住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

わかりやすい仏教史④ー密教とインド仏教の終焉2

2007年06月29日 08時41分36秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
密教思想の特徴

密教とは、これまでのすべての仏教を集約したものと言うことが出来ます。

つまり、初期の仏教からは基礎的教理や戒律、大乗仏教からは諸仏諸菩薩への信仰や空の思想、如来蔵思想、唯識説など、これらすべてを吸収し、そしてまた、インド古来の儀礼呪術などを方便として取り入れ、それら仏教の諸教理を様々な修法や儀礼の中に映し込んだものが密教なのだと言えます。

密教の特徴は、その象徴性、神秘性、儀礼性にあると言われます。それらが儀式や儀礼、供養法として一つに溶け合っていると言うことができます。

曼荼羅は諸仏諸菩薩をはじめ、多くの明王や諸天といったヒンドゥーの神々をも配して、さとりの世界を象徴的に表現したものであります。しかし、それは単に眺めるものとして描かれたのではなく、瞑想しその曼荼羅を細部にわたり観想して心の浄化をはかり、曼荼羅の諸尊と行ずる人自らが、神秘的な合一を果たすものとして作られたものです。そして、その曼荼羅世界の中にあって、様々な供養や祈願をなす儀礼として、現実の世界に提示されるのです。

また、純粋な密教経典は、大日如来が経典の教主として登場しています。それまでのお釈迦様が説法する大乗経典などのスタイルとは大きな違いがあります。

お釈迦様は私たちと同じ人間の目線で、ものや心の観察を経てさとりへいたる法を説かれました。しかし、密教では、宇宙の大きな命である大日如来が、さとりの心で捉えた世界観を示し、宇宙の真理にいたる実践法を説いています。

そこでは、この世に存在するあらゆるものは大日如来の身体的な活動のあらわれであり、あらゆる音や声は如来の言語的働き、すべての心の動きはことごとく如来の心的な活動であるとしています。

私たち人間の身体、口、心によるあらゆる活動も、本来的にみれば仏の活動に他ならないと考えます。そして、誰もが成仏する可能性があるとする如来蔵思想を超えて、自身がそのまま仏であることを自覚することが求められるのです。そのことを即身成仏と言い、大乗仏教では無限の時間を要するとした成仏が、密教では速疾に可能であるとするのです。

その秘訣として、仏のこころや誓願を象徴的に表す印相を手に結ぶ身密、真言を唱える口密、仏の世界を観想する意密、これら身口意の三密が説かれます。そして、それらを同時に行じて三昧に入ることによって、人間の身口意の活動が、本来、仏のそれであることに気づくことが出来るとしています。

また、すべてのものが大日如来のあらわれであることから、何ものも否定されることなく、現実の世界に存在するものすべてに価値があるとするのです。そのため、たとえさとりのためには滅することが主張されてきた煩悩さえも、より大きな欲、一切衆生救済の欲へと昇華されるべきであると説かれるのです。

後期の密教 

ヴァルダナ朝のハルシャ王の後、群雄割拠の時代を経て、中インドには八世紀のはじめにパーラ王朝が興り、王たちはいずれも熱心な仏教徒であり、仏教、特に密教を支援しました。そのため、中インド、東インドでは密教が盛んとなり、他の地域では次第に仏教が消滅する中で、最後まで仏教が存続することになりました。

八世紀の後半には、「秘密集会タントラ」が成立して、下層階級を対象とした宗教運動が起こりました。タントラとは、経が思想面を主に説くのに対し、実践面を説く聖典のことです。

この「秘密集会タントラ」は貪欲からさとりを求める道を示したものであり、前世における死と、死と誕生の中間としての中有、それに父母の交接と中有の識とによる誕生の過程を、仏の出生として観想する修法が説かれました。

さらに九世紀中葉以後、ヒンドゥー教の影響から、行者の呼吸や生理作用を利用して真理の世界に融合していくヨーガの行法を説く「ヘーヴァジュラタントラ」など左道密教が盛んになりました。

後期密教の最後に登場する「カーラチャクラタントラ」は、後期密教を総合する立場に立ち、梵天やシヴァ、ヴィシュヌなどヒンドゥー教の神が仏陀の協力者として説かれ、ヒンドゥー教との融和協調的教理が示されました。これは、十一世紀に入り頻発するイスラム教徒の侵略に対抗し、ヒンドゥー教諸派に呼びかけて大同団結して勝利することを主眼に説かれたものでありました。

密教の伝播

七世紀中葉以降、主流となっていった密教は、インド周辺の多くの地域に伝播していきました。

シルクロードを通り多くの他の経典と共に中国へ伝えられ、大日経、金剛頂経までの密教が行われ、後に我が国にも、もたらされることとなりました。

七世紀に仏教が入ったチベットでは、八世紀後半にパドマサンバヴァによって密教が伝えられました。十一世紀には、パーラ王朝によって創建されたヴィクラマシラー大寺の学頭アティーシャがチベットに入り、大乗の諸教理や戒律を重視して、それらを学び終えた上で密教を学ぶ体系を確立したと言われています。特に後期密教が行われ、今日に至っています。

また、既に仏教が伝わり上座仏教が定着していたスリランカでも、八~十世紀の間密教が有力であったといいます。さらには、インドネシアのボロブドゥールの遺跡に立体曼荼羅を残すように、東南アジア各地にも密教が海路で伝播されていきました。

インド仏教の終焉

グプタ朝、パーラ朝などの庇護を受け、ベンガル地方などには堅牢な障壁を持つ巨大な仏教寺院が建設されました。

これに対し、ヒンドゥー教は民衆の生活にとけ込み、村々に小さなお堂がある程度で教団組織らしきものも整ってはいませんでした。

それが故に、イスラム教徒から城郭と見なされた仏教寺院が集中的に攻撃を受けることになりました。また、黄衣を着て鉢と杖をもって整然と乞食するお坊さんたちの隊列は、軍隊のごとく思われて、多くのお坊さんが殺され、財産も強奪されました。

そして、一二〇三年、当時の仏教の中心的拠点で、一〇七もの塔頭を持つヴィクラマシラー大寺がイスラム軍により徹底的に破壊され、またナーランダーなど他の仏教寺院も同じ運命を辿りました。これをもって、多くの研究者はインド仏教の法灯がついえたとしています。

その後インド中央部では、若干のお坊さんが残るのみで、仏教徒たちは、チベットやネパール、東ベンガル地方ミャンマー国境へと避難し、仏教徒として細々と仏教を継承していくことになりました。(つづく)

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『千の風になって』再考

2007年06月25日 09時32分18秒 | 様々な出来事について
朝日新聞6月20日朝刊に、「千の風なぜヒット」と題する記事が掲載された。テノール歌手秋川雅史さんが歌うCD『千の風になって』が売れ続け100万枚に達する勢いだという。亡くなった人が残してきた遺族に向かって語りかける内容の歌詞が、身近な親族を亡くした人々を癒す曲として、また40から60代の人々にとっては身近なテーマが歌われた曲として関心が注がれている。

このブログでも既に触れた内容ではあるが、今一度、その後の展開について一言しておきたい。まず、亡くなった人が風になったり、光や雪、鳥や星に形をかえて遺族のそばにいると語る歌詞に万物に精霊が宿るというアニミズムを想起させ、あたかも、この曲を支持する人々がそうした宗教観を併せ持ち、または求めていると考える人もあるという。

しかし、この曲はそこまでの信仰を説くものであろうか。私は、そこまでの宗教観を要するものとしてではなく、急に死に至った故人を悼む遺族に、亡くなった人になり代わって、すぐそばにいると思って早く元気を取り戻して欲しい、自分がいなくなっても変わらずにいて欲しいという願いを素直に表現したものと受け取ったらいいのではないかと思う。だからこそお墓で泣かないで欲しい、泣いて欲しくないと告げる。

そして、死者がお墓にはいない、眠っていない、死んでいないとも歌詞にある。このあたりのことを朝日新聞でも取り上げ、「日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると違和感を表明する仏教者もいる」と記す。はたして日本人が共有してきた仏教的死生観とはいかなるものなのだろうか。

