住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「もの忌まず」ということ

2008年01月26日 09時01分47秒 | 仏教に関する様々なお話
「門徒もの忌まず」と言うらしい。門徒は何も忌み嫌うことがないのだと、ある知人から教えられた。真宗門徒のこの知人は、法事の後の法話でそういう話を聞いて感心したと話していた。門徒もの知らずというのは聞いたことがあったが、それは間違いで、実はこちらの方が正しいらしい。

「もの忌み」とは不吉なこととして物事を忌むことであり、祟(たた)りを畏(おそ)れ嫌い避けることをいう。たとえば、結婚式は大安吉日がよいとか、葬式は友引の日を避けるべきだとか、遠方へ出るときの方位はどうかとか、いわゆる日柄方位を選ぶ吉凶も含めてのことらしい。

墓相や家相、手相などもこの類になるのであろうか。特に死を穢れたものと考えた時代の風習から、今もお葬式の香典返しにはお清めの塩が付くが、真宗の葬式には塩は付かない。これは鎌倉時代から仏式の葬儀が行われ出したとき、特に浄土教の僧たちが率先して死への穢れを恐れずに人の死に際して葬送に従事する習慣が出来ていったことを裏づけているのかもしれない。

私が子供の頃、親がお葬式に行って帰ってくると、少々神経を尖らせて玄関先で水と塩を用意させ、手に水をそそぎ塩を振りかけていたのを憶えている。今思えば微笑ましい光景ではあるが、その時にはそうしなければ何か良くないことが起こるのではないかと思わされたものだった。

人の死は穢れているのだろうか。それとも死神でも取り憑くというのであろうか。東京にいる頃、お葬式に呼ばれてお経を上げ、火葬場に向かうのにタクシーやハイヤーが用意されることが多かったが、火葬場の帰りには行くときとは道を変えて帰ってくるのが暗黙の了解で、どのタクシーもハイヤーもそんなことをしていた。

内心変なことをするなぁと思いながらも、別段取り立ててそのことを運転手さんに問い質すこともなかったが、誰もなぜそんなことをするのかをよく考えもせずに、それが常識だと思ってしているという風であった。それこそ死んだ人が同じ道を通ると付いてきてしまうとでもいうような理由を誰かから聞いた記憶がある。

死とは何か、死後人はどうなるのかといったことがまったく仏教的に解説されることがなく、通俗的に誰かが言ったことがまことしやかに言われ、そうなっているというに過ぎないであろう。

東京のあるお寺の住職が、そのことを、馬鹿げたことがまだなされていると怒っていたことを記憶しているが、そんなつまらないことでも、仏教的には意味のないことだよと教える人がいないということなのであろう。お坊さんたちもそんなものかと考える、イヤ仏教的にはどういうものかと考える習慣があまりないということなのではないか。

私たちは般若心経で五蘊という言葉を唱えている。しかしその意味まで知ろうとする人はそう多くない。五蘊とは、私とは心と体だよ、ということだろう。これを名色といい、名は心、色はもの、つまり身体。心はさらに分解されて、受・想・行・識となる。これも般若心経の中で唱えているからみんな知っているはずのものだ。

受は、外のものを感じ取る心であり、想は、それが何かと捉える心、行は、それを知って何かしようと動く心、識は、知り認識する心。これらによってある働きをしているのが人という存在で、身体と心に分けて考えるのだから、身体の寿命が終わったとしても、心は消滅するわけではないと考える。

だから日本などの大乗仏教ではこの状態で四十九日間は私たちと同じ空間にあるとして、葬式をして七日参りをして、それらの功徳を故人に手向け回向する。そして六道に輪廻するとは言え、その中でも、より良いところに生まれ変わり、出来ればまたしっかり仏教徒として生きなさいよ、とそれらの遺族による善行功徳を回向して来世にお送りするのが四十九日の法事であり、今日まで大切な法事として継承されている。

きちんと仏式のお葬式をして、なぜ火葬場から追いかけてくるなどと考えるのであろうか。身体を失った故人の心は自由に浮遊する。それこそ千の風になって。だから、どの道を通っても関係ないであろうし、だからといって恨みを買うような関係にもなく、その方のお葬式に手を合わせ成仏を願われた方に悪さをするわけもない。

