住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

朝日新聞記事『脱お坊さんまかせ』について

2008年05月27日 15時15分14秒 | 様々な出来事について
朝日新聞5月24日朝刊に『家族だけでもできる・・・もっと手作りの法事を』という記事が載った。著名な社会学者橋爪大三郎氏の近刊『家庭で出来る法事法要』(径書房)を紹介したものだ。ようは坊さん抜きで法事をしようではないか、その方が仏教のなんたるかに近づくことが出来るという内容だ。

核家族化の進行、病院での死が常態となり、子供たちが死から遠ざかっている。だから葬儀は無理だけれども、法事なら自分たちだけで坊さん抜きでも出来るという。だが、それでどうして子供たちが死と向き合えるというのだろうか。よくわからない。

自分は仏教徒らしいが宗派も知らないという人たちのために、とは言うが、葬式の後の法事ということになれば、既にある宗旨の坊さんに頼んで葬儀をしたのだから、その宗旨でその後も法事を営むのが自然だと思えるが、そういうことには触れていない。

大乗仏教はお釈迦様の言説ではないものを含むから初期仏典を施主が読めばよい、それで法事になると言う。起立、黙祷、読経、献辞などと時間配分されたシナリオを提示してもいるという。こうした内容の、いかにも現代人が受け入れやすいといえるようなマニュアル本を社会学者が試行錯誤して書く時代になった。そのこと自体に現代日本の伝統仏教への痛烈な批判を感じるし、反省を促していると思えよう。

単なる反発でなしに、真摯なる何かしらの改善を志向する契機とせねばならないのであろう。この記事にもあるように、橋爪氏がこの本を書いた背景には、「檀家衆の精神生活とは無縁で、彼岸や○回忌など特定の日にだけ登場して経を読むプロの仏教者への批判と問題提起がある」としている。

プロの仏教者などという表現に、既にただの職業集団としての坊さんに過ぎないという批難が聞こえてこよう。そもそも三宝の一角としての僧宝を欠く近代以降の伝統仏教のあり方が問われている。

妻帯し戒律を守っていない僧団は出家にあらず。本来の仏教から考えればその通りなのである。けれども、現代日本仏教は、妻帯しつつも、伝統を継承する僧侶が専門僧堂での修行を通して、教えのなんたるかを学び実践する中で培ったものを布教宣布する集団として維持されているのが現実であろう。

だから、法事をして読経だけで済ますというのは、やはり批判を受けるにあまりあると言えよう。法事とは、本来的には、清貧なる修行生活の中にある出家者に対して、修行のために必要な食事や袈裟、日用品を施し、彼らの生活する場である寺院を維持発展させるために布施をする。そうした功徳をもって精霊や先祖へその功徳を廻らすことが法事であり、法要であろう。

本来からすればこうあるべきなのである。だから、橋爪氏が述べているように法事を通じて読経し、お釈迦様の教えの一端でも学ぶ機会として法事を捉えるのはよいが、そこに功徳を施す大切な意味が忘れられている。

やはり、そこに先導する者として坊さんがあり、経を唱え、共に教えを学び実践する場としての寺院を維持発展させていく功徳として布施を捉えるならば、法事の功徳もあるのではないか。よって私には、家族だけで経を唱え事たれりとするのはいかがなものかと思える。本来の意味からしても意味をなさない。ただの偲ぶ会と言わざるを得ない。

さらに橋爪氏は、この本の続編として戒名について述べた著作を構想中だという。橋爪氏は戒名を本人もしくは遺族が付けると言う。が、戒名も本来いかなるものなのかと考えねばならない。

戒名は坊さんの僧名に相当するものであり、それは師匠から授かるものである。戒を授かり仏教の世界に入門することを意味するのだから、単に名前を変えることなのではない。檀那寺の住職から戒を受けその際にいただくのが戒名であり、単に名前を付け替えるものと認識されてしまっているのであろうか。

もしもそうならば、それは、今の日本仏教がやはりただ読経だけにたより、そうした仏事の一つ一つの何たるかさえもまったく伝えてこなかった咎によるのだと言えよう。橋爪氏が期待するお釈迦様が説かれた「いかに生きるべきか」を説くまでもなく、その入り口も見えてこない現状に対する憤りが聞こえてくるようだ。

