住職のひとりごと

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住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

『子どもは親を選んで生まれてくる』を読んで

2007年09月12日 09時00分22秒 | 仏教書探訪
子は親を選ぶことはできない。そう私たちは思っていたのではないだろうか。だから、何かというと「好きこのんでこんな家に生まれてきたんじゃない」などと言う子供の大きな声を聞くこともあったかもしれない。

こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。

しかし、本書「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社刊)を読むなら、そうした我が儘ないいわけを一切受け付けない理論武装になるかもしれない。書いたのは、れっきとした産婦人科の医師、池川明氏。多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っている。

そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語る。

池川氏は生まれる前の記憶を、胎内記憶、誕生記憶、中間生記憶、過去世記憶に分けている。2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうだ。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。

子供の脳は、誕生から作られるのではなく、受精の瞬間から作られるという世界の最先端の研究報告がある。幸せや喜び、悲しみや怒り、不安や安らぎなどの感情をコントロールする脳のホルモンや神経伝達物質がへその緒を通して赤ちゃんに流れ込むので、お母さんの感情は赤ちゃんと共有されるとも言われている。

だが、胎内記憶とは、鮮明な映像としてのはっきりした記憶のことを言う。お母さんのお腹の中にいるときの記憶で、胎内にあるときに両親が結婚式を挙げた様子を記憶していたり、お母さんが妊娠中にビールを飲んでいた光景を記憶している子もあるという。それらの事例ではお母さんのおへそから外の様子が見えたと言う子もあった。中には精子であったり卵子であったときの記憶を語り出す子もあるという。

また、誕生記憶とは、言うまでもなく、お産の時に産道を通りお母さんのお腹の外に出てくるときの記憶のことだが、実際の誕生の時間や場所、居合わせた人、器具、生まれ方など本人にしか分からない産道内の状況についても含まれる。

そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶が中間生の記憶である。中間生では、自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐということもあるようだが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうだ。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。

そうなると、たとえば虐待を受ける子も自分でおよそそうなることを知っていて親を選ぶのかということが気になるところである。が、その場合も、子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もある。

また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もある。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるという。

生まれる前の世界は雲の上のようなところで、その上には仏様のように座った神様がいて、死んで雲の上に戻ってきた人によいことをしたか悪いことをしたか聞いて、悪いことをしたら、次に生まれたときによいことをしなくてはいけないし、よいことをした人は誉められて自分の好きなところに行かせてもらえるという。つまり、悪いことをしたら次には自分の好きなところには行けないということであろう。

大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということだ。

心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと以前から知っていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話した。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。

さらに、過去世を思いだす子もあり、それが過去世記憶である。ある10歳の女の子は、急に男の子の口調になり、「ボクは前に三年生で車に轢かれて死んだので大きな横断歩道は気をつけよう」と語ったという。そこで詳しく聞くと、前世で死んだときの様子を、たとえば習字のバックを持っていたとか、そのころいじめにあっていたなどと克明に語り出したという。

さらには、「その前の人生で辛いことがあったので幸せになろうと思っていたのに自分をいじめる人が現れたので、いじめられ役でもう一度生まれることにしたけれど、辛いので早く終わらせることにした」とも語っている。

この子はさらに沢山の過去世を記憶しており、戦時中の沖縄を舞台にしたドラマを見ていて、戦争で死んだ過去世を思いだし、お母さんと一緒に逃げているとき銃剣で刺され死んだ様子まで語り出したりもしたという。

こうした過去世の記憶を聞いて、池川氏は、それらを一切荒唐無稽のものとは思わず、真摯に受け止めている。そして、それらがどう私たちの理解に役立つものだろうかと考える。

つまり、過去世を思い出す人がいて、それによって過去世が誰にでもある、つまり私たちは輪廻転生するものだという認識を持つことで、死ねばすべて終わり、人間はこの肉体に限定されたものだという現代人の認識を一変させることができるであろうと。

死ねば自分という存在が無に帰すと思い虚無感に襲われたり、死ぬとどうなるのか分からないという不安、恐怖の中に死を忌み嫌う人々は、誰もが生き死にを繰り返すものであり、そうして、命の尊さ、人と人の理解、信頼、愛情を学んでいくのだと考え方を切り替えることで、生きることそのものの意味を感じとることができるのではないかと言われている。

