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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

にじうおの話

2005年11月23日 06時58分27秒 | 様々な出来事について
「にじいろのさかな」(講談社.マーカス・フォスター作.谷川俊太郎訳)という絵本がある。七色の鱗にキラキラ光る銀色の鱗のにじうおは、はじめ他の魚たちに羨まれ自慢げにしてはいるが、なんとかうまくやっていた。ところが、あるとき、一匹の小さな魚が「その銀色のキラキラ鱗を一枚くれないか」と頼んだとき、思わず激昂してしまう。

それで「何でこの自慢の鱗を君なんかにやらなきゃいけないんだ」と言ってしまった。その話は周りの魚たちにたちどころに知られてしまい、それ以来誰も見向きもしないし、近づいてきてもくれなくなってしまう。

たった一人うらぶれてしまったにじうおは、こんなに自分はきれいなのに、誰よりも立派な魚なのに誰も見てくれないし、寄って来てもくれなきゃ何のための七色とキラキラ鱗なのかと悩み考え込んでしまう。

ちょうどその時近くをとおったヒトデに、思わずどうしたら良いんだろうと呟く。すると、僕には分からない、でもずっとむこうの洞窟に賢いタコの婆さんがいるよと教えてくれる。特別なにかを期待したわけでもないのにその方向に泳ぎ出して行くにじうお。

その洞窟の前に来ると、どこからともなくタコのお婆さんが現れて、「お前が来るのを待っていたよ」と低い声で言った。波がおまえのことを知らせてくれたと。そして、「お前の望みを叶えるには、そのキラキラする鱗を一つ誰かにやってみるんだ、そうすればどうすれば幸せになれるか分かるだろう」と、それだけ言うと姿を消してしまった。にじうおはそんな馬鹿な、と言おうとしたが後の祭りだった。

そうして、もとの海に戻っていくと、あの小さな魚が寄ってきて、「にじうお怒らないで聞いてくれよ、そのキラキラ鱗一番小さなものでいいから一枚くれないか」と言う。にじうおは一番小さなものなら惜しくもないかと思い、あげてみる。するとその小さな魚は小躍りして喜んで泳ぎ去っていった。それを見ていたにじうおはなぜか自分もうれしくなりちょっぴりだけ幸せな気分を味わう。

するといつの間にか以前近くにいた魚たちが沢山集まってきて、「僕にも一枚くれよ」と頼みだした。にじうおは、一枚一枚分けてあげた。終いに自分の体にもキラキラ鱗はたった一枚になっていることに気づいた。でもみんなが喜んで泳いでいる姿を見ると自分も本当に幸せな気分になれた。

こんなお話の絵本です。自分一人が良くても幸せになんかなれない、ということを簡単な話の中に良く表現されている児童本。仏教の布施、ないし慈悲の教えにも該当する内容となっている。スイス人作家による翻訳本だが、全世界で印刷され世界的な賞も取っている。

今ニートという若者たちがいる。ちょうどキラキラ鱗を自慢していたときのにじうおのように思えて仕方がない。外の世界に自分の持てるものを、能力を少しでも分けてあげたら、別の世界が開け、幸せがどんなものかが分かるのではないかとも思える。

そして親たちやお年寄りには、ここに出てくるタコのお婆さんであって欲しい。いつも口うるさく小言を言うことなく。悠然と構えて、いざというときに、待っていたよと言って欲しい。あらためて読んで、そんなことを考えさせられた。(11/21護摩供後の法話から)
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日本仏教の歩み7

2005年11月22日 06時49分32秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
法華経信仰者の登場

平安後期に台頭した地方武士層を中心に、法華経を所持して読誦書写などを行い、それにより罪業を消滅し輪廻からの解放を求める信仰者がありました。法華経を信仰するそうした人々を背景として鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。

日蓮(一二二二ー一二八二)は、安房清澄寺に入り密教や浄土教を学んだ後、比叡山など各地を遍歴して、一二五三年法華経への絶対帰依を表明し[法華(日蓮)宗]を開き、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めます。

念仏者を非難して専修法華の立場から、鎌倉で布教。その頃鎌倉は飢饉や疫病に見舞われていました。そこで「立正安国論」を著して幕府に献じ、念仏、禅、密教を禁じて法華経を唯一の正法と認めない限り災害が続き、他国の侵入を受けるなどと予言して、伊豆に流罪となります。