日蓮宗現代宗教研究所主任伊藤立教師の言葉として「成仏や浄土があることで安心して臨終を迎えられ、残された人も葬儀や回向という儀礼を通じて死者と向き合えるのが仏教だ」としている。本当だろうか。成仏とは何か。浄土とは何か。と、突き詰めて考えるならば、それはそんなに簡単なことではないことが知られよう。

つまり、死んだら成仏できる。死んだら浄土に行けると簡単に安易に人の生死を語り済ませてきた日本仏教に対する信頼が今の現代人にはないということを、この曲に対する多くの人々の支持は意味しているのではないか。戒定慧の三学に基づく実践を僧侶もないがしろにしている日本仏教を信じていないということなのではないか。

そんなに簡単に成仏できるのなら、なぜお釈迦様ほどの機根のある方が6年間もの苦行を行わねばならなかったのか。死んで即身成仏できるなら、どうして弘法大師は何度も求聞持法をなされたのか。念仏したら死後浄土にいけるのであれば、なぜあれほどまでに浄土教のお祖師方は自己内省を繰り返したのであろうか。

成仏する、浄土に行くのはそんなに簡単なことではない。日本で死して「成仏しました」と言うのはただ「亡くなった」ということを意味するにすぎない。仏教の教えも学ぶことなく実践もせずに、「亡くなれば引導を渡します、そうすれば仏の世界に行けます」と言ってしまう、誠に安易な日本仏教の法の説き方を支持しないということではないか。

また、浄土教では浄土に往生したその後については触れることがない。たとえ仏国土に往生したとしても、それで終わりではないということをきちんと説くべきではないのか。元々の仏教という教えとの整合性を付ける意味でも日本仏教のあり方が問われねばならない。日本仏教だけ特別ではあり得ない。世界の仏教徒の常識を受け入れないあり方、そのものが問われているのではないか。

「亡くなっても生きていて欲しいという千の風に表れる気持ちは、未練がどこまでも残ってしまうように感じる」ともある。『千の風になって』が、あたかも死者にすがる気持ちをいつまでも起こさせるとの心配をされているようだ。しかし、この曲で癒される人々は、ある程度の期間を経て、今をしっかり生きようという心の転換を果たしていかれているようだ。何時までも死者に未練が残るのではない。

打ちひしがれ、精神的に大きな痛手を負った人たちを励まし、勇気づける元気づける曲としてこの『千の風になって』を受け取ったらいいのではないか。しかし、だからといって、その歌詞にある内容は、決して仏教的に不具合のあるものではない。

死者の心がお墓にないのは当然のことであって、死後寿命を終えた身体を脱ぎ捨て49日間は私たちと同じこの三次元の空間におられるのだから、風になったり、雪になったり、光になったと思って身近に死者の心を感じる期間を経て、輪廻転生して再生を果たせば、死んでなんかいませんという歌詞に繋がっていくのである。

だから私は、この『千の風になって』は、誠に良い内容の曲であり、寂しさを感じるものでもないし、現代の私たちに意味あるメッセージを伝える曲であると思っている。

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煩悩即菩提ということ

2007年06月22日 17時38分56秒 | 仏教に関する様々なお話
ここ備後國分寺に来て、はやいもので、今年で8年になる。そして、こちらに来て初めてするようになったことに草取りがある。境内に生えてくる雑草。築地塀際の夏草。参道脇の背の高い草。さまざま取り方を変えている。来た頃には日に2時間は草取りをしていた。毎日。それしかすることがなかったのである。だが、今では週に2時間も草取りをしているだろうか、疑問である。

ところで、雑草はないがいいに決まっていると誰でも思う。が、無ければ無いで困るものでもある。それこそ草取りという神聖な仕事が無くなってしまう。それに、何よりも草が生えないということは、不毛の土地ということにもなるであろう。つまり作物も実らないということになる。

昔ある坊さんに聞いた話だが、砂漠に作物を実らせる仕事をしている人がいて、砂漠に何か作ろうとしたら、まず雑草のような植物を植えるのだそうだ。そうしてだんだんと大きなものを植えていき、それから草ものの作物、実の成るもの、根菜類、果物となるのだそうだ。だから、雑草が生えているということは、まず生物にとって命がある証拠になるということであろうか。

ところで話変わるが、仏教では、いやそうではなくて、大乗仏教、それも中国で主張されるようになった思想に「草木成仏」がある。草木も仏だというのである。全世界は衆生の心が造りだしたものだから衆生が成仏するなら、その対象である草木も成仏するのだとか、仏の絶対的な立場から見ると全世界は平等に真理そのものだから、衆生も草木も区別なく成仏するなどと言われる。

ここで、だから雑草も仏なのだから尊いのだ、などと言いたいのではない。その議論が日本に来て更に発展して、平安中期あたりから近世にかけて、盛んにこの私たちが目にする現象世界そのものが悟りの世界なのだとすべてを肯定する思想に変形していってしまうのだ。そうして「煩悩即菩提」などという言葉も一人歩きしていく。

勿論それは、悟りを得た者から発せられた言葉としてもともとはあったようではあるが、それが、日本仏教が思想として展開していく中で、戒定慧の実践のもとに煩悩を滅してはじめて菩提に至る道を仏道としていたものを、安易に、凡夫の身のままでこの世を肯定し、さらにすべての衆生に仏性ありとしてこの世は悟りの世界そのものであると飛躍していく。

だから、煩悩即菩提。この身の生身におこす煩悩がそのまま悟りに通じているとされていくのである。何故にそのようなことが言えるのか、現代に生きる私たちはそれを、どのような教えとして受け取ったらよいのか。実は、この言葉は私にとって、長い間疑問の一つであった。

ここで、冒頭に述べた雑草に登場していただこう。先日、本堂脇の雑草を取っていて、はたと気がついた。煩悩とは雑草なのではないかと。だから煩悩が無くてはいけない。雑草が無くては作物が実らないように煩悩が無くては悟りがない。煩悩がある心だからこそ、感情もあり、物事を考え、善いこと悪いことも考えられる。

煩悩をかかえているのは人間だけだろうか。煩悩をかかえているからこそ、人間なのであり、善い行い、功徳ある行いもできる。だからこそ悟りを目指して自らを律していける。六道に輪廻する衆生の中で唯一、自らの行いによって悟りを得て解脱できるのは人間だけである。

「煩悩即菩提」とは、つまり、自らの行いによって解脱できる人間としての位置を表現したものとも言えようか。しかし私たちはその雑草である煩悩に取り巻かれ、煩悩に夢中になっているのではないか。

それは、雑草ばかりを大切にして作物が実っていない状態とも言える。普通雑草には誰もが見向きもせず、きれいな花を咲かせたり、作物を大きく実らせることに熱心になる。そのように、私たちの心の中の雑草をどう取り去り、どのように代わりに作物を実らせたらいいのか。

お釈迦様は、耕田バラモン・バーラドヴァージャに次のように教えられた(スッタニパータ1.4)という。「私にとっては、信仰が種であり、苦行が雨であり、智慧がくびきと鋤とである。恥じることが鋤棒であり、心が縛る縄であり、気をつけていることが鋤先と突棒である。身をつつしみ、言葉つつしみ、食べ物を節して過食しない。真実をまもることを草刈りとしている。

柔和が牛のくびきを離すことである。努力が牛であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく、そこに至れば憂えることがない。わが耕作はこのようになされ、甘露の実りをもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる(ブッダのことば・岩波文庫中村元訳より)」とこのようにお釈迦さまは自らの耕作について語られている。

無為徒食の出家僧という批難に対して、出家者としての耕作とはこのようなことを言うのであると表明されたものだ。こうしてなされた耕作の末に得られるとした「安穏の境地」とは、ニルヴァーナという涅槃・悟りと同義であり、「甘露」とは、不死という意味もあり、それは輪廻からの解脱を意味する。