そして、自分の過去世を知ることは、過去がこうだったから、今こんなでも仕方ないと言い訳にすべきものではないと釘を刺す。過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだと捉えている。

さらには、どんな人生にも目的があると唱え、私たちが生まれてくるのは、①親、特にお母さんを成長させるため、②自分の人生のテーマを追求し多くの人の役に立つためではないかと、多くの子供たちの記憶の証言から結論されている。そして、私たちは生まれて生きているだけで、お母さんの役に立てたと思えたとき、②の自分のテーマに向かっていけるものではないかという。

引きこもり、自閉症も含め、人生の目的が分からないという多くの人たちには、様々な原因もあろうが、この池川氏の意見は示唆に富む見解ではないかと思う。そのような子を持つお母さんには特に、子供に対してあなたが生きているだけでうれしい、ありがとうという気持ちをはっきりと伝えて欲しいと述べている。

そして最後に、究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないかと、池川氏は言う。私たちにとっては、魂を心と言い換えることもできよう。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。

そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されよう。

つまりどんな環境に生まれても、その人生での目的を全うするために自ら望んで生まれてきたということになり、その環境がその人生での心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは生きているのだということなのであろう。

そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのないものなのであると理解されよう。

「子どもは親を選んで生まれてくる」池川明氏のこの本は、日本教文社の本であるためか、神や天使、魂という言葉が気になる他は、誠に仏教の生命観、輪廻転生の世界観にも共通する内容を含み、宗教書とも言える内容であった。

ただ一カ所、現在の心が変わることで過去世の行いが変わるとしている(146p)のはいかがなものか。過去世の行いに対する認識が変わると言い換えた方がいいのではないかと思えた。そのほかは何の引っかかりもなく読み通すことができた。誠に多くの示唆に富んだ良書であった。

これまでにも、輪廻を記憶する子供の話はあった。しかしそれらはインドやスリランカなど海外の事例に過ぎなかった。この本に記されている事例はみな日本人の事例である点で、それが特異なものではないと理解するのに役立つであろう。是非多くの人にご一読願いたい。

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すべてはつながっている

2007年09月10日 14時05分48秒 | 仏教に関する様々なお話
(大法輪誌9月号・特集・仏教の見方・考え方に掲載。わかりやすく仏教の体系がマスターできる特集他、宗派にとらわれない仏教総合誌。是非ご覧下さい)

   『すべてはつながっている』

無常なるこの世の姿

あらゆるものは変化を繰り返し、生まれ来るものはみな滅する、この無常という真理からは、なにものも逃れるすべはありません。

今日、インドの仏教聖地は、崩れた煉瓦積みの僧院や仏塔によって、そこがかつて寺院であったことがわかる遺跡にすぎません。中にはブッダガヤのマハーボーディ寺のように、きれいに整備された堂内に多くの参詣者が詰めかけ賑わいを見せるお寺もあります。

が、そのほとんどが、かつて数千人規模で学僧を教育していたナーランダー寺のように、いくつもの僧坊が取り囲む僧院の様子が、かろうじて煉瓦の壁で伺い知ることのできる程度の遺構なのです。

その地に立ち、隆盛だった往事の姿を想像すると、やはり日本人の私には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを顕す」と、古典の一節が思い出されるのです。

インド仏教も、かつてはアショーカ王の帰依と援助によってインド全域に広まりました。しかし、西域からインドへ侵攻してきたイスラム軍によって、十三世紀初頭、中核となる仏教寺院が次々に破壊され、以後衰退したと言われています。今日では、インドの全人口の三パーセントほども仏教徒は存在していません。

煉瓦や石で造られた堅牢な寺院も、また精神的な蓄積である思想哲学も、まさに、諸行無常、盛者必衰のことわりそのままの姿を現していると言えましょう。

すべてのものは縁りて起こる

諸行は無常なり。では、なぜ無常かと言えば、それは縁起せるものだからなのです。「法を見る者は縁起を見る」とも言い、お釈迦様の教えの中心に縁起の教えがあり、それは、この世のあらゆるものの真実の姿、そのあり方を教えるものです。

