住職のひとりごと

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小学六年生に國分寺を語る 改訂版

2016年04月29日 08時35分35秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
○小学六年生に国分寺を語る(28.5.2.)

今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

皆さんこちらにお参りになるのは初めてですか。國分寺、例えば他の備中の国分寺にお参りしたことがあるという人もあるかも知れませんね。事前学習と言うことで國分寺について学んでこられたかも知れません。何か質問はありませんか。何事も、いろいろと疑問を持って何でだろう何だろうと考えながら学んで欲しいと思います。では、私からぼちぼちとお話をしていきますが、質問があったらすぐに手を上げて下さい。

まず、この皆さんの前にある建物は、現在の國分寺の本堂ですが、こちらは今から320年前、江戸時代元禄七年、1694年に再建された建物です。それより20年前の延宝元年に大雨で流されて荒廃していた國分寺を、時の福山城主水野勝種公が大檀那になって再建されました。

①なぜ水野勝種公は國分寺を再建されたのでしょうか。

それは、この備後には國分寺が昔からあって、一国に一つ、備後福山の国の象徴としてあったからなんです。

②そもそも國分寺が、いつ頃からあったかと言えば、今から1270年ほど前からです。その初めにできる奈良時代の國分寺はどんなお寺だったのでしょうか。

当時の建物は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門があり、周りには高さが2.5メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経蔵等があって、今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

③ではその初めにできる國分寺は誰が造ったか、ということですが、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられてできていくのですが、なぜ天皇は國分寺を造ろうとされたのでしょうか。

741年の百年くらい前に何があったか、社会科の授業で習っていますね。大化の改新と習いましたか。それは今では乙巳の変といって、今で言えば総理大臣の地位にあった蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が惨殺する。政権を転覆させるクーデターがあった。まだ、中大兄皇子が天智天皇になって朝鮮に出兵をしたり、また、天智天皇が死ぬと後継者争いで壬申の乱が起きる。それで、天武天皇の時代にそれではいけないというので中国の政治の仕組みである律令制度を採用して準備されて、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、律令制度上大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられ、全国でつごう68の国が出来ていきます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが710年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがありました。正しい政治をしていた人が冤罪で暗殺されたり、その後政権を取った人が天然痘という疫病が流行り次々に死んでいくという恐ろしい時代となります。さらに天変地異があって作物も実らない。そこで、聖武天皇は、仏教の力で、この時代を正していこうとされたのです。諸国に國分寺を造り、都には東大寺を造り大仏を造って、理想とする仏様の世界をこの世に造ることによって、国が安泰となり、諸国が平安となり、そこに暮らす人々も幸せになると信じられたのでした。

④では、なぜこの御領の地に備後の國分寺を造ったのでしょうか。

それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる沢山の大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

⑤ところで、皆さん、なぜお寺だったんだろうと思いませんか。神社ではいけなかったのかと。

そう、仏教でなくてはならなかったのです。なぜかというと。既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきますが、それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、、芸術、科学技術を伴うものであったからです。そもそも仏教が日本にもたらされるのは、今から1500年ほど前、西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ諍いがありましたが、その後聖徳太子が、仏教は四方の極宗(よものおおむね)であると言って、今で言うグローバルスタンダード、世界基準ということで、積極的に仏教を取り入れていきます。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物を造る建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写のための紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、仏画などの絵画の技法、僧衣の生地や縫製など服飾関係の製法、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることができました。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、諸国に國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。何か質問はありますか。

國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。

(5/2 本日実際にお話しさせていただいた内容は以上のとおりです。)


今日は皆さん、福山の街から、ようこそこの神辺までお越しになり、そしてこちらの國分寺にお参り下さいました。10分ほどの短い時間ですが、國分寺について少しお話しします。

このお寺は今から1270年ほど前に出来るのですが、そもそも仏教が日本にもたらされるのはそれより200年前、今から1500年ほど前のことです。西暦の538年に仏教が伝来します。当時は蘇我氏物部氏の時代で、いろいろ議論がありましたが、聖徳太子が積極的に仏教を取り入れていきます。なぜ仏教を取り入れたかと言いますと、既に日本にあった宗教である神道は我が国の神さまを祀ることですが、仏教はインドから中国朝鮮を経て入ってきました。中国も朝鮮もみな仏教を積極的に導入していました。

それは、当時の世界では最先端の先進文化、思想、科学技術を伴うものであり、今で言うグローバルスタンダード、そのものだったのです。私たちはお寺、仏教というと、古くさいもの、誰かが死んだりしたときに必要なくらいに思っていますが、1500年前に、仏教が日本に入ってきて、やっと日本の国は中国や朝鮮に肩を並べる先進国に発展していくことが出来たのです。