私たちにとって、雑草である煩悩に心奪われることなく、信仰や修行しようとする心を持ち、自らの行いや思いに心とどめ、慚愧の念をもって身をつつしみ言葉つつしみ、柔和な心をもって間違った生き方をしない努力によって、人生の作物や果実を手に入れられるということになろうか。

それが、唯一煩悩を持つが故に人間であり、人間であるからこそ解脱できる、つまり菩提を遂げられるということを表現した「煩悩即菩提」の意味するところではないだろうか。だから、「煩悩即菩提」は、煩悩が菩提だというのではなく、つまりそのままでいいということではなく、雑草としての煩悩に気づき、やはり取るべきは取って、そこに作物をいかに実らせるか、煩悩をそのまま菩提に転じていくことが大切なのだということを教えているのであろう。

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四国遍路行記15

2007年06月20日 18時03分56秒 | 四国歩き遍路行記
丸米旅館で、久しぶりに心地よい朝を迎えた。衣を着て、脚絆を巻き、草鞋を履く。颯爽と土佐國分寺を目指して歩き出す。土佐くろしお鉄道の小さな電車の駅のわきをすり抜けて田んぼ道に出る。小川が横を流れる道沿いに北西に歩くと左奥にひとつのこんもりした森があらわれた。そこが29番札所國分寺だった。

摩尼山(まにざん)国分寺と号し、開基は行基菩薩。その後室町時代は細川頼之、戦国時代は長曽我部、そして江戸時代は山内家によって保護され、法燈は守られてきたらしい。現在の宗旨は真言宗智山派となっている。

仁王門は楼門だ。この梵鐘、ならびに境内正面の金堂はともに重要文化財。仁王門は、1655(明暦元)年に、土佐藩主山内忠義から寄進されたもの。金堂は優雅な姿の柿葺き、寄棟造りの天平様式を伝えている。兵火や火災のために一時廃寺同然になっていたが、長曽我部元親が再建したと伝えられている。

本尊は千手観音。その横手に大師堂がある。弘法大師は42歳のときに、この寺において節分に拝む星供(ほしく)の秘法を勤修したので、以来星供の道場として皇室や藩主のための星供の祈祷が明治まで続けられてきた。そのため、この大師像は星供大師とよばれるという。さすがに國分寺、境内の苔が目にまぶしい。

國分寺を出て、国道に入り、高知の街にはいる。参道に出たと思ったら、お寺の前に来ていた。30番札所善楽寺は土佐一の宮土佐神社の別当寺であった。だから山門は神社に向かって位置し、その参道の脇に善楽寺がある。

他の神宮寺同様に明治後の経営に困窮し、戦後一時他の寺に本尊を預けていた。本家争いの末に元々の札所であった善楽寺が30番札所として復活した。おそらく江戸時代には土佐神社そのものが四国遍路の札所であったのであろう。土佐神社には、鐘楼堂や放生池が現存している。本尊阿弥陀如来。

お寺を出て参道に入り山門に向かって歩く。市内に入り、高知駅前を南に下るとはりまや橋。それからお城を右手に見て、大きく遍路道を外れて、井口町にある護国寺に向かった。護国寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、前年に信玄師と「接心」という一週間の坐禅会にうかがったお寺だ。この時もその時80歳になろうかという和尚が一人庫裡に座っておられた。

歓待され、里芋を煮たとかで早速ご馳走になった。夕方には、差定どおり坐禅をして、晩には造り酒屋のご子息なので生家から送られてくる銘酒「満寿一(ますいち)」をご馳走になった。当時私の関心事であった、寺を持つということや妻帯のことなど、あれやこれやお話をさせていただいた。

和尚は妻帯もせずに過ごしては来たが、いつも心の中に大きなウェートを占めていたと言われたのを記憶している。妻帯しなさいともするなとも言われず、淡々と御自分にも葛藤が継続してあったことを話してくださった。翌朝は5時過ぎまで寝かしてくださり、朝の勤行と坐禅を一緒にさせていただいた。玄米御飯を頂戴して9時過ぎに、また歩き出す。

小高い山の上にある 31番竹林寺に向かう。入り江から見る水と松並木が美しかった。途中、五台山公園から牧野植物園に道を間違えるものの竹林寺仁王門から石段を登る。二層の仁王門をくぐると桜並木の参道が続き、さらに石段を上っていく。右手に本堂、左手に大師堂がある。聖武天皇が行基に命じて中国の五台山に似た土地を探させて寺を建てたのがはじまりという。

本堂は、単層入母屋造り、柿葺きで文明年間(1469‐86)に再建され、19体の仏像とともに国の重要文化財に指定されている。本尊は文殊菩薩。ただし本堂内は薄暗く何も見えない。残念だが、お姿を想像して理趣経を上げる。山門を後にしてなだらかな坂を下る。

32番禅師峰寺へは、入り江を渡りハウス栽培農家の間を進む。細い石段を登って、にわかに視界が開けたところに山門がある。この門の仁王は、鎌倉時代の仏師定明の作で、国の重要文化財に指定されている。境内に出ると、土佐の海や桂浜が一望できる。

境内にはさまざまな形の岩石がおかれていて、本尊は十一面観音。海上安全に霊験があるといわれ、船魂観音として漁民の信仰を集める。本堂、大師堂ともに大きなお堂ではないが、弘法大師はここを観音菩薩の浄土、補陀洛山に見立てたといわれ、それが八葉山の山号の由来といわれる。

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日本の古寺巡りシリーズ番外編「永平寺・那谷寺・竹生島参拝と山代温泉」

2007年06月16日 19時09分24秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
13日午前7時、いつものように国分寺前バス停から乗車する。この日本の古寺巡りシリーズも三回目。同行29人の参拝者を乗せて、笠岡インターから山陽道へ。今回は、特にこれまでに室生寺ないし三千院の参拝にご参加されている方々ばかり。みんな知った顔ぶればかりの和やかな雰囲気だ。

恒例の道中祈願に、般若心経とこの度参るお寺の諸堂でお勤めする仏様方の真言を唱える。そして吉備から三木までの1時間少々、今回の旅のテーマである修行ということを中心に、私のこれまでの経験上の話をさせていただいた。

まず、仏教に関心を持っただけの時期、丁度、NHKの特集番組で「シルクロード」が放映されていた。毎月欠かさず見ているうちに、テーマ曲にあわせ瞑想の真似事を始めていた。曲にひたり、砂漠を駱駝の背に乗るキャラバン隊が行く映像をイメージしながら、暫し自分だけの世界に没入していた。

そして縁あって高野山に登り真言僧となるための100日間の修行をした。日に三座、108礼の礼拝行からはじめて、十八道、金剛界、胎藏界、護摩の修行を進めていく。途中から、朝昼の二食にして、三座とも水をかぶってから行にのぞんだ。はじめ三座で6時間程度の行が、最後には、10時間程度を要し、それと別に朝夕の勤行に、伽藍や奥の院への参拝があった。

途中何度も修行中に、随分昔の過去の記憶が蘇ってきた。後悔するような出来事であったり、馬鹿にされて心傷ついたこと、世話になっていた方に御礼一つ言っていなかったこと等々。そうした様々な過去の出来事に自分が影響され、感情的に不安定な状態をそれらがもたらしていたことも知ることになった。

最後の一週間、断食をした。その前に、それまでは、全くと言っていいほど、自分自身のために仏菩薩に御願いをする祈るということをしないできたのに、なぜかこの最後にきて、一人本堂に入り、仏前で、心からの祈念を施した。「この一週間なんとかよろしく御願いします」と。

そして、断食に入り、護摩を三座焚く一週間が始まった。午前1時半に起き、3時間余り護摩を焚く。朝勤後、食事となるが自分は自室で待機。それから、また護摩を焚いた。きつかったのは、3日目くらいで後は楽になった。不思議なことに、廊下の足音を聞くと、それが誰の足音かが分かるなど遠くで行われていることがみんな分かるような感覚になった。食事を消化吸収するエネルギーはすさまじい物で、そのエネルギーがみんな精神面に向かっているように感じた。

