住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記-20

2009年09月25日 15時44分11秒 | 四国歩き遍路行記
下の加江から次の39番延光寺までは40キロほどもあろうか。宿を出て、向かいの山裾の道を西に歩く。山肌からは綺麗な水がしみ出ている。所々に柄杓と盥が置かれてあった。たぶん飲める水なのだろうと思ったが、万が一腹をこわしてもいけないと思い遠慮した。右側には田圃が山と国道の間に挟まれ細長く続いていた。

時折車が横を走っていくが、誰一人通行人がいない。寂しいくらいの道を一人ひたすら歩く。何も考えないただ歩くだけの歩き遍路には誠に相応しい遍路道だった。酒蔵のある集落を越えていくと、うっそうとした木々に囲まれた、また一人の道になった。崩れかけた古いお堂があったり、お地蔵様が並んだ寂しい道が続いた。しばらく行くと国道に出た。今度は国道のクルマの横をひたすら歩く。

国道から右に矢印があった。へんろみち保存協力会の小さな白い看板だ。へんろみち保存協力会は、愛媛県松山の警察を退職された方が中心となり結成されたボランティア組織。1600キロもある全遍路道の迷いそうな辻辻に矢印を設置してくれており、誠にありがたい遍路道の道しるべとなっている。四国の道の道しるべや古い石の道標と違って、その数も多く常時建物や道の変化に対応して付け替えられていくので、誠に安心して歩くことが出来る。歩き遍路さん用の地図や解説書まで作り頒布されている。

国道から入った湾曲した道の先には遍路宿やおみやげ屋が両側に見えてきてお寺の近いことを知らせてくれた。駐車場の先に石段があり、上がると梵鐘を背中に乗せた石の亀が出迎えていた。ここの梵鐘は延喜11年と刻銘があり、国の重文と名高いが、その年に赤亀が梵鐘を乗せて寺の近くに泳ぎ着いたのだと伝承されている。だから山号を赤亀山という延光寺の、そもそもの創建は聖武天皇勅願というから古い。行基菩薩の開基。後に弘法大師が参詣して薬師如来を刻み本尊とされた。本堂と大師堂前で読経して境内を歩く。木々の中に佇む観音様やお地蔵様のお顔が何とも言えぬやさしさをたたえていた。

まだ日が高かったので、国道に戻り歩く。宿毛の町を抜けるあたりで、夕飯の弁当を買い込んで、腹ごしらえ。暗くなってはきたが、それでも歩く。なかなか今日の寝床が決まらない。国道沿いに両側を山に囲まれた道を歩く。県境あたりで、ログハウスの土産物屋などがあり、その先に篠川食堂・民宿と書かれた看板が目に入った。

近くに行くとさびれているが、中に誰かいるようで話し声が聞こえる。扉を開け、泊まらせていただけますかと問うと、もう宿はやっていないという。仕方なくまた歩き出す。どれだけ歩いただろうか。後ろから声がして振り返ると、食堂にいたおじさんだった。泊まるだけならいいそうだと言う。引き返してみると、まあ風呂もあるしゆっくりしんさいということになった。

そこに居合わせたのは、この食堂の奥さんと知り合いの大型長距離トラックの運転手さん二人だった。野球中継を見ながらお酒の席に同席し、しばし楽しく歓談。魚介類を東京の築地などに運んでいるのだとか。私のような遍路坊さんと話すのは珍しいようで、何で歩いているのか、何で坊さんになんてなったのか、そんなことをあれこれ聞かれたように記憶している。

ほろ酔い気分の途中で、朝から歩いてきた疲れもあり、先に風呂に入らせてもらった。お風呂は大きな石を組み合わせた上にスノコが置かれてあって、使ったお湯は石の間から水が流れ落ちていく。何とも珍しいお風呂だった。綺麗な沸き立ての一番風呂に入らせていただいた。

風呂から上がると六畳ほどの何も置かれていない部屋に案内された。部屋の真ん中には、糊のきいた真っ白のカバーに包まれた布団が敷かれていた。一度断ったことが気になったのであろうかと、あまりの行き届いた待遇に申し訳ない思いがした。翌朝も泊まるだけということだったのにご飯が用意されてあり、またお昼の握り飯まで持たせて下さった。とても印象に残るお宿となったのであったが、遍路終わってお便りに感謝の気持ちを認めただけなのが今も心残りになっている。

