住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

平等ということ

2022年12月11日 19時50分25秒 | 仏教に関する様々なお話
平等ということ




世の中は何かと生きずらい。子供の頃には気づかないが、大きくなるにつれてあの子はいい家の子だからとか、親の着るものや車に目が行き、ついうちとは大違いだななどと、いろいろ考えさせられるようになる。インドでは、お釈迦様の時代ばかりか、いまだに階級というものが、カーストと私たちは言うが、彼らにとってはヴァルナという色を意味する階級が厳然と存在している。ないしはジャーティというような職業による二千以上ともいわれる階級まである。

それでも仏教は、すべての人は平等であるとして階級差別などしない。なぜそうもはっきりとした態度がとれるのかというと、誰もがこの因果応報の世の中に生きているからであろう。お釈迦様と同年代だったというコーサラ国の大王パセーナディとの会話の中で、お釈迦様は四種類の人があると言われた。良き生まれであっても、それに胡坐をかくことなくまじめに努力して生きて実り多き人生を送る人と、同じように良き家に生まれても学び少なく満足に働かないがために没落していく人がある。

また貧しい家に生まれても、真面目に努力して周りに助けられ豊かになり、よき人生を送る人がある。逆に貧しいがために悪事に手を染め、さらに悪業を積んでしまう人もある。このような四種類の人があるのは、人はつまり生まれではなく行いによって、志によって、いかようにも変われるということであり、そうした可能性を秘めた存在として、何人も一つの命として平等であって、生まれによって分け隔てするなどの差別を否定し、いかなる人も平等であると説くことができたのであろう。

インドの人々は今も輪廻を当たり前のこととして生きている。今こうあるがもっともっと努力して徳を積んで来世はより良いところに生まれ変われるはずであると考える。だから長い来世も含め未来世を考えた時に、今どうあろうとも、その人を差別したりできないということにもなる。誰もうらやんだり、あがめたり、またさげすんだり、あなどったりなどできない。次は我が身かもしれないと考える。だから今ある場所で、とにかく頑張って、よりよくあれるように努力する、周りの人たちを大切にして、よりよく生きるしかない、それが幸せになる道と考えるのであろう。

いま私たちはとても不安な時代に生きている。コロナ騒ぎも相変わらず日本やアジアの一部だけはなぜか続いているし、物価が高くなり生活が苦しくなる一方である。さらには増税してまで軍事費を増額するなどと言い出して不安をあおられている。いいことは何も見つからない。コロナコロナと翻弄されて、つかの間サッカーに野球にと、スポーツやシネマ、セックスと庶民が、相変わらずそんなことにかまけている間に世の中が、世界が何者かによって変えられていく。

しかし、それでも私たちにできることはこの場でよりよく生きることしかない。うまい話に乗れば足をすくわれ取り返しのつかないことにもなるし、そもそも悪業を積んで来世が不安で死ぬ事も出来ないということになる。だから、善因楽果・悪因苦果、因果応報なるが故に、誰もが平等なのだとこの世のあり様である、その真理を信じて、日々みんながよくあるよう、精進努力して地道に頑張るしかない。そう思えるのであるが、いかがでろう。そうしてこの世の変わりゆくさまを冷徹な目で見ていようではないか。



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大乗仏教とは何か

2022年12月10日 08時39分40秒 | 仏教に関する様々なお話

これまでの説

お釈迦様歿後500年ほどして、一般大衆のための新しい仏教運動として起きてくるのが大乗仏教だと言われてきました。そして、大乗仏教は、仏滅100年目にあった根本分裂によって、上座部という伝統派の比丘(びく)と大衆部といわれる改革派の比丘との分裂をきっかけに、その大衆部の比丘たちから徐々に教えが開かれたものになり、大衆化して世俗化した教えが大乗仏教であるとされてきました。

それから、もう一つの説が仏伝文学からの流れが部派仏教を越える思想に発展したとするものであり、第三の説として、仏塔を護持し供養する在家の信者たちによって教えが語られ記録されて大乗仏教のもとをなしたとの説があります。しかし、それらはいずれも大乗仏教を仏教の側からごく一面を捉えて説を立てたものに過ぎないのだろうと思うに至りました。

保坂俊司先生著『国家と仏教』に学ぶ

保坂俊司中央大学教授の著された『国家と宗教』(光文社新書)を読んでそのことを痛感したのです。先生は比較宗教学がご専門で、イスラム資料を渉猟されて何故インドから仏教が亡くなったのかを論証された先生です。

そしてこの書では、なぜ大乗仏教がかくあるのかを西域からインドに侵攻して国家をなし、仏教を国の統治理念として採用したクシャーン朝などの仏教との関わりを詳細に検討することで明らかにされています。もちろんこのような指摘は梶山雄一先生の『さとりと廻向 大乗仏教の成立』講談社現代新書等でも見られるものではあるのですが。

血統主義を超える思想として

まず、仏教をインド全国へ宣布するアショーカ王について検討されています。アショーカ王のマウリア王朝のもとをなすマガダ国自体が実はバラモン教の原理を否定する地域であり正統バラモンからは蔑視される存在でした。アショーカ王も血統と階級を重視するバラモン教の視点からは異質な存在であったのです。だからこそ彼は平等と憐れみを説く仏教を必要としたのでした。そして、王柱を立て、また岩などに法勅を刻むことで、インド全国に仏教は広まりました。その手法も、インド的ではなく、当時の先進国ペルシャの影響によるものであったと先生は言われます。