ところで、昔國分寺の僧も含め国に認められた僧侶は官僧と言って、国家の安泰、鎮護国家を祈願するために死穢を禁忌事項としていた。だから当然のこととして人の死に接することを避けていたであろう。もちろんその時代には仏式の葬儀は一般化していなかったこともあろうが。しかし、元々インドではお釈迦様の弟子たちは、死体置き場で瞑想をして、不浄観を修し、貪りの心を克服して、無常を悟られた。

そこで、冒頭のもの忌まずということを言うのであれば、「仏教徒もの忌まず」というのが本来ではないか。なぜ忌まずかと言えば、死は自然のことだからではないか。すべてのものが無常というのが仏教の真理であるならば、すべてが因縁所生であるから、それに従って死がある。日柄方位吉凶も意味をなさない。

そもそも死が穢れならば誕生も穢れではないか。だから出産は、昔は実家に帰らされた時代があった。今では実家の方が気兼ねがないからと思って実家に帰り出産する人もあるようだが。死は忌むものでもないし穢れでもない。自然の営みである。

つまり、人の死を死穢と考え忌み嫌うことこそが仏教的ではないのだと言えよう。すべてのことがらを単にこの世の真実の姿ととらえ、おのれの修行の糧として受け入れ、それを冷静に観察しようとする姿勢が必要なのであって、それを穢れだとか汚いとか恐れとか、縁起がいいとか悪いとか、吉とか凶とか、評価判断し忌み嫌う自分の心こそ忌み嫌われるべきなのであろう。

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『ブータン仏教から見た日本仏教』を読んで

2008年01月19日 11時41分32秒 | 仏教書探訪
平成17年6月発行のNHKブックスである。著者は、大谷大学からフランス国立科学研究センターに留学されて、サンスクリット原典を忠実に翻訳したチベット大蔵経の研究をされた今枝由郎氏である。今枝氏は、そのままフランス人となり未だにフランスで研究を続けている特異な方だ。

1981年から10年間チベット仏教系の国として唯一の独立国であるブータンの国立図書館の顧問として赴任された。そのときの研鑽とそれから暮らしているフランスの仏教を日本仏教と比較して様々な日本仏教の問題点を指摘している。

まずは、日本仏教には仏教を理解しようというもっとも初歩的な努力があまりにも欠如していると指摘する。お経の意味も解さず、唱えるだけでただ呪術的に受け入れているのが日本仏教ではないかという。確かに、前後に何の解説もなくお経を唱えるだけの法会法事の姿を捉えればその通りだと言わざるをえない。

また、仏教には様々な行の形があるのにその中のどれか一つだけをもっぱらに修行するのが日本仏教で、それだけに専念し他は顧みない態度が日本の宗派の特徴だとも指摘する。念仏宗の信者に座禅もしなさいと勧めたら宗派自体が成り立たないということになるのであろう。

その多くが時代背景によって出来た宗派であり、宗祖の選択した教えのみをありがたがって専修するのが日本仏教だと言うことなのだが、本来はその個人の特性や資質によって選択されるべきものであろうと私も思う。氏の言われるとおりである。

そして戒律を疎かにし、大乗仏教には大乗の戒があってしかるべしとして本来僧侶として護るべき中国でも韓国でもチベットでも護られている僧侶としての戒律を全くと言っていいほどに無視して成立しているのが日本仏教であると指摘する。特に妻帯し家庭をもって寺院を護るスタイルは他国にはない。

それは仏教本来の形態でないのは当然のことであって、だから仏法僧への帰依も、戒定慧の基本的な仏教の三学も成立し得ない、しかるに仏教本来というよりも宗教者のもつべきオーラを発する聖職者がおらず教え自体にもその力を失っているのであろう。

そして、戒も護られていない日本仏教で戒名だけある不思議、他の仏教国にない墓や回忌法要はしっかり行われている不具合、日本人は仏教国でありながら教えが学ばれていないために、輪廻を知らず、つまり仏教的な人生観を持つことなく、全く目先の短絡的な損得勘定で生きている、とも記されている。