いずれにせよ、このような著作が世の中に出回るということは、本来の仏教を現代に模索するためによいことであろう。あの『千の風になって』が様々な議論の中で、人の死について考えるきっかけとなったように、この橋爪氏の著作が仏教について考える機会となってくれることを願いたい。

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『 地獄は一定すみかぞかし 小説暁烏敏 』を読んで

2008年05月22日 12時18分52秒 | 仏教書探訪
十年ほど前に手にいれていた石和鷹さんの小説(新潮社刊)である。思うところあって再読した。第8回伊藤整文学賞を受賞している。暁烏敏(あけがらすはや)とは、明治から昭和にかけて説教と著作で一大ブームを巻き起こした明治の怪僧である。名僧という人もあるかもしれないし、傑僧と言うかもしれない。ただよくよくこの本を読んでみればそういう範疇の人でもなかったようだ。

明治の真宗の近代化の旗手であった清沢満之の弟子にあたる。歎異抄は今ではポプュラーなものではあるが、当時は誰も語る人無く、この暁烏敏が見出し今日のように親鸞さんと言えば歎異抄とまで言われるほどにしたのであった。

その歎異抄によって自ら救われた体験から法を説き、常に全国各地に出向いて説教会が催される。会場には瞬く間に何百人何千人もの聴衆が雲集したという。自坊であり生まれ育った石川県松任の明達寺にはほとんど帰らない。その間すべて家族の世話からお寺の切り盛りをしていた、友人の妹であった夫人を病死させ、さらに恩師の娘さんを後妻に迎える。にもかかわらず40代半ばにして、近郷の名家の病弱な娘さんと真剣な恋仲になってしまう。

また当時の真宗教団にとっては、歎異抄は劇薬の部類に入り、それを語り法を説く彼は異端者としてのレッテルを貼られる。本山に異安心として告訴状まで提出される。さらには様々にプラベートでの行状が暴かれて中外日報など宗教各紙に取り上げられスキャンダルに発展する。しかしそんなことどもすべてをあからさまに自ら告白し、それをまた法話や著作の題材にしてしまい、かえって聴衆は増したほどの桁外れの人物だった。

小説の主人公は咽頭ガンで声が出ず、発声教室に通う。その頃暁烏敏に興味を持ちその膨大な著作を読破していく。図書館に通い、また古本屋から希少本を取り寄せて貪り読む。その背景には主人公自身も暁烏敏のようなドロドロした女性関係におぼれ罪深き自己を省みる中で、暁烏の思想から救われる思いがしたからなのであろう。

きれい事では済まされない人としての一生をいかに思いあきらめ、なにに救いを求め、生き抜いていくか。誰もが求めているものを主人公は明治時代の怪僧の一生から学ばんとする。主人公は、共に咽頭ガンを患い発声教室に通う同じ初老の婦人と相たずさえて暁烏の人間像をたぐっていく。

このご婦人が暁烏の自坊近くの出身で、主人公とはまた別の意味から暁烏という人物に関心が強かったがために、暁烏敏について男女での捉え方の違いを鮮明にしつつ、人の一生が一筋縄ではいかないことを訴えかける。理想ばかりには済まない人の切ないまでの葛藤、どうしたら心の安寧をうることが出来るのか。考えさせる。

中年頃から失明に瀕していたにもかかわらず、インドや欧州に一人旅立ち膨大な古今東西の著作を収集して帰国した暁烏は、次代の研究者のために、大日本文教院というとてつもない建物の建設に奔走する。

松任のお寺の近隣の富豪から家屋敷を寄進されるが、この遠大な計画は結局戦争の時代に入ることもあって挫折する。彼にとって思うようにいかなかった唯一のものであったらしい。東西の文学、哲学、思想に飽くなき好奇心を持ち、失明してからは本を読んでくれる青年、読書子を常に侍らせていた。

また戦中従軍僧としても戦地に赴き、また戦争遂行者たちとの親密な関係も噂された。虚実こもごもではあるが、一条の光も目にすることのない中で、まさに手探りの暁烏ではあったが最期までその闘志は衰えることはなかったようだ。70を過ぎて借金問題に苦しむ本山東本願寺の宗務総長に就任して、たった一年でその問題を解決してしまう、それほどまでのカリスマ性をもった大きな存在だったのであろう。

