住職のひとりごと

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住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約①

2024年05月30日 19時52分10秒 | 仏教に関する様々なお話
『佛教大要約』 要約  釋雲照著 明治二十二年九月 哲学書院発行 四六判一五八頁




まずこの著作の動機について記す。各宗の著書は皆専門用語多く判読しがたく、また仏教の一部一班に過ぎない。そこで通俗平易の言句にてその綱領大体を示す。目指すべきは小乗の三法印、大乗で言えば実相印となり、発心修行して、涅槃寂静に到るのを大意とする。そこで、第一真理、第二発心、第三修行、第四証果と章立てして、仏道としての仏教を概説する。

第一章 真理
 第一節 三法印
三法印とは仏教の標示であり、ここでは小乗の人が無上の真理とするものである。三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つであり、小乗に六宗二十部あれどもいずれも三法印を離れたものはない。

諸行無常について、行とは遷流の意であり、一切の現象が遷流転変して留まらないことを諸行無常という。森羅万象も、我が一念も、生住異滅の四相ありて須臾も留まらず。無常の真理疑うことなく、我が仏教は実にこの真理を認めて悟道の本源とする。

次に諸法無我について、法とは軌持の意であり、原因結果の軌則によって生滅する万物に、常一主宰たる我は存在しないことを諸法無我という。この無我を説かないものは真正の仏教にあらず。人も霊魂なるものあって過去から現在未来に逝くのではなく、過去世の業因と現世の業因により死後未来世を受けるのであって、その一生の心身も生滅を瞬時に相続していくが、それも過去の業と因縁によって生じるのでありそこに我はなく、それを無我の真理という。

大智度論に説く、生死流転する一切の衆生は、ただ因果あるのみであり、三界六道に流転するのも因果なければ存在せず。別に実体があって相続するのではなく、因果の連鎖あるのみであり、業と因縁により五蘊が仮に和合して、みな異なる生を受け迷悟あり、貴賤尊卑あり、好醜男女あり、苦楽あるのである。

最後に涅槃寂静とは、涅槃は梵語で滅度の意であり、三界六道の流転を離れて生死の苦界を離れて寂静安楽になることを意味する。寂静なる涅槃に二種あり、証果を得た後に生存し心身あるが故に過去の業力によって感受する身体を余しているのを有餘依涅槃といい、寿命終えてすべての三界の果報を解脱したので無有餘依涅槃という。これは声聞縁覚菩薩の極果であり、一切凡夫外道の知ることの出来ない境界である。
 
 第二節 実相印 
大乗においては、諸法は実相なりと説くのが究極の玄理である。その大略を第一実相の義理、第二有空平等大小乗不二の理、第三実相の解瑜、をもって述べる。

第一、実相の義理 小乗の真理である三法印は因縁因果の理であり、それはもとより自性なきものなので空とも言い替えることができる。されど、そこには色もなく香もなく生滅去来を離れて一切の作用なきものであるのでこれを但空という。大乗においては、諸法は空と雖も諸法の真相実体を尽くせるものではなく、空も有も二者平等にして二相あらず、これを実相という。

第二、有空平等大小乗不二の理 大乗小乗の不同、三法印実相印の区別は知見の浅深を表すのみであり、大小二乗に二趣あるわけでは無く、小乗に説く但空は諸法の実相を尽くすものではないが、中道絶対の妙体である虚空においては大小一体同一実相と知るべきである。

第三、実相の解瑜 諸法実相の妙理は仏教の至極の説であり、言葉で説き尽くすことはできないが、読者が進んで研究せられることを希望する。宇宙一切の現象は自心の実相であり、諸法の実相は、取著すべきものがないので空といい 縁に応じて顕現するので仮といい、諸法はこの空と仮の二相を具するので中というが、この三諦を示して読者の考察の便とする。

第二章 発心 
第一章にて真理を探究した。この真理を体し、その真理の境界に自ら到ることを欲して、且つ一切衆生にも同様に仏果を得させようとすることを発心という。ないし発菩提心という。菩提とは一実相の真理を悟り得た智慧をいう。

 第一節 世間心 
地獄道の発心から天道の発心九種の発心を説く。これらの発心は我執名利の心を離れておらず、たとえ仏道に入り修行しても、我見すら断ずることができない。されど、全く発心無きことに比すれば勝れたところあると言えようが、仏者はこれらの発心を捨て、真正なる発心を選ぶべきである。

 第二節 出世間心
第一、二乗の発菩提心 二乗とは声聞乗と縁覚乗であり、声聞の発菩提心とは、四諦の真理を観じて発心修行することである。縁覚の発菩提心とは、生滅無常の理、ことに十二因縁を観じて生死の解脱、煩悩の断滅する所以を覚り、発心修行することである。されど、この二乗の人は、三法印を証得せんがために発心する者であり、みだりに生死を厭い、涅槃を悦ぶが為に自らの解脱安楽を求めるのみで一切衆生を利益することなく、究竟無上の発心とは言えない。