昨日は曇り空だったが、快晴の中、宿毛警察のあたりから山道にはいる。途中草に覆われた道で衣が濡れる。松尾峠には番外の札所もありお参りして先を急ぐ。高知県から愛媛県にはいるとなだらかな下り道が続く。道の両側が急に賑やかになり、御荘の海が見えると、もう40番観自在寺だ。丁度昼前に到着し、正面に位置する本堂に入り読経。狭い通路に沢山のお守り類が並んでいるので、沢山の参詣者で押される中、理趣経を唱えた。大師堂に参ってから、池の前のベンチで握り飯を頂戴した。

観自在寺は、桓武天皇の死後皇太子だった次の平城天皇の勅願所として弘法大師によって創建された。平城天皇が御幸して大般若経などを納経された際に「平城山」という勅額を賜ったといわれる。弘法大師が霊木に薬師如来を刻み本尊とされたというが、寺号が観自在寺というのはなぜなのであろう。いろいろ調べてみたが分からない。元々創建前にあった廃寺の名前を踏襲されたのであろうか。同じ木で阿弥陀如来と十一面観音を刻み脇士としている。

次なる札所龍光寺目指して、南宇和の真っ青な海に浮かぶ小島を眺めつつ歩く。


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ネパール巡礼・五

2009年09月22日 17時46分54秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
一九九五年十月十八日、九時頃歩いて街に向かう。カトマンドゥー中心部のチェットラパティとアサンの間に位置するスィーガーストゥーパを目指す。そこでカティナ・ダーナという仏教行事が行われるという。歩いていると大きなスピーカーの声が聞こえてきた。何やら演説でもしているようだ。

この一年前のことではあるが、インドのサールナートにいたとき、通っていたベナレスの大学でお釈迦様のお祭りがあるから来いと教授に言われ、行ったことがあった。その頃には既に日常会話程度ではあるが、だいぶヒンディ語が分かるようになっていた頃だった。ところがそのお祭りで話す講演の内容が、まったくと言っていいほど聞き取れなかったことを思い出す。壇に立ち、マイクに向かってがなり立てるように、また抑揚をつけて勢いよく早口でしゃべる演説口調には、ほとほと困り果てたものだった。

このときも、ブッダ、プンニャ、ダーナー、シーラー、そんな聞き慣れたパーリ語の仏教用語が飛び交っていた。だが勿論そのときは、ネパール語でのお説教であったから内容が分からないのは当然のことだった。声の方向に白い大きな塔が見えた。

上の方は日本で言えば法輪、それは鮮やかな金色に塗られ、それから下の塔部分は白い。塔部分は上が四角でその下は半円状に太くなっているだけだ。その塔の前に大きなテントが何枚も張られ二、三百人の信者が敷物を敷いてじかに座っている。

みんな白い衣装を身につけている。男の人たちは白いシャツに白いズボン、それに毛のベスト。女性陣はみんな白いサリーだ。日本では仏事にはどういう訳か黒を身につける。僧侶も法会では紫など色衣を用いるが、平素は黒の改良衣を多用する。インドなどへ黒の法衣で来てしまう日本僧侶を目にして、現地の人がイスラム教の人たちかと間違えたという笑えない話も聞く。やはり在家信者は白。僧侶は黄色から茶系の袈裟というのが世界の仏教徒の常識だ。

そのテントの最前部には十人ばかりの老僧方が椅子に座り、その中の一人が先ほどから法話をしていたようだ。近くに来てみると、一昨日お会いしたアシュワゴーシュ長老だった。よどみなく話す言葉には迫力があった。

そこは塔を中心にして七、八十メートル四方の広場になっていて、周りの三方の三、四階建ての建物の壁下に設えられた窪みに比丘(南方仏教の僧侶)たちが座っていた。私もその中に加えてもらい座る。

カティナ・ダーナは、安居開けの比丘たちに一年一度新しい袈裟を施すとても大事な行事だ。南方の仏教では今でも、雨期の三ヶ月間、およそ七月の満月の次の日から十月の満月の日まで僧院の中で外泊せず勉学修行に励む雨安居を行う。カティナ・ダーナは、五月の満月に行われるブッダ・ジャヤンティというお釈迦様のお祭りと対をなす仏教徒にとっての一大イベントでもある。