日蓮は人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性格が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとって題目を唱えることによってのみかなえられる、題目にはすべての生き物の成仏を可能にする教理の真髄が込められてあり、その題目を唱えることで久遠の昔から成仏している仏の徳が与えられると説きました。

ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。

真言宗の歩み

以上述べてきたように、この時代に新しい宗派を起こしたのは真言律宗を除き、すべて天台宗の本山・比叡山で修学した後遁世した僧たちでした。

一方真言宗では、平安時代後期には仏菩薩等諸尊の供養法など実践面の研究が進み様々な流派を生みましたが、この時代には教理面での学道が振興します。

頼朝が鎌倉に幕府を開くと、源家の氏神・鶴岡八幡宮の社僧別当職に就いたのをはじめ、僧坊が各地にでき、学僧衆も鎌倉に集まります。そうした影響から頼朝の一族及び北条氏は霊峰高野山を崇敬して、頼朝は勧学会を開き、北条時宗は勧学院を建立。密教経典の注釈書や空海の著作「声字実相義」「般若心経秘鍵」などを教材に教学の進歩を促しました。

覚鑁の系統を継ぐ高野山上の大伝法院では諸学研鑽した頼瑜が出て学頭となり、抗争耐えない金剛峯寺方との禍根を一掃し、密厳院、大伝法院の屋宇道具一切を根来に移して、一二八八年新義派を分立しました。

また、入宋して戒を修めた俊芿によって再興された京都泉涌寺は、承久の乱の後即位し崩御した四条天皇の葬儀を他の寺院が幕府の目をはばかり断ったとき敢えて引き受け、その後皇室の菩提所となりました。明治初年まで歴代天皇、皇族の葬儀を行い墓所が設けられ位牌が祀られています。

また諸国を巡り弘法大師信仰と高野山納骨をすすめた遊行者集団・高野聖は、この時代には高野山内に蓮華谷、萱堂、千手院の三集団が形成されます。蓮華谷の頭目明遍(一一四二-一二二四)は、少納言通憲の子で、諸国を回国して高野山に登り、後に法然にも受法。称名念仏と弥陀の供養法に専心した生涯を送りました。

政治経済に大きな変革のあったこの時代、仏教も時代に即応し平易な教えが興り、民衆に定着した反面、その影響から日本仏教が仏教の根本である実践的思想体系を損なう一過程となりました。

また、これまで国家行事に参加する義務のあった官僧が出来なかった葬儀に遁世僧たちは積極的に関わり、今日に見る僧侶が葬送に関与する習慣もこの時代にできたのでした。
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日本仏教の歩み6

2005年11月21日 06時34分11秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
南都仏教の復興

法然の浄土教に対して最も厳しく異を唱えたのは、法相宗の貞慶(一一五五ー一二一三)でした。貞慶は、平安末期に戒律復興を企てた実範の系譜にあり、お釈迦様を本師と仰ぎ、戒定慧という仏教の基本から逸脱する法然の念仏は仏教を滅ぼすと訴え、「興福寺奏上」を起草、弾劾します。

貞慶は戒と唯識を学び笠置山に隠遁して、なおかつ法相宗を興隆し、弥勒念仏を修して唯識説の師として信仰される弥勒信仰を広めます。また弟子らと共に編纂した「唯識論同学鈔」六十八巻は唯識研究の最高水準として長く研鑽されました。

また華厳宗では、一一八〇年平重衡によって焼けた東大寺大仏殿勧進職に任ぜられた重源は、伊勢神宮で「大般若経」を転読祈願して全国を巡り、後白河法皇や源頼朝を含む貴賤の喜捨を受け、宋風天竺様にて大仏殿を再建します。

その後、栂尾山に住した明恵上人高弁(一一七三-一二三二)が出て、「摧邪輪」を著し、仏教本来の姿勢であるさとりを求める心・菩提心を不要とする法然の念仏を烈しく批判しました。

明恵は華厳の他、真言密教や臨済禅を学び、坐禅に立脚した実践的華厳学を樹立。後鳥羽上皇や建礼門院に戒を授け、後鳥羽上皇と幕府方で争われた承久の乱(一二二一)では敗残兵をかくまうものの、逆に北条泰時の帰依も受けました。渡印を計画するなどお釈迦様を慕い、今日も行われる仏生会や涅槃会を創始したことでも有名です。