第二、菩薩の発菩提心 菩薩に小乗菩薩と大乗菩薩があり、小乗菩薩の発心は、四諦の真理を証して足れりとせずに慈悲憐愍の心から、四諦を縁とする四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無辺誓願学・無上菩提誓願成)を起こし一切衆生に四諦の真理に安住させんとするが自らの涅槃を期として入滅のあとは教化することが無い。これに比して、大乗菩薩の発心は、諸法実相の真理を観じて自心と仏と衆生と三無差別なることを観じ、上に菩提を求め下は衆生を教化せんと、大悲心から未来永劫四弘誓願止むことがない。
  
 第三節 大悲心
大悲心に三種あり、一に衆生縁の慈悲、二に法縁の慈悲、三に無縁の慈悲。

第一、衆生縁の慈悲 我ら人類相助け相支え合う関係にあり広くあらゆる所作が世界に影響する。さらに三世因果にて再生することを信ずれば一切の男女過去世における我が父母なり。この故に深く恩愛の心を起こし慈悲憐愍により四弘誓願を起こすのを衆生縁の慈悲という。

第二、法縁の慈悲 我が身は、地水火風の四大、色受想行識の五蘊、六十有余の元素により組成されたるのであるから、天地万物、、一切衆生と同一体である。このように思惟して同体との観点から大悲心を起こすのを法縁の慈悲という。

第三、無縁の慈悲 心、仏、衆生の体性相用は本来平等無差別であり、自心の外に衆生なく、衆生の外に諸仏なしと自他平等の真理に達したならば、自他の差別が無くなり、大悲の心が自然と起こる。これを無縁の慈悲という。

衆生縁と法縁の慈悲は大小乗に通じて発起するが、無縁の慈悲は真如実相の理を体観する大乗の菩薩のみ発起する。

 第四節 三界皆苦の論
最勝の発心を起こすべきであると述べても、その道理は極めて深妙であるので、さらに三界六道の相はみな苦である所以を示して、真実に起こすべき発心が世間の発心ではなく菩薩の発心であることを明示する。我が仏教において、世界の苦相を大別して、苦と不浄と無常と無我の四相とする。

第一、苦 苦に三苦と八苦とがある。まず三苦とは、苦苦と壊苦と行苦なり。苦苦とは、三界の衆生に皆無常の苦あり、寒暑、飢渇、貧病の苦にして、苦中の苦であるから苦苦という。壊苦とは、快楽が尽きたときに感じる苦悩を壊苦という。行苦とは、この身体も世界のものも常住ではなく、すべて移り変わって安心できる時のない無常により起こる苦のことであり、これを行苦という。

八苦とは、生老病死と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の八つなり。生苦とは、母胎に託生してから出生する間の苦。老苦とは、生有るもの必ず老す、心身弱り、耳目昏昧、下肢自在ならず、これらの苦なり。病苦とは、生ある以上かならず多少長短の疾病を逃れざる苦。死苦とは、死とは決して快楽にならず、苦である。愛別離苦とは、親愛なる父兄、妻子、朋友と共に常に住することは叶わず、いずれ離別に到る苦をいう。怨憎会苦とは、好まざる者と事を共にし、怨憎する者と共に住ぜざるを得ない苦をいう。求不得苦とは、求めて得られない苦しみのことで、誰にでもあり、この苦を逃れられる者はいない。五盛陰苦とは、心身に常に纏われる苦痛のことで、身の危険、地位や生活上の不安など常に安心できない苦をいう。人はかくして常に苦痛を知覚しつつある存在であると言えよう。

第二、不浄 不浄に生処、種子、相、性、究竟の五種あり。生処不浄とは、人の出生する母胎産道の不浄のこと。種子不浄とは、結生せる父母の精気のこと。相不浄とは、人の身体に合成する髪爪歯皮膚血内臓など三十六の不浄物のこと。性不浄とは、不浄なるところ、不浄なる種子、不浄の相を具える者にしてもとよりその性不浄なること。究竟不浄とは、現世の業報尽き、死して埋葬されるや皮肉腐乱し、悪臭出て骨朽ちることをいう。以上我が身体は不浄不潔なり。

第三、無常 第四、無我 前章に述べた様に、この世において快楽を求め、利益安楽を求めても、無常無我なるが故に、ついには苦痛を受ける。我が身体は四方に苦痛の逼迫を受けつつある存在にすぎない。故に、三界皆苦なることを悟り、自心に菩提涅槃の常楽を求め、衆生の恩に報いるにその苦を抜くことを誓願して菩提心を起こす、これを上求菩提、下化衆生という。これは大乗菩薩の発菩提心であり、この二利の善行を成満すべきである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『十善戒略解総論』要旨

