス著)』)親兄弟伴侶や親友などとして何度も私たちは出会いと別れを繰り返し、様々な善悪の行為をしつつ、色々なことを教訓として学び、ともに精神的な成長を遂げていくのです。両親ともそういう間柄なのだと思うと、さらに今生での関係性の意味することを深く理解できるかもしれません。そうして、お釈迦様のようにすべてのことを知り尽くして、達観して、何があっても何が無くても動じない、安らかな心を作ることを最終的な目標に生きるのが私たちの理想的な生き方なのだと思います。

ところで、私が高野山の専修学院を終えて、東京の寺に役僧として住み込んで三ヶ月ほどしたある日、本堂の床を水拭きしていて、ふと、この寺はあの友人たちと再会して仏教の道に入るきっかけとなった大学の門前の真ん前にある寺だったと気づいた瞬間に、走馬灯のように過去の様々な出来事が目の前を通り過ぎていきました。

まさに、人生の瞬間瞬間のつまらない様なことの積み重ねのすべてにとても意味があり、様々な人生の岐路に立って一つも間違わずに選択してきて今がある。すべてのことはあるべくしてある。ここにいまあるためにこれまでのすべてのことががあった。今は過去のすべてのことが凝縮した瞬間であり、未来は今の瞬間の積み重ねなのだとわかりました。みなさんも、今そこに居られるために過去のすべてがあった。今あるのはそうあるべくしてあります。大変な苦労の末に今があると思うけれども、いまを頑張っていけば、それはすべて自分や周りのためになると信じて励んで欲しいと思います。

最後に、皆さんに四つのエールを贈りたいと思います。
①他と比較しない自分の世界、俺の世界を持つ。プライベートでも仕事のことでもいい。なにがあっても、心に余裕ができる。
②無駄なことはなにもない。すべては地道なことの積み重ね。失敗も、嫌な仕事も、つまらないと思うことにも、遊びにも。何か自分を成長させ、将来の役に立つものがある。
③事業でも、個人的な目標でも、その目標の意味、真に求めるべきことは何か。その先の先の、数字ではない大きな目標を据えること大切。一喜一憂しなくなる。
④つねに言葉遣い、行いを丁寧に、他者に礼儀を尽くす。周りから大切にされ、何かあるとき救いの手を差し伸べてくれる。

追記 ここに記憶にある格言を記し、皆様の公私にわたるご精進とご多幸を祈念します。

『鶏口となるとも牛後となるなかれ (史記)』
『男子三日会わざれば刮目してみるべし (三国志演義)』
『たとえどぶの中で死すとも前のめりで死にたい (竜馬がゆく)』

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