因みにブッダ・ジャヤンティは、生誕祭と成道祭と入滅祭をあわせ行うお釈迦様の日。私たちはお釈迦様のお生まれになったのは四月八日、悟られたのは十二月の八日、そして亡くなられたのは二月十五日と思っているが、南方の仏教では、お釈迦様はこの同じ日に生まれ悟り亡くなったと信じられている。

いつ終わるとも知れない説法は結局その後一時間半ほど続いた。勿論他の長老方の説法の他、在家信者らの話もあった。その間にぞろぞろと比丘衆が勢揃いして広場の周りの壁には隙間が無くなっていた。途中で昨日お訪ねしたバスンダラ寺の住職スガタムニ師と九十五才になる比丘も来られて私の隣に座られた。

総勢百五、六十人はいただろうか。その中には女性の出家者であるアナガリカと言われる人たちもいて、ピンク色の布をまとって参加していた。

法話が終わるとおもむろにそれまで静かに座っていた信者たちが立ち上がり、周りの建物にそって座る比丘衆一人一人に施しをして歩いた。静かにぬかずいて両手でお金や食べ物を差し出す。信者の列は止めどもなく続いた。その光景を初めて見た私は、それはとても信じられないような荘厳なものであった。  

ネパールの仏教会に属している訳でもない。インド比丘とは言え、ただの旅行者の私がこのような場にいて良いのだろうかとも思えた。スガタムニ師に「私がここにいてもいいものだろうか」と問いかけると、「いいんだ、座れ座れ」と言って笑っている。「おまえはそうやって彼らに功徳をあげるんだから、いいんだよ」と言う。

そんなものだろうかとも思えたが、何か悪い気がして居心地の悪さを感じていた。それほどまでに、布施する信者たちの気持ちが誠に純真なものに思えた。

みんな小銭ではあるけれども二十五パイサから二十ルピーもの布施をされる。その上お米や飴玉などを入れていく。ネパールルピーだから、通貨換算すれば五十銭から三十円といったところなのだが、一人一人には少額かも知れないが、それを全員に施す側にとったら結構な出費になるのではないか。

日本のタクシーとこちらのオートバイの後ろに座席を付けたようなリキシャとを簡単に比較は出来ないが、タクシーが千円以上もかかりそうな距離をこちらでは三十円で行けてしまう。単純に計算すれば三十分の一の物価水準ということだろうか。つまりは、生活感覚で言えば、差し出した額の三十倍程の価値がある。

私たちの感覚だと、一人当たり十五円から千円程度の布施を百五十人もの坊さんにささげたということになるのだろうか。一人一人に千円もの布施をした人は、それだけで十五万円もの布施を一度にしたことになる。一年一度の大切な法会だとはいえ大変なことに思えた。そんなことを考えながら無言で布施を受けた。

比丘たちは誰一人として布施を受けるときに頭を下げる者はいない。自然に私もそのままの姿勢で頂戴していた。僧侶が托鉢して頭を下げるのは日本くらいのものだろう。どの国でも托鉢する僧侶が頭を下げたりしない。布施を頂戴する代わりに功徳を授けている。そう考えるからとも言われるが、それよりもやはり立場の違いを厳然とわきまえているからとも思われる。

日本では、僧が在家者に対して合掌することは日常でも見かけられるが、南方の仏教国ではそのような光景を目にすることはない。インドのサールナートにある日本寺の本尊様は合掌した仏陀像なのだが、そうと分かると、せっかく来たのに礼拝もせずに帰ってしまう外国の仏教徒がいると聞いたことがある。

それなども、インド人の「ナマステ」と言いつつ合掌してなされる挨拶の意味するところが、その人の足もとにひざまずき御足を頂いてご機嫌をたずね、教えを乞うとの意味があるからであろう。お釈迦様は最高の悟りを得られた聖者であり、お釈迦様が合掌して教えを乞う人など無かったのであるから当然のことだと言える。

そして、南方仏教の比丘は、私たち在家の側からではなく、お釈迦様の側から私たちに対していることをこうしたことからも窺い知ることができる。だからお経を唱えるときも、仏像を前に在家者と同じ向きでお経を上げることはない。必ず仏像を背にして在家者に向かってお経を唱える。

お釈迦様の側にあるということはそれだけ大変な心構えが常に求められている。日常を戒律で規定され、お釈迦様の教えに生きている気概が問われる。

そして、とにかく大勢の信者たちの布施をいただき持ちきれなくなったお金や菓子類を頭陀袋に入れた。最後の信者から布施を頂戴した比丘から順に立ち上がりちょうど向かい側にある食堂の方向に向かい歩き出す。