2024年05月27日 11時34分18秒 | 仏教に関する様々なお話
十善戒略解総論 要旨 明治十九年一月 釋雲照著述 長木栄治郎出版



十善戒法は、一切世間出世間の善法の本源であり、積善の家に餘慶ありと言われるように、吉凶殃慶一つとして因なくして果はない。いまこの身が壮健で長寿であるのは前世で不殺生戒を護った餘慶であり、衣食住俸禄あって安楽なのは不偸盗戒の餘慶であり、男女仲良く子孫あり家門繁栄するのは不邪淫戒の餘慶である。

教養や慣習が家に備わるのは不妄語戒の餘慶、穏やかに控えめな徳により周りに重んぜられるは不綺語戒の餘慶、家族仲良く老いて子孫に孝心あるのは不悪口戒の餘慶、家族親族近隣と仲睦まじきは不両舌戒の餘慶である。家に財あり山海の実りあり融通するは不貪欲戒の餘慶、身体健全で顔端正にして周りから侮られず慕われるのは不瞋恚戒の餘慶、神々の守護あり心に憂いなきは不邪見戒の餘慶である。

逆に、殺生する者は、寿命短く、恐怖多く、恨まれ仇多く、死後悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に逝く、人に生まれても短命多病となる。偸盗する者は、財産を失い、法により裁かれ、心に常に恐怖あり、死後悪趣に逝く、人に生まれても他に使役され貧しく衣食に困窮する。邪淫する者は、家に和みなく、法に裁かれ、自分を欺き人を畏れる、死後悪趣に逝く、人に生まれても意に随う伴侶は得られず、針の筵に置かれる。

妄語、綺語、悪口、両舌する者は、怨み憎まれること多く、自分を欺き信用なく、しばしば禍に遭い、死後悪趣に生まれる、人に生まれても言葉不自由となる。このように一度なされた善悪の行いは、その業消えることなく、その報い必ずあることを知り、一切の苦楽はみな自分の心から生じるものであるので、善人君子の楽しむべきなのはこの応報の原理なのである。

このような善き戒が身にあるときは、自ずから悪事が遠ざかることは、人に元気が充満しているときには病いに侵されないようなものである。不殺生戒が身にあるときは、たとえ怨みもち生き物を殺害する悪賊や毒虫に遇っても、慈悲心をもってこれに対峙するので自然に遠ざかっていく。不偸盗戒が身にあるときは、金銀財宝を前にしても不要な欲を起こすことなく、放火や盗賊、暴漢が自然に遠ざかっていく。不邪淫戒が身にあるときは、余所の男女に愛着を生ずることなく、隙をうかがったり示しあわせるなどの毒害は寄りつかない。

不妄語戒が身にあるときは、欺いたり心乱れ偽証したり贋の書類を作ったりという悪心は寄りつかない。不綺語戒が身にあるときは、言葉飾ることなく、軽口を言ったり、戯れを言うような迷い患いが寄りつかない。不悪口戒が身にあるときは、言葉柔らかに、罵詈雑言を吐くような悪心が寄りつかない。不両舌戒が身にあるときは、言葉に誠実さが表れ、他者と仲違いをしたり関係を悪くしたり他者を悪く言ったりお世辞を言ったりという悪心が遠ざかる。

不貪欲戒が身にあるときは、足ることを知るがために、欲張り貪り他の盛んなるを羨んだり名利を求めるような悪心が寄りつかない。不瞋恚戒が身にあるときは、身が慈悲そのものとなるので、眉をひそめたり眉間に皺を作ることもなく、憂い悩み嫉妬を起こす悪心が遠ざかる。不邪見戒が身にあるときは、人を見ても自然を見ても因果応報の姿を知るので、邪なものに心惑うことなく、聖なる者を軽蔑し賢者をそしり神を侮り仏菩薩を誹謗するような悪心は決して起こらない。

ときに、この世で戒に則った生活は難しいことであって、通常の人のなせることではないと言う人がある。これに答えるに、例えば殺生をしようとするには、自分の手足を使って、道具を揃え相手の隙をうかがい策を施さねばならず、難義を窮めることであり、不殺生戒を護ることの方がよっぽどなしやすいことであり、実は十悪こそなしがたいものなのである。

また、現世の苦楽は既に前世の善悪業によって決まっているのに、この世で善をなしても利益無しと言う者があるとか。これに答えるに、前世の善悪業に二種、決定業と不定業とがある。善悪の業に強弱重軽があり、その強く重い業はその報いを受ける時には、苦楽の軽重長短が厳然と決定されているとされる。これに対し、不定業はそれが未だ定まらない業のことで、この世で善を行うときには善き縁を催して前世の善業により善き結果をもたらす。また悪をなせるときには、悪縁が増上して前世の悪業が悪い結果をもたらす。これは前世までに蓄えた善悪業が弱く現世の善悪の助縁に引かれてもたらされるものなので、悪をなさず善を行う事によって、悪縁を避け善縁を常に生じ善業が報い結果するように生きるべきなのである。

