住職のひとりごと

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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (2)

2023年11月18日 20時14分44秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (2)


まさにこの原因結果という言葉は今日世間において、いたるところで語られないことはないでしょう。ですが、世の人々が言うところはただ目の前の原因結果だけを言うのであって、過去や未来に及ぶものではなく、ただ自分一人に現れ見る、この一生のことに過ぎません。ですが、この目の前の一生のことですら、原因と結果と符合しないこともあります。言い換えると、豆の実を蒔いて麦を収穫したり、麦の種を蒔いて米を収穫するというような不思議なことです。

どのようなことかといえば現実に、生涯務めて汗を流し困苦しても、十分に飲み食いもできず着るものも満足でない者があります。また日夜学業に励み人の倍もの努力をしてもその結果は平均程度にしかならない者があります。あるいは、怠慢であるにもかかわらず博識の者があり、遊び惚けているのに生涯余りある衣食にあずかり困る事のない者があります。

こうした事柄は世の中には現実に少ないことではありません。これすなわち、原因と結果と相反するものがあるということです。もし世間で実に勉強する者がことごとく学者となり、仕事もせずにブラブラしているものがみな困窮するのであれば、すなわち世の中の人が言うような一生の間に眼に見ることのできる程度の原因結果で事足りることでしょう。ですが、この世の中のことは決してそのようにはならないことはみな人の知るところです。

またたとえ勉強して博学者となったとしても、その勉強して博学となることの原因は何から来たのかと問うならば人は答えることができないでしょう。どうしてかといえば、もしも父母が元手を出し身体も健康で、またもとから利発であり、精神的にもしっかりして勉強することができるとしても、その精神や幸福がどういう原因から来たのかと、そのよってきたるところを尋ねる時は、必ず何の原因をもってこの精神を受けることができたのかと問わねばならず、ついに五里霧中に茫然とならざるを得ないでしょう。これは人が浅き知恵でもって目に見ているこの一生のことの他に過去も未来もあることを知らないが故の狭い考えから出た根拠のない思い込みであって、人は死後我は断絶して無に帰するとする断見、あるいは、世界は永遠で自我も死後まで不滅であると執着する常見に惑わされているからであります。

ですから、ここに仏世尊があり、この迷える者を憐れみ大覚の悟りを開いて、私たちのために迷い転じて開悟して妙なる教えを説きあらわされたのです。この生死の冥暗の中において燎然たる火を観るがごとくあるものは、ただこの三世因果善悪応報の真理のみなのです。もし今この三世因果の真理によって世間を照見するならば、その勉強してもそれでも貧困をもたらすかのように見える者は、これは勉強が原因で貧困の結果をもたらしたのではなく、過去世における人を困らせ苦しめた原因が今日に結果を顕して貧困を受けているのです。いわゆる貧困の原因とは財を貪り、施さず、かえって他人の財をかすめ取り他を苦しめる所業が今日に結果して自分の困苦となっているのです。

またこれに反して、生まれながら聡明で利発で活発な人は前世において学を修め知恵を磨き徳を積んで慈善に努めた結果が今日に現れ、慈悲深い父母に愛され教育を受けて生来の智力をもってますます増進発達する結果となるのです。こうして見てみると、たとえ勉強して今世についにその好結果が顕われなくとも、その勉強の功徳は無駄になることはなく、現世にその結果を得られなくても未来において必ずその結果を得ることができるのです。

またこれに反して、仕事もせずブラブラしている者が生涯困苦を感じることなく生きられるというのも、遊び惚けていることが原因で安楽を得ているのではなく、その安楽を得ている原因は過去世において他人に慈善を施し人に安楽を与えた原因が今日に結果して困苦を感じない一生を過ごせているにすぎないのです。ですが、いま遊び惚けていて善行に励むことがなければ必ず未来に困苦することは疑うべくもない真理の当然の結果であります。今仕事も満足にせず遊び惚けて困苦を感じないからと自ら奢り努力しない時は未来に必ず激しい苦しみを感じ安楽な日がなくなることでしょう。

このように広く三世にわたる原因結果を見ていくと一事一物として疑うべき事柄もなくなり善因善果悪因悪報の法則明らかとなり判断に苦しむようなこともないのです。これすなわち大聖世尊が三大阿僧祇劫の修行によって、あらゆる現象が具えている真実不変の本性である深い真理をご覧になり、その至らぬところがなき智慧によって達観なされたものであるが故なのであります。

ですから、心から道徳というものを志そうとする者は深くこの意をくんで、篤く因果を信じて勉めて十善を行じ、また人にも善悪因果の真理を信じて十善を行うように勧めるべきなのです。もしこのようになる時は、天下に正しく道徳がゆきわたり行われないところがなくなるでしょう。これは真に正しき道徳であり、人の人たる道というべきものです。もしもこれに反する人は、果てしないこの世とはいえ身を置く場を失うことでしょう。だから疾く勉めるべきなのです。


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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (1)

2023年11月15日 08時43分48秒 | 仏教に関する様々なお話

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『十善の法話』 東京十善会蔵版  明治二十八年四月十五日十善会福田慈海編輯発行 

『十善の法話』 雲照和上の御講演 (東京三浦家において)

さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、またついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。


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