私たちもその列に加わるが、まだ食事には時間があるようで、「マンディル(お堂)に行こう」とスガタムニ師に誘われ、食堂斜め前に建つ建物の二階に案内された。二十畳ほどの部屋の正面にお釈迦様が祀られていた。

三人で揃って床に額を着け礼拝する。それから三人で記念撮影。壁には沢山の額に入れられた長老比丘の写真が飾られていた。

するとその横の部屋でアシュワゴーシュ長老が法話を終えて休まれていた。迷わず入らせてもらい、一昨日からのお礼と用件が済んだことを申し述べた。すると「(ルンビニーに建てるインドのお寺の件だが)やはり四カロールは難しいんじゃないだろうか。一カロールで建てねば。まずゲストハウスを作って、それから少しずつ本堂を造るようにしたらいい」そんなアドバイスをいただいた。

長老が言われた一カロールとはインドルピー建てで一千万ルピーということだから、約三千万円。そうなのだ、この程度なら何とかなるかも知れないと思える。しかし計画では、四カロールとなっていた。四カロールとは一億二千万円。やはり途方もない金額だ。そう思えた。

そんな話をしていたら食事時間になり、呼ばれて食事会場に向かう。比丘全員がホールで食事をする。みんな言葉を発することなく黙々と料理を口に運ぶ。「たくさん食べて上げることが施す側への功徳となる」そう前に聞いたことがある。

また、「比丘は美味しそうに食事を腹一杯食べることが仕事だ。施してくれる在家信者たちにとってそれが功徳になる。だから腹を大きくしろ」そんなことを言われたことがある。

カルカッタでウパサンパダーという得度の儀式を経て晴れて南方仏教の比丘になったとき、その儀礼後の食事会場で、私と一緒にその日比丘になったボーディパーラという比丘が言った言葉だ。彼は今ではインドのブッダガヤの象徴である大塔を所有する寺院マハーボーディ寺の管長になっている。英語に堪能な秀才で、確かベンガル仏教会の創始者の家系であった。

そんなことを考えつつ、たくさんの在家信者たちがここでも忙しそうに給仕をしている姿を眺めた。そして、そのころに比べ、少しは大きくなった腹に右手ですくった料理を流し込んだ。

食後スガタムニ師らと重いお腹を抱えるように、ゆさゆさと街を歩きながらバススタンドに向かう。そして、バスンダラ行きのバスに乗った。

カトマンドゥーの環状道路を循環するバスに乗り合わせたため、途中白い雪をいただくヒマラヤを遠望することが出来た。カトマンドゥーからヒマラヤを見られるというのは旅行者にとったらそうそうあることではなく、何度来ても見られない人もあるらしい。

お寺に着いてから、私の頭陀袋の中にあったお布施をすべてスガタムニ師のお寺の建築費用に充ててもらうために寄附させていただいた。つづく

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「お釈迦様は私たちにCHANGEを求める」

2009年09月12日 08時16分58秒 | 仏教に関する様々なお話
そもそも仏教というものがなかなか捉えにくい、何をもって仏教というのか、皆様と私とで、たぶん仏教のとらえ方が違うのではないかと思っております。今日日本の国で仏教と言うと葬儀仏事と結びつけられて、死者のための儀礼としてしかその役割がないかのように感じます。皆様も仏教というと拝むもの、お唱えするもの、信じるものという印象が強いのではないでしょうか。

ですが、もともとのお釈迦様の教えは、本当はとても科学的論理的な教えでした。たとえば、その昔インドで医王と言うとお釈迦様本人を指していました。お釈迦様のところに行くと誰でも心も体も癒されてしまう。その説法も医者の診断処方に則ったものだったと言われています。だから医王と。で、どんなことをお話しになったかというと、私たちが生きるとは何か、なぜ苦しむのか、幸せとは何か、いかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。今日はそのあたりの話しをしてみようかと思っております。

ですが、まずはとりあえず、身近な話しから入っていきます。先ほど般若心経一巻をお唱えをいたしました。本尊様を前に唱えたわけですけれども、なぜ仏様の前でお経を私たちは唱えるのでしょうか。お経ばかりでなく、真言とか、念仏とか、題目、やはり仏様の前でお唱えしますね。なぜでしょうか。仏様に聞かせてあげるんだと思っている人はありますか。仏様がお経を聞いて勉強されるのでしょうか。仏様の方が私たちよりお経のことはよく知っているはずですよね。