ただ、この墓については、墓に類する遺骨を収容する施設はタイ仏教にも見られるし、韓国にも墓があるのではないか。それに回忌法要は、インド仏教でもきちんとされているからどのテーラワーダ仏教でもなされるであろう。特に近年亡くなった故人の命日には僧侶を招待して食事を供養してお経を上げてもらうことはよくなされている。

さらには、念仏に関して氏自らが真宗門徒として育ったために、あえて弥陀の本願によって救われるというのは仏教本来の因果応報の因果律に反することだと言う。すべて仏教は自己責任で行動する自立した個人宗教であり、これが仏教本来の姿勢であると明言する。だから日本仏教は本来の仏教とは本質的に違ったものであるとも言われる。

私が思うに、念仏も結構、その後のことをきちんと教えるべきではないか。氏が指摘するように仏教の基本的なフレームはもとより、極楽に行ったとしても終わりではない、念仏は、放下であり、思い計らいを捨てて、同時に積善に尽くすべきであると説くべきなのではないか。

もちろん他の宗派においても同様だろう。即身成仏すると言って終わりではなく、それはどのような意味として現代の私たちが受け取るべきかと説く必要があろう。安易に死後誰でも往生・成仏できると言ってしまうところに、教えの価値そのものを否定してしまっているということを思い知るべきであろう。

そして氏は氏の考える仏教の基本フレームを開示する。まず教えを自ら納得するように学ぶべきであること、そして三帰三学、四聖諦八正道、中道、業縁起と説き、特に強調されて、業・縁起・輪廻は仏教思想の中核をなす三本柱で、このうちどれか一つ欠けても仏教は成立しないと書かれている。

このことに関しては、私も深く賛意を表明したいところである。特に明治以降、何度もここで述べてきたように、輪廻ということが言われなくなって久しく、だからこそ仏教が仏教たり得ない陳腐な教えと化している日本仏教の現状は否めないと私も思う。

そして氏は、ブータンとフランスでの仏教の現状を記す。ブータンは、かつて日本がそうであったように、国王自体が熱心な仏教徒であり、国民総生産という経済指標ではなく、国民総幸福、ないし国民総充足という指標のもとに国造りに励んでいることを紹介している。

このことは単にブータン一国の問題としてではなく、先進各国の物質的には飽和状態の国民の幸福度を測る指標としての国民総生産は無意味となり、換わりに、継続経済的幸福指数という考え方が世界の動向となっており、海外の経済ジャーナリストらは、その意味でブータン国王の理念に注目する人々が現れているという。

フランスではフランス人のチベット仏教僧が現れて、ダライラマ十四世の講演録や哲学と仏教の関係を論じた多くの書籍が出版されている。ベトナム出身のティクナットハン師も有名であり、フランスに住して活躍し、また日本の弟子丸泰仙師が伝えた禅も根強く息づいているという。

最後に氏は、これからの日本人にとっても仏教は果たしうる役割があると確信する、その可能性を死蔵することなく、現代をより人間的に充足感を持って生きようと心がける者にとって多くのものを提供してくれる普遍的心の泉である、泉はいつでもとうとうと湧き出ている、その水で渇きを癒し将来への指針活力を見出しうるか否かは私たち次第である、と結ばれている。

多くの業種がグローバル化の波に呑まれ、旧態依然とした体制が転換されて久しい。唯一の例外が、伝統各宗派の日本仏教ではないか。国際化を図る意味で海外に目を転じ海外ボランティアに余念のない宗派もあるが、それがはたして本来の国際化であろうか。

今枝氏が指摘するように宗祖の仏教と化している日本仏教を本然から見直し、基本的な仏教のフレームの中で各派の仏教を捉え直す作業から取り組む必要があろう。明治の変革期に各宗派が侃々諤々の議論を展開した教理主義か戒律主義かの議論も真摯に取り組む必要が出てくるのではないか。

いずれにせよ、日本にあっても、様々な情報や見聞を通じて、また近年海外から来日して法を説かれているアジアの仏教僧からの教えによって、世界基準での仏教とはいかなるものかが知られつつある時代であることを、当事者である僧侶自らがまずもって認識すべきであろうと思う。

