住職のひとりごと

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(5/20追記あり) 花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を読んで

2021年05月17日 13時33分15秒 | 仏教書探訪

花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を読んで

1995年7月発行の中公文庫・花山信勝著『巣鴨の生と死-ある教誨師の記録』を再読した。阪神淡路大震災の年に発行されているので、おそらくボランティアで、何度も神戸と東京を往復し、その後インド・コルカタの僧院で雨安居を過ごしてから帰国した頃購入した本であったろうと思われる。どういう思いでそのころ読んだのかは思い出せないが、この度再読したのは、昨年夏頃から毎週楽しみに視聴しているYOUTUBEの音楽報道番組『HEAVENESE STYLEヘブニーズスタイル2021.2.21号』にて東條由布子さんを紹介されていたことにある。

その番組を拝聴しながら、先の戦争開戦時の東条英機総理が戦争犯罪人という汚名を一身に背負わされたのは、報道機関並びに日本人一人一人の責任転嫁に外ならないと思われた。翼賛体制に置かれたとはいえ報道機関も戦争に加担し国民を扇動した責任を、あたかもすべて一人の軍人総理の責任にしてしまいたかったのである。当然そこには当時の宗教者仏教者も含まれる。昨日まで軍国主義一色だった国民が手のひらを返したように一人の人に責任を押しつけて平和を叫び、おのれの不明を無きものにしたかった。

日本を勝ち目のない戦争に向かわせ、アジアの国々を侵略した極悪非道の張本人に戦後仕立て上げられ、その汚名に一切の弁解もすることなく、すべての思いを胸に秘め亡くなった祖父を思い、東條由布子さんは昭和から平成の時代になって、それまで閉ざしていた口を開き、勇気をもって祖父の実像と真実の歴史を語りだされたという。その後、文春文庫・東條由布子著『祖父東條英機「一切語るなかれ」』を拝読した。小さなころに触れた真面目で律儀で家族思いの祖父の面影、そして戦後東條の名を伏せて近隣に知られぬように何度も住まいを変えたこと、兄弟姉妹は小学校に編入しても「東條憎し」ですべての先生が担任を拒否して入るクラスがなかったという悲惨な体験話など、今ではあり得ないような非情な時代のことごとが綴られていた。

その本を読み終えようとしたころ、本棚のどこかにあった本書『巣鴨の生と死』のことを思い出した。探し当て、毎日少しずつ四百ページの本を二か月ほどを要して読んでみた。著者の花山信勝師は、浄土真宗の学僧で、昭和21年から34年まで東大教授、日本仏教史を専攻し聖徳太子の著作研究が専門である。

巣鴨拘置所での仕事

話は、昭和21年2月28日巣鴨拘置所で初めて法話した日の出来事から始まっている。二階のチャプレンスオフィス隣の広間に特設の仏壇を置き、六十名ほどの独房に収容された人たち、それから別に雑居坊に入っている人たちに向け、それぞれ一時間ほど読経と法話をされた。それから週に二日、四回の法話と週に四人から十数人の絞首刑者や精神異常者の個人面談をしたという。が、聞く方からすれば月一回の法話と面談は三、四か月に一回しか日が回ってこない勘定になる。そこで、その間は浄土真宗関係が多いが仏教書を差し入れて読んでもらっていたのだという。それらの書籍を列記すると、仏教要典、正信偈講讃、観音経講義、白道に生きて、仏教の精髄、歎異鈔講話、真実の救い、信仰について、生活基調の宗教、霊魂不滅論、他力真宗、苦悩を超えて、などなど。

そうして、A級戦犯の刑が確定し執行されるまでの3年間に亘り、師の教誡は続けられた。回数を重ねる毎にしだいに、緊張し真剣に法話を聞こうという気持ちに進む人が多く、ともに念仏を唱えたり、深々と頭を下げて合掌して退室する人が多数現れたという。師が見送った人たちは、戦争犯罪などの死刑囚としてランクされたBC級二六人が絞首刑、一人が銃殺刑。平和に対する罪としてのA級絞首刑が七名である。

BC級戦犯の絞首刑に当たっては、刑執行の前日には本人の独房に入り一時間程度の面談をし、家族への伝言や爪や髪、お守りなどを預かる。その後教誡事務所で過ごしたあと、執行時間前にもう一度独房に入り、紙と鉛筆をわたし書きたいことを書かせ、それから一階に下りて三四分歩いて刑場に入る。執行にあたり、刑場の仏間で線香ロウソクをつけ、父母そして自分の分として三本の線香を供えさせ、読経し、君が代などをともに歌い、仏前に供えたコップの水を飲ませ、アメリカ製のビスケットを食べさせる。

刑場に見送ると、しばらくしてガタンという音がして、それから半時間ほど後には、霊柩室に一尺五寸ほどの棺が運ばれてくる。蓋をとると、頭から足先まで丁寧に真っ白な木綿で包まれており、その前で師は阿弥陀経を読み葬式に換えることを常とされた。しかしその後遺骨がどのように処理されたのか、どこに埋葬したのかは米国軍規で知らされることはなかったという。師は各々の受刑者に「光寿無量院釈◯◯」という戒名を授け、遺族に送った。

信仰に目覚める戦犯たち

BC級被告の中には、『往生要集』の和訳を三回読みかえす信仰家もあった。この方は父親に向けた手紙の中に、「・・・この死刑ということが自分の人格をさらに一段と向上させてくれたと思っています。億劫にも得がたい如来の御縁をうけることができたのはまったくこの不運がきずなとなったわけです。人間は身は亡びても魂は残ります。如来のお力を恵まれて自分は一だんと、心が豊かに進歩させてもらい、とても喜んでおります。・・・人間は死を前にひかえるときに何の不平がありましょう。何の悲しんでおられましょうか。お蔭で生かされる喜びに御恩報謝の道を気強くほがらかにお念仏をとなえ立ち上がるべきであります。仏の本願はおのれの本願となって下されて御恩返しの道が践まれます。人を助けたい心も起こります。この道こそはわが家をさらに円満に栄さす道であります。不運を転じてわが家の仕合わせに向かう縁になったことを喜びこの力こそ恵まるるお慈悲の力です。(本書106~107頁)・・・」と書いて、自らの宗教的目覚めを説き、残していく遺族には悲しみを信仰にふり向けて生きよと励ました。

また別の人は日記の中に、「・・・もし今度の事件に遭遇しなければ、自己を知り、人間性に目覚めることは出きなかったと思う。人間としての理性と自覚に目覚めることの出来たことは生涯における一大収穫であったと思っている(同158頁)」と書いて、かえって死刑宣告により深刻なる人生に対する気づきを得られたという感謝の気持ちを綴った。銃殺刑を受けた元大佐は、刑が執行される射撃場に連行される車の中で高いびきを搔き、直立不動の姿で平然と銃弾を受けた。その剛毅な元大佐の死を多くの米軍将校もたたえたといわれる。