それから、高野山では、真言宗の瞑想である阿字観を実習した。下山して、東京のお寺で役僧を勤め、その間にはヨガを習い、インドに行った。仏蹟地からリシケシに入り、そこで臨済宗の雲水さんに出会い、四国遍路と坐禅について教えられた。日本に帰り、禅寺に案内され、接心と言う一週間の座禅会に参加した。

そこでは日に10時間ほども坐禅する。足ばかりか、手の先から首まで筋がはって痛んだ。その痛みを避けるように一心に数息観をした。息の数をかぞえる坐禅法で、よどみなく伸びやかな腹式呼吸に心を集中させていく。

そうして公案なども織り交ぜて、ひらめき直観による悟りを目指すのが臨済禅で、その後参った永平寺の曹洞禅は、只管打坐と言われるようにただひたすら座ることがそのまま仏の姿であり、悟りのための坐禅ではなく、仏としての坐禅であると標榜している。そして、立ち居振る舞い、日常すべてが禅であり、仏の真似をするのだと考える。だからこそ、炊事から掃除作務を細かく規定し、やかましく躾けられる。

こんな話をしながら、福井へと入り、永平寺を参拝。雲水さんの案内で諸堂を巡り、法堂でお勤め。さすがに永平寺さんだ。諸堂を廊下づたいに歩いても足袋が全く汚れなかった。

翌日は、山代温泉から加賀の那谷寺に雨の中参拝。白山信仰と仏教が融合した神仏習合の霊場だ。花山法皇ゆかりの寺であり、また前田家祈願寺としての雄大な伽藍配置。修験者の行場奇岩遊仙境、新しい丈六の千手観音も素晴らしかった。

そして最後に竹生島弁財天に参る。午前中は長浜からの舟が欠航との報を受け緊張するが、何とか渡航できたが、帰りの舟の乗船時間が早まり慌ただしく参拝。急な石段を登り、弁財天本堂に参り心経を唱える。さすがに音楽の神、みんなの読経も声が揃いひときわ響きわたったように感じた。

宝物館では、御請来目録、覚鑁上人阿字観本尊、弘法大師諡号授与状などを拝見する。それから唐門観音堂を参り、竹生島神社本殿に参り船着き場に。みんな満足そうな笑顔でお参りを終えた。

竹生島は周りを水深100メートルという深海に囲まれた神秘の島。舟が沈めば命がない。命がけの信仰者のみを受け入れるという神の意思を表示しているかのような孤島であった。

帰りのバスの中では、黒澤明監督第30作記念映画「まあただよ」を見た。夏目漱石門下の作家内田百間とその弟子達との交流を描いた作品。弟子達が百間に長生きしてくれることを願って、摩阿陀会という誕生会を開く、成仏は「まあだかい」と弟子達が叫ぶと、百間が「まあただよ」と言い返す。戦後間もなくの占領下にあって何とも微笑ましい仲間達のやり取りに今の私たちが見失っている心の豊かさ、たくましさ、暖かさを感じさせてくれた。

亡くなる前の摩阿陀会で弟子の孫たちに百間は、「君たちの本当にしたいことを見つけてください、そのことに真剣に打ち込んでください、そうすればそれが君たちの立派な仕事になるでしょう」こんなことを言っていた。私たちは本当にしたいことすべきことをしているだろうか。いろいろと考えさせられる映画であった。

日本の古寺巡りシリーズ番外編と称して、この度は一泊二日の盛り沢山の行程であった。これまでの室生寺、三千院の参拝のようにテーマを絞った話が出来ず申し訳なく思った。最後に慈悲の瞑想についても話したが、十分な解説もできずに終わった。次回以降にまたそのあたりも一つのテーマとして大いに語ってまいりたいと思う。

私自身が今ひとつ満足のいく話が出来ない中で、この度も企画添乗いただいた倉敷観光金森氏の紡ぎ出す和やかな雰囲気によって、参加者一同はおもしろ楽しく、まことに心地よい二日にわたる旅を満喫できたと思う。心から感謝します。次回11月には西方面に向かう古寺巡りが既に話題に上っている。是非、次回もお楽しみに、沢山の皆様のご参加をお待ちしています。

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 5

2007年06月07日 08時12分14秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
竹生島参拝
  
船着き場からの石段は、まことに急な傾斜で息を切らして登る。165の石段が続く。本尊弁財天が納められた竹生島最大の建物である本堂に参る。本尊は明治維新の際、神仏の分離があって以来七十年近くの間仮安置のままとなっていたところ、これを憂いた信者滝富一郎氏の一寄進にて、昭和12年現在の本堂に造営着手、昭和17年(1942)落成した。悲願の本堂なのである。

平安時代後期様式の本堂は屋根も総桧皮葺き。昭和の大仏堂の代表作と言える。壁画はお堂正面に諸天神の図、左右天井近くには飛天の図が描かれている。これは昭和の日本画壇の重鎮であった荒井寛方(アライカンポウ)画伯 の遺作である。寛方は、若い頃タゴールのいるインドシャンティニケタンに学んでいる。

弁財天はもともとインド古代信仰の水を司る神「サラスヴァティー神」で、インドでは「水」には汚れを洗い流す力があるというところから、智恵の神、学問の神、河の美しいせせらぎから音楽や弁舌の神、河の恩恵から、豊饒至福、河の水の強さから戦闘、増福の神であった。

日本に来ると、農業の神・宇賀御魂神(うがのみたまのみこと)や宗像三女神の一つ市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と習合して、財物富貴、名誉、福寿縁結び、子孫繁栄、芸道、商売の守り神が加わって殆どの人々の願いを叶えてくれる神として、さらに七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。

『和漢三才図会』によれば、竹生島の弁天様は妙音天女と記されているから、琵琶を弾じる二臂の弁天像となる。しかしお前立ちは八臂の宇賀弁財天である。因みにその特徴は、頭の宝冠の上に鳥居を乗せその後ろにとぐろを巻いた宇賀神がおり、左手は胸の前に宝珠、その他矛(ほこ)、輪宝、弓を持ち、右手は前に剣、宝杵、鍵、矢を持ち、蓮の葉座に天衣を着ている。(秘仏のご本尊は60年に一回開帳、次回の開帳は西暦2037年)

そして、本堂を出るとその前に、五層の石の仏塔がある。地・水・火・風・空の五大をかたどったものといわれ、高さ247cm。石材は滋賀郡の山中から採れる小松石。初重塔身には四仏が彫られている。初重以上の屋根はその上層軸部と一石彫成となり、上に相輪あげたての形式は鎌倉中期の石塔の特徴を示している。

それから、三重の塔が本堂より一段上東側にある。塔は本来、お釈迦様の遺灰を納めた土饅頭型の仏舎利塔であったが、所と時代により変形した。平成12年5月、江戸時代初期に焼失したと言われている「三重塔」が、約350年ぶりに復元された。

この塔は、古来の工法に基づいて建築されていて、四本柱に32体の天部の神々を描き、また、四方の壁には真言宗の八大高祖を配している。各柱や長押にはうんげん彩色や牡丹唐草紋様が描かれており、これらの装飾は、昔ながらに岩絵の具を膠水で溶いて描いているため、耐久性に欠け剥落もしやすく、新しい色合いにて見れるのもこの新築時しかないものだと言われる。

三重の塔の前に、もちの木がある。この木は、1603年、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行の片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念にお手植えされたもの。片桐且元は豊臣秀頼の後見役で、賎ヶ岳合戦で七本槍の一人として名をあげ、秀吉のもとで検地・作業奉行として活躍した。

三重の塔の先には、宝物殿がある。竹生島は、滋賀県における文化財の一大宝庫といわれ、ここに宝厳寺に伝わる数々の寺宝を収蔵・保存・一般公開されている。「法華経序品(竹生島経)」(国宝)や、弘法大師直筆「御請来目録表」(重要文化財)をはじめ、数々の宝物が収蔵されています。

