住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ネパール巡礼・一

2009年07月27日 07時27分27秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
一九九五年、この年は、阪神大震災のあった年である。この頃私はまだインド僧のひとりとして、四六時中黄色い袈裟をまとってインドと日本を往来していた。

一月十七日、阪神地方に地震が襲い、丁度ペスト騒ぎでインドに戻りそびれた私は、その一週間後には被災地入りし、東灘区の本山南中学で避難民と共にひと月を過ごした。それから何度か再訪し、落ち着きを取り戻した神戸の町を後にして、七月中旬カルカッタのベンガル仏教会本部僧院で雨安居に入った。

このときの安居の様子については既に、『仏教の話』(P105)「インドの僧院にて」に記した。そして、その安居開けを待つようにして私はある使命を帯びてお釈迦様生誕の地ルンビニーに巡礼することになった。

十月十一日、お寺のアンバッサダー(インドの代表的国産車)に乗り込み、カルカッタの雑踏を縫うようにしてハウラー駅へ向かう。お祭りが終わったばかりでごった返す人、車、牛の群れ。結局途中渋滞して車では先に進めず、駅対岸のフェリーポートからフーグリー河を揺られ駅にたどり着く。

黄色の布を身体に巻いた人々の波をかき分けつつホームへ。午後二時半発の列車に乗り込む。乗ってしまえば、明日の昼には目指すゴーラクプールに到着してしまう。インドで求めた物だけを所持し、南方仏教の袈裟をまとっているので、誰も日本人とは思わない。ホームで待っていても好奇な目で見る人もなく、物売りも物乞いも寄ってこない。以前のことを思えば拍子抜けするくらい。

さりげなく、「タイ人かい?」などと聞かれる程度。拙いヒンディ語で受け答えしておけば、勝手にむこうがネパール人かブータン人と勘違いしてくれる。インドでの一人旅も慣れたものだ。初めてインドにやってきたときは、何も分からず、列車に乗って口にした物はバナナだけ。大きなナップザックを担いで自分の乗り込む列車と寝台を探すのに疲れ切り、二階の荷物棚のような寝台に横になって身をすくめていたものだった。

翌朝、窓から前年まで一年間過ごしたベナレスの町を懐かしく眺めつつ、昼前には北にルンビニー、北東にはクシナガラへの巡礼ルートの基点となるゴーラクプール駅に到着。インドの列車にしては珍しくほぼ定刻に到着した。クシナガラはお釈迦様入滅の地。大般涅槃経にあるように、ヴェーサーリーからルンビニー方面に最後の旅を続け、息絶えた所。荼毘された塚が今も残されているという。が、残念ながら私はまだ行く機会に恵まれていない。

駅前の簡易食堂で腹ごしらえ。二十九ルピーで、野菜のカレーとチャパティを数枚食べる。ところで、カルカッタからここゴーラクプールまで、約一千キロ、それで寝台席が二百八ルピー。一ルピーは当時約三円だったから、六百二十円ほど。エアコンの入った車両ではない庶民の乗る所ならこんな安上がりに旅が出来てしまう。新幹線などという高価な列車でしか不便で長距離の旅が出来ないというどこかの国とは大違いなのだ。

ここからルンビニーには、中型の路線バスを使う。スノウリというネパール国境の町まで二時間程度の距離。沢山客待ちをしているバスの一つに乗り込む。調子よく乗客を座席に案内するもののなかなか走りださない。走ったかと思うと駅前からぐるりと元の所に戻ってきてさらに客を中に招き入れる。そんなことを小一時間繰り返しやっとゴーラクプール駅前を発車。田園風景を駆け抜けて国境の町スノウリへ。物々しく警官がたむろする通りでバスを降りる。二十五ルピー。