この元大佐の遺書は、この後A級被告各氏に師が読んで聞かせるほどの名文であった。「謹んで書す。昭和23年10月22日夜1時、余は銃殺刑という罪名の許にこの人生を終わるのである。余のためには誠に意義深き日である。思い返せば五十五年の人生、お世話ばかりになり通して、何の感謝の意を表することもできなかった。この度の弥陀の浄土への芽出度い往生、これまた仏恩に感謝せねばならない。仏恩に感謝これのみぞ、余の最後まで務めねばならないところである。父母妻子兄弟姉妹には、格別になげかれることと存ずる。然し決してかなしまないでもらいたい。余の今日あるは宿業の致すところである。人生の因縁事と思う。浄土に参りし後は、必ず還相の廻向により、再びこの世に出で来たり、衆生済度の大業にたずさわるであろう。(同173頁)・・・多くの部下は新しい日本建設の礎石として死んだのだ。余もその仲間入りをするのだ。(同178頁)・・・何事も忍べよ。仏さまはこの忍ぶということを経にもよく云ってある。忍ぶというのは徳の第一だといってある。人生は忍ぶということだとも云える。…上に立てば立つほど忍ばねばならない。(同180頁)」と書き、辞世の一節には、「心は常に天外に遊ぶ 無限の栄光眼前にそばたつ 一心正念して唯これのみを信ず 天上天下我を害するものなし 我は歌わん真理の曲我はすすまん真理の道(同183頁)」とあり、まこと気高き最期であったことをものがたっている。

A級戦犯にむけて

この銃殺刑が執行された日、花山師は戦争指導者A級25名の被告たちへ、これが最後と思い法話をなしている。要約すると、「人間必ず一度は死なねばならない。毎日刻々生死を繰り返している。これまでに絞首刑台に上った四十代、五十代の人たちはいずれも固い信仰によって死をおそれるよりもむしろこれをよろこび、立派な大往生であった。戦争により領土は半減百数十万の生命を失い全国の都市は爆撃を受け想像をこえる災禍をこうむったが、それによってえたものは、死刑囚たちが信仰を深め尊い遺書を残してくれたことこそ大きな収穫であった。明治以来八十年間の歴史の失敗は今日これらの人たちの精神力によって未来数千年への人類の希望への基盤をつくってくれた。そこに人間の限りある一生を容易にすてて永遠の人生に生きる道がある。(同212~214頁)」と説いたという。

そして、ついに11月4日から25名の戦争指導者に向けて判決の朗読が始まり、12日七名の絞首刑、その他終身刑懲役刑が確定した。その日から絞首刑となった七名と12月23日に執行されるまでのひと月余り師は各氏と面談を繰り返す。その面談記録は、七人それぞれの経歴を記し、その人物像にも触れながら、克明に何を語り合ったかを記している。若い頃から坐禅に勤しんできたが自分のようなものには念仏にしか救われる道がないと改心された人、家族がキリスト教の信仰があり拘置所にドイツ人の牧師を差し向けて洗礼をさせようとしたが断って仏教で最期を迎えた人、伊豆山に南京上海で亡くなった日中両国戦死者の遺骨を祀り観音像を建立し供養を続ける人、親鸞聖人が語られたとする歎異鈔の第九章を毎日味わい信仰を深められた人など、みなそれぞれに宗教心に目覚め安心(あんじん)を得られたことを記している。

東條英機元総理についてのみ本人の言葉として記されているものを抄録してみよう。「…第二次世界大戦が終わってわずか三年であるが、依然として全世界は波瀾に包まれておる。ことに極東の波瀾を思い、わが日本の将来について懸念なきを得ず。しかし三千年来培われた日本精神は一朝には失われないことを信ずる。窮極的には、日本国民の努力と国際的同情によって立派に立ち直って行くものと固く信じて逝きたい。(同304頁)・・・(自決後すぐに手当てされて生き長らえたことについて、それによって)一つには宗教に入り得たということ、二つには人生を深く味わったということ、三つには裁判においてある点を言いえたということは感謝しています。(同315頁)・・・(大無量寿経の)四十八願を読むと一々誠に有難い。今の政治家の如きはこれを読んで政治の更生を計らねばならぬ。人生の根本問題が説いてあるのですからね。国連とか、その他世界平和とかは人間の欲望をなくした時に初めて達成できることで、そこに社会の平和が成るのだ。(同322頁)…」などと話され、花山師との面談を何よりも楽しみとしていた様子が綴られている。

そしてこれはいささか今の時代となってはやや違和感すら覚えるが、多くの人たちにみな教養として身につけられた時代なのであろう、いずれの人も和歌を詠まれており、荒木元大将などはこの間に七百首も詠まれたといわれている。東條元総理は処刑前日にも花山師に「散る花も落つる木の実も心なきさそふはただに嵐のみかは 今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞと急ぐ 日も月も蛍の光さながらに行く手に弥陀の光かがやく」(同380頁)と三句の歌を残された。

かくして七名の絞首刑は、前日それぞれ二度の面談の後、12月23日午前零時前に、二組に分かれ、仏間でのお勤めの前に奉書に署名をし、コップ一杯のブドー酒を飲まれ、水を飲みかわした。それから三誓偈を読んでお勤めとし、万歳三唱を一同で唱え、刑場に向かわれた。七つの棺の前では、正信偈と念仏廻向を唱えたと記録している。

歴史を振り返って

こうして、花山師の導きもあって、当時軍国主義の悪のシンボルのように云われた極刑に処された人たち誰もが、悲しみも動揺もなく平常心のままに召されていった。懺悔するなどという心を遙かに超えて、巣鴨拘置所に収容されていたこの間に、深く人の世、人生の真実、いのちのありように立ち向かわれて、深く悟ることあり、そして人の世の穏やかなることを願い、信仰、宗教に生きることを人のあるべき姿と確信して、安らかに立派に死んで逝かれたことは誠に感銘深いことに思われる。戦犯と云われる方々がこうした最期を遂げたことを知る貴重な機会をもてたことは誠にありがたいことであり、今を生きる私たちにも当然生きる力となり、価値ある生き方を求められている思いがいたし、時を無駄にしないよう督励されているようにも思えた。

さらにこの後、私は講談社によって1983年に製作された実写版DVD『東京裁判』を手に入れて視聴した。当時の映像をもとに時代背景にも触れ理解しやすいように編集されており、裁判冒頭からこの軍事裁判自体が当時の国際法上罪を問えるものかとの指摘や残虐行為を犯罪とするなら米国による原爆投下についても同罪とすべきであると米国人弁護士が指摘していた事実を知りえたことなど誠に参考になった。また本書に登場する戦犯の方々の実際の姿も拝見し、その姿の美しさ、当時の日本軍人、文官の凛とした威厳にわが身を正される思いがした。自ら弁明する機会であった個人反証の答弁においても、東條被告は自存自衛の戦いであり植民地の解放と独立のためになされた戦争であったことを堂々と主張され、されど敗戦の責任は自分にあり責任を受け入れることを供述された。大東亜戦争という日本で使われていた名称が否定され、太平洋戦争といわされ、軍国主義国家日本による侵略戦争というレッテルを貼ることによって、戦争の実像が隠されてきたのではなかったか。一つのYOUTUBEの番組を拝聴し、尽きぬ好奇心から触手を伸ばすうちに様々なことを学ぶ機会を得た。当時を振り返り真実の歴史、戦犯として死刑となった人たちの生きざま、その心境を知ることは、それにより戦後の繁栄をえて今を生きる私たちにとって実に肝要、不可欠なことと思われる。