その後東大寺戒壇院に住した凝然(一二四〇ー一三二一)が出て、声明、音律、国学、神書に通じ、鎌倉時代の華厳学を大成。さらに律宗を教理的に大乗仏教と位置づけた「律宗綱要」や、今日も読まれる仏教概論「八宗綱要」など多くの著作を残します。

律宗では、貞慶に学んだ覚盛が正式な具足戒を授ける戒師のないことを嘆き、一二三六年自ら仏前に誓願して戒を受ける自誓受戒を東大寺大仏殿にて行い、唐招提寺に住して戒律の復興に努めました。

真言律宗の社会貢献

覚盛とともに自誓受戒した睿尊(一二〇一ー一二九〇)は、はじめ高野山で密教を学び、その後荒れ果てた西大寺を復興して、戒律の教えを民衆に広め、[真言律宗]としてや乞食の救済活動をなし橋や港湾の整備、造寺造塔に多くの業績を残しています。

睿尊は後嵯峨、後深草、亀山など五帝の戒師になり興正菩薩の号を賜ります。生涯に具足戒を受けた者千三百余人、菩薩戒を受けた者は九万六千余人に上るといいます。

睿尊の弟子忍性(一二一七ー一三〇三)は、鎌倉に極楽寺を開き、悲田院、療病院を作って乞食や癩人を養い慈善救済活動に尽力。また、道や橋を造り井戸を掘るなど土木事業もなし、忍性菩薩と尊称されました。

蒙古襲来にあたり極楽寺が勅願寺となり、異敵降伏の祈祷を行う国家寺院として国分寺の役割が見直されると、そこに西大寺僧が進出して特に西国の多くの国分寺を再興しました。

禅宗の形成

我が国への禅の初伝は飛鳥時代と一般に言われています。が、一宗派として坐禅を重視する宗派が確立するのは栄西(一一四一ー一二一五)が二度入宋して臨済禅を学び、即心是仏の禅を宣揚してからのことです。

栄西は比叡山で天台の教理を学び、入宋して密教を修得し、その後再び入宋して臨済宗黄竜派の禅を学び、一一九一年帰朝。九州博多で禅を布教し[臨済宗]を開基します。その後将軍頼家の帰依を受けて、京都に建仁寺を建立。

栄西は禅の実践によってのみ王法も仏法も栄えるとして、自らも厳しい持戒禅定の生活を送りました。栄西は「喫茶養生記」を著して日本にお茶の風習を普及させたことでもよく知られています。

しかし栄西が伝えた禅は密教と禅の兼修を家風としており、純粋禅が広まるのはその後中国人禅僧が来朝するまで待たねばなりませんでした。

栄西滅後三十年にして来朝した蘭渓道隆(一二一三ー一二七八)は鎌倉の建長寺開山となり、ついで来朝した無学祖元は円覚寺を創立し、折しも蒙古来襲にあたり、北条時宗を激励し般若力を念じて勝利に導いたと言われ、その後も終生鎌倉武士の教化に励んだということです。

しかし今日の臨済宗の主流となる禅を広めたのは南浦紹明で、蘭渓道隆に参じた後入宋して揚岐派の禅を伝え、多くの優秀な弟子を輩出しました。

また道元(一二〇〇-一二五三)は、比叡山で天台を学んだあと入宋して天童山の如浄より曹洞禅を授かり、一二二七年に帰国。京都の南に位置する深草安養院などで宋朝風の仏祖正伝の純粋禅を唱え曹洞宗を開き、「正法眼蔵」を著します。後に越前に移り大仏寺(後の永平寺)を開山。

坐禅は仏になるためではなく、人は本来仏であるとした天台の教えに基づき、だからこそ仏としての修行・坐禅が必要であり、日常の行ないすべてを禅と捉え、ただひたすらに坐禅する只管打坐を主唱しました。

また道元は当時は末世と認識されていた中で、真実の大乗の教えには正像末を分かつことはないとして正論を主張したことは特筆に値します。
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日本仏教の歩み5

2005年11月20日 19時57分53秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪12月号よりカルチャー講座にわかりやすい仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)

鎌倉時代の仏教

朝廷や貴族が政権を握っていた時代から武士階級による権力掌握へと国家制度の大きな変革に加え、天災飢饉外患に悩まされた鎌倉時代、そうした影響から仏教がどのように変質していったのかを見てまいりましょう。