まず、「不動明王像」は県の指定文化財。悪魔を下し、仏道に導きがたいものを畏怖せしめ、煩悩を打ちくだく力をもち、菩提心の揺るがないことから不動という。仏や真言行者によく仕えることから、不動使者ともいい、猛々しい威力を示す怒りの表情を浮かべ、右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持っている。

頭に蓮の皿をのせており、この特色は天台寺院に伝わる不動明王の形で(これは中世、天台宗に属していたため)天台智証大師 円珍の作と伝えられている。密教では、真言陀羅尼(呪文)を一心に唱えると、その功力は絶大であり、いろいろな祈願がかなうという信仰があり、その功力を象徴する存在が不動明王である。もとは護摩堂の本尊で、像の主要部は、頭体を通してヒノキの一材で彫刻し、両肘から先は後補のケヤキ材製でできている。十一世紀前半の作。

「釈迦三尊像」は、温雅な作風ながら精緻に描写した、重要文化財。法華経を説く釈迦を護持するように左に文殊菩薩、右に普賢菩薩を配されている。釈迦は右手を胸前に施無畏印を結び、左手をひざ前で与願に結んで結跏趺坐しておられる。文殊菩薩は右手に三鈷の利剣を、左手に蓮枝上梵篋を執って緑青の獅子の背に乗られている。普賢菩薩は合掌して白象のせに乗られ、光背(後光)は切金細工が施されている。鎌倉時代後半期の作。

「御請来目録」は、弘法大師が唐での密教修行を終えられ帰朝された807年、平城天皇に献じた経論疏類の目録である。重要文化財。本文にあたる料紙には薄い金箔を施し、510行にわたり新訳等経142部247巻、梵字真言讃42部44巻、論疏章等32部170巻、その他の各項目をあげ、奥書に「大同元年十月二十二日入唐学法沙門空海」とあり、平安時代中期の写本。

なおこの請来目録にはその伝来を明確にさせる文書として「禅師宗光が長年保持していたが、仏法興隆衆生利益のために、竹生島神殿に南北朝時代の観応元年(1350年)に奉納した」と記す寄進状も付属してる。

「金蒔絵小塔」は、徳川家光公の寄進で、高さ63.5cmで須弥檀上に乗る。初重は一辺12.5cmで23重は亀腹を造り円筒形軸部を載せる。全面黒漆塗で、須弥檀縁・匂欄、初重柱・斗・肘木は朱漆塗、須弥檀・軒・屋根・扉などは金蒔絵が施される飾金具を多用する。初重内に仏像台座があるが 、現在、安置仏は無い。 製作:江戸初頭か桃山期か。

「国宝・法華経序品」は、弁才天に奉納された妙法華経で、平安時代後期の作。平安後期になると料紙・装濆に美をつくした経典作りがさかんに行われた。これは鳥の子紙の料紙に金銀泥で宝相華風の唐草や蝶をあしらったもの。装飾経としては日本の代表作で、竹生島経とよばれています。現在、奈良の国立博物館に寄託されている。

「宝来亀」は、江戸時代に彦根藩より、その家系が絶えず末代までも安泰でありますよう願って奉納されたもの。彦根城は正式名を金亀城(こんきじょう)とよばれ、それを現した姿は木製で亀の背中に宝珠がのせられて、全体が金箔を施されていた。宝珠は一木でできている。亀は長寿の象徴であり宝を背負った姿は子孫繁栄、国家安泰を現している。

そこから、少し下ったところに観音堂があり、その唐門は、国宝。唐門とは唐破風をもつ門の意味で、豪華絢爛といわれた桃山様式の唐門の代表的遺構。この唐門は京都の豊国廟の正門に使用されていた極楽門が移築されたもので、桧皮葺の屋根を持つ。この移築工事は慶長八年(桃山時代)、豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行としておこなわれた。

観音堂は、重文。唐門に続いて千手観世音菩薩を納めたお御堂があり、西国三十三所の第三十番の札所で、重要文化財に指定されている。このお堂は傾城地に建てられた掛造りで、参詣する仏間は2階にあたる。天井裏にも昔の絵天井の名残が見て取れる。

西国観音の札所本尊、千手千眼観世音菩薩は、衆生(しゆじよう)の声を聞き、その求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩が観世音菩薩。特にここの観世音菩薩は正式名を「千手千眼観世音菩薩」といい、各手に一眼を持つことにより少しでも多くの人を助けたいという慈悲の強さを表したお姿をしているという。

この観音様も弁財天と同様に秘仏のため、60年ごとの開帳。なお、西国三十三所観音霊場は、平安末期に始まった日本最古の霊場と言われている。

千手観世音菩薩を納めた観音堂から都久夫須麻神社に続く渡廊・舟廊下は、朝鮮出兵のおりに秀吉公のご座船として作られた日本丸の廃材を利用して作られたところから、その名がついている。これも唐門、観音堂と同時期に桃山様式で作られたもので、懸け造り。

その先に、竹生島神社本殿があり、桁行3間・梁間3間・入母屋造・檜皮葺き、周囲に庇を廻らす、1間の向拝付き、国宝。今から450年前、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移転したもの。

本殿内部は桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾があり、天井画は60枚で狩野永徳光信の作。黒漆塗りの桂長押には金蒔絵(高台寺蒔絵)が施され要所には精巧な金の金具がうたれている。

なお、竹生島最大の行事は、蓮華会と言われ、(旧来は弁才天様を新規に作造して、家でお祭りし8月15日に竹生島に奉納する行事)浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返す。

元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきた。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれる。

頭人は、出迎えの住職・役員・三人の稚児とともに、島の中腹の道場に入り休息、その後おねりの行列が出発。そして急な階段を一歩一歩踏みしめて登り弁天堂に入場する。その後、弁才天様を祭壇に安置し、荘厳な中で法要が行われる。

以上竹生島の参拝ルートに従って境内の様子を見てきた。竹生島弁財天は、古来琵琶湖に浮かぶ島としての様々な伝説の元に、そこに降臨して人々の願いを存分に叶えてくれる女神として信仰されてきた。時代に応じて、皇室や守護大名たちの関心を引かずにはおかない魅力があったのであろう。

加えてその島へは舟で渡らねばならず、さらに長い急な石段を登らねばお参りできないために、簡単に参れないことも、その神秘性を高め、よりありがたい存在として崇められる要因になったと考えられる。西国観音の札所として札所巡拝に訪れた観音信者にも弁天様は参拝される。それにより、より多くの人々に知られ、弁天様への信者が絶えない理由となっているのであろう。

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 4

2007年06月06日 08時03分19秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
竹生島弁財天

神秘とロマンの弁才天降臨の島・厳金山宝厳寺は、本尊大弁才天は日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十番札所として参拝者の姿が絶えず、御詠歌の声が響いている島だ。

私ごとで恐縮ではあるが、私は備後に来るまでは、東京の深川七福神の一つ、冬木弁天堂に堂守として住まいしていた。その弁天堂は、もとは冬木屋という江戸中期から江戸市中の大がかりな建築を引き受ける、今で言えばゼネコンとも言える大材木商冬木家の屋敷神であった。

冬木家は、尾形光琳のパトロンとしても知られるが、同じ材木商でも、大尽遊びで有名な奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門などとは違い、茶の湯を楽しむ趣味人でもあったらしい。

冬木屋自体はもう絶えてないが、その近辺を冬木町と言い町名にその名を留めている。その冬木の弁天様は、江ノ島の弁天様の分身で琵琶を持った裸弁天像だった。そこから、厳島・竹生島・江ノ島の日本三弁天について知ることになった。

当時は衰退していたが、その冬木弁天を護持する開運講の人たち、つまり材木問屋の檀那衆や辰巳芸者のお姉さん達、料亭の女将、富岡八幡の神社神輿総代方は、盛んな頃は毎年のように竹生島の弁天様を参詣していたと聞いた。そんなこともあり、何時かは私も参りたいと以来念願していたのであった。それがこの度かなうので、私にとっては十年来の念願かなっての参詣なのである。

ここから本題に戻る。竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、奈良の大仏建立に尽力する僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだという。