歴史の真相を知ることはそう簡単なことではない。歴史を作ろうとする人たちがいる。彼らがどのような世界を目指していたのか。大きくとらえれば、その後世界がどう変わり誰が経済的な利益を得たのか、世界の覇権構造がどう変化したのかを知ればおおよその姿は知ることができよう。誠に唐突だが、昨年四月当時の安倍総理がいみじくも、この感染拡大は第三次世界大戦と認識している、と述べた言葉は何を意味していたのであろうか。その後の一年、報道のありさまを見るにつけ、かつての統制された様相にとても良く似ていることに気づかされる。敗戦するのは誰か、その責任を押し付けられるのは誰になるのか、皆目見当もつかないが、人々が無知のままに扇動されることだけはあってはならない。異常な報道管制の中にあることを認識し、同じ轍を踏まぬよう、よほど気を付けて今の時代を注視して生きる必要があるだろう。おのれの不明を誰かの汚名にしないためにも。

追記 いま中公新書・小林弘忠著『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』を読み進めている。花山師本人の筆記に比べ、かなり時代背景や心中深く想像しての論説に当時の教誨師の置かれた状況が厳しいものであったことがうかがい知れる。花山師の後二代目の教誨師になる田嶋隆純師との比較も収容者たちとの向き合い方の違いが際立ったものがあり、学者としてまた宗旨の教義への証明としても説き方や対応が違い、そのために冷ややかな見方をされていたことも知ることになった。しかし戦後間もなくの難しい時代にまた見習うべきものもない状態でおのれの信ずる教誨を一人続けられ、その間収容者家族が上京した際に自宅を宿泊所に使わせていたことや教誨をやめてからも講演して歩き巣鴨の実態を世間に知らせ、本書の印税を遺族に人知れず送金されたりと生涯にわたりかかわり続けられた事実に変わりはない。師本人が死の間際に、「巣鴨プリズンは、人の真の生き方を学ぶことができた。私の人生は幸せだった」と述懐されたのは、そうした世間の様々な見方や自らの孤独感さえ乗り越えたうえでの納得ではなかったか。本書の書評欄には今も心無い言舌が残るが、他の人と比較されるものではなく、花山師のその活動の記録はそのままに評価されるべきであり、受け入れたいと私は考えている。

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備後國分寺だより 第58号(令和3年4月4日発行)

2021年05月09日 10時22分20秒 | 備後國分寺だより
令和3年4月号(B5・16ページ・年三回発行)



〇聖武天皇なぜ國分寺を建立されたか

聖武天皇は藤原氏によって誕生した

天平十三年(七四一)に「國分僧寺尼寺建立の詔(みことのり)」を発せられる聖武天皇は、後に天皇の外戚として日本政治の中枢で大きな権力を恣(ほしいまま)にする藤原氏に育てられた最初の天皇陛下でした。藤原氏が歴史の舞台に登場するのは「大化の改新」と私たちが習った事件からであり、今では「乙巳の変(いつしのへん)」といわれています。

外国の使節団の前で皇極天皇(こうぎよくてんのう)も臨席する中で当時の総理大臣の地位にあった蘇(そ)我入鹿(がのいるか)を、後の天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子(のおうじ)と藤原氏となる中臣鎌足(なかとみのかまたり)の二人が惨殺し、政権を転覆させるクーデターであったと考えられています。後に鎌足の子不比等(ふひと)が編纂の中心を担う『日本書紀』では二人は英雄として描かれています。

聖武天皇は文武天皇の子ではありますが、母は藤原不比等の娘宮子(みやこ)であり、生まれてからずっと不比等邸で育てられました。そして、皇族でない、臣下の娘を母とする初めての天皇となるのですが、そのために、のちに元正(げんしよう)天皇となる氷高内親王(ひだかないしんのう)を養母として控えさせ、元正天皇として皇位につけたあと養母から子聖武へと皇位を継承するという手の込んだ長期にわたる策が練られていたのでした。さらに他にも皇位に候補がある中で、みな若くして亡くなったり、皇位に就けないような措置が執られたとも言われています。父文武天皇が早くに崩御(ほうぎよ)された後、中継ぎに女帝が二人も帝位につき何としても首皇子(おびとのみこ)(聖武)を帝位につけるという執念すら感じられるものでした。

だからか、聖武天皇は何度も詔の中で「徳の薄い身であるのに」「私は徳に恵まれないが」という言葉を発せられ、災害や凶作、伝染病などを神経質なまでに怖れていたということです。

長屋王の変を契機に天武天皇を理想とする

聖武天皇は大宝律令が制定された大宝元年(七〇一)にご誕生になり、その同じ年に生まれた、不比等の娘安宿媛(あすかべひめ)(光明子)が十六歳で嫁ぎ、聖武天皇は二十四歳で即位します。そして、まず母宮子に大夫人(だいぶにん)という称号を特別に与えるべく、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)ら不比等の子息が議政官となり推進します。

その後、光明子を皇后にするにあたり、天武天皇の孫で当時右大臣として古来の慣習に忠実な長屋王(ながやおう)の存在は都合が悪いと思う人々がいたとされています。長屋王を天皇を呪詛したとのかどで尋問させると、長屋王は邸(やしき)を軍勢に取り巻かれたことを知り、自害してしまったのでした。歴史上、この事件を「長屋王の変」と言います。

その後、光明子は臣下の娘としては初めて皇后となり、不比等の息子ら四人は議政官となるのですが、それまでは一豪族から複数人議政官になることは避けられていました。

そして、長屋王の死から六年が経過した頃、大陸から天然痘が流行、瞬く間に九州から都に至ります。長屋王を尋問した新田部親王(にいたべしんのう)と舎人親王(とねりしんのう)が感染し死すと、翌年光明皇后は一切経の書写を開始。二年後には諸国の丈六(じようろく)の釈迦像と脇侍の造立を命じています。しかし、議政官だった藤原四兄弟が四月七月八月に天然痘で死去すると、長屋王の祟りではないかと市中騒然となり、それを最も怖れたのが、聖武光明の二人であったと考えられます。

その後、聖武天皇は母宮子と生後初めて対面する機会を得ました。そしてこの頃より、藤原氏の天皇としてあった聖武天皇は曾祖父天武天皇が国難に際して仏教に祈願したことを範とし、天皇という称号で初めて尊称され日本国の国号も正式に成立させた天武天皇の政治を理想とする姿勢に転換していくのです。

諸国で護国経典『金光明最勝王経』(こんこうみようさいしようおうきよう)を転読させ、長屋王の子息を従四位下に昇叙(しようじよ)。三年後には諸国に七重塔を中心とする寺院建立を命じています。これらはすでに後の國分寺制を見据えた施策と考えることができます。

