住職のひとりごと

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仏教徒とはいかにあるべきか

2021年03月07日 14時03分40秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教徒とはいかにあるべきか 昨日の法事後の法話に坐禅会での話を加筆



今日はお父さんお母さんの三回忌七回忌を併せて行いました。三回忌は阿弥陀如来、七回忌は阿閦如来が本尊となります。この掛け軸には中央の大日如来の左下に阿弥陀さん、左上に阿閦さんが居られます。回忌毎に本尊様が移っていきますので、こうして掛け軸を掛けていただき法事を営むことになっています。

さて、こうして十三仏の掛け軸を掛けて経を読み法事を営むのは皆さんが仏教徒であるからです。仏壇を構えるお宅は仏教徒のご家族と、例えば外国の方が見ればそう思われます。ですが、皆さんは自分が仏教徒であるという認識はない。でも、海外に行って入国カードなどにある宗教覧になんと書くのかといえば、やはりブッディストと書くのではないかと思うのです。

そこで今日は仏教徒とは何か。いかにあるべきかという話をしたいと思います。まず勤行次第にも初めに合掌礼拝とありますように、私たちは仏様を礼拝しますが、それは仏様がありがたい存在であり敬い帰依すべき対象と見做しているからです。インドの学校などに行きますと、先生に子供たちが挨拶する時、右手で先生の足に触れてその手を額に持っていき合掌し挨拶します。これはインドならどこでも目にする光景ですが、先生の足下にひれ伏して先生を敬い、なにもかにも学ばせていただきますという純真な気持ちを表すものです。

これと同様に帰依礼拝も、三帰と言いますように、仏様という絶対的な心の平安を得られた尊い存在と、私たちがそこに至るために教えられた教えと、ともに同じ仏の道を歩む尊い出家の僧たちという、三宝に帰依しますが、ただ仏様という尊い存在を敬うだけでなくその教えもともに悟りへの道を歩む僧たちにも帰依をするのは、自分たちも仏様のような勝れた智慧を身につけさとり、世の中のためになる立派な人格を育てていきますという気持ちが表れているのです。私たちにはそれぞれ人生の目標や希望があります。それらの先の先に自分も何れはお釈迦様のように最高の悟りが得られるように、お釈迦様のように何度生まれ変わっても沢山の徳を積んで悟る日が来るまで日々向上することを願い誓うのが帰依三宝ということの本当の意味するところだと思います。ですから、仏教徒とは、お釈迦様を人生の理想として悟りを最終目標として生きる人々のことであるということができます。

ではお釈迦様はどんなお方だったのかということですが、幼少の頃からよく物思いにふける方であったと伝えられています。気がつくと木の下に佇み目を閉じて黙想ないし瞑想に入られていたといいます。自分の置かれた立場、世の中の様子、生きるとは何か、なぜ苦しみ多き人生を人々は生きねばならないか、どう生きるべきか、そんなことに心向かい沈思瞑想にふけられていたのではないかと思われるのです。出家された時のいきさつを語る伝説には四門出遊という物語がありますが、ある日東の門から城を出て街を周遊すると老人に出会い、また別の日に南の門から出ると病人に出会い、若さや健康への傲慢な心が消えたと言います。また西の門から出ると死者の葬列に遭い、自分も死によって人生が突然終わることを知り、北の門から出ると出家修行者に出会い、俗世間を捨てて生きる苦しみからの解放を探求する道を歩むことを決意されたということです。

私たちもお釈迦様が抱かれたように様々な悩み苦しみを感じ日々生きています。そうした置かれた場所で日々感じられる生きずらさ、分からずにしていることも多いと思いますが、悩み苦しみのもとを自ら問う、またさまざまなことについてそんなものだよと簡単に受け入れるのでなしにきちんとその意味や考えを問う、疑問に思うことが大切なのだと思います。何で一時間も分からないお経を聞かなくてはいけないのかとか、法事とはそもそもなんなのか、それは自分の人生とどう関わりがあるのか、仏壇とは何かと色々仏事に関してだけでも疑問に感じことが多くあると思うのです。そうしたことを受け流してしまわずに、その時に問う、疑問をひとつ一つクリアしていくことが大切なことだと思います。多くのお経も、お釈迦様をお訪ねした人が疑問や悩みを尋ねられてお答えになった内容となっています。ですから仏教徒は問いを発することを大切にするということですね。