仏様が喜ばれるからと言う人もあるかもしれません。そうですね。私たちがお経を上げると仏様は喜ばれる。なぜでしょうか。自分が説法したことの記録であるお経を後世の人たちが唱えてくれるからでしょうか。私が思うに、私たちがお経を唱えて、教えを学ぶ、また唱えて心が静まり清らかになる、それを仏様は喜ばれるのではないかと思うのです

ですから、仏教とは、ただお唱えしたり拝んだりするものではなく、やはり、それによって教えを学び、行いが正され、少しでも心が静まり落ち着いた心になる、つまり、自分がよい方に少しずつ変わる、今の言葉ではオバマ大統領ではないですが、CHANGEですか。それが大事なことなのです。どんなに四国を歩いたり、いくら写経をしたり、たとえ滝行をしたといっても、その人が変わらなければあまり意味がない。

それで、皆様の中には、私は美しい端麗な観音様ですとか、可愛らしいお地蔵さんが大好きです、信仰していますという人もあるかもしれません。ですが、手を合わせ信仰して、きっと助けてくれる、救ってくれると、礼拝し信じるだけでは、あまりその人自身は変わっていかないかもしれません。かえって、考える力を失うことにもなります。

ですから、信仰崇拝するよりは、観音様とはお地蔵様とはどのようなお方だったのか、その生き方を学び、自分も観音様のように生きようと励まれると、自分も幸せになり、周りの人たちにも御利益がある。ただ救ってくれると信じているよりは自分できちんとどうすべきか考える人になれる。このことが結構大切なことです。新興宗教に入るような人はだいだい上の人たちの意向で動く。全く自分の考えがありません。それではいけないんですね。やはり自分が判断できなくてはいけない。

関連しまして。今、スピリチュアル、ですか、ブームですが。スピリチュアルとは霊的なとか精神的なという意味ですが、オーラが視えたり、人の過去生が視えたり、目には見えない気やエネルギーを察知する能力があったり、予言してみたり、亡くなった人の霊と話ができたりする人がもてはやされています。皆さんもよくご存知ですね。ですが、そのように、オーラが見えても、前世が分かっても、亡くなった人のことを聞けても、それだけでは、本人は幸せにはなれない。つまり、変われない。ますます特異な能力のある人にやはり依存して、言われたことに従うような、心の奴隷になる。

それで、仏教ではそのあたりのことをどう考えるかと申しますと、お釈迦様はどうだったのかということになりますが、お釈迦様の奇跡、あまり聞いたことないかもしれませんが、本当は、ものすごい神通力、いわゆる超能力があったわけです。当然のことですが。空も飛べたし、天界に行ってみたり、神様と話しをしてみたり、会った人の前世も、来世もみんな見えてしまった。遠くのものを見たり聞いたり、人の心も分かったし、ナーガという蛇の鬼神を簡単に退治したり、同じ修行者を従わせるために教団の草創期にはかなりなさったようです。

ある超能力の競い合いがあったときには、足が水になり、体が火になって空を飛んだとも言われています。しかし、膨大な経典の中にはあまりその手の話は出てこないのです。お釈迦様のことを超能力者と見なす人もいないわけですが、みんなから尊敬されていた。それは、お釈迦様はそうした超能力はよいことではない、そんなもので人は幸せにならないと考えられて、教誡の奇跡こそ最上のものだと言われたからなのです。教誡とは、教え戒める、つまり正に人の生き方を変えてしまうことです。

この世の真実を教え、智慧を生じさせ、その人の生き方が変わることです。どう変わるかというと、新興の仏教に対抗心を燃やすバラモンたちも訪ねて行ってはいろいろと問答をするのですが、結局はみんなお釈迦様のお話しに引き込まれ改心して弟子になったり、すぐにそこで初歩の覚りを得られて弟子となり出家をしたりしています。

実は、この私も変わった口なんです。私の場合は、一冊の仏教書と出会い、人生が変わりました。東京の普通の家に生まれて、お寺との縁も何もなかったのですが、大学一年の時ある大学の門前で友人と会い、その時の会話がきっかけとなり仏教と巡りあいました。その後、縁あって高野山にのぼり専門道場で修行をしました。