新仏教を担う遁世僧

平安末期には、南都の諸大寺や天台真言の大寺院また大神社は、皇室御領や摂関家領を遙かにしのぎ、各地にたくさんの荘園を所有します。有力寺院は貴族の受け入れ先となり、生活は華美なものとなりました。

本来の仏道を求めるためには、教義を学修し講会の講師に出仕するなどの名利を競う官僧から離脱する他ありませんでした。そうして民間に布教し救済活動する聖や上人と言われる僧侶がこの時代多く現れてまいります。これから述べる鎌倉新仏教の担い手たちは何れも官僧の世界から離脱した遁世僧たちでした。

法然浄土教の救済 

その先駆けをなすのが、僧兵が跋扈し騒動の絶えなかった比叡山から十八歳の時黒谷別所に移った法然房源空(一一三三ー一二一二)で、当時京の町は飢饉や大火が続き飢えと疫病が蔓延し末法そのものの様相でした。その後法然は奈良京都の碩学に各宗の奥義を学んで、一一七五年四十三歳の時、もっぱら弥陀の名号を称える称名念仏だけで極楽往生するとした専修念仏の立場を確立し、[浄土宗]を開きます。

阿弥陀仏が前世で法蔵菩薩として修行していたときの一願を阿弥陀仏の分け隔てのない大慈悲ととらえ、我が身を徹底して内省し、救われる資格のない醜い心を持つ者であっても、その弥陀の本願によって救われるのだと深く信ずるところに如来の救済があると説きました。

関白九条兼実らの帰依を受け、平安後期から流布された末法思想の影響や既に各地にあった念仏集団が法然の教えを支持して、瞬く間に東国の武士など地方にも教えが広まったと言われます。しかしその間諸行を兼修する延暦寺や興福寺などから弾圧を受け、弟子らのあらぬ嫌疑から専修念仏の停止の宣旨が下り、法然も土佐に流罪となりました。
 
親鸞と一遍

この時の法難で越後に流された親鸞(一一七三ー一二六二)は、この時多くの門弟の一人で無名の存在でした。もともと比叡山の常行堂で不断念仏行に励んでいた親鸞は、二九歳の時下山。六角堂に参籠後、聖徳太子の夢告により洛東吉水の法然の下に参じます。

その後許された親鸞は常陸に移り熱心に農民や武士らに伝道し多くの弟子を育て、六十過ぎに京に戻ってから九十歳で死ぬまでは「教行信証」などの著作に取り組みます。

自ら罪深き身であることに慚愧して厳しく自己を省みるとき、そこに自力による作善はあり得ず、何のはからいも捨てて弥陀自身による諸善が逆に衆生に回向されることを信じることにより衆生は浄土に往生するとした絶対他力の教えを説き、[浄土真宗]を名乗ります。

親鸞は、非僧非俗を主張し公然と妻帯したことでも有名ですが、このことは今日に至る日本仏教の戒律軽視、無戒化を招く元になりました。

親鸞にやや遅れて登場してくる一遍(一二三九ー一二八九)は、親鸞以上に他力の信に徹底し、阿弥陀仏がさとりを得られたとき既に一切の衆生が往生することが決定されていたとして、信ずる心の有無に関わらず人のはからいを入れる余地なく「南無阿弥陀仏」の六字の名号の功力によって人は往生すると説きました。

そして、人々が弥陀と結縁するためには「南無阿弥陀仏」と書かれた算を配ればよいと確信し、山野に野宿を重ねて全国を遊行し、時に鐘や鼓で調子を取り踊りはねながらの念仏・踊念仏が一般民衆に広まり、各地方武士層に支持されます。時衆と名乗りその時その場所の衆まりを重んじる僧俗の遊行回国の念仏衆として、後に一宗派[時宗]を形成しました。つづく
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神辺アルプスチャレンジウォーキングの皆さんに

2005年11月18日 16時41分20秒 | 様々な出来事について
本日は、神辺町観光協会の主催するウォーキングに参加されまして、こうしてここ国分寺にお参り下さり有り難う御座います。10分ばかりの話をすることになっていますから、少しだけお付き合い下さい。

国分寺は皆さんご存知の通り、今から1260年ばかり前、聖武天皇の勅願で建てられた全国66ヶ寺の国分寺の一つでありまして、その当時は今通ってこられた参道を中心に600尺四方、つまり200メートル四方を築地塀で囲まれた境内であったと言われています。ですから、今よりも相当規模が大きかったことになります。