行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立して、千手観音像を安置した。創建時には竹生島寺と称し、東大寺に属した。伝教大師、弘法大師なども来島、修行されたと伝えられている。また皇室等の信仰を受け天皇の行幸が続き、堂塔伽藍の整備が進められた。

竹生島は「水神」としての弁才天信仰が盛んとなり天台僧が多く渡島修行し、平安期には叡山末となる。しかし、貞永元年(1232)竹生島全山焼失。3間四面の弁才天宝殿、同じく3間四面の観音堂等、坊舎30余灰燼に帰すとされる。

そのご復興を遂げるが、正中2年(1325)今度は大地震により多くの堂塔が倒壊。再興の勧進状によれば3間四面の弁才天宝殿、同じく観音堂、小島権現本地阿弥陀如来を安置する3間四面の堂、1間四面の阿弥陀堂、島主大明神の堂、小島権現堂、七所王子の宝殿各1棟計7棟、三重塔、1間四面の経蔵、七間の中門廊、5間の経所、5間の薬屋、湯屋、食堂、鐘楼などの伽藍が復興対象として挙げられている。

この復興の後、享徳3年(1454)火災・全山焼亡。永正5年(1508)には竹生島大神宮寺と号したという。天文9年(1540)には一応再復興を完了するものの、永禄元年(1558)再び火災にあい、堂舎炎上。浅井氏などの援助を受けるも復興は遅々としたものであった。竹生島は、豊臣秀吉との関係も深く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されているが、秀吉は慶長7年(1602)片桐且元を奉行として復興に当った。

その後、その遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺構である本堂(現神社本殿)観音堂や唐門などを移築させ今日の姿に復興せしめた。その移築時の時代背景としては、秀吉公亡き後に家康公により豊臣色を薄める政策がとられ、その一連の流れのなかで、豊国廟の縮小を余儀なくされた秀頼公は、その遺構を残すべく片桐且元に移築の命を与えたのであった。

慶長8年(1603)「寺領置目」では、瑠璃坊、実相坊、月定院、妙覚院など23の坊舎がある。近世初頭、延暦寺末から、新義真言長谷寺末に転ずる(現在は真言宗豊山派末)。

経済的困窮より、享保元年(1716)には9院、幕末には4院に減じたという。「中世以降、弁才天信仰が隆盛になるに及んで、浅井姫命の神格は弁才天の中に吸収・融合せしめられ、竹生島は仏教一色の霊場となり、古来の社名や祭神はほとんど忘れられていた」といわれる。

従って明治初頭の竹生島には勿論神職は存在せず、妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみであった。明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、宝厳寺を廃寺とし神社に改めよという命令が下った。

しかしながら、全国数多くの信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなった。それが現在の竹生島神社の本殿である。そして、そこで常行院覚潮が復飾して神職(現在の生島家)となり、弁才天は宝殿を出て一時観音堂に移座、弁才天社は都久夫須麻神社(竹生島神社)と改称された。

しかし、ご神体が無いため、適当に宝厳寺宝物中より2点を選び、ご神体としたと言われる。その後明治中期まで、蓮華会の執行権の帰属、弁財天像・観音堂敷地の移管を巡り、宝厳寺と神社は対立するが、結局は実体のない神社側には移管はされず。以来、本堂のないままに仮安置の大弁才天であったが、昭和17年、現在の本堂が再建された。つづく

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 3

2007年06月04日 10時43分12秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
那谷寺(なたでら)

那谷寺は、奈良時代、泰澄法師によって開かれた、美しい岩山と四季の草花に囲まれた、高野山真言宗別格本山である。高野山真言宗寺院が3500ヶ寺ある中で、別格本山は57ヶ寺だけ。高野山山内の別格本山を除くと、30か寺。奈良の大安寺や岡山の西大寺、京都神護寺などがある。

那谷寺は五木寛之著「百寺巡礼」にも掲載され、境内を散策すると、松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句碑があり、秋には紅葉が色彩やかに庭園一杯に広がる。また、初詣や七五三、百日参り、各種供養などの場所としても親しまれている。

境内に足を踏み入れると、「奇岩遊仙境」の美しい姿に圧倒され、四季の草花が色彩やかに咲き誇る「庭園」に時を忘れ佇む人も多い。松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句「石山の 石より白し 秋の風」が句碑として現存し、近年復元造園された『瑠美園』は深山幽谷の感がある。

歴史

那谷寺を抱くようにしてそびえる白山は往古の昔、その気高い山容から、 清らかで優麗な女神の住む山として神聖視され、信仰の対象となっていたと言われている。奈良時代の初め、「越の大徳(たいとこ)」とよばれ、多くの人々の崇敬を集めた名僧・泰澄法師が、白山に登り、白山の神が十一面観音と同じ神であることを感得した。

そして、養老元年(717年)霊夢に現れた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置。法師は「自生山 岩屋寺」と名付け、寺は法師を慕う人々や白山修験者たちによって栄えた。これが那谷寺開創の由来であるという。

平安時代中期の寛和2年(986年)花山法皇が行幸された折、岩窟内で光り輝く観音三十三身の姿を感じられ、法皇は「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」と曰われたと言われる。そして、西国三十三カ所の第1番・那智山の「那」と、第33番・谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と改め、自ら中興の祖となられた。

花山法皇とは冷泉天皇の第一皇子で65代天皇。17歳で即位されましたが、最愛の女御の逝去を悲しむあまり、藤原兼家の謀略にかかって在位2年で退位、出家し各地を巡礼されたのであった。

中世に入って南北朝時代には、足利尊氏側の軍勢が寺を摂取して城塞とし、新田義貞側がこれを陥れ、一山堂宇ことごとく灰燼に帰した。また、一向一揆中に改宗して一向宗に近づく僧や信者が続出、次第に勢力を弱めた。中世は那谷寺にとって苦難の時代であったと言うが、一部の修験者たちは命懸けで寺を護持、観音信仰と白山修験を捨てることはなかった。

江戸時代になると、境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主・前田利常公が寛永17年(1640年)後水尾院の命を受け、名工・山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせた。書院は最も早く完成し、利常公自らがここに住まわれ、山上善右衛門らを指揮したといわれている。

江戸時代にはまた俳聖・松尾芭蕉が来訪し、「奥の細道」道中の元禄2年(1689年)7月、門人・曾良とともに山中温泉を経由して、8月5日、曾良と別れ、金沢の門人・北枝とともに那谷寺を訪れた。

明治維新後は廃仏毀釈の影響を受け、一時困窮するが、昭和初期に再建計画が進められ、昭和16年、利常公ゆかりの建造物すべてが国宝(現・重文)に指定されてからは加速度的に復旧がなされた。平成2年には金堂華王殿も再建された。

現在でも、那谷寺は古代人の素朴な生命観、宗教観が息づいており、古代人は人の魂はあの世からこの世へ循環し続けていると考えていたという。岩窟本殿での「胎内くぐり」などがあり、洞窟は母の胎内を表わし、生きているときの諸々の罪を流して、生まれ変わりの祈りをささげる場所であったと言われる。理想の浄土は素朴な美しい自然に囲まれた世界にあるとして、那谷寺では十一面千手観音、霊峰白山、奇岩遊仙境が本尊であると言えよう。

境内諸堂

山門・参道は、数百年を経た杉椿の樹林に囲まれ、幽邃にして森厳、江戸期に寄進された石燈篭が両側に並ぶ。杉並木は小松より那谷寺にいたる御幸街道杉の一部で、寛永年間に加賀藩主前田利常公が植樹したもの。

金堂華王殿は、明治に廃寺となった花山天皇の御寺に因んで名づけられ、金堂は平成二年に650年ぶりの再建となり、総桧造りにて鎌倉時代和様建築様式、本尊丈六の十一面千手観音を始め、白山曼荼羅、秦澄神融禅師、中興の祖花山法皇像を安置。壁面は郷土が生んだ代表作家による作品で飾られている。那谷寺における法会は全てここで行われる。