そこからまっすぐ遮断機が下ろされたインドとネパール国境のゲートへ徒歩で向かう。手前インド側でパスポートを出し、手渡す。無言で指さされ、横の人一人が通れるくらいの扉から国境を越える。ネパール側に入ると小さな建物があり、窓口で、パスポートと十五ドルを差し出す。十五ドルはヴィザ代。係官らしき男が持ち物の検査。しきりにノック式のボールペンを欲しがるので進呈した。

そこからまもなくの所にルンビニーへの入り口の町バイラワ行きのバスが待っていたので、乗り込む。気が付くともう既に夕刻。バスの窓から眺める国境の町は、二階建ての建物が数軒建ち並ぶ程度だが所狭しと人と物が行き交う交易の町。インド側の閑散とした風景とは好対照であった。

バイラワに着くと辺りは暗くなりかけていた。下車したバス停の前に、窓に飛行機の写真が貼られた旅行社があった。ルンビニーの後カトマンドゥに行く予定のため立ち寄る。バスで行くと一昼夜かかる。山道のため体調を壊すことも考えられるし、出来れば飛行機に乗ってヒマラヤを拝みたいなどと考えて訪ねる。

ヒンディ語はネパールでも通用する。ヒンディ語で話す私を留学生かと思ったらしい。ところがパスポートを見せると、年齢制限で外国人値段になってしまうと言う。そこでその時まだベナレスのサンスクリット大学の学生証を懐中していたことを思い出し見せると、所長と掛け合ってくれて、何とか学生値段五十四ドルで三日後のカトマンドゥ行きの航空券が買えた。

その日はそこで紹介された宿シティゲストハウスへ。ネパールルピーで三百二十五ルピー。ネパールルピーはインドルピーの約半分の価値しかない。

十月十三日早朝、小型バスとオートリキシャ(オートバイに座席を取り付けた三輪車)を乗り継ぎルンビニーへ。大きな荷物を抱えた人でバスもリキシャもすし詰めの状態。途中でタイヤがパンクしたり。やっとの思いでルンビニーに入る。

ルンビニーには、お釈迦様がお生まれになる前にマヤ夫人が沐浴されたという池があり、お堂があると案内書にはある。が私が行ったときには、確かに池はあるが、そのお堂は全日本仏教会の手によって発掘調査が行われていて、黄色いシートで覆われて何も見ることが出来なかった。

その池の前にはアショカ王がかつてお参りされたときの記念の石柱があり、その近くにネパールのお寺とチベットのお寺がある。私はカルカッタのバンテー(尊者という意味だがここでは私の師匠ダルマパル師のこと)の紹介により、ヴィマラナンダ長老を訪ねてネパール寺に向かった。

お寺は石積みで床も大理石。内部にはお釈迦様の一代記が描かれている。ヴィマラナンダ長老は、六十歳くらいの方。床に額を着けて三礼し、カルカッタから来たこと、ルンビニープロジェクトの下見に来たことなどを告げると、別棟の巡礼宿に案内された。

ルンビニープロジェクトとは、当時荒廃していたお釈迦様生誕の地を復興開発することを目的に、遺跡の保存と地域の開発を計る国際的プロジェクトである。このプロジェクト推進の為、一九七〇年ニューヨーク国連本部に、国際ルンビニー開発委員会がネパールを議長国としてインド、日本、アフガニスタン、タイ、ミャンマー、スリランカなど十三の国の代表により組織された。

一九七八年には日本の建築家丹下健三氏による全体のマスタープランが合意され、マヤーデヴィ寺院を中心とした聖域の発掘整備、また、近隣に宿泊施設、僧院、研究所、博物館、文化センターを順次建設することが計画された。そして、この計画の中心となる僧院地区は、一九九三年より各仏教国が建設用地を取得。世界的にはその存在を忘れられがちなインド仏教徒の念願として、我がベンガル仏教会がインド仏教を代表して用地取得を申請した。

そして、一九九四年三月カトマンドゥに於いて中国、スリランカ、インドのカトマンドゥ駐在大使立ち会いのもと、インターナショナル・モナスティック・ゾーンEC-九区(八〇メートル四方)の九十九年間の借地使用が正式に認可されたのであった。

