住職のひとりごと

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幅広く仏教について考える

六波羅蜜に生きる 彼岸会法話

2019年09月22日 14時43分12秒 | 仏教に関する様々なお話
お彼岸の法要、大変ありがたく拝聴させていただきました。お彼岸は春も秋も農閑期に行われる仏事に精進する期間として、いつの頃からか日本に定着してまいりました。中日には丁度真西にお日様が沈む、その方向に向かって、西の極楽浄土におられるとされる阿弥陀様に合掌し念仏を唱えるのに誠に好機、適しているとして、おそらくこの前後一週間を彼岸としたのだと思います。ですから、この春秋の時期に彼岸を設けたのは平安時代中期以降のことであろうかと思います。

ところで、ここだけの話ですが、極楽に行くというのはそんなに良いことではないと私は思っています。極楽に行き、阿弥陀様のような立派な方の教えを受けるのはよいのですが、その状態に我慢できるのかというとこれは大変なことだと思うのです。何か欲しくてコンビニに行くなんて事はあり得ません。気持ちの良い音楽を聴きたいなんてとんでもない。疲れたから横になってだらだらなんて事もできません。ただ仏さまと同じように瞑想三昧、起きているときには修行の話ばかり、食事も一日二回ほど、甘いケーキなんてついてきません、コーヒーも飲めません。

そうした状態にかなう、修行づけの毎日についていけるだけの修行を今生でできた方なら問題ありませんが、私たちでは無理です。ですから、念仏修行というのはよいのですが、極楽は今の私たちには極楽とは感じられない所と思った方がいいんです。やはりそれよりは何度も人間界に生まれ変わって、喜怒哀楽の世界で、自分の意志で何でもできるわけですから、何とか頑張って心をきれいに、良いことに心が向かうように生きることが一番だということになります。

そこで、今日は大乗仏教の修行である、六波羅蜜についてお話し申し上げたいと思います。六波羅蜜については、これまでの私の文章の中にも簡単に書きましたし、こちらの皆様からもお話を聞いて下さっていることとは思いますが、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つですね。これはもともとお釈迦様が仏陀となる最後の人生を与えられる前に、何回もの前世で功徳を積む際に、大切にされた修行内容であるとされています。将来私たちもお釈迦様の様な悟りを得るために修行に励んでいる大乗仏教の修行者、菩薩として、当然これら六つの波羅蜜を完成しなくてはいけませんよということです。

布施というのは、施しをすること、ですが、なぜ布施が大事なのでしようか。これは私たちは一人では生きられないということですね、当然周りの人たちがいなければ自分という存在さえ確認できません。つまり自分がよくあるためにも周りの人たちが良くあらねばならない。良くあって欲しい、そのために自分の持てるものを分け与えつつ、自分も他者もなく、ともに良くありたいという気持ちから発せられるものということです。

持戒は、そうして周りの人たち生き物たちとつきあうためには、自分のしたい放題ではうまくいきません。よくありたいという思いは他者も同様ですから、自分だけ良ければいいというのではなく、周りにとっても良くある行動が必要です。五戒という在家の仏教徒の戒律があります、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つですが、これらはよくご存じの通り、生き物を殺さず、与えられていない物を取らず、淫らな行為をせず、嘘をつかず、お酒を飲まずということです。インドは未だにお酒をタブー視する社会でして、お酒を飲む人は悪い人、危ない人、ならず者というような感覚があります。とにかく、これら五つを守り社会の一員として健全な関係を保つ必要があるということです。

忍辱は、耐え忍ぶということですが、この世の中は思い通りにはいかないものだということです。四苦八苦という言葉があります。生老病死、それに、求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、五蘊盛苦、そのどれもが誰にも掟の如くつきまとうものであり、避けることのできない苦だというわけですね。今年も災害の多い年になりましたが、自然による思いがけない災難もあります、また人間関係でも困ったこと、いじめや嫌がらせなどもあるかもしれません。そうしたときに、忍耐が必要であり、自暴自棄になったり、人のせいにしたり、冷静さを失ってはいけないということです。もともと人の世の中とは思い通りにはならないものだと思っておくことが大事です。