書院(国指定重要文化財)は、天正の戦乱(室町末期)で諸堂伽藍が焼失した後、仮の御堂として建てられたもので、寛永十七年に利常公が書院として改造、自らこの書院に在って山上善衛門、後藤程乗等の名工をつかって、諸堂再興にあたったと言われている。武家風書院造りで一間毎に柱が入り、特に玄関入口は当時としては珍しい土天井で他の書院に見る事の出来ない数々の特徴をもった重要文化財。部屋は全て京間造りで、前南二間は仏間兼対面の間、東に面した部屋は装束の間、指定園に面した北間は利常公御成の間その前の廊下は家老の間となっている。

庭園は、書院から見える。茶道遠州流の祖である茶人大名・小堀遠州の指導を受け、加賀藩の作庭奉行・分部卜斉に造らせたもの。昭和四年に文部省名勝指定園になった。作庭年代は、寺院再興と同時期で、素朴な形態の中に気品を保ち、寺院茶庭として有名で、特に平庭の飛石は、三角あるいは四角の切石をはさみ、変化と調和を表現している。

荒削りの雪見燈篭は、景観上重要な位置を占め、附近の景色に良くマッチしている。石組は三立石よりなる三尊石型で、本庭園石組の見どころで、一種の迫力を醸し出している。尚、北西隅に利常公愛用の茶室、如是庵がある。

普門閣(宝物館)は、ここから約三十キロ離れた白山山麓旧新保村にあった春木家の家屋を譲り受け、昭和四十年に移築したもので、同家の祖先性善坊は親鸞聖人の諸国遍歴に従った後、大日山麓に道場を開き、子孫は江戸時代、白山西谷五ケ村の庄屋となった。

家屋は永平寺再建にあたった棟梁が、弘化四年から三年がかりで完成させた。欅造りで、雄大さは北陸随一といわれている。普門閣とは法華経観世音菩薩普門品からの命名。仏教美術品や前田家ゆかりの茶道具などを展示している。

本殿・大悲閣拝殿は、観世音菩薩の慈眼視衆生の大慈悲心の御誓願により大悲閣といい、本殿岩窟前の一大岩壁に寄りて建てられ四棟舞台造り、四方欄間浮彫りで、鹿、鳳凰、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉等花鳥を配す。

唐門は国指定重要文化財で、本殿前の岩窟入口に建てられ、本殿は岩窟内に構築され、中に厨子あり、ともに支那及び南洋材。内に那谷寺御本尊千手観世音菩薩を安置。

三重塔も、国指定重要文化財。小塔だが、三層とも扇垂木を用い四方の扉をはじめ壁面唐獅子の二十の行態や菊花の彫刻は美麗。内に鎌倉時代、那谷寺金堂にお祠りしてあった大日如来を安置している。楓月橋は寛永年間、前田利常公が計画し、現代になってようやく実現したもので、展望台から奇岩遊仙境の眺望は境内で最も美しく、頂上には白山妙理大権現を祠る鎮守堂が建っている。

護摩堂も、国の重要文化財で、壁面には沈思、柔和、昇天、凝視、喜悦、雅戯、正邪、問答の八相唐獅子、四面に十二支の動物及び牡丹を彫刻し、内陣には平安時代作の不動明王を安置している。また、鐘楼も国の重要文化財、入母屋造り和様建築で袴腰の上まで石造になっている。内には寛永時代朝鮮より請来した名鐘を吊るしてある。

そして、有名な「奇岩遊仙境」は観音浄土浮陀落山もこのような風景かと疑わせる奇岩霊石がそそりたち、その足をあらう蓮池の自然絶妙、その昔は海底噴火の跡であったと伝えられている。


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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 2

2007年06月03日 09時28分01秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
仏殿

七堂伽藍の中心に当たり、古来禅宗では伽藍の配置を人体図に当てはめているとのことで、頭が法堂、心臓が仏殿、左手が庫院、右手が僧堂、腰が山門、左足が浴室、右足が東司だという。この心臓部に当たるのが仏殿で、釈迦牟尼仏を祀られているので別名「覚王宝殿」あるいは「三世如来殿」とも呼ばれている。

明治35年(1902)、高祖大師650回忌を記念して改築された総欅(けやき)造りの中国宋代の形式に従った石畳敷き。須弥壇中央には釈迦牟尼仏、右に未来弥勒仏、左側に過去阿弥陀仏の三世如来が祀られている。この形式は中国天童山の三世如来に準じたものといわれ、間口9間、奥行5間半の二重屋根。

法堂(はっとう)

仏殿より東側の廻廊を昇ると法堂に至る。永平寺の伽藍で一番高いところにあり、間口18間、奥行14間の堂宇。一般の寺院でいえば本堂に当たり、天保14年(1843)に再建された。法堂は本来、一山の住職が須弥壇上に登って修行僧に説法をする場所。故に法堂眉間に有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)筆による「法王法」という額が掲げられている。

法堂は380畳敷で客殿を兼ね法要儀式も行われることから、専門家は「客殿型法堂(きゃくでんがたはっとう)」とも称している。須弥壇中央は藤原時代作の聖観世音菩薩を祀り、中央階段の左右には阿吽の白獅子が置かれ、また、天井には八面鏡をつけた天蓋「八葉蓮華鏡」が吊られ、中国宋代の形式を守っている。毎朝、この法堂で両席に相対して「諷経」(ふぎん)」(勤行)が行われる。

僧堂

仏殿の左側、大庫院(だいくいん)に対して在る建物が僧堂。間口14間、奥行10間の僧堂は明治35年(1902)に改築されたもの。僧堂は修行の根本道場で、坐禅・打眠(だみん)・二時の食事が行われる。

堂は内部中央に智慧の象徴、文殊菩薩を祀り、廻りは相対して82単(一畳敷)の台が並んでいる。これは中国宋代の形式に依った正規の僧堂だといい、床は土間、三和土(たたき)で毎日、掃除され雑巾がけもさる。内堂には約82人が就寝でき、坐禅の時には164名もの雲水が修行をすることができるという。

外堂には「魚鼓(ほう)」が吊られています。これは中国の伝説の魚ですが、人を集めるときに打つ法器。二時の粥飯(しゅくはん)に打ち鳴らされ、その間に修行僧は入堂して鉢位(はつい、自分の単)に付く。この外、左側に「経行廊下(きんひんろうか)」、右側に「北面間道(ほくめんかんどう)」を設けて「後架(ごか)」となし洗面所が置かれている。

大庫院(だいくいん)

東側の回廊を登った所に在る建物が大庫院で、昭和5年(1930)に改築され地下1階地上4階、延べ750余坪の豪壮な建築物。一般の寺院でいう庫裡(くり)に当たり、食事を作る厨房と来客を接待する瑞雲閣(ずいうんかく)、一山の会計を扱う「副寺寮(ふうすりょう)」、全山の修理・保全を担当する「直歳(しっすりょう)」の寮舎に分けられている。

正面中央には足の早いことで有名な守護神「韋駄尊天(いだそんてん)」を祀り、この裏で一山大衆の弁食(べんじき)を作っている。即ち修行僧や参籠者(さんろうしゃ)の三度の食事を作る所。道元禅師は「典座教訓(てんぞきょうくん)」一巻を撰じて、特に弁食の作法を尊んで、その精神に準じて食事が作られるという。

さて、庫院の二階には「瑞雲閣(ずいうんかく)」という一般参籠者の宿泊に当てられる和室や応接間があり、三階は和室の150畳敷の広間で「菩提座(ぼだいざ)」と呼ばれる。この室で多人数の宿泊から上膳(あげぜん)まで、時には法話、講義も行われ、四階は知庫寮(ちこりょう)の倉庫で雲水の日常品等が保管されている。

浴室

山門の東側に在り、一般でいう入浴場。間口7間半、奥行き5間の建物で昭和55年(1980)に大改修され、さらに、昭和60年(1985)には浴槽を浄化循環方式に改められた。

東司(とうす)

山門の左手に在り、一般にいうお手洗いです。七間(ななま)あることより七間東司(しちけんとうす)と通称される。禅宗では三黙道場(さんもくどうじょう)の一つでもあり、「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)」を祀る。一般に東司と呼んでいるが、厠(かわや)であり、西側に在る場合には西浄(せいちん)とも。