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世の中と仏教

2008年01月13日 17時46分50秒 | 仏教に関する様々なお話
(ある方からのご質問に対する返事として書いた文章です。この世の中の様々な問題と仏法とはどのように関係し、どのような恩恵があるのかとのご質問でした。多少の改訂をしてあります)

○○様 私も実は、この世の中の成り立ちと仏教がどのように関係し、どのように説明されるものなのかにとても興味があります。現実の私たちの生活の様々な悩みの中に立ち向かい、それらをこともなく救い出す力が仏教にはあるはずです。

大きな歴史の流れの中で今の現実はとても複雑な要素を併せ持ち、それぞれの人がそれぞれの立場と環境の中で歴史と対峙している。歴史などという大それたものを出してこなくとも、誰もが日々の生活に仏教が生かされなくてはいけないと思っています。まさに○○様が抱かれている様々な問題点についても同様かと思います。

そこで、やはり私はお釈迦様が何故に縁起を説かれたかということに立ち返ってみたいと思うのです。何事も因縁によって結果したものであるという、すべてのものに原因ありとする立場です。何事もあるべくしてある。今の心を抱くのにも原因がある。すべてのことは原因があって結果しているということです。

今の日本が不況と言いながら、おおかたの人たちが厳しい生活を強いられながらも他の国々のように飢えずに生活していけているのも先人の努力のお陰でしょう。自殺が多いのは人々が物に振り回され周りの人の心を軽視してきた結果でしょう。役所の官僚たちの横暴で税金を無駄づかい、ないし搾取されるのも経済発展ばかりを尊重し、政治や特に選挙を甘く見てきた国民の不甲斐なさの結果でしょう。

ただ、地球環境の問題や様々な感染症の問題は世情言われている情報が故意に全く別の目的からなされ、そのことをマスコミを通じて世論を作るためになされている啓蒙活動ではないかと思っています。

世の中は誠実で真面目な大多数の人たちとそれを操作し扇動して大衆をある方向に向けさせ管理していこうとする立場のごくわずかの人間がいるようです。ですがそのごくわずかの人間たちの力は計り知れなく大きく私たちは大きくはその流れの中に置かれている。

だからこそガソリンがこんなにも高騰しているとも言えるでしょう。介護の問題も大きな社会問題です。上部の者とのコネによって簡単に有利な介護認定を得る人もあるようです。そういう嫌らしい社会を作ってきた原因がこれまでの社会の歴史に刻まれていることでしょうし、私たち自身の心の中にもそうした心が隠れ潜んでいるのかもしれません。

介護にせよ、結局はそれぞれの人間対人間の接点から起こる問題だと思います。子供たちに目の輝きがないのも自由が失われ、何事も管理する姿勢が優先され、親たちも余裕なく家庭教育を疎かにしてきたからではないでしょうか。

ゲームに携帯、パソコン、便利な道具はそれら機械に人間が使われるようになり人々の生きている実感を大人からも子供からも失わせてしまいました。しかしこの流れはそう簡単には修正が効かないような気がします。私たち自身がこうして通信し合っている現実もありますし。

大きくはすべてをこの縁起の教えという枠の中で真摯にその成り立ちを静かに受け入れるしかないのではないでしょうか。今の時代に生まれあわしたのを嘆いても仕方ありません。今の時代に生まれ出てきたのも私たち自身の業だとも言えます。

ですが、もちろんだからといって現状をあるべき姿だと思っているわけではありません。今の世の中に蔓延する拝金主義、雇用制度のあこぎなまでの労働者搾取、政府の国民生活をないがしろにしてまでも国民の財産をみな他へ横流しするような政策、たとえ目的を限定したとしても軍隊を海外に派遣するなどに賛成するものではありません。そのことをすべてしっかりと克明に知悉しながらなお、そのことを大きく捉え、その成り立ちを冷静に見つめなければならないと思うのです。