大きな災害があったとき、諸外国の人たちが泣き叫び国や行政にくってかかるような場面を良く目にします。私が神戸で聞いた話は、震災の時、役所に罹災申請をする長蛇の列に並ぶ人、誰一人騒ぐことなくみんな粛々と列をなしたと聞いています。みんな大変なんだ、役所の人もみんな被災しているのに頑張ってくれているのだからという声です。日本人は忍辱というものが長い歴史の中で身についているものと思います。ですが、最近よくキレるという言葉が使われるように、急速に日本も我慢の足りない世の中に、なりつつあるのかも知れません。

精進は、折角六道輪廻の六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の中で最も自らの意志で何でもできる人間界に生まれたからには、悪いことをせず善いことをするということなんですが、この場合の善いこととは功徳を積む、その功徳によって、自分自身がよりお釈迦様に近づく、悟りに向かっていくことですが。つまりいろいろなこと、自分や自分の思いにこだわりがなくなることによって、心が楽になること、きれいになる、ということです。

ところで、悟りって何でしょうか。悟りの心というのは、動揺のない、波のないきれいな大きな海のような心です。高飛び込みで、上手な人が飛び込むと、チャぽんといってほとんど波がたちません。あのように、何を投げ入れられても、台風が来ても、大地が揺れても、一瞬で波がなくなり、とても澄んでいてきれいな透明な海のような心です。私たちは小さな石ころでも投げられるといつまでも波が止まない、それに濁っていたり、そんな心ではないでしょうか。

禅定は、その悟りに到る修行のことです。昔、インドのサールナートで一年あまり過ごしたときの話ですが、住み込んだ最初の頃はインドのお寺の生活にも慣れず、現地の言葉もおぼつかないこともあり、孤立して、おまけに皮膚病になって全身湿疹だらけになったりで、身動きが不自由になり、何をしてもへまばかりしていました。そして、何でこんな所に来たのか、何をやっているんだ、何をしに来たのかと頭の中が堂々巡りをして、四六時中そんなことを考え、ノイローゼな状態で過ごしていました。

あるとき、日本から学生さん達が来て、彼らの食べた後の食器を私が一人洗っていたとき、インドのことで砂をこすりつけて油のついた金属の皿を洗っていたのですが、ただそのことに没頭し、いつも考えていたいろいろなことを全く考えていない自分に気づきました。皿を洗っているだけの自分に気づいたその瞬間に、なんだこれでいいんだ、考えても考えなくても変わらないのだと思えて、それまで重かった身体もスッと軽くなり、頭もすっきりして、それからは何があっても、気楽にただそのときそのときを一生懸命にあればよいと思えるようになり、その後一年あまり過ごすことができました。

何も考えずに今ある行いだけに心を向けている状態が禅定であり、そのとき気づいた思い、ひらめきによって心が楽になったりする、その気づきが智慧であり、煩悩が薄皮をはぐように減っていくというわけです。皆さんにもそうした経験があるのではないかと思います。

六波羅蜜ということ、私なりの解釈でお話申し上げました。お彼岸は、お墓に参るだけでなく、この六波羅蜜を意識して、少しでもこの教えにかなうように生活をする、そういう一週間であるということです。少しでも皆様にとってご参考になればありがたいと思います。それでは以上で終わらせていただきます。

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信仰によって救われるとは

2019年09月13日 20時55分31秒 | 仏教に関する様々なお話
信仰とは何か、それはなぜ説かれたのか(本日の仏教懇話会で話した内容に加筆訂正したものです)。お釈迦さまは成道後、この悟りは他のものには見出しえない、理解しえないと思われた。そのため法を説くことをあきらめたのである。しかし、インド世界の最高神梵天が現れて、そんなことはない、この世には煩悩薄く説法によって法を理解し悟れるものもあるはずとの助言によって、改めて天眼によってこの世を眺めてみると梵天の言うように煩悩薄く悟れるものあることを知り、法を説くことを決意された。つまりお釈迦様は、自らと同じ悟り、解脱を成し遂げることを衆生に求められたのである。

しかし、仏滅後、百年、二百年と年月が経つに従い、お釈迦様と同じ悟りを成し遂げるという大目標に対して、今日の私たちのようにとても叶い得ないものとしてとらえ、お釈迦様に対する信仰、それも単に何事かを願い加護をうるものととらえるようになっていったであろう。そのような時期に、西域から沢山の異民族がインド世界に流入するにしたがい、彼らはインド土着のバラモン教によってカースト外の扱いにされるのではなく、異民族をも平等に受け入れる仏教に帰依し、地域を統治する教えとして、信奉した。