それから時代が経ますとここ神辺で合戦があったとき、この国分寺で陣を調えるといった陣屋となりまして、そのため兵火で焼かれたりします。そして、その後再建を果たしますが、江戸時代前期には今度はこの上の大原池が決壊して大水に流されまして、その後元禄時代に再再建したのがこの現在の本堂です。

ところでこの備後の国分寺にまつわる物として現在国宝になっている物があります。それは奈良時代参道途中の七重の塔に納められた金光明最勝王経10巻の写経本ですが、聖武天皇御宸筆と言われ紫の紙に金で書かれた流麗な物です。

おそらく合戦の最中持ち出されて、沼隈の新庄太郎という長者が引き取り、それを西国寺に寄進し、現在では奈良国立博物館に所蔵されています。奈良国立博物館のホームページで簡単に見ることが出来ますから、是非ご覧下さい。
 
それから、ここに医王閣と扁額にあります。医王というのは本尊・薬師如来のことですが、医王と言いますと、元はお釈迦様を指していました。お釈迦様の根本説法は、当時の医者が処方診断する仕方と同じ科学的な内容であったことと誰が行っても体も心も癒されてしまうということから医王と言われた訳です。

皆さん幸せになりたくないという人はありますか。みんな幸せになりたいですよね。その幸せの最高のものを手にしたのがお釈迦様で、お釈迦様はとってもおおらかな方だったのです。

お釈迦様はこうしなさいああしなさいなどと言う人ではありませんで、静かに今の現実を観察してくださいと言いました。そしてその原因とは何ですかと問われ、それから理想の状態とは何か、そこに至るにはどういう方法が良いのかというような具体的な道筋を教えられました。

何のこけおどしも、まじないも、奇跡もありませんで、ただ理性的に科学的に物事を考えられた。そうした話の仕方がお医者さんのようであったということなのでしょう。そのお徳を特別に取りだして、お釈迦様のお姿に薬の壺を乗せた仏さんが薬師如来ということになりました。

仏教の話はそれくらいで、ところで、昨年国分寺の仁王門前に菅茶山さんの詩碑ができました。今門を入られるときにご覧下さったと思いますが、刻まれた詩は、当時の住職如實上人を詠んだ詩ですが、鴨方の西山拙齋氏と茶山さんの連句になっています。

その詩が国分寺で詠まれた後何度か詩会を開き、国分寺が舞台となって沢山の当時の知識人が様々な情報知識を交換する場となりました。茶山さんの顕彰のためと、その一時代を知る手がかりとして詩碑を建立した訳です。

また今日はウォーキングという事ですが、最近では定年後に四国を歩いて遍路する人が増えております。私ももう15年ばかり前に歩いて二度遍路しました。1番から88番まで1400キロありますが、男の人ならひと月少々で歩けます。

今日歩く行程はどうですか、10キロくらいでしょうか、四国を歩くときには一日30キロから40キロ歩かなくてはいけませんが、この行事の延長にいつか歩いてみられることをお勧めします。この上にもミニ八十八カ所があり、1時間程度で歩けるコースになっていますので、信仰としてでなく健康のために、是非歩かれることをお勧めします。

皆さんはこれから寒水寺さんに登山しなくてはいけませんのでこれくらいにしておきます、また機会がありましたらお参り下さい。ありがとうございました。
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お釈迦様の言葉から

2005年11月13日 17時34分25秒 | 仏教に関する様々なお話

『善きことをなせる者は、
この世にても喜び、死後にも喜び、
何れにても喜ぶ。
己れの行為の浄らかなるを見て、
喜び楽しむ。』
(法句経十六)

昨年五月、ミャンマーの女性が國分寺に来訪されて「私たちは死んで終わりではない。死後行かねばならない来世がある」と懇話会で話された。輪廻転生する衆生である自分を思うが故に、今どう生きるべきかと真剣に思索することになる。

この偈文にあるように、間違いのない生き方をすれば、今生にも、死後にも喜びがあるということをお釈迦様は約束して下さっている。しかし、逆に間違えば大変なことになるよ、ということでもある。

この輪廻の住人であることを自認しない人は、何をやっても悪事が知れず、よい思いをして死んでいけばいいと思うであろう。歴代天皇の多くが退位後仏門に入り仏と対面された時代と違い、現在の為政者たちは、死後の輪廻を窺い知ることもないのであろう。恐ろしい世の中である。