そして、私のその時の任務というのは、この肝心のルンビニープロジェクトがその後どの程度進展しているのかを現地に赴いてレポートし、その後カトマンドゥのルンビニー開発トラストのオフィスを訪ね、理事に面会し、初年度の借地料を払い、インドの僧院建設の予定を申し述べることであった。

因みにこのときベンガル仏教会が計画した僧院は、その名をバーラティア・サンガーラーマ(インド僧院)と称し、インドを代表する仏塔であるサンチーのストゥーパを模した本堂を中心に、その周囲をアジャンター石窟寺院をモチーフした僧院が囲み、入り口ではインドの国章であるアショカ王柱が来訪者を迎えるという壮大なもの。建設予算も日本円で一億を超す破天荒な大事業であった。    つづく

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『戒律復興と慈雲尊者』ほか

2009年07月07日 07時57分07秒 | 仏教に関する様々なお話
大法輪7月号特集「これでわかる仏教の歴史」掲載

『戒律復興と慈雲尊者』

 江戸時代に檀家制度が定着すると、僧侶は官僚化し安逸をむさぼり、腐敗堕落を招いた。そして社会から反感の声があがると、僧風の粛正と戒律の復興運動が各宗に起こってくる。

 諸宗の中、特に真言宗は戒を持せずば霊験なしとして戒を重んじたので、この時代の戒律復興にも、いち早く先鞭をつけた。叡尊の戒律を奈良西大寺に受法した明忍(みょうにん)らは、慶長七年(一六〇二)、京都栂尾(とがのお)にて自誓受戒。戒律の復興を誓い、多くの学徒を養成した。そしてこの真言宗内での戒律運動は、やがて他宗へも伝播されていく。

 寛文から元禄の頃、天台宗では妙立、霊空が大乗小乗律兼学の護持を主張し「安楽律」を唱え、真言宗では淨厳(じょうごん)が戒律を仏道修行の根本に据えた「如法真言律」を唱導。浄土宗では慈空、霊潭が「浄土律」を、日蓮宗の元政らは「法華律」を提唱して、律を広め僧風の刷新をはかった。

 そして宝暦から寛政の頃、釈尊在世時の戒律復興を目指した慈雲尊者飲光(おんこう)(一七一八―一八〇四)が登場する。尊者は、釈尊当時の僧団に回帰するための戒律として、「正法律(しょうぼうりつ)」を創唱。僧侶の生活規律、禁止条項などについて、私意を交えず、時代や場所の不相応を論ずることなく仏説のままに行じることを旨とした。

 僧団の組織や袈裟の縫い方かけ方、日々の誦経坐禅まで釈尊在世時の如くに行う「正法律」に従う限り、その出身宗派にとらわれることがないため、宗派を越えた沢山の僧尼が尊者を師と仰ぎ雲集したのであった。

 正法を仏説の経文律蔵にもとめ、受戒僧坊による自派他派の別を立てず、宗派宗旨の深浅を論ずることを禁じた。そして、十善戒をすべての戒の根本であるとして、身を治め家を治め国を治める大本の教え、人の人たる道であると平易に説いて、数多の道俗を教化。特に多くの皇室関係者が帰依するなど、その徳風は一世を風靡したのであった。

 『梵学津梁』(ぼんがくしんりょう)一千巻、『十善法語』十二巻など多くの著作をなし、特に十善戒に関する著作は近代の仏教者に多大な影響を与えたのである。


『廃仏毀釈と肉食妻帯』

 江戸時代の仏教は、国教ともいえる地位にあった。しかし、明治新政府は、国家の礎を神道に求め、神武の古に復(かえ)すということを理想としたため、おのずから神仏分離という方針が立てられた。

 慶応四年(九月より明治と改元)三月、諸国大小神社に別当・社僧と称して神勤している僧職の復飾(ふくしょく)(還俗(げんぞく))を命じ、さらに、神号を権現(ごんげん)など仏教語を用いている神社はそれを改め、御神体としての仏像、また鰐口、梵鐘、仏具などは取り払うことが布告された。