藤原四兄弟なきあと橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備を首班とする政権が誕生すると、疎外された藤原広嗣(ひろつぐ)が左遷された九州で乱を起こします。すると、聖武天皇は、征討軍を派遣し、自らは平城京を出て東国へ行幸(ぎようこう)。その道程は、「壬申の乱(じんしんのらん)」を大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が起こす行路と一致しています。そして、その年の末には恭仁京(くにきよう)(現在の京都府木津川市加茂地区)に遷都し、その翌年に國分寺の詔が発布されることになります。

華厳思想により理想国家建設を目指す

この頃聖武天皇は、河内(かわち)智識寺で毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)を参拝し、東大寺良弁(ろうべん)和上より『華厳経(けごんきよう)』の講説を受けています。そして、「事々無碍法界重々無尽(じじむげほうかいじゆうじゆうむじん)」という教えを学ばれ、それを新しい国家構想とされるのです。

それは、仏の世界を千葉(せんよう)に開く蓮華に喩え、毘盧遮那仏は千の華蔵(けぞう)世界の中心に位置し、その千葉の蓮華には千体の釈迦仏があってそれぞれの世界で法を説く、それぞれの蓮華世界はひとつ一つ別々の世界でありながら、互いに相関し重々無尽にその関係性は続いている。個々の蓮華世界は全体の縮図であり、そのひとつ一つに変化ある時は全体すべてに変化が及ぶとするのです。

それぞれの釈迦如来により諸国が浄められ争いなく、多くの民が幸福になり豊かになることは国全体がよくなることであり、日本国全体がよくあることは一国、一個人がよくなることであるとの考えから、都に毘盧遮那大仏を造立し、諸国に國分寺釈迦如来が祀られたのでした。毘盧遮那如来の顕現は無数の釈迦如来の出現を意味し、それによって、無数世界の浄化救済がなされ、時処を超えて三世十方を貫く絶対理想を実現せんとするものでした。

こうして徳の高い行為をすることで、これまでの天皇同様によくこの国を治め、国穏やかで、民が楽しく災害のない凶作のない疫病のない世にでき、また長屋王の死を弔うことにもなるとお考えになられたのでしょう。
その後平城京に還都(かんと)して大仏造立を進め、聖武天皇は娘阿倍内親王(あべのないしんのう)に譲位して、僧行基(ぎようき)を戒師に天皇として初めて出家なされます。そして沙弥勝(しやみしよう)満(まん)として常に南面すべきお方が未完成の大仏を前に北面し、自らを三宝の奴(やつこ)と称したとも言われています。身も心も仏に心酔し、そうして自らの念願、鎮護国家と万民の豊楽(ぶらく)を叶えんとなされました。

天平勝宝四年(七五二)四月九日、大仏開眼供養はインド僧菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に、僧千人文武百官(ぶんぶひやつかん)一万人が参加する盛大な国際色豊かな催しとなりました。そのとき、聖武太上天皇(だじようてんのう)の御心はいかなるものであったでありましょうか。感無量の喜びとともに、正に赤心(せきしん)からの祈りが聞こえてくるようです。

仏教という最先端の文化を知らしめる

さらにその当時の仏教の価値、当時の人々にとっての意味が今とはかなり違うことも一言述べておかねばなりません。

仏教は千五百年前に百済(くだら)からもたらされました。物部氏蘇我氏(もののべしそがし)による諍いの後、聖徳太子により、四方の極宗(よものおおむね)であるとして仏教は国の教えとなります。四方の極宗とは今の言葉で言うとグローバルスタンダードということです。中国も朝鮮も、どの国も仏教によって高度な文化国家として発展していました。なれば当然日本にも仏教は必要であるとするのです。

インドから中央アジアを経由してシルクロードを通って仏教がもたらされるにあたり、各地の先進文化技術を吸収しながら伝えられた仏教をそれらと共に輸入することになりました。つまり仏教は当時の建築技術、彫刻、金属加工、紙墨筆の製法、衣服の製造、歌舞音曲に至る先進的な総合的文化技術思想芸術を含むものでありました。よって、寺院は最先端の文化の象徴であり、結果的に諸国國分寺は中央集権国家・奈良の都の権威を示すものでもあったのです。        

参考文献 講談社学術文庫・「日本の歴史04 平城京と木簡の世紀」


〇薬師護摩供・初護摩後の法話
 礼拝に込める思い


今年も初大師初護摩の日を迎え、早朝からたくさんの皆様お参りをいただきありがとうございます。

世界は、いろいろな意味で混迷を深めておりますが、私たちの日常はそれぞれに置かれたところでしっかり生きていかねばなりません。そこで新年最初のお護摩でもありますので、今日は仏教徒にとって最も大事でもあり、また基本となる礼拝の意味するところについて考えてみたいと思います。

今護摩行の初めと最後に、「オンサラバタタギャタハンナマンナノウキャロミ」と唱え礼拝しました。これは正しくはサンスクリット語では、「オーン・サルワ・タターギャタ・パダ・バンダナン・カローミ」となり、すべての如来方の御足を頂戴し礼拝します、という意味になります。

インドの学校などに参りますと、子供たちが朝先生に会ったときなど、右手で先生の足に軽く触れ、その手を自分の額に持っていき、それから合掌し「ナマスカール」とニコニコして挨拶する光景をよく目にします。これはまさに身を低くして先生を敬い、自分を無にしてすべて先生の教えに従いますということを表す伝統的なしぐさとなっています。学校の先生ですから、様々な社会通念慣習も含め各教科の学びも頭を真っ白にして先生から一から学ばせてもらいますという気持ちを表すのです。

私たちが仏様を礼拝する時もこれと同様に、身を低くして身も心も真っ白に清らかにして、すべて教えに従いますという気持ちで礼拝することが望ましいということなのでしょう。そして学ぶべきは教えであり、決して当時のインドの人々が神々を礼拝するように、私たちの世界とは隔絶した超越的な存在に対し、ただ畏(おそ)れ平伏して、その恩恵を求めるというような姿勢ではいけないのだと思います。

そうではなくて、私たちも仏様の所へ一歩でも近づいていくのだという思いで、人生を生きる目標として最高の存在であり、つまり学び行ずる理想としての仏様を敬い礼拝するのだという思いを持つことが大切なことであろうかと思っています。

お釈迦様という方は、釈迦族の王子として産まれ、幼少の頃から物思いにふけることが多かったと言われています。出家時の四門出遊(よんもんしゆつゆう)の伝説に語られるように、なぜ老病死という苦しみ多き命を生きるのか、なぜ苦しみがあるのか、生きるとは何かとずっと問い続けられました。

出家前に釈迦族の王宮で贅沢な生活をしていたシッダールタ太子は、別々の日に東南西北の門から出て街に遊ぶと、それぞれ老人、病人、死者、出家修行者に出会い、若さや健康への傲慢な心が消え、自分も死によって人生が終わってしまうことを知り、俗世間を捨てて、生きる苦しみからの解放のために努力する道を歩もうと決心したとされています。