たとえば、このような瓦の載った大きな建物、建築技術ですね。また仏像などの彫刻、仏具などの金属加工、経典書写による紙や筆や墨の製法、経典による文字の知識、僧衣の服飾、法要に奏でる鐘や鉢、音楽舞踊などあらゆるものを仏教とともに取り入れることで、日本の国は一気に文化的に発展することが出来ました。さらに沢山の経典が書写研究され、様々な願いを祈願することも出来る、願っても無いものだったと言えます。

聖徳太子の時代の後、政治的には、皆さん習った大化の改新それが645年、今では乙巳の変と言いますね、それから壬申の乱が672年というように、政治的社会的にかなりの混乱した時代が続きます。そこで、それではいけないというので天武天皇の時代に律令制度が整備されていき、諸国の境界も定められていきます。それが683年です。その頃このあたりは大きな吉備の国があり、大きすぎるというので備前・備中・備後・美作と四つの国に分けられます。

そして、飛鳥から奈良に都が移るのが708年、その頃いろいろと都の政治にも乱れがあり、疫病が流行ったりしまして、偉い人も亡くなった、そこで時の天皇、聖武天皇が741年「国分僧寺尼寺建立の詔」を発せられ、国ごとに國分寺を造って、大きなお釈迦様を祀り、大きなお堂や七重塔を作って、金光明最勝王経という護国経典を読誦させて国家の安泰と作物がよく実りますように、人々が幸せであるようにと願ったのでした。

國分寺は、国を分ける寺と書くわけですが、ここは備後の國分寺ですね、隣には備中の國分寺、また西には安芸の國分寺があり、一つの国に一つの國分寺が造られ、全国に六十八ほどの國分寺がありました。國分寺が造られた頃の政治の仕組み、律令制度は、天皇を中心とする中央政府が万民に土地を公平に分け与え、その収穫の3%ほどを税とし他に労役兵役を課すという制度で、きちんとその制度が行き渡るように地方の各国にも役所、国府が置かれました。そして、先ほど申した通り仏教は世界水準の文化であり、お寺は最先端の文化の象徴でした。そこで、奈良の都には、東大寺を作り、各国には國分寺を造る。それぞれの国の中心にその権威を示すものとして國分寺が造られていったのです。

ここ備後の國分寺は、参道の入り口の道が古代の山陽道に面していて、その入口に南大門、入って左に東西24メートル南北16メートルほどの金堂があり、丈六仏と言いまして、立ち上がると一丈六尺、4メートル80センチもの大きなお釈迦様の座像が祀られていました。その右には高さが5,60メートルもある七重塔があり、中には聖武天皇勅願の「紫紙金字金光明最勝王経10巻」が祀られていました。この國分寺にあった経典は、今国宝となり奈良国立博物館に収蔵されています。その奥には金堂と同じ大きさの講堂があり、その他、お坊さんたちが二十人もおりましたから住まいとなる僧坊、食事をする食堂、鐘撞き堂、経典を納めていた経堂等があって、周りは高さが二メートルもある築地塀が約200メートル四方に巡らされていました。今のこの境内規模の20倍はあったと言われています。

ではなぜこの場所、御領というところに國分寺を造ったのか。それは、この地に弥生時代から大きな集落があり、例えば九州の吉野ヶ里遺跡というのは聞いたことがあると思いますが、ここは発掘調査が行われ御領遺蹟と言われる大きな集落の遺跡、また沢山の古墳が見つかっていて、それに匹敵するほどの大きな古代の都市があったところなのだそうです。ですから、人が沢山居て社会生活の中心だった、だから奈良時代になりここに國分寺が造られたのです。

ところで、お寺には仏様が祀られています。今の本堂、この伽藍は今から320年ほど前に福山城主水野勝種公が大檀那になり再建されたものですが、仏様はお薬師さま、薬師如来が祀られています。仏様とは何でしょうか。亡くなった人ではありませんよ、木の彫り物でもない。仏様はインドから来たわけですが、インドではブッダと言います。ブッダは目覚めた者という意味です。この世の中の真実、ありのままの姿、この世界の成り立ち、法則について本当に解った人のことです。

皆さんは、怒ったり、喧嘩したり、イライラしたり、悩んだりということがあると思いますが、それは本当のことが解らないからです。ブッダは、そんなことは一切無い、いつも幸せな気持ちでゆったりと落ち着いて、とっても楽に生きている人のことです。人間としての理想とする人格を備えた人。だから本堂に祀って、一生懸命私たちもそうなれるように努力する、そうした場所がお寺ですね。ですから、國分寺というのはその国の人たちがみんなそうした理想的な生き方が出来るように、幸せに暮らせるようにと願って作られたお寺だったのです。

皆さんの家にもお寺がありますね。仏壇です。仏壇は皆さんの家の仏様、ブッダを祀った場所です。皆さんも理想の人になれるように頑張って生きて欲しいし、何かあったら、仏壇の前に行って手を合わせて静かにしてると気持ちがスッと安らぎます。やってみて下さい。

長くなりましたが、この辺にしたいと思います。國分寺お参り下さってどうもありがとうございました。また近くに来たときにはお訪ね下さい。



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コメント (3)
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