 これを世に神仏分離令と言うが、これを背景に、明治五年頃まで全国に展開された仏教排斥の破壊行為を廃仏毀釈という。

 この布告の数日後には、はやくも比叡山麓坂本の日吉山王社では、長年隷属してきた僧職への怨恨もあり、武装した神官出身の志士たちが、当時仏教様式で祀られていた神域に乱入し強引な破壊行為を行った。
 
 そして、津和野藩、隠岐、薩摩藩、苗木藩など一部の藩や地方では、廃仏毀釈の方針をとったため、寺院の廃止・合併や僧侶の還俗、神葬祭への強制が行われた。国宝に比すべき貴重な品々も含め、寺院や家々の仏壇の仏像、経巻、法具などが壊され、焼かれたり、路傍の石仏・庚申塚もことごとく破壊されたのであった。

 そしてさらに、新政府は近代国家の基礎を確立する一端として、明治五年四月、「自今僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と布告した。

 これは古来僧尼令で定めた肉食妻帯の禁を解く法令であり、出家を基本とする仏教僧の宗教的な特質を国家として否認するものであった。

 本来、戒律は国家によって制定されるものではなく、各宗僧団によって厳守されるべきものである。しかし、長く国法により統制されてきたがために、この法令をもって肉食妻帯に踏み切る僧侶が少なからず現れたのである。

 明治三十年代には僧侶の妻帯が一般化したこともあり、各宗派宗議会でこの肉食妻帯問題が度々取り沙汰され、公認すべきか否か議論紛糾した。が、結局は自然の成り行きに順じるのが至当との解釈が大勢を占め、今日に至っているのである。

 廃仏毀釈が物理的な排仏とすれば、肉食妻帯の解禁は内容的な排仏と言えよう。事実、この法令が日本仏教の世俗化に一層の拍車を掛けたのであった。


『近代仏教学の成立』

 我が国における伝統的仏教は漢訳経典による仏教であった。しかし近代には、十九世紀頃から仏教文献の学問的な研究を始めた西欧から、あらたに梵語(サンスクリット)やパーリ語などインド語の原典による仏教研究が導入された。

 近代的な梵語学研究は、明治九年、東本願寺の俊英・南条文雄と笠原研寿が英国に留学したことに始まる。二人は、インド学の幅広い分野で研究の基礎を築いたマックス・ミューラーのもとで研鑽し、始めて西洋の近代梵語学を輸入した。

 続いて、同じくミューラーの門下であった高楠順次郎が欧州留学から帰朝すると、明治三十年頃から東京大学で梵語とパーリ語を講じ、初期仏教研究に不可欠なパーリ語の研究に着手。『巴利語仏教文学講本』を著し、後に多くの研究者の総力を結集して南方上座仏教所伝のパーリ聖典を邦訳して『南伝大蔵経』を出版。我が国のインド学仏教学研究の基礎を築いた。また、姉崎正治はパーリ聖典と漢訳経典の比較研究を開拓し、日本人による漢パ梵の仏典比較研究は世界の学界に貢献することになる。

 さらに河口慧海がチベットに潜入して、チベット語大蔵経はじめ膨大な文物をもたらし、チベット学の始祖となった。また、織田得能らの努力で『仏教大辞典』が編纂されるなど、近代仏教学研究の基礎が完備されていった。

 そして、こうした梵語やパーリ語の原典を文献学的になす研究と相俟って、明治二十年代から西洋の科学的方法論による仏教研究が登場する。

 西洋の哲学的方法によって仏教を解釈して仏教の真実性とキリスト教に対する優位性を論証した井上円了、西洋の研究法に従って仏教史研究の基礎を開いた村上専精、精神主義を標榜し心の内面を凝察して真理を探究した清沢満之など多くの開明的仏教学者が現れた。