人間の世界は思い一つでどちらにも転がっていける世界である。畜生や餓鬼の世界にその自由はない。私たち人間なればこそ己れの進む道を正していける。
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薬師霊場合同法要へ

2005年11月07日 11時47分39秒 | 様々な出来事について
昨日鳥取で、合同法要があった。中国五県の薬師如来を祀るお寺が49ヶ寺集まって霊場をつくり今年で9年目になる。毎年一回秋にそれらの寺院が集まって法要をしている。今年は、鳥取市にある最勝院で催された。

あいにくの雨模様。加えて風も強い。鳥取城の隣の山裾にあるお寺のためか風が舞って嵐の様相だ。それでも法要が始まり、本堂で、薬師如来本願功徳経を読誦すると雨はおさまった。本堂での読経の後、各霊場のお砂踏みをして、それから外に出て本堂上の鎮守牛頭天王を祀る木山堂へ。風で衣の袖を舞わせながらのお練り。沢山の幟が立つ細い階段を上り、大きな木山堂に入堂。

外陣が50畳もあったろうか。内陣にはこれまた大きな護摩壇が据えられ、山主老住職が世界平和と信徒の所願成就を願って護摩を焚かれた。職衆はその間、大般若経の転読を行い、参詣諸氏に転読した経本で身体をさすりお加持をした。それから心経一巻。薬師真言7返を唱え法要が終わった。

そのあと霊場会会長の挨拶に続き最勝院の老住職の法話があった。本当は挨拶ということだったが、内容は法話であった。背中を丸めながらマイクを握り、たとたどしくも笑いを誘う。そこに何とも言えない味のある話だった。

「今日は雨が降りまして申し訳ないことでしたが、法要の前お薬師さんに心経をあげて拝みましたら<何とか小降りになりました。ありがたいことです。本当に仏様はおられるんです。

お薬師さんは何でもかなえて下さる。この間宝くじを少し買いましてお薬師さんの前に置いたら100万円当たったんですよ。それで今度はもっと当ててやろうと思って沢山買いましたら、当たりませんでした。楽して稼ごうとしてもダメなんですね。

この間子供がきたんで、どうだ学校はありがたいかと聞きましたら、ありがたくないと言うんです。今の世の中本当にものの有り難さが分からなくなっている。お祖師さんも四恩に報いて初めてものごとが成就すると言われている。まずは親の恩、自分を育ててくれる者に感謝の気持ちがなければ何も学べない。

ここに正面に祀っているお薬師さまは2メートルありますが、これは私が一刀三礼しながら4年掛けて彫ったものです。京都の有名な仏師松久宗琳氏の門下に入り研究して彫ったんですが、その右の不動明王も彫りました。また左には愛染明王。

良縁をかなえて下さる仏さんですが、あるときお爺さんが来て孫に嫁が来ないというので、この愛染さんに一緒に拝んだところ、その翌年お参りに来たら、孫が結婚したという。その翌年にはその孫夫婦がお参りに来て双子の赤ちゃんを抱いていた。お爺さんは、と聞くと死にましたということでしたが、世の中諸行無常のことわりは何とも逃れられない。

ですが、そのお爺さんはとっても満足して喜んで死ねたんではないかと思うんですね。ところで、先ほど挨拶した総代さん。とてもいい総代さんなんです。で、いつも言われてることがあるんです。住職の話は長すぎるのがいけない、というので、この辺にしておきます」

まあ、大体こんな話の内容だった。法要の後、お斎の席で話を伺うと、農家に生まれ中学卒業後、坊さんを志し、住職になったが、学歴に対する劣等感から様々なことを独学で学び、82才になった今も彫刻に加え、英語やハングルまで学んでおられるという。

最近韓国に行き、仏教による友好を通じて両国の和解を得られないか、もっと仏教が先導する交流が無くてはいけないと真剣に語られていた。また鳥取市の国際交流会を通じて韓国、中国や西洋の人たちも今回お呼びしたかったが、色々な問題があって呼べなかったと残念そうであった。

この一人の老僧に会え、親しくお話を伺えただけでも、この度遠路鳥取まで行った甲斐があった。加えて、私の高野山専修学院の同期T師が実はこの最勝院さんの親戚にあたり、思いがけず会うことができた。帰り駅まで送ってくれて再会を約し、久しぶりに懐かしい思いに耽りつつ、特急いなば6号に揺られ帰途についた。
(写真は参考資料)
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