また、仏法は世間の実情に合わず奇怪で役に立たない荒唐無稽のものだと言う人あり。これに答えるに、きれいな鏡がその姿をそのままに映し出すように、この善悪業をもたらす善悪の行為も一度なすならば、その行いと心のなした軽重によって、必ずこの世でか、来世ないし未来世にてその報いを受けるものであって、僅かでも道徳心ある者は、この因果応報の理を常に忘れることなく、重んじるべきである。誰もが、眼前の小利に惑うことなく、十善戒を守護して善なる大利益に浴すべきである。

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自覚して行うこと

2024年05月21日 17時52分12秒 | 仏教に関する様々なお話
自覚して行うこと--今日の護摩供後の法話に加筆して



今日も沢山のお参りをいただきありがとうございます。いま、3月31日の御開帳のお二人の先生による記念講話の文字起こしをして、寺報に掲載する原稿を作っているところです。

ところで、その保坂先生のお話の中で、沢山の人がお寺に寄り集まり、行事をしてお寺を盛り上げて、次の世代にも繋げていくことは、皆さん自身の仏道修行であり、そのことの意味を自覚して行うことが大切だとの指摘がありました。さらにそれは、安心の徳を積むことであり、悟りへの道であり、幸福への道であるとも。

またその講話の冒頭には、私たちは普通、仏教という言葉を使っているわけですが、この言葉自体が古い言葉ではなく、明治二十年代ころに定着した言葉であって、仏教と言ってしまうと、その時点でキリスト教のような絶対的な存在に対する信仰と教義や儀礼、教団という意味づけになってしまうのとの指摘もありました。それまでは、仏道、仏法という言葉が使われていたのであり、信仰そのものというよりも、より大きなウェートで行為実践、修行を内包するものであり、日々の仏事、仏道修行を意味する内容であったというご指摘もありました。

今日もこうして沢山の皆様がお護摩に集まり小一時間もの間お藥師さんを拝み、心経を唱え真言を唱えて下さいました。このこと自体が信仰のもとになされた、立派なご修行であり、さらに中にはこの日のために沢山の写経まで書いてお持ち下さっています。それは何か願い事のためであったり、また、心の安らぎのために、ありがたい御利益のためにと色々な目的でなされたものと思いますが、なぜ写経をするのか、保坂先生が言われるように、その意味をきちんと自覚して行うということも大切なのではないかと思います。

写経や読経は、やはりそれは善いことであると漠然と思うわけですが、それは読んだり書き写す内容がお経であり、仏の説法であり、それは弟子たちの悟りの修行に役立てるためのものであり、だからこそありがたいものと言えます。読経し書写することでその内容まで十分に理解できずとも、功徳は甚大ですが、やはり教えを理解することも必要でしょう。仏教は学ぶべき教えとも言われていますから。

そして、こうして毎月お護摩にお参り下さり、仏道修行を既にしている皆さんは、そのことの自覚はないのですが、仏教徒と言えるでしょう。仏教徒とは、三宝に帰依する人のことです。仏法僧に帰依したならば、仏という存在を最高の理想として生きることになります。だから礼拝されるのです。理想に近づいていく、そういう行為として修行が位置づけられるわけですから、皆さんがなされている経を唱え、書写する行為もその一端と見做されるのではないかと思います。

そう考えますと、つまりは読経し写経する皆さんは、意識するしないにかかわらず仏道修行をして、功徳を積み、仏教徒の最高の理想に向けて前進するためにそれを行っているということになるのです。最高の理想である悟りを得るまでには何度も生まれ変わり功徳を積んで心を清浄にする必要もあるでしょう。ですが、そうして一歩でも半歩でも前に進んでいくために功徳を積むための仏道を行じているのです。  

そう理解されて、それを自覚されてなされていくと、より安心した毎日、揺るぎない確信のもとに日々を淡々と生きることになります。ご自分のなされていることの意味をもっと深く自覚されて、さらにさらに精進して下されたらありがたいことと存じます。



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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)

2024年05月05日 12時12分22秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (6)




よって律の偈にも、「たとえ百劫という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。

律蔵の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。

それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随いついていくものはありません。

大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨って死者のいく黄泉に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。

この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。

もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。  了


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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (5)

2024年05月03日 07時52分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (5)





十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事

今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。

どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。

世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。

今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。

よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。

もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。

さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔と言うのです。

例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。

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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (4)

2024年05月01日 17時08分23秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (4)




十善を行じて四恩に報いるべき事

私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。

そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。

さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。

このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。


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