そして、お釈迦様は、当時インドでは神々の世界を当然のことと皆信じ、神々の意向によって世の中の禍福が決まる、だから決められた祭祀を間違わずにすることが大切であると考えられていた時代に、この世の中の真実、真理をはっきりと認識することによって智慧を得られお悟りになられたお方です。ある経典によれば、お悟りになられる晩、座禅瞑想し深い禅定に入られたお釈迦様は、まず自らの過去世に思い巡らされ、何万回もの過去世においてそれぞれに功徳を積みつつ転生してきた自らの命の営みをご覧になられたと言います。それから他の者の命の営みをご覧になると皆それぞれ善悪の業に従って生まれ変わりしていく姿をご覧になられ、それから悪業を造る煩悩を滅する智慧について心を向けると、苦しみと煩悩について如実に知ることとなり、すべての煩悩から心が解脱したということです。つまり、生きるとは何か、どうして苦しむのか、どう生きたらよいか、この世の真実とは何かを悟られてブッダと成られたのでした。私たちも、何か悩みの原因となることの真実がわかると、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように晴れたりしますが、真実を諦めることは心が安まり平和になることです。ですから、人に言われたり書籍からの知識で分かったような気になるのではなく、仏教徒は、自ら真実なるものを見いだす、探求する、そして体得するということが大切なのだということだと思います。

それからお釈迦様は悟られてから縁ある人々に向けて法を説かれますが、その説き方を対機説法と言い、法を説く相手に相応しい説き方をされたということです。農夫なら農夫の分かりやすいように、学者ならそれに相応しく、また楽器を演奏する人ならその楽器について説きながら理解が深まるように話をされました。それぞれの個性を重んじ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれたのでした。ですから仏教は皆と同じようにしていたら良いという発想はありません。皆それぞれの考えを持ち、それぞれのやり方生き方を尊重する立場といえます。ですから仏教徒は、自らの考えを問われ生き方を問われていると言えるのかと思います。誰々が言うからではなく、みんなそうしているからではなく、自らの考えをはっきり述べられることが大切になってきます。そして他の人の個性や考えを尊重することも大切なことです。

最後にお釈迦様が大切に、特に出家の弟子たちに説いた大切な教えに不放逸ということがあります。普段何かをしていても常に私たちはいろいろな刺激によって心が移り変わり、昔のことを思い出しては回想し、物思いにふけり、欲や怒りの心からあのときああしていたらと考えてみたり、自分の都合の良いように未来を想像してみたりいたします。心を煩悩のままに過去未来に放逸に遊ばしているわけです。お釈迦様は常に、いまここにある自分がなしていることに正念正知であれと教えられています。身体でしていること、口で話すこと、心で思うこと考えていることに気づいているということです。八正道という教えの七番目にある正念とはまさにこのことで、気がついたらやっていた、怒りをぶちまけていたとか、欲や怒りにまかせて頭の中で色々妄想していたということではいけないのです。心の中で自分のしていることを言葉で確認しつつ妄想を断ち切る事を心掛け、妄想する心の習慣を止めることが大切です。仏教徒は、そうして落ち着いた心で妄想せずに生活することが大切であると教えられています。

以上仏教徒として大切な五つのポイントについて述べてみましたが、もう一度まとめますと、①お釈迦様を人生の理想とする②自らの疑問や問いをもつ③自ら真実を明らかにしていく④自分や他者の個性考えを尊重する⑤不放逸であれ、ということになるかと思います。これら五つのことを大切に生きることで日々向上する人生を歩み、功徳を積み、そのことがそのまま御先祖の供養にもなるのだと思います。今混迷の世の中にある私たちも、世間の定説や因習に惑わされることなくこの世の真実を探求されたお釈迦様のように、世情言われることの本当のこと、真実を自ら問い、付和雷同せずに、真実を見極め、自らの見方考えを大切にして、ひとつ一つの行いを自ら確認しつつ生きてまいりたいと思います。

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