帰ってきて東京のお寺に入り、様々なお手伝いをしておりました。そしてある日の夕方、一生懸命本堂の床をぞうきん掛けしていましたら、その寺は私がそもそも仏教に興味を持つきっかけとなったあの時友人と会った大学の真ん前にあるのだと気づきました。その瞬間、走馬燈のように過去の出来事が頭にひらめいて特殊な体験を致しました。

様々な人生の瞬間瞬間のつまらないようなことの積み重ねのすべてにとても意味があり、それらの人生の岐路に立って一つも間違わずに今ここにある。仏教の言葉では因縁、縁起と言いますが。すべてのことに原因があり結果する。偶然などというものはなく、すべての物事があるべくしてある、ここに今あるためにすべてのことがあったと思えました。今の行いが次の自分を作っていく。今のためにすべてがあった。

ですから、皆様も今日こうしてここに来て、この話を聞くために皆さんのこれまでがあったということも出来ます。大げさな言い方かもしれませんが、もちろん、それがどれだけ明日からの人生に影響を与えるかはまた別の話ですが。私はと言えば、私の人生は皆様に今の瞬間としては、こうしてお話しをするためにあったと言うことも出来ます。つまり、今という瞬間がとても尊く大切だということであります。

また、別の見方をすると、それは私たちは変われるということでもあります。今の自分がどんなに辛くても、自殺したいほどに苦しくても、また劣っているように思えても、次からの一つ一つの行いによって変わっていけるということです。占い、などというものがあります。運命的なことをいわれることもあります。しかし、それさえも変えられるものです。

それから、そのとき、今の自分、それを支えてくれている人たちやものすべてがとても尊く感じて、ありがたいと思えました。目に見えるもの耳に聞こえるもの、すべてがとても意味のある、今こうして私が目にするためにそこに存在してくれている、それぞれがとても得難い因縁の元にそこにあると思えました。

信じれば救われるというようなことを言う人もあるかもしれません。ですが、信じるだけでは依存するだけで、奴隷になるだけなのではないでしょうか。自分とは何か、生きるとは何かということをお釈迦様はお話しになった。自分が生きるということをきちんと自ら考えられる。元気はつらつと、今という瞬間に意味を感じしっかり生きる。教えによって、そういう自分に変わる。それが教誡の奇跡です。

今という尊い瞬間を大切に生きる、自分を変えられるのは今しかない、今に専念する、過去のいざこざ、失敗したようなことに思い煩うことなく、未来のことにうつつを抜かすことなく、今に生きる。それがまた心静まり、清らかな心を作ることにもなります。皆様も、是非、仏教に学び、すべての過去の行いの集積としてのかけがえのない今という瞬間に意味を感じて生きて欲しいと思います。今の瞬間の積み重ねが将来の自分を作っていきます。自分こそが自分の主なのですから。

時代が変革を求め、私たちの生活も少しずつ変わっていくことでしょう。様々なものの認識も変わる。何もかも与えられるものに満足させられ、引かれた線路を歩んできた時代が変わりつつあります。宗教や仏教に対する認識も変わることでしょう。自らが選択し自らが求めて確認しより深く意味あるものとなったとき、既にあなたも変わっていることでしょう。自らが変われば周りの世界も変わる。CHANGEこそ、お釈迦様の私たちに向けたメッセージだと言えましょう。

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「仏の声なき説法を聞く」

2009年09月08日 17時45分15秒 | 仏教に関する様々なお話
(本日9/8朝日新聞愛読者企画「備後かんなべ歴史探訪の旅(企画・倉敷ツアーズ)」として、呉市と広島市から二団体が参詣された。國分寺の歴史に続き、以下のような話しをさせていただいた。)

はじめに、この本尊様は秘仏ということになっておりまして常に扉が閉まっております。多くのお寺でこのように扉を閉めたままの秘仏というところがあるわけですが、なぜ秘仏にしているのでしょうか。一つには神秘性の強調といわれます。また、秘仏ですとご開帳したとき、仏様が目の前に姿を表す疑似体験ができるからとする人もあります。また、保存のためだと言われますが、河内長野の観心寺の国宝如意輪観音様も、美しい原色の仏さまですが、国宝に指定されてからやはり毎年のご開帳で傷んできたと言われています。