この東司は平成14年(2002)年に奉修される開祖道元禅師750回大遠忌記念事業の一環として、平成9年(1987)に改築された。


鐘楼(しょうろう)

鐘楼堂は昭和38年に改築された鎌倉様式の重厚な建物。総檜造で中に吊られた大梵鐘(おおぼんしょう)は口径1.5メートル、高さ3メートル、重さ5トンの巨鐘。現在の大梵鐘は第二次大戦中応召にあいながら、再び戻されたものを改鋳し、鐘楼堂の改築とともに完成した。

早暁の暁鐘(ぎょうしょう)・昼の齋鐘(さいしょう)・夕暮れ時の昏鐘(こんしょう)、そして夜坐が終わってからの定鐘(じょうしょう)と1日4回、そのほか特別の行事のたびに鐘点(しょうてん)という役の修行僧によって撞(つ)かれる。「一撞一拝(いっとういっぱい)」といい、一撞ごとに一拝をして撞かれ、その梵音は修行僧を覚醒せしめ深谷幽山に無限に響きわたると言われる。

承 陽 殿(じょうようでん)

僧堂より左側廊下を登っていくと左側に門が見え、これが承陽殿の門で「一天門(いってんもん)」とか「承陽門」、「承陽中雀門」と呼ばれ、この奥に御開山御真廟(ごかいさんごしんびょう)があり、これを承陽殿という。正しくは土蔵造りの本殿(間口3間、奥行4間)と拝殿(間口6間、奥行7間)とに区別されている。

明治14年(1881)の再建で本殿(御真廟)には御開山道元禅師の御霊骨と二代尊の御霊骨が奉祀され、更に、五代尊(二世孤雲懐弉禅師・こうんえじょう、三世徹通義介禅師・てっつうぎかい、四世義演禅師・ぎうん、五世中興義雲禅師・ぎうん)までの木造も安置されている。

この承陽殿は曹洞宗の発祥の根源であり、拝殿(下坦)の右側には6世曇希(どんき)以下77世までの位牌と、全国末派から祖堂に入牌された尊宿(そんしゅく)方の位牌を祀り、左側には高祖大師の御生家久我(こが)家の尊牌を始め、永平寺の開基波多野義重(はたのよししげ)公の木像、昔の仏殿の建立に功績があったという井伊(いい)家の位牌も祀られている。

以上が永平寺の見所と言えようか。なお、雲水さんたちの日課は、起床洗面3:30暁天坐禅3:50 朝課5:00 小食7:00 作務8:30坐禅10:00 日中11:00中食12:00 作務13:00 坐禅14:00 晩課16:00 薬石17:00 夜坐19:00 開枕 21:00となっている。一日三座、およそ、4時間もの坐禅が日課ということになる。(冬期間は30分~1時間起床時間が遅くなる)

体験坐禅会は、期間3泊4日で行われており、原則として14歳以下の人は許可しない。服装は、地味な和服、ハカマ、白足袋か白靴下及び作務のできる服を用意する。費用は3泊4日9000円教本2冊と日常雑費を含む。報恩摂心(2月1日~8日)、臘八摂心(12月1日~8日)。つづく

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 1

2007年06月02日 08時39分04秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月13日14日と、朝日新聞愛読者企画「日本の古寺巡りシリーズ」番外編と称して、永平寺、那谷寺、それに琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺を参拝する。

永平寺は福井県にある、誰もが知る曹洞宗の大本山であり、那谷寺は、石川県の花山法皇ゆかりの古寺。そして、宝厳寺は、西国観音の札所でもあるが、何と言っても、竹生島弁財天を祀るありがたいお寺である。この三ヶ寺について、早速、それぞれの歴史と見所を研究していきたいと思う。

永平寺

曹洞宗の大本山永平寺は、今から約750年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された。「日本曹洞宗」の第一道場で、雲水さんたちが、常時200人も坐禅修行に励む聖地でもある。境内は約10万坪(33万平米)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいるという。

永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわる。8歳で母の他界に逢い、世の無常を観じて比叡山横川に出家された。その後、京都の建仁寺栄西禅師の門に参じ、24歳の春、栄西の弟子明全とともに入宋。中国で天童山の如浄禅師について修行し、曹洞禅を授かり28歳のときに帰朝された。

帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創。坐禅第一主義を標榜して、坐禅堂を開単された。多くの信仰者を得たが、それが周囲の僧侶の反感を買い、寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題、波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)らとともに移られた。

翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれた。鎌倉幕府に招かれて法を説き坐禅を勧めた。坐禅は仏になるための修行ではなく、仏としての坐禅であるとして、日常の行持を重視した只管打坐を主唱した。病になり、上洛して高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の俗弟子覚念の屋敷で、入滅。世寿54歳。

永平寺第二代懐弉禅師は道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻や「永平広録(えいへいこうろく)」10巻等の著述を義介(ぎかい、永平寺三代)・義演(ぎえん、永平寺四代)」と共に集大成した。今日の世界的名著「正法眼蔵」はこの時に校合編集されたという。一方、永平寺伽藍の整備にも尽くした。明治12年明治天皇より道元禅師に承陽大師(じょうようだいし)の謚号が宣下されている。

七堂伽藍

永平寺は三方を山に囲まれ、南側の一方に永平寺川の流れを持つ深山幽谷(しんざんゆうこく)に位置している。寺院の建物を一般にサンガーラーマ(僧伽藍)というが、比丘(びく)たちが集まって修行する清浄な場所を指したもので、後世、寺院の建物を意味するようになった。特に中国宋時代になると禅宗が盛んになり、禅宗の清規(しんぎ)と共に日本へ伝えられた。

永平寺の七堂伽藍は鎌倉時代の中頃から、急斜面を開いて徐々に築かれたらしい。さて、禅宗建築では、山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす)の七つを七堂伽藍と呼んでいる。本来は、金堂、講堂、僧堂、鐘楼堂、経藏、食堂、塔をいう。

山門

山門は「三門」とも書かれる。総欅(けやき)造りの唐風の楼門で間口9間、奥行き5間の二重層からなる。永平寺伽藍の最古の建物で寛延2年(1749)8月、永平寺42世円月江寂禅師によって再建された。修行僧が正式に入門する永平寺の玄関に当たり、下層には四天王を祀り、上階には五百羅漢を安置する。昭和55年に福井県の文化財に指定された。

入門して上を仰げば正面に「吉祥(きちじょう)の額」といわれる扁額(へんがく)がある。『諸仏如来大功徳(しょぶつにょらいだいくどく)、諸吉祥中最無上(しょきちじょうちゅうさいむじょう)、諸仏倶来入此処(しょぶつともにきたってこのところにいる)、是故此地最吉祥(このゆえにこのちさいきちじょう)』

山門の両側には四天王を祀っており、東側には東方の守護神「持国天(じこくてん)」と北方の「多聞天(たもんてん)」、西側には西方の守護神「広目天(こうもくてん」と南方の「増長天(ぞうちょうてん)」。外部から進入する悪魔を遮っている。

正面の両側には、永平寺54世博容卍海(はくようまんかい)禅師が文政3年(1820)に山門を修復した折りに掲げた見事な聯がある。『家庭厳峻不容陸老従真門入(かていげんしゅん、りくろうのしんもんよりいるをゆるさず)鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来(さやくほうかん、さもあらばあれ、ぜんざいのいっぽをすすめくるに)』
     
この聯の意味は、永平寺を一個の家庭としたならば、ここは出家修行の道場であるから求道心の在る人のみ自由に出入りが可能である。と入門の第一関を提起している。楼上に案内されると中央眉間に後円融天皇の勅額「日本曹洞第一道場」の額がある。楼上には羅漢が祀られており、その中央には釈迦如来、脇侍として迦葉尊者と阿難尊者を祀る。最前列には「十六羅漢」を置き、その左右に「五百羅漢」が祀られている。つづく

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