そして、ヤショーダラ妃が、王子の役目として大事な跡継ぎを生んだのを確認して出家されました。苦行の末に禅定に入り、当時はすべては神の意向であり、定められた祭祀をその通り行う事こそが人々の幸せも災いをも左右すると考えられていた世間の中で、神に祈るのではなく、すべての真実、この世の真理を悟ることによって、あらゆる苦しみからの解放を成し遂げられたのでした。だからこそお釈迦様は尊いのです。

『大サッチャカ経』によれば、お釈迦様はお悟りになられた晩に、はじめに深い禅定に入られて、自らの過去世について思い巡らされたといいます。その何万回とも言われる過去世での、それぞれの名前から家族仕事行いの数々を回想されていき、功徳を積みつつ転生してきた自らの命の営みについてご覧になられました。それから、他の者たちの生存についてご覧になられ、様々な者たちがそれぞれの行いの善悪の業(ごう)によって生まれ変わりしていく姿をご覧になられました。そうして、煩悩を滅する智慧について心を向けると、苦しみと煩悩(ぼんのう)について如実に知られ、欲と生存、無明(むみよう)のすべての煩悩から心が解脱(げだつ)したとされています。

生きるとは何か、どうして苦しむのか、どうあるべきか、どのように最高の幸せに到達するかという、この世の真理を知り尽くされてお悟りになられたのでした。

そして、悟られてから、梵天から説法することを懇請されて、縁ある人々に、生きるとは何か、なぜ苦しんでいるのか、いかに生きるべきかと教えられたのです。

ところで、昔、チベット仏教の瞑想会で、ラマ僧から仏教は問いから始まると教わりました。多くの経典はお釈迦様のところに訪ねてきた人が自らの心の煩悶(はんもん)を問うことから成立していると。

ですから、自分にとって何が問題なのか、生活する中で心にわだかまる様々な問題について、どうすべきかとの自分自身の心から発する問いがあって初めて私たちは教えを学ぶスタートに立つことが出来るのです。

お釈迦様が幼少の時から持ち続けられた問い。それと同じように私たちの心の中にある悩み苦しみを自ら認識し、どう考えたら良いのか、どうしたらよいかと問うことから学びは始まります。それを経典に求めることもありましょうし、人の言葉からヒントを得られたり、何か作業をしていてふと思いいたることもあります。さらには、生まれ変わり生まれ変わりしてきた私たちの業について考えることで何か思い当たる節が見つかるかもしれません。それらさまざまなところから学びが得られることと思います。

以前お話会にお越しになられた方から、十代の子供を亡くした知り合いがいるのだが、その人は神も仏もないという気持ちになったというが、仏は実在するのか、と問われたことがあります。そのとき、仏や神がいようがいまいが亡くなる人は亡くなるのではないでしょうかと話し、乳飲み子が亡くなって泣き叫び、お釈迦様のところにたどり着いたキサーゴータミーという母親の話をしました。お釈迦様の方便から、街のすべての家に死者が絶えないことをキサーゴータミーはさとり、出家して修行し最高の悟りを得られたのでした。

亡くなることは悲しいことではありますが、そのことによって、心に何かを得ていかれる、亡くなったことを無駄にせずに、そこから何事かを学び、自らに活かしていく。たとえばある方は、若い頃諦めた音楽の道に、ご子息の死をきっかけに没頭され、多くの楽曲を作り、同じ様に子供を亡くし悲嘆にくれる多くの家族をなぐさめられたという話をしました。

また、私がインドのサールナートに長期滞在し始めた頃のことですが、当初なかなか周囲に溶け込めず悶々と日を過ごしていました。そんなとき、ある日多くの宿泊者があって、一人で沢山の食器皿を砂でこすって洗っていたのですが、ふと何も考えずにただ皿を洗っている自分に気づきました。そう気づくことでその一瞬で心が晴れ、今の瞬間にただ集中しているだけでよいのだとわかり、その後はごく普通に周りの人たちと過ごすことが出来るようになりました。誰にでもそうした学びや気づきを得られた経験がおありのことと思います。

そうして学びや気づきの日々を過ごしながら、私たちはどう生きるべきか、どうあるべきかといえば、それは徳を積むということに集約されるのではないかと思います。日常の中で、周囲の人々に挨拶をする、にこやかに話をする、各々がよくあるように行い過ごす、お寺にお参りをする、こうして護摩に参加する、法話に耳を傾ける、坐禅会に参加する、それらは自分のためと思われがちですが、それらも皆自分のためであり、またすべての生きとし生けるもののためになされている善行為と捉えることが出来ます。

みんなが善くありますようにと思いなされる清らかな行い学びは、自分にとっては徳を積むことであり、それはそのまますべての生きとし生けるもののためになります。言い換えますとそうして生きることは、たとえそれが牛歩のごとくであったとしても、かつてお釈迦様が過去世で生きられた歩みを私たちも生きることになります。

ですから、國分寺では坐禅会をし、お話会を開き、護摩供を修しています。皆様と共に仏道を歩み、共に私たちもお釈迦様のように何度生まれ変わっても真実を見いだして、最高の清らかな心になれるように努力する歩みの中にあるべきと考えます。

このお護摩の火も、仏教以外の教えではただの現世利益を求めるものとされますが、私たちはそこに最高の悟りを実現するための修行として修法(しゆほう)しています。自分のことばかりか多くの縁者の名前でご祈願を皆さん書かれていますが、実は各々添え護摩木に書かれた願いを遙かに超えたその方々の最高の幸せを目指すためにかなえるべきものとして護摩供はあります。ですから、それは甚大な功徳ある行為となるのではないかと思っています。

最後に、対機説法(たいきせつぽう)という言葉を聞いたことがあると思いますが、みんな同じではない、それぞれの人の心に応じた教えが仏教にはあります。ですから、みんなと同じようにしていたら良いという発想は仏教にはありません。個々の問題意識から思いを重ね、解決していく、そこに各々に応じた教えがあると考えます。だからこそこれだと自ら教えの確かさを確認し真実を見いだしていくことも出来ます。

今の時代、特に仏教徒は何が真実か、この世の有り様について自ら問い、そして、いかにあるべきかとお釈迦様のように問い続ける役割を担っていると思います。お釈迦様を私たちの人生の最高の理想として生きる、何度生まれ変わっても真実を求め、問い続けることによって最高の幸せであるこの世の真実・真理を求めていくことを誓い、そうした万感の思いを込めて礼拝したいと思うのであります。

来月も早朝から大変ですが、どうぞお参り下さい。ご苦労様でした。


うれしい友からの電話

一昨日からひどい冷え込みで、本堂の花瓶や壇(だん)の洒水器(しやすいき)の水もシャーベット状になり、日中にも溶けないほど気温が上がらない中、昨日一月九日の坐禅会には9人もの篤信の方々が集い、10分の歩行禅、30分の坐禅を2度坐られました。ストーブを2つ置いての坐禅ではありましたが、寒いせいかお寺の周辺に人の気配もなく、静まり返った中でよい坐禅が正月からできたと思います。坐禅後の茶話会では、皆さん現在の世の中の状況にやや沈鬱(ちんうつ)な雰囲気にはなったのでしたが、それでも私たちは生きていかなくてはならず、すべてのことの真実を見つめながら日々の営みに集中しましょうということで散会しました。