このことはギリシャからインドに入った征服者においても同様であって、彼らが仏教に帰依したのは単に教えが素晴らしいということのみならず、インド社会にとっての異民族はすべて賤民であり最下位のカーストに属することになるので、宗教的救いにおいてその行いにより覚りありという点で誰をも差別しない仏教に帰依するほかなかったのです。

そのために、仏教がバラモン教にも増して、その思想性や豊かな文明を持つものである必要がありました。般若経典の膨大な量は、対するバラモン教のヴェーダ聖典に匹敵する典籍を求められたことが考えられ、儀式儀礼もインド古来の祭祀に対抗する大がかりな作法を求められたであろうと考えられます。また、沢山の諸仏諸菩薩もインドの神々のバリエーションにあわせたものとして生み出されていったと想像されるとのことです。そうして大乗仏教は発展を遂げるに至ります。

外来の民族がインドに定着するために、彼らは仏教に普遍性を求め、その非インド系信者とその思想によって変化していったのであり、だからこそ大乗仏教はバラモン教から見て辺境の北西インドで隆盛するのです。特にペルシャの文化とその文明がそこには大きく影響するとしています。

政治思想として

すべての人の平等を説く仏教は当初一地域の教えに過ぎませんでした。しかし、他宗教に対して寛容な教えを政治的に利用することで、つまり仏教を政治思想として読み取ることによって、自己中心的な発想を超え、地域主義、血統主義など差別的な思想、認識を越えて国家の中枢の教えたるものとして発展させていくのです。そこで、異民族国家がインドの地に定着し統治していくために、仏教をインド世界で大きな社会的勢力に育て上げることが不可欠でした。

西暦紀元前二世紀に国を興し、紀元後一世紀にインドに至る中央アジアに広がる大帝国となったクシャーン朝は、交易国家であったがために北西インドの交通の便の良さに注目し、インドのマトゥラーに宮殿を建設します。はじめは多様な信仰を保持したのですが、後に仏教の熱心な擁護者となり、仏像を造り、貨幣にまで仏像を刻み、経典を文字化して崇拝対象としました。そして国境を接して政治経済的結びつきの深いゾロアスター教などの多くの宗教との融合と、そうした新しい社会の出現によって仏教は大きく変革されていきます。大乗仏教の菩薩の出現も、ゾロアスター教の「サオシャント」という、人々を利益する者を意味する、救世主がその起源として考えられると、岡田明憲氏の研究を引用されています。

そして何よりも大事なことは、大乗仏教を代表する思想である「空の思想」こそが、この新しい社会にとって不可欠な思想として成長したのでした。異質なるものの共存、多元的なあり方を認めつつ全体として緩やかな統一を形成する思想や方法論として、この空の思想がありました。空とは、すべてのものは因縁果の縁起の法則から逃れられるものではなく、決して出自によって決められるものではない、すべての存在は厳然たる因縁因果による業のうえに平等であるがゆえに何人も対等に扱われるべきであるとするのです。

なにものにも実体はないとするその理論が、自己を絶対化せず他の存在を認めるがゆえに、多種多様な思想の融合原理として有効だったのです。この思想を政治理念として採用することで、あらゆる対立の根拠を超越して、多民族多宗教などの共存社会建設が可能になったのでした。つまり世界的大国を支えるイデオロギーとして不可欠なものであったのです。

しかしそうした異民族の大国による侵入と支配はインドの民衆には混乱と闘争を引き起こしたことは想像に難くなく、そこで教えとしては、民衆救済の観点から出家者ではなく在家者中心の教えとすべく、自らを菩薩と捉え、出家者に代わるシンボルとして、聖典を受持し、仏像を祀り、ストゥーパを礼拝して、信仰と経典の読誦、書写という易行道を実践。日常は六波羅蜜を行じることで功徳を積み、誰もが仏性を有する者としてその開顕のために精進すればよいとされたのでした。超越する原理がすべてのものに内在するという、一見安易な教説のように感じられる仏性論もこうした他民族社会や複雑な国家内の融合のために不可欠なものとして、そうした環境が生み出したものと考えることもできます。

さらに仏教は、経済・文化・芸術・医学・薬学・建築・土木工学に至るあらゆる文明を形成する諸要素を含み、各々の分野において指導原理となりうるものなのだと記されています。つまり大乗仏教とは、単なる宗教哲学倫理を遙かに超えた、一つの文明と位置づけられるものであると結論されています。

現代に不可欠な思想として

そして今、二十一世紀に展開する宗教、ならびに文明の対立は大きな世界の不安材料となっているわけですが、先生は今こそこの大乗仏教の空の思想によって、その宥和を図るべく、日本人がそれを説き、世界に平和をもたらすべきであると提唱されています。なぜならば、日本こそ、仏教によって古来国造りがなされ、天皇を頂点として千年に亘り世界的にもまれに見る仏教外護者が政治の中心に常に存在し、国民一人ひとりに仏教がしみこんでいるはずだからです。仏教は単に儀式儀礼のものではありません。保坂先生が唱えられるように、大きく国のあり方を決める政治思想として、また世界経済の動向を左右する経済思想たり得る思想体系でもあるのです。


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