で、私はというと、仏様は形ではないよということではないかと思っています。どうしても私たちは形にこだわってしまう。形からはいると鑑賞してしまうんですね、東京の国立博物館で、国内のものとしては最高の入館者があったと言われます、あの阿修羅像にしてもそう、はたして80万人のうち合掌してご覧になった方が何人おられたでしょうか。

姿形から何かを得ることもあるかもしれませんが、その仏様が自分にとってどれだけ意味のあるもの価値のあるものかという観点から接していないのです。皆様もこの本堂に入ってこられたとき、仏様に手を合わせられた方がありますか。まあ、それはいいとして。

ところで、「山川草木悉有仏性」という言葉があります。やまかわくさきで、さんせんそうぼく。しつうはことごとくある。ぶっしょうは、ほとけのせいしつと書きます。山も川も草木もみんな仏様なんだという意味です。山川草木悉皆成仏とも、また草木成仏とも言うようですが。環境問題の会合でも、時折この言葉が使われ、みんな仏様なんだから大切にしなくてはいけない、仏教はいいことを言うねぇと、まあそんな言い方もされているようですが。山も川も仏様というのは本当でしょうか。私はどうもへそ曲がりでして、何にでもケチを付ける、ほんまかいなと。で、どうして山も川も仏様なのか、この言葉の意味するところが私は分かりませんで、長年分からなかったのです。ですが、ある時、閃きまして、そうかと。

それは、仏様というのは何かと言えば、法を説く者、真理を説く人のことです。それで、山や川や草木はというとそれらをよくよく観察してみると、みんな自然の中でそのまま森羅万象の摂理、この世の真理を私たちに表現して説法してくれていると見ていくことが出来ます。だから仏様なのだと。そう思えたのです。いかがでしょうか、山も川も常に移り変わり、草木も一つとして同じものがない、周りの影響を受け常に変化している、無常や無我という真理をそのまま示してくれている。

そう捉えると山も川も草木もちゃんと仏様なんだということになります。ただ受け取る側がきちんとその説法を聞く受け取る努力をしなくてはいけない。ですから、このように自然を見るのと同じように、仏像を前にしたときも、姿形を見るだけではなくて、その仏様がお説きになっている真理、その説法の声なき声、メッセージを聞く味わうという努力を私たちはしていかなくてはいけないのではないかと思うのです。

それで、これからそのように、この本堂の仏様がたの説法メッセージとはどのようなものかという観点から見ていこうと思います。

まず、本尊様お薬師様は、薬の師、薬の先生と書きますように、私たちの体や心の病を癒してくださる仏様ですが、本堂の入り口の外の扁額に医王閣と書いてありまして、別名を医王、医者の王様な訳です。ですが、その昔インドで医王と言うとお釈迦様本人を指していました。

お釈迦様のところに行くと誰でも癒されてしまう。その説法も当時の医者の診断処方に則ったものだったと言われています。とても科学的論理的な話しをなさった。だから医王と、でどんなことをお話しになったかというと、私たちが生きるとは何か、なぜ苦しむのか、幸せとは何か、いかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。これを四つの聖なる真理と言いますが、短くお薬師様のと言いますか、このお釈迦様のメッセージを申し上げますと、「この厳しい人生、苦しみ多いが、自分という執着を乗り越え、覚りを目指して、今を大切に生きよ」ということになろうかと思います。このパンフレットのお釈迦様の写真の下を読んで下さるとおおよそのことが書いてあります。

そして、日光月光両菩薩が厨子の中に一緒に祀られています。それから、インドの古い神である十二神将、そして右奥に真言宗祖弘法大師空海上人、そして地蔵菩薩、

お地蔵様のメッセージというと皆さんお分かりでしょうか。涎掛けをしますから、早くになくなったお子さんの霊を救ってくださる。それもあるのですが、本来は、六道に輪廻する衆生をみなお救いになるということで六地蔵、ですから、そのメッセージというのは、「私たちはみんな輪廻するんだと、死んで終わりではない、生き方によって違うところに生まれ変わる、地獄餓鬼畜生などに生まれないようにしなくてはいけない。少なくとも人間の心を持って人間界に生まれる。ないしは良いことをたくさんして天界に行く。そう自らを励まして正しく生きなさい」と、それがお地蔵様のメッセージだろうと思います。