そのあと、夕勤して寺務所に戻ると、遠路はるばる、ある高校の教頭先生をされている高校時代の友人から珍しく電話が入ったのでした。この人は私の人生の大事なところで、たびたび精神的インパクトを与えてくれる貴重な存在で、昨日の会話もおそらく何事か意味のあるものとなってくるのではないかと思っています。坐禅会での話の延長から、挨拶の後すかさず、今の時代をどう思うかと尋ねてみました。

突然のことではありましたが、彼なりの返答があり、私も思うところを述べたのですが、やや丁寧さに欠ける話だったのか、内容的にらしくないと思われたのか、世の中のお坊さんのようではないねという言葉をいただいてしまいました。大事なことは、私たちの仕事は常に周囲の人々に幸せと安心を与えるものでなくてはならないということを教えられたように思えました。彼は米国のキリスト教の学校に留学していたこともあり、常に生徒も含めていろいろな人たちに教えを施す立場にもあって、そう感じられたのであろうかと思います。

その後、いろいろとそれぞれの近況を話し、最後に彼からこれからの時代どういうことが大事になってくると思うかと尋ねられたので、知識があるものが賢いとされるような世の中になりつつあるけれども、いくら人の知らないことを知っていたとしても、それが単なる記憶であっては何の意味もない、それらを用いて自ら考える、人の言うこと、ニュース報道を鵜呑みにすることなく、自分の頭で考え、今置かれた現状を正しく認識し、どうあるべきかと判断できることが大切なのではないかと話しました。

すると、彼は、いま特にコロナコロナとストレス過多の世の中にあって、精神を病んだ状態になると何物にも感動したり美しいと思える感覚が失われていく、また何でもスマホやパソコンで事足れりとする時代となっているが、花であっても、自然であっても、音楽であっても、本物、実物と生で対面し、見たり聞いたりして、美しい、素晴らしいと感動できること、そうした感性を大切にすべきだと思うと話してくれました。

ますます仮想空間の中で人と人が出会わずとも、また現地に行かなくてもバーチャルで事を済まそうとする世の中になっていくことでしょう。ですが、そんなことではなく、その人そのものと直に出会うことの大切さ、実物と対面した時の感動する感性、そのものを失ってはいけないということであろうかと思いました。

私も、彼の話に賛同し、まさに今、私たちは生きることにもその美しさ、周りを感動させられるような生き方、身の処し方、潔さが求められているのではないかと思うと申しました。自らの地位や利得、上辺だけの称賛、そんなものだけを大事にするような世の中に成り果ててはいまいか、私たち日本人には本来もっと気高いものを大切にする心があったのに、いつの間にか失われ、寄らば大樹という処世感覚ばかりが跋扈(ばつこ)して、言いたいことも言わない、見て見ぬふりをして済ませる、みんながしているから同じようにしていればよい、そんな世の中になってしまっているのではないか、「たとえ鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゆうご)となるなかれ」、という言葉もあるけれど、自分の生き方に自ら感動できるように生きたいものだと話しました。

そのためにはまずは実物、本物の美しさに感動できる感性を失わない、精神の落ち着いた状態にあることが必要だということでありましょう。

久しぶりにうれしい友と話ができた感激をここにとどめておきます。彼から言われたことを心に大切にして日々を過ごしたいと思います。ありがとう。


〇あるべきようは① 
 お釈迦様が教える本当の幸せとは


こちらに来て、今年で早いもので二十二年目となります。自分の出来ることをたださせていただいているという様なことで、気がつけばもうそんなに長く居ることになりました。

今思うことは、住職の仕事というのは、本当に幅が広い、何から何までしなければいけないんですね。お経を上げるというのはほんの一部のことで、伽藍、境内の整備維持管理、様々な行事の準備から執行、これらは勿論檀家総代、世話方様方の皆様のおかげで何とか勤めさせていただいているのではありますが。

他にも参詣者への対応、お寺の会計管理も大事な仕事の一つです。諸々でありますが、私の場合、サラリーマン時代に経験してきたことが、今になって大変役に立っています。経理も、総務も、営業も、会合の司会や事務局の仕事、研修旅行の企画立案のような仕事もしてきました。

それらすべてが今に生きていると思います。誰もがそうだと思いますが、人生無駄なことなど何もなく、すべてが役に立つ、糧になるものだとつくづく思います。

ところで、國分寺では仏教懇話会という月一回のお話会を、もうかれこれ二十年ばかり前から開いていて、仏教全般のことをお話して、お越しになられた皆さんに聞いてもらっています。

私が毎度話したいことを話すわけですから、聞いている皆さんにとってはあまり楽しいことばかりではないのですが、それでも来てくださる。皆さんが私に対して慈悲を垂れて話を聞いてくださっているのではないかとさえ思っております。

それはともかくとして、皆さんお寺というと葬式法事、お墓があって供養供養と言う所だ、と思っているのではないでしょうか。ですが、私は、生きている皆さんが元気で幸せで悩みなく安心して暮らしてくださることが本当の供養だと思っています。

たとえば、この世の中で最もよく供養ができた方は誰だと思われますか。うちのおばあさんは良くしていたがなぁ、という方もあるかもしれませんが。私は、やはりそれはお釈迦様やお大師様に外ならないのではないかと思います。

これだけ二千五百年もの長きにわたって、今もなお世界中の人々に幸せをもたらしている方はいない訳です。神々でさえ教えを乞いに来たのですし、生きとし生けるもの全てがお釈迦様の教えに酔いしれたのでした。お大師様は四国をはじめ全国に信仰という種をまかれ、今日では地域経済のために多大の貢献となっています。

今にも亡くなるという方でも、お釈迦様の短い説法を聞いただけで、そのまま天界に昇天されたという話が、経典にあります。ですから、そのお釈迦様が生涯なされたことが最高の供養だとするならば、私たちのするべき事もはっきりしてまいります。

毎日仏壇にお供えをして読経する。お墓に行って花をかえ、線香を立てて、手を合わせる。それはとても大事なことであり、意味あることではありますが、それだけでは勿体ない。その先にある、大事な仏教のエッセンスを是非味わっていただきたいと思うのです。

忙しく日々が過ぎていく中で、ふと心からの幸せを実感する。心に何のわだかまりもなく、何がなくても大丈夫という、そんな安心感、そういう心を養うことこそが私たちにとって必要な事なのであって、それは、おそらくご先祖様方もお喜びになられることだろうと思います。そして、そういう心、ご先祖様方が喜んでくださる幸せな心を養うためにこそ、法事や様々な仏事が本来あるのではないかと思います。

それでは仏教では、幸せとはどのようなことを言うのかということですが、それは『吉祥経』というお経にわかりやすく説かれています。原本では、『マンガラ・スッタ』と言いますが、タイ、スリランカ、ミャンマーなど南方仏教でよく唱えられる経典です。南方の仏教国では、日本の「般若心経」のように、誰もが暗唱しているお経です。