「これあるによりてかれあり。これ生ずるが故にかれ生ず」と言われ、縁起とは、縁りて起こることであり、原因と様々な条件によって現象が起こるということ。すべてのものは、そのものだけで存立しているのではなく、多くの条件のもとで他に依存して現象しています。

コップの水は、コップという入れ物によってその形をとどめ、その場の気温が液体としてとどまる温度にあり、また重力の作用により、そこに水として存在しています。気温が沸点を超えれば気体になりますし、氷点を過ぎれば固体になってしまいます。

条件が少しでも変われば別の現象が立ち現れていきます。すべてのものがこのように様々な条件のもとで、他に依存するがために不安定な状態にあります。

ですから、その水そのものも絶えず変化しています。まったく変化しないように見える硬い岩であっても、物質の最小単位である原子以下のレベルでは常に変化しつつ周りとバランスし調和して個体を形成していると言われています。すべてのものが、こうして絶えず変化しつつあり、その瞬間存在しているにすぎないのです。

私たち人間も、それぞれの条件のもとにみな違った環境の中で、生まれた瞬間からたくさんの人の助けにより、日々変化し成長していきます。不安定な存在に過ぎませんから病気をしたり毎日の体調も違います。他に依存しなければ生きられませんから、人や物に影響され、支えられ、心身ともに変化し新陳代謝することで生きています。

すべてのものは、縁起するが故に無常であり、だからこそ存在しているのです。

すべてはつながっている

ところで、地球上の全生命は、三千万種もあると言われます。それらは、食うか食われるか、光や養分の取り合い、受容と拒否の関係にある生物種など、多種多様な生物が複雑に相互に関係し合うことによって、安定した生態系を形成しています。

しかし、急激な環境破壊により、この先三十年ほどの間にその五パーセントの生物種が絶滅するのではないかと懸念されているのです。たとえ、ごくわずかと思える五パーセントの命でも失うならば、生態系全体に大きな危機をもたらす可能性があるとも言われています。

地球上の豊かな生命の営みは、一つ一つの小さな命に支えられ、その多様性によって調和がはかられているのです。

ですが、このことは、生物の世界のことだけでなしに、すべてのものが縁起することを考えると、あらゆるものが他のものたちと複雑に関係し合い助け合い相互に依存し共存する、かけがえのない関係にあることが分かります。

あらゆるものはバラバラにではなく、この縁起という関係性のもとに、すべてのものと、ともにつながって、この瞬間存在しているのだと言えましょう。


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人間という存在について

2007年09月07日 09時59分59秒 | 仏教に関する様々なお話
(現在書店に並ぶ、大法輪誌9月号・特集・仏教の見方・考え方に掲載。わかりやすく仏教の体系がマスターできる特集他、宗派にとらわれない仏教総合誌。是非ご覧下さい)

  『人間という存在について』


人間は、万物の霊長であるといい、他の動物に比べ遙かに進化した勝れた存在であると、私たちは思っています。ですが、インドの言葉では、人間も含めた生きとし生けるもの(衆生)をサッタと言い、執着せる者を意味します。

ところで、私たちと同じ人間としてこの地上に生まれ、この世の真理を悟り仏陀となられたお釈迦様は、
「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者は涅槃に入る(法句経一二六)」
「人として生まれること難く、人として寿命あること難く、正しき教えを聞くこと難く、仏陀の出でたまうこと難し(同一八二)」と教えられました。

何万回も死と再生を繰り返し、六道に輪廻(第三部参照)する衆生の中で、ありがたいことに唯一自らの行いによって輪廻を離れることが出来る人間として生まれたのだから、人間らしくしっかり生きることを教えられたのです。

また、人間とは「考える葦である」などといい、自然の中では弱い存在でも思考する存在としては偉大であるとされています。だからこそ農業も工業も発展して豊かな物質文明を育み、今日では高度情報化社会の中で、私たちは暮らしています。