 欧化主義が蔓延する近代国家の形成期に、このように新しい仏教研究が導入され近代仏教学が成立し、その意義を広く社会に示したのである。

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ある訪問者

2009年07月05日 15時28分23秒 | 様々な出来事について
先月の月例行事の前日、さあ準備を始めようと思ったら、ある人が訪ねてきた。訪ねてきたと言うよりは第一声は「写経用紙を下さい」だった。写経用紙を出してくると、玄関先に座り込んで話し出した。「いやもうまいりました。この二ヶ月生きた心地がしません」という出だしだったか、とにかく一気呵成に話し出した。

若い嫁さんを息子が貰ってきたと思ったら、子供が連れ子が一人おって、最初は仲がいいと思っていたら毎晩のように大げんかを始める。小さな子供がいるのにそっちのけで、刃物も飛び出す始末。かと思ったら、嫁さんの方が引きこもっていると思うと、手首を切っていたり。息子は仕事で何日も帰らない。そんなんだから、まったく家事もできやしない。

自分の妻も具合が悪く病院を出たり入ったり。その上寝たり起きたりのおばあさんまでいる。その間に入って自分は仕事にも出なくちゃいけないのに家庭がそんなんだから行ったり様子見に帰ってきたり。洗濯も炊事も自分がしたり息子がしたりで、落ち着かない毎日。休みの日には前には気晴らしに山に登ったりお寺に参ったりしていたがそんなことも夢の夢。昨日は小さな子を連れ出して公園で一日遊ばしてきた。

そんなこともしなくては若い夫婦の時間もあったもんじゃない。それでいてケンカばかりして、こっちは夜も満足に寝られやしない。そうかと思うと、その嫁さん、実家が何か霊が見える人がいるとかで、このうちの家の裏にある無縁墓の霊がたたっているだの、夜な夜な現れるだのと言い出した。近くのお寺さんに来てもらって、お祓いをしてもらったときはしばらくは何も言わなくなったが、そのうちまた昨日も来てたというようなことを言い出した。

何とかならないですかね。と言いながら、こちらの話は聞かずに、昔語りに、自分の母親の性格やら過去にあった四方山話を言いつのったかと思うと、突然写経の話になってみたり。またまた人は感謝の心を持たなくちゃいけない、人様に何かしてもらったら、礼を言うことくらいのことは必要だとか。・・・・。

とにかくそうして気がつくと小一時間話とおして、こちらから、まあ、そう言っても、新しい環境になれるまで時間も必要でしょうし、などというと「それじゃ、すいません、ありがとうございました」と言うなり、写経用紙を持って、さっと帰って行った。

こちらがそれでは、と思う間もなくお帰りになったのではあったが、何かこちらは消化不良。言うだけ言ってスッキリしたのか、何もお持ち帰りにならずに帰られたような気がして後味が悪かった。それにしても、いろいろな問題点が透けて見える。①リストカットとお嫁さんの実家での家庭環境のこと②霊のこととお墓③家族というものの理想と現実。

①については、以前にもここで書いたことがあった。身近な人に自分のことを気づいて欲しいという気持ちが自虐行為に駆り立てる。おそらく実家のお母さんお父さんとの関係の中に自分が見捨てられた必要な子ではないと思われていると決めつけているようなところがあるのではないか。そして本人がまだ自立できていないということが大きな問題であろう。さらには離婚や二度目の結婚についてもいろいろな紆余曲折があったであろう。そんなところの心の動揺がまだ落ち着いていないということなのであろう。

②については、ついつい霊能があるなどというとすべて分かっているという勘違いをされる人がいる。 霊能にも段階があって、ほとんどの人たちが亡くなった人の浮遊霊が見えるという程度なのではないか。見える人にはその人の心の次元にあった霊が寄ってくる。心が暗く恨みや嫉妬怒りの心があればそういう低次の霊が集まってくると言われる。その場所が問題なのではなく、その人が問題を抱えているがためにその周囲を巻き込むことが往々にしてある。無縁の墓はどこにでもあるし、亡くなった人がいない場所はない。冷静な対応が必要なのではないか。