私もインドにいる頃は毎日唱えていたのですが、原文では、こんな感じで始まります。「エーバンメースタン、エーカンサマヤンヴァガバー、サーヴァッティヤン、ビハラティ、ジェータバネー、アナータピンディカッサ、アーラーメー・・・」

この経典は、冒頭、容色麗しい神様がお出ましになって、お釈迦様に「多くの神々や人々は幸せを望みつつ、吉祥について考えてきました、最上の吉祥を説き給え」とお願いします。それに答えてお釈迦様が幸せとは何かについて述べていかれます。

吉祥とは、人に成功や繁栄、幸せをもたらすものであり、そのまま幸せと言い換えてもいいものです。

ところで、インドの古い慣習のひとつに、人の生き方として四住期(しじゆうき)という考え方があります。

まずはじめに、生まれてから親のもとで養育され、生きる術を学ぶ学生期(がくしようき)というのがあります。それから、結婚して家族を養い護る家住期(かじゆうき)、その次に、心の教えを学ぶ林住期(りんじゆうき)、さらに、諸国を修行するために遍歴する遊行期(ゆぎようき)があります。

もちろん今日のインドでは、そのようにきっちりと住み替えて年を重ねていく人はめったにいないと言いますが、インドの人々の人生の捉え方として今も大切にされているものです。

この吉祥経を読んでいくにあたり、人生をこうした四つの時期に分けるインド人の考え方に則って、内容を四つに分けて見ていこうと思います。

ではまず学生期から見ていきましょう。人として生きる力を蓄える時期の幸せについてです。

①愚かな人に近づかず、賢い人に親しむ。尊敬供養するに値する人を尊敬する。これは最上の吉祥である。
②適当なところに住み、先になされた功徳があり、正しい誓願を起こしている。これは最上の吉祥である。
③多くの見聞、技術、道徳を身につけて、きれいな言葉を語る。これは最上の吉祥である。

生きるために必要なものを蓄えることがここでの要点です。

人は人に学んでいくものです。と、スリランカのお坊さんに教えていただいたことがあります。南方の仏教では、今も目上のお坊さんには投地礼を三度して挨拶する習慣があるのですが、そうして尊敬する心があってはじめて、その方から様々な教えを授かることが出来るのだということです。

ですから、どのような人を参考にし、尊敬して生きるかは、私たちにとってとても大切なことです。学も財もあるけれど、人の道に外れた人を手本にしていてはいけないのです。

この場合の賢い人とは、単に多くの事を知り語る人ではなく、心安らかで人に恨まれたり憎んだりということのない、行いの清らかな人を指しています。特にその人の業績でなしに、そこに至る間に培った人格や考え方を尊敬すべきではないでしょうか。

そうした人たちを手本にして生きるのに相応しい場所に住まい、そして、善い行いの功徳を積むことを心がけ、それによってさらに正しい生き方に心を向けていくことが大切だということです。

そして、単に知識や学歴ではなく、より実用的な見聞や技術を身につけるべきであることはもとより、人として生きるための道徳やきれいな言葉も大切な要素です。

特に今の日本では重視されませんが、相手を尊重したきれいな言葉遣いは、社会の中で自らが大切にされるためにも、とても大事なことです。また、道徳をわきまえていなくては、せっかく学んだ学問知識も正しく役立たないことは言うまでもありません。

次に、家住期です。結婚し家庭を持ち、家族、社会を養う時期です。

④父母を養い、妻子を愛し護る。混乱なき仕事をする。これは最上の吉祥である。
⑤施しと、法にかなう行い、親族を愛し護る。非難されない行いをする。これは最上の吉祥である。
⑥悪い行いをつつしみ離れ、酒類を飲むのを抑制し、徳行の実践を怠けないこと。これは最上の吉祥である。

結婚し、家族、親族そして地域社会をも導いていく存在としての役割を担う時期です。

これらのごく当然とも取れるものをクリアして初めて何の後ろめたさもない、誰からも非難されることのない幸せを享受できるということです。混乱なき仕事とは今様にはストレスの少ない仕事と言い換えれば分かりやすいでしょう。

また、法にかなう行いとは、より多くの者に利益がもたらされるように行うことです。欲や怒りにより、他を害するような行いをつつしみ、他の者と分かち合い共に幸せを感じられるよう行うことが肝要なことです。

これに対し、自分の幸せだけを求めるばかりに悪いことをしでかすことは、今の社会問題でもあります。何でも出来る立場にあるこの時期、悪い行いをつつしむことは憂いや後悔を残すことなく幸せになるために不可欠なことと言えます、

お金がたくさんあっても何かむなしさが残るのを多くの人が感じ、ボランティアに励む姿も見受けられます。徳のある善行が心豊かな幸せを感じさせてくれることは言うまでもありません。

そして、林住期、仕事を次第に退きつつ、功徳を積み心の教えを学ぶ時期です。

⑦尊敬と謙遜と、知足と知恩。ときどき、覚れる人の教えを聞くこと。これは最上の吉祥である。
⑧忍耐、忠告を率直に聞く、出家者に会う。ときどき、覚れる人の教えについて話をする。これは最上の吉祥である。

社会生活を営みつつも徐々に一線を退き、後継者に道を譲り、世の中を冷静に眺め心を養っていく時期です。
自分の実績や経歴を誇り高慢になりがちですが、他者を尊敬したり謙遜する徳を身につけることでより深い幸せを感じます。こうした豊かな心を育むためにも足ることを知り、これまでに受けた恩を忘れず、また欲得を超えた心の教えについて学ぶことも大切なことです。

また、人の言うことに耳を傾けたり、世の中を超越した人の教えに学ぶこと、自分の経験や技術、時間などを生きとし生けるものの為に生かすことで、より一層の幸せを感じられるようになります。・・・つづく


〇当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑧
 

『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、弐匁五分     同村   久三郎
 一、弐匁五分     同村   甚六
 一、弐匁五分     同村 浅岡佐助
 一、弐匁五分     同村 浅岡吉右衛門
 一、弐匁五分     同村 矢野才兵衛
 一、壱匁       同村 五郎右衛門
 一、壱匁       同村 弥次兵衛
 一、壱匁       同村 十太郎
 一、壱匁       同村 弥兵衛
 一、壱匁       同村 左兵衛
 一、弐匁       川北村 五郎三郎
 一、五匁       川北村庄や 川相伝六
 一、拾匁       同村戸田や 弥助
 一、壱匁       平野村 瀬兵衛母儀
 一、弐匁       福山府中町 すたや 長左衛門
 一、五匁       湯野村 徳永与三郎
 一、四匁       同村庄屋 石田弥四郎 
 一、弐匁       同村 徳永善兵衛
 一、五匁       徳田村砂原 徳永徳右衛門
 一、四匁       同村庄屋 徳永与惣兵衛
 一、弐匁       川北村 安左衞門
 一、弐匁五分     平野村 半右衛門
 一、弐匁       湯野村与頭 吉左衞門
 一、四匁       川北村 七右衛門
 一、弐匁       川南村 林久右衛門
〆 三拾弐人  出銀 百五匁