ですが、一方で様々な欲望を煽り自己を肥大させ多くの社会問題をもたらし、娯楽と裕福な生活の代償として愁いや悩み、苦しみが尽きることがありません。

私は、かつて仏教発祥の地であるインド・サールナートの寺院で一年間過ごしました。そのとき環境の変化や言葉の壁、周囲の人たちとの軋轢などで気持ちの落ち込む時期がありました。それは住み始めて三ヶ月頃のことでしたが、誰にも心うちとけて話の出来ない中で、何でここに来たのだろうか、私は何をここでしているのかと悩み、何日も何をしていても悶々と悩み考えながら日を過ごしていました。

ですが、そんなある日、多くの参詣者があり、沢山の金属製の食器を一人しゃがんで砂をこすりつけ擦っていると、気づくとその洗う行為だけに没頭している自分がいました。悩み考え込んでいる自分はなく、器に力を込める行為だけがありました。考えても考えなくてもここに存在している。その簡単なことに気づいてからは、後先のことを考えず、その時の行いだけに気持ちを落ち着かせ過ごせるようになりました。

私たち人間は、ものを考え、様々に思いめぐらし思索することは良いこと人間らしいことだと思っています。がしかし、それは自分を中心にして勝手に妄想を巡らし、強固で立派な自分という幻影を作り出しているに過ぎないのかもしれません。

仏教では、人間とは、身体と四つの心の集まり、五蘊に分解されるもので、自分と言えるようなものは存在しないと説きます。大きくは色(身体)と名(心)、心はさらに受(感覚)、想(知覚)、行(反応)、識(識別)の四つの働きに分けられます。

テレビの映像は小さな三色の光の粒で出来ているわけですが、私たちはその赤青緑の光の三原色の組み合わせを見て実像の如く捉えてしまいます。丁度それと同じように、五蘊に過ぎない自分を実体あるものととらわれているのです。

では、どうしてそのようなとらわれを起こすのでしょうか。十二処十八界という教えがあります。私たち人間には、外界から刺激を受け入れる感覚器官として眼耳鼻舌身(皮膚)の五官がありますが、それに意(心)を加えて六つの受け皿があると考えます。これらを六根といいます。

そして、それらの受け皿がそれぞれ取り入れる対象を、色(形あるもの)、声(音)、香(匂い)、味(舌で味わうもの)、触(肌に触れるもの)、法(心に浮かぶ考えや思い)として、これらを六境といい、六根と六境をあわせて十二処といいます。

そして感覚器官である「眼耳鼻舌身意」が、その対象である「色声香味触法」をそれぞれとらえる心、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を六識といいます。これら六根六境六識をあわせて十八界といいます。

たとえば、きれいな花を見るという行為は、花という色境を眼識によって眼根という感覚器官に捉える過程のことです。ですが、普通それが好ましいものなら欲の心が、嫌いなものには怒りが生じます。それが問題なのです。

きれいなものを見たい、心地よい音を聴きたい、いい香りを嗅ぎたい、美味しいものを食べたい、身体に心地よい感覚を得たい、心楽しいことを考えていたいと、私たちは思います。単なる外界を認識するその過程が、そうして常に何か自分の心に刺激を与えていたい、より甘美な感覚を得たいという執着を起こし、自分の感覚にとらわれていくのです。

それは私たち人間のもって生まれた心の癖だとも言えますが、そうしてたえず心に刺激を得たいと思うのは、実は自らの心の内面、本当の自分を見たくないからでもあるのです。

昔高野山で百日間の修行に打ち込んだとき、そこではすべての情報、新聞、ラジオテレビ、手紙も電話も禁じられた中で、毎日六時間から十時間もの行を重ねていきました。そうして外部からの刺激が乏しくなると、心の中に深く潜在して普段現れることのない記憶や感情が沸々と湧いてきました。

そうした自分という幻影にとらわれた潜在意識に翻弄され影響されていた自分も知ることになりました。そして、ありのままの自分を知ることで、不安も焦燥も消え、安らぎを得ることができたのです。

人間らしく生きるためにはいかにあればよいのでしょうか。人間とは、執着せる存在であることを自覚しつつ、自分の心を探求し学び続けなければならない存在なのだと言えましょう。

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