子がなく後継者問題もすっきりせず、失明し常に秘書として付き添い速記して著作としてまとめた弟子たちの確執もあり、複雑な心境の中で戦後間もなくに歿した。いかなる人といえども人の一生とはそうしたものなのであろう。

波瀾万丈の人生ではあったが、当時その影響力は計り知れないものがあった。名前こそ聞かなくなったが、その業績は今に残る。大病人だからこそ劇薬が必要だと絶叫した暁烏の言葉は、今の時代にも待たれているのかもしれない。

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四国遍路行記-16

2008年05月10日 17時13分57秒 | 四国歩き遍路行記
禅師峰寺の石段を下り、また来たハウス農家の間の道を戻る。左に土佐湾を眺め、入り江を渡る。昔は渡し船に乗ったそうだが、今では橋が架かっている。桂浜の看板も目に入る。近いようだが七キロ半ほどの道のりがなぜか長く感じる。車道のお陰で舗装道路をぐるりと回って33番雪渓寺に到着。

門を入ると、正面に本堂が見える。だが臨済宗のお寺のためか横に長く坐禅堂といった雰囲気を漂わせている。延命十句観音経の額が正面横に掛けられている。わずか十句で観音様への信仰を説く経だ。江戸時代の傑僧白隠禅師が重視し霊験記を著したため、今日でも臨済宗ではこの延命十句観音経を勤行などでもよく読誦する。

本尊薬師如来は鎌倉時代に訪れたという運慶の作。脇士の月光菩薩、日光菩薩及び弟子の湛慶作の毘沙門天、吉祥天女、他に海覚作の十二神将十体があり国の重要文化財。雪渓寺は、鎌倉時代の仏像の宝庫といわれている。

大師堂は、沢山の千社札や心経が貼り付けられ、痛々しい。丁寧に心経を唱え、また歩き出す。来たときには気がつかなかったが、門前には数件の遍路宿が軒を連ねていた。遍路道保存会の小さな道しるべにならって歩く。

早くも、夕刻に迫ってきた。高知の街からそう遠くまで歩いてきたわけでもないが、それぞれ2時間ほどの距離を歩き、それぞれの札所で懇ろに読経してきたためか。大きなビニールハウスの間を通り、右に水路のあるのどかな道をしばし歩く。

よろず屋や農協があり、今晩の夕食を買い込む。おむすびに海苔巻き。それを持って街を抜けたと思ったら、田んぼの中にお寺が見えた。34番種間寺。門を入り納経所の前を通ると、すぐ右に大師堂、奥に本堂。誠に手狭に感じられる。

種間寺は昔、仏教が伝来して間もなくのこと、百済から大阪四天王寺を建立するため仏師達が招かれ、帰国の途中暴風雨に遭い秋山の港に寄港。この時、航海の安全を祈って薬師如来を刻み本尾山頂に安置した。

後に、弘法大師が訪れ薬師如来を本尊とし堂宇を建立、唐から持ち帰った五穀の種をまき、種間寺と号したという。本尊薬師如来は今日では重文に指定されている。平安時代には、村上天皇より「種間」の勅額を賜り、江戸時代には藩主山内家の加護を受け栄えた。

しかし、明治の廃仏毀釈で一端廃寺となり、明治13年には再興されるが、往時の華やかさは取り戻すことは出来なかったのであろう。ゆっくり拝んでいたら暗くなってきた。厚かましいながら「ひさしでもお貸し願えませんか」と納経所に願い出ると、なんと、接待堂があるという。

山門手前の大きな建物に案内して下さった。蒲団まである広い部屋に一人。何とも贅沢な一夜となった。翌朝暗いうちに起きて本堂にお礼に行くとご住職にお会いした。落ち着いた優しげな老僧さんだった。お礼を述べ種間寺を後にした。

次の日は早々に雨模様。頭陀袋の中からポンチョを出してかぶる。足元が冷たい。素足にビニール紐の草鞋のためだんだんと擦れて赤くなりしまいに血が出てきた。それでも歩かないわけにいかないので、擦れるところをかばいつつ歩く。途中薬局でバンドエイドを買い貼ってみる。

35番清滝寺は、土佐市の街に入り、そこから北に抜け、みかん畑の中を縫うように登っていく。もう着く頃かと思って登るのでなかなか到着しない。木の枝で暗くなった道を抜け歩くと、やっと清滝さんの境内に着いた。大きな観音様が出迎えて下さった。

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