大きな乗り物と自ら称した大乗の教えは、すべての者を対象として、その救済を願い、空という言葉を標榜して、善も悪も、自己も仏も、迷いもさとりも、空であるが故に実体がなく不二(ふに)である。つまり、私たち自身を仏と全く隔絶したものとしてではなく、不二としてとらえて誰もが仏に成り得るとしたのである。そして、インドの神々に匹敵するほどの多くの仏菩薩を誕生させ、それらへの信仰を推奨した。

信仰するとは、ただ手を合わせ名を唱えることではなく、その仏菩薩のすぐれた徳や善根に随喜することであるとせられた。随喜とは、その仏がどういう仏で、どのような徳を積まれどのような悟りを得られたのかを正しく知り、それをまるで自分のことのように喜び賞賛して、その功徳を自分のものとすることを意味していた。そうして、その受け取った優れた功徳を自らの悟り、菩提のために廻向する、振り向けることによって、業報輪廻からの解放が得られるとしたのである。

しかし、それを可能とするためには、心を般若波羅蜜にとどめ、すべてのものを空と見て、不二ととらえられねばならない。般若波羅蜜とは、六波羅蜜の一つでもあり、智慧の完成と訳す。なにものにもとらわれず、心にとどめないことである。そして、そのような境地を得るために、少し後の時代のものかもしれないが、さかんに空性の瞑想がなされたのである。自分の体、心を分解し自分と言えるものがあるのかと瞑想し探求する。これが自分と言えるような不変の実体ある自分などどこにも無いことを悟ることをその目的としている。

これに対して、一般的な行としては六波羅蜜が説かれることになった。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、これらの波羅蜜、つまり完成と名付けられている。では、智慧波羅蜜を除く、世間における五つの俗行を波羅蜜に高めるためにはいかになしたらよいのか。六波羅蜜は、他者に施しをしたり、在家の戒である五戒を守り、思い通りにならないことに忍耐し、善行に励む、さらに坐禅瞑想にいそしむ。

しかし、それだけでよいというのではなく、これら五つの行いを為したなら、それらの徳をすべての者たちの菩提のために廻向する、無上菩提のために廻向することによって、崇高なる出世間の無上菩提の完成になる、つまり六行が六波羅蜜に転換されるというのである。それこそが空の働きであり、仏陀の働きであるから、菩薩の行となると考えられた。だからこそ、今日漢訳の大乗仏教圏では、お勤めの最後に、「この功徳を以て普く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」と法華経化成喩品にある廻向文が唱えられるのではないか。

さらに、空の世界に入るためには言葉の概念世界からの解放が必要であるとされるが、そのために、たとえば般若心経では最後の一行である真言、マントラこそが重要視され、真言を唱えることによって言葉の概念世界からの解放を目的とした。そして、心経はその前段階で五蘊をはじめとするお釈迦様の教説を否定するが、それも、とらわれない心にとどまり、あらゆるものに心とどめないこと、ものを認識して執着しないこと、すなわち般若波羅蜜にとどまることを述べたものにすぎず、それこそが彼らの心の支えであり、そうあれば業報輪廻からの超克さえも可能なのだと考えたのである。

結局、お釈迦様を崇拝し何事かを願うしかなかった人々に向けて、信仰すれば救われますよ、もっと仏陀のことを知りなさい、たくさんの仏について思いめぐらし、それら仏のような心もちになり働きなさい、さらに、瞑想してみなさい、衆生の悟りのために廻向しなさいとそうすれば輪廻も超えられますよと、と巧みな説き方によって、誘導し、信仰からより本格的な修行へと段階を踏んで人々を導く方便として大乗の教えがあったと考えることができよう。

今日、大乗仏教の説き方は、特に我が国においては、まるでその本来の意味合いを忘れたかのように簡易に単一的に容易なものとしてしか教えを説いていない。このありさまは、大乗仏教運動を創始し展開した当時の仏教者たちにはまるで不本意なものと映っているのではないだろうか。大乗仏教は、これだけすればよいというような教えではない。総合的重層的なその構造があってこそ、一切衆生も仏になりうるといえたのであろう。

参考文献・梶山雄一著『般若経』(中公新書)

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