③については、何事も新しい家族が増えれば、様々な軋轢を生むし、摩擦があって当然だろう。お互いに慣れるのに時間も必要だろうし、時間を掛けても解決されないことも多々ある。そういう場合は、距離を保って関係を改めることも必要だろう。あまり近づいたら大火傷をするが、距離があればどんなに熱いものでも耐えられる。みんな自分がかわいいし自分のことで頭がいっぱいだ。そもそも人はわかり合えないものだと思わないといけない。何ごともこうあるべきという理想ばかりではうまくいかない。理想と現実は違って当然だろう。そう思ってかからねばならないのではないか。

様々な人が様々な思いを抱えてやってくる。もちろん電話もよくかかってくる。何でもじっくり寄り添って聞いてあげるのが精神的な病い、心の傷を持つ人との対応の仕方であるというような言い方もなされる。しかしやはり聞くだけではいけないだろう。きちんとこちらの対応もなくては何のために話されるのか分からない。確かに答えを求めている人ばかりではない。しかしいざというときの答えは、やはり仏教の真理にてらした方針がなくてはならない。是非またお越しになることをお待ちしたいと思う。

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ある講義録を読んで

2009年07月03日 08時05分38秒 | 仏教に関する様々なお話
これはある宗派の僧侶方によるシンポジウムでの発言を収録した講義録である。「死について」と題して二時間半にわたり様々な議論がなされたようだ。冒頭基調講演として、昨今の死にまつわる事情として、自然な死と受け入れがたい死とがあると語られる。その後者の場合にどう僧侶が対処したらいいのかということが議題として提示される。

なぜならば、今日医療が進んだがために産科や老人医療の現場でも様々な搬送の問題や医療ミスなどの訴訟問題を含め、死を簡単に受け入れ難い状況を生むなど、昔では考えられなかったような死にまつわる問題があるとする。しかしいつの時代も身近な人の死は受け入れがたいものなのではなかったか。ただ現代人はその原因を本人や近親者にではなく、みんな他者とくに直接その場に居合わせる医者や病院に責任を押しつけるがためにややこしいことになるのではないか。

そして、このような様々な思いを抱える現代にあっては、なおさら葬儀の場面で、導師が実際に何をしているのかということを遺族に語る必要があるという。では何をしているのかというと、①この世を去って仏さまのいのちの根源に還って逝く人は仏の仕事をされますようにと祈る、②逝く人の誓願を成就せしめたまえと祈ることをしているのだという。そしてこの場合の仏の仕事とは後の世に生きる人々の幸せを見守ることだと述べられる。

さらには、死後四十九日の法要から一周忌、三回忌と十三仏の信仰に基づいた年忌法要がなされるとき、「それからぽんと切れて成仏すること。それが目的ではないでしょうか。輪廻転生などが目的ではない」ともある。

また死をどのように受け取るかという段になると、①死後の世界はないとする人、②輪廻転生はいかに生きるかということに利益があるとする大学教授の考えを紹介し、輪廻するという考え方をする人、③遺伝子として子孫に何かを託すという考え方の人、④死後は大いなる命に融合すると考える人、大きくこのような考え方があると紹介する。そして様々な考え方をする人に添って話を聞きケアしてあげることが大切だと述べられる。

さらには、死後のことをあまり語ることをしないようだが、あの世に行ったらお袋にも会える、師匠にも会える兄にもあの世で会えると自分は思っていると語る人もあった。「自殺は一概に悪いとは言えない」「自殺はその人にとって運命的なものですからいいのでしょうけれども」というような気になる表現もなされていた。

大変期待して読んだのではあったが、一言でいうと疑問に感じる発言が多く、また残念ながら仏教の死生観が示されない。それぞれの体験からいろいろな事例についての話は誠に興味深く参考になった。しかし様々な学者たちの見解を採り入れて権威ある考え方であるかのように発言されてもいるが、仏教としてはどのように考えるべきかという指針が示されないままに終わっているのは残念に思った。