そして胎蔵界金剛界の曼荼羅、左奥に奈良時代の高僧・行基菩薩、観音菩薩、

観音様を信仰されている人はありますか。慈悲の心を持って苦しんでいる人困っている人と同じ立場お姿になってお救い下さるという観音様ですが、ただ合掌してお救い下さい、助けて下さいというのではやはりいけないわけで、「皆さんも一緒に観音となって周りの人たちを助けてあげよう、共に寄り添うという思いをもって、誰彼となく差別したり分け隔てをしないように」というのが観音様のメッセージですね。

明治以降お預かりしている八幡神など

それで、このようにそれぞれのメッセージを表現されて沢山の仏様がおられるわけですが、この本堂の中心はどこだと、思われますか。本尊様でしょうか。

実はこの大壇と言っておりますが、この正方形の壇こそがこの本堂の中心なのです。真言宗寺院の他にない特徴と言えます。拝む仏様にこちらにお越し願ってこの塔の中の小さな仏様の御像にお招きする、ここに座った導師がその仏様と一体になって供養をする、正にここに仏様が顕現する。だから、まあ、ありがたい場所ということになる訳なのです。いろいろと器がありますが、火舎、六器、それらに盛られる御供えをお越しになった仏様に供養するというセッティングになっているのです。

最後にこの、内陣の小さな仏さんを見てください。西側に12体、東側に13体で都合25の菩薩さんたちがおられます。ご存知の方もあるかとは思いますが、来迎二十五菩薩の皆様です。普通は壁画に描かれることが多いのですが、このようにご像として祀られているのは珍しい。阿弥陀様の世界から私たちの臨終に際してお迎えに来てくださる仏様です。あれっ、本尊様はお薬師様なのに、阿弥陀様の世界にと思われるかもしれませんが、ここには現世の御利益を頂く仏様であるお薬師様でいいんですね。それでこの二十五菩薩さんたちは阿弥陀様の世界から迎えに来られた姿を現しているわけです。それで皆さん雲に乗っておられる。

では、これら来迎二十五菩薩様がたの、または阿弥陀様でもいいのですが、そのメッセージ、思いはどんなところにあるのでしょうか。何しててもいいよ、迎えに来てあげるから心配しなさんなということでしょうか。真宗門徒の皆様も多いと思いますが、法然さん親鸞さんはどんな方だったとお思いですか。私が知るところでは誠に深く自分自身について思索をなさった方であったと、とても厳しくおのれを見つめられた方だったと伺っております。

それは阿弥陀様の御心を深く理解されてのことと考えるならば、やはり私たちも、何をしてても阿弥陀さんが迎えてくれると考えるのはいささか軽率かもしれません。やはり、「もう来世のこと、死後のことは引き受けた、それは捨て置いて今のこと現世のことを自分を厳しく見つめつつしっかりやりなさい」ということではないかと思うのです。

そして、こういう話しをしていますと、他力という言葉が思い出されるわけですが、皆様よくご存知ですね。他力は、自分が全く努力しなくても仏様の働きで何事も上手く進む、ただ信じておればいい、そんな教えではありませんね。そうではなくて、自分が懸命に努力しながら、何か成し遂げていく、しかし、その底のところ足元を見てみると自分ではない他の者によって成り立たしめられている、他の大きなものに支えられているということに気づく、そういう中で知られてくるもの、自分とは他によって存在せしめられているという感覚、そういうものだと思うのです。

が実は、それは正にお釈迦様のお覚りになられた縁起という考え方そのものでもあるのです。縁起というのは、これあるからかれあり、これなければかれなしということで、すべてのものが縁起して他のものの影響関わりのもとに成立している。すべての物事がそうして繋がっている、他があるから自分があるという感覚。これを空とも言うわけですが、2500年前の仏教も、大乗仏教も、そして親鸞さんの教えもみんな深いところで繋がっている。仏教というのは学んでいてとてもおもしろいなと思うんです。

少し脱線してしまいましたが、以上、お祀りしている仏様がたのそれぞれの声なき説法と言いますか、発しておられるだろうメッセージを聞くという観点からお話しをさせていただきました。いかがでしたでしょうか。仏様がたの願いは、「私たちを慈悲深く見守ってくださっているというよりも、やはり、しっかりと覚りを目標に励みなさいという熱いエールを私たちに送って下さっている」ようです。皆様も歴史探訪の旅の後は、是非いろいろと疑問を持って仏教を探求し仏様の声をお聞きになってみて欲しいと思います。・・・・。

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