人生とは苦しみであると言われたのもお釈迦様です。苦しい、イヤな世の中だ、不安だと思いを重ねていくのにも原因が必ずあるはずです、根本的には欲や執着が誰にでもあります。そのことにまずはきちんと気づく必要があるようです。そして、これが今の現実であると、きちんと受け入れて、執着を生み欲を作り出す思考を遮断していくことが大切なのではないでしょうか。

なおかつ、自らは慈悲の心に住して、すべての生きとし生けるものたちに幸せを願いつつ、人々と接し、機会を見つけてはその人たちにそれぞれに応じて教え導くという姿勢を持つことしか残る道はないように思えます。

そうして心安らかに死を迎える、死ぬ瞬間には世の中がどうのと言っても仕方ないわけですし、ただ静かに心穏やかに死を迎える。そうして沢山の功徳、よい体験を得られたことなどを思い出されながらそのときを迎える。

そうすれば、必ず来世はよいところに転生するはずです。何も心配することはないのではないでしょうか、感謝と慈悲の心で死を迎えるということこそが私たちに安らぎをもたらし間違いのない死後を用意してくださるはずだと思います。

○○様の思っていたお答えとは似て非なるものかもしれませんが、今の私にはこの程度のことしか申し上げることが出来ません。どうか、インドでの体験によってすばらしい知識や知恵をお持ちであることを大切になさり、多くの周りの人たちをお導き下さいますことを念願いたします。

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 <仏教のへそ> 

2008年01月10日 19時34分49秒 | 仏教に関する様々なお話
仏教とは何だろう。簡単にそのエッセンスを説明するために、今の私が考える仏教について簡単にレジュメを書いてみました。明日の仏教懇話会で、これを見ながら解説する予定です。

[私とは何かと探求する]

  一切衆生でも、世界でも地球でもなく 私が中心課題

  私は心と体に分かれる 身体は今生の借り物 心は輪廻する 

  私は業の蓄積 生まれたときから皆違う、顔も体も心も環境も 平等ではない

  みんな違う人生 だからこそ一人一人生きる意味があり価値がある
    
  なぜ輪廻するのか →すべてのものに原因あり、結果する

  因と縁と果の連鎖の中に生きている

  悟らないかぎり無知だから生きたいという執着がある

  無知だから外から入る刺激に反応して欲や怒りを生じ、苦しみ悩み迷う

  苦しみを作り出しているのが私 自業自得 因果応報

  現実をありのままに認識する

  その愚かしい私をそのままに知り、よりよくありたいと励むための教え=仏教


[今の瞬間に生きる]

  生きている実感=五官と心で知る→好き嫌いで欲や嫌悪を感じる

  刺激に反応し思い考える

  感覚から自分自分という思いが生まれ、

  自分・自分のもの・自分の考えに執着する

  今に生きていない、常に過去や未来に心遊ばせて考えて考えて思いまどう

  それはこの世はすべてが無常だから自分も無常

  →だから常に不完全不満足不安空しさがともなう

  無常だから生老病死 

  愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五陰盛苦の中に生きている
  
  無我だから思い通りにならない

  それなのに苦しみもがき、心を暗くする、心を病む →考えない

  妄想し考える心の癖を止めて今の瞬間に生きる 訪れた幸せを十全に味わう

  今さえよければいいという刹那主義ではなく、
 
  充実した今という瞬間の積み重ねとして人生を生きる
 
  自分の一つ一つの行い、呼吸、思い、見るもの聞くもの感覚や周囲に気づく 

  考えず、判断せず、評価しない 


[みなとともに幸せを願う]

  私たちは一人で生きていけない

  →それと同じように、すべての物事は相互に関係し依存している

  自分だけよくあることはあり得ない

  →すべてのものたちを友として幸せを願い助けてあげる 

  亡己利他ではない、まずは私、親しい人、生きとし生けるものの幸せを願う

  慈・悲・喜・捨-

  すべての存在に優しく、助け励まし、ともに喜び、分け隔て無い心

  善行功徳を積む=功徳がよい来世を私たちにもたらす 

  怒り・嫉妬・ケチ・後悔に要注意

<頭で分かるだけではダメ、体験が大事 心清める行いが大切>

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