少し前にまた別の宗派の同じようなシンポジウム後の感想を参加していた人が書いた物を読んだことがある。そこにも僧侶がまったく死後のことを話せないことに愕然としたと書かれてあったことを思い出す。お釈迦様は確かに死後のことよりも今どう生きるかということを語られた。しかし、こんなことをしていると死後こうなるよということは多くの経典に残されている。つまりは輪廻するのだから地獄に行きたくなかったらこう生きなさい、輪廻して苦しみの生を重ねたくなかったらこうしなさいと。

都会では、長患いした病院から直接火葬して納骨する直葬という葬法が増えているという。その場合、もちろんお葬式もしないらしい。はたしてお葬式もしないでいいではないかとする人にどのように語ればその大切さを伝えることができるのであろうか。命の大切さと言われて久しい。しかしそう語る現代人が自ら近親者の命を軽く扱っているのが現実の姿である。

人は誰しも一人では生きていけない。みんな周りの人たち生きもののお陰で生きている。生まれてからこの方、何十年も他の人々の手を煩わせ良くも悪くも沢山の人々のお世話によってともに生きてきたことを考えるなら、亡くなったからといって、「はいさようなら」で済ませていいはずがない。やはりそういういろいろなことに人として感謝を述べる、喪主は故人に変わってそうせねばならないだろう。華やかでなくても、ささやかにもそのような場がやはり必要なのではないか。

亡くなったら何もないと考える生き方は危険な生き方ではないか。亡くなるまでしたことが何もあとに残らないとすれば、人に知られなかったら何をしてもいいという生き方になるであろう。法に触れなければ、ないし隠し通せるならばいくらでもしたい放題の世の中になるのではないか。だからこそ今、私たちの社会は軌道を外れどこへ向かうとも知れずさまよっているのではないか。

そもそも生まれて来た家族、周囲の環境、持って生まれた才能容姿の不平等もどう説明されるのであろうか。とてつもない不平等なこの世の中にあって、まったくこの世だけ一度だけの人生などと言って済ませるならば、この格差をどう説明するのか。来世があると、何度も生まれ変わってきた過去世があり、生き方によって来世が違うのだとしてはじめて私たちのそうした現実を意味あるものとして説明することもできよう。

昔から「そんなことしてたら後生が悪い」という言い方があったように、来世がある。そのようにおそらく江戸時代までの日本人は考えていたであろう。だから葬儀の場面では、残された者、親しい人は故人に来世もしっかり生きて欲しいと功徳を手向ける。その儀式を執行する僧侶は、きちんと戒律を授け、沢山の生前の功徳、死後手向けられた功徳を持ってより良い来世に逝きなさい、できれば来世でも仏教徒としてきちんと物事を考えられる、自分で判断できる人生を歩みなさいと来世への旅立ちを見送る。これが本来の仏教としての人の生き死にに関する定説ではなかったか。

来世があると考える仏教は、自殺することもけっしてそれで楽になれるものではないとはっきり言うことができる。暗い心恨みの心怒りの心をもって自らの命を粗末にして来世に逝ったら大変なことになるよと。輪廻転生が生きる目的なのではない、供養の目的ではない。そこから抜け出るために私たちは何度も生まれ変わりながら教えを学び徳を積み心清めていかねばならないとするのである。

明治時代に、浄土宗の福田行誡師は「宗旨で仏法を語るなかれ、仏法をもって宗旨を説くべし」と言われ、兼学ということを特に勧められた。今各宗派は宗派の教義に閉じこもり専門化して、根本にある仏法が説けなくなってはいまいか。広く兼学の精神をもって、もっとおおもとから学び直す必要があるのではないか。第一には、まずはお釈迦様の教えから紐解き、それぞれなしている一つ一つのことの何たるかをもう一度見直すことが必要なのではあるまいか。

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