 一、四拾六匁     畳拾帖は自分より調
 一、九拾壱匁     大手板戸拾間自分調
   但 丑の年雨乞代日指不違雨ふり御ふせ下され候て
其の礼にて戸調
 一、打キン(打金(うちがね)) 指渡九寸代銀弐拾め(目)八分 自身
 一、物器(仏器?) 大小三ツ             同断
 一、十二燈油臺(台)二ツ    矢かけ大かなや
                 高草六郎右衛門房近
 一、五ゝ三御膳同小道具         自身 
   (五五三御膳)

 右は本堂寺造立相調候次第 寄進物書付 件(くだん)の如し
 干時(ときに) 元禄第十二己卯(つちのとう)暦 国分寺住僧春秋六拾一歳
(一六九九年)            快範
    三月十九日 是を記す者なり」

『本尊并諸尊造立仕様好(影向(ようごう)・神仏の仮)目録』
 一、本尊薬師如来の御姿
御長弐尺五寸座像春日様の古佛造り
薬壺(やつこ)御手の内に相応にして木眼同白がふ(白毫(びやくごう))てり(照り)水昌にして羅ほつ(螺髪)成程(なるたけ、できるだけ)にうわ(柔和)に数表両脇に十二なり
 一、御光輪光上はく(箔)
かう(光)八屋(はちや)う(八葉の蓮華)鏡上白み八寸りん(輪)にこんしよう(紺青色)を入れ雲をあいしらひ(あえしらう(取り合わせる、付け合わせる))
 一、大佛座上々はく
   蓮花花の高六寸横五寸にして八屋う(はちやう)に付け花まき成程にうわにかえして敷なすび(敷茄子(しきなす)・蓮華台の下の鼓型の台)にこんしやうを入所々に金へう(鋲(びよう))を打て台は赤染金具あつみ付け 
 一、脇立二菩薩
御長壱尺七寸同作やう(つくり様)てんぐわんかざり(天眼飾り)あつみ打ちぬき両に日の玉月の玉赤白にして屋(や)うらく(瓔珞(ようらく)・ネックレス)の玉しげくてんえ(天衣・細長くて薄い布を巻き付けている)巻付けにしてくぎなしきやうぜちは御腰より下へ玉ふさあまる程にして玉多く中に青赤をまして御持物(じもつ)日月の輪累年に及てもぬけざる様にしてくぎは何(いずれ)もかなもの(金物)也                                            つづく


【國分寺通信】 

◯國分寺から六百メートルほど東に愛宕山華曼院法道寺という天台宗寺院がありました。後深草院の御代に右大臣となられた三条藤原法道公により宝治二年に開基造営。本尊は釈迦如来並びに不動明王と「御野村(みのそん)郷土史」にあります。明治の廃仏に遭い廃寺となりますが、昭和三十年ころまでは藁葺(わらぶき)の庫裡(くり)が残っていたそうです。その後ご縁をいただき、御本尊とその他諸仏は昭和32年より國分寺本堂西側の壇上にてお祀りしてまいりました。釈迦如来像並びに厨子の傷み激しく、将来にわたり末永く継承し供養し続けていく為には保存修理が欠かせないと判断し、この度ご像の解体修理並びに厨子の新調をさせていただきました。解体に際し表面の洗浄をしたところ潤み朱色の下地に金の線と箔の跡が現れたことから、左下写真のような開基当初のお姿に復元されております。誠に端正なお顔立ちの神々(こうごう)しくなられたお釈迦様に是非お参り下さいますようご案内申し上げます。


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備後國分寺だより 第57号(令和3年1月1日発行)

2021年05月09日 09時37分44秒 | 備後國分寺だより
令和3年正月号(B5・16ページ・年三回発行)



【六大新報令和二年七月二五日号掲載】
  松長有慶先生著
 『訳注(やくちゆう) 声字実相義(しようじじつそうぎ)』を読んで



松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第4巻『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

『声字実相義』(以下『声字義(しようじぎ)』と略す)は、『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)に、真言教学の重要聖典、即身義、吽字義(うんじぎ)とともに三部書の一つとある。従って、専修学院時代に多少の知識は得ているはずなのだが、はたしてどのような内容であったか記憶に乏しい。もとより一から学ばせていただく気持ちで本書を開いた。

そこには、凡例(はんれい)に続いて参考文献として、真言宗全書、智山(ちざん)全書、豊山(ぶざん)全書などより、鎌倉時代から江戸時代までの学僧による十四の注釈書が掲げられ、さらには英語ドイツ語の文献を含む、近代の三十二の解説書、研究書まで一覧にある。それらは本文に【略記号】で文献を表示し該当する頁数まで記して、原漢文の読みから用語の解釈まで比較検討されており、現時点における『声字義』に関する最高レベルの研究成果をすべて注ぎ込まんとされる先生のこだわりや気迫が感じられる。

まず本編はじめに「『声字義』の全体像」が説かれる。古来インドや中国、また日本において、声や言葉がいかなる意味あるものとして受け取られてきたかを説いていかれる。そして20世紀前半にヨーロッパに起こった構造主義の哲学の根幹である言語論において、この『声字義』も実は20世紀後半には多くの研究者たちの研究対象であったことが紹介されている。

また中国思想における言語論争で注目される「名」は、『声字義』にも用いられるが、伝統的注釈者の多くが「すぐれた」という意味に受け取ってきたという。しかし、正しくは「名」とは、名づけるということ。ものを分けて明らかにしていく、ものの違いによってそれぞれを特定する、そのためにさまざまな名前や言葉が発生していくわけだが、そうして原初の世界において真実の根源から発せられるものを、私たちの現実世界において表現するために用いられた言葉を「名」というのであるという。そうした根源的な存在とかかわる言葉を、本書においては「コトバ」とカタカナ書きにして区別して先生は使われている。

そして、『声字義』の主題について触れられ、それは、私たちの眼耳鼻舌(げんにびぜつ)身意(しんに)の感覚器官・六根(ろつこん)に入る六境(ろつきよう)・色声香味触法(しきしようこうみそくほう)、すなわち普段の生活の中で目にする物、耳にする声や音、香りや匂い、口に感じる味、身体に触れる感触、考えたり思うあらゆるもの、それは本来覚りの障害になり六塵(ろくじん)ともいわれるものだが、その中にこそ如来が説法される声や言葉が潜んでおり、それは世俗の存在のままに絶対の真実(実相)なのだと説かれる。つまりそれこそ法身(ほつしん)大日如来の説法なのであり、心して聞くべきものであるということであろう。

著作年代については、『声字義』中に「『即身義』の中に釈するが如し」という語が二度記述されていることから『声字義』は『即身義』以後の作品とされてきたが、先生はこれを後世の挿入とせられる。そして、『声字義』後半部分に法相(ほつそう)や華厳(けごん)教学への配慮からか自説の主張が抑えられており、また『金剛頂経』からの引用が少なく、両部経典を自在に駆使して自らの主張を巧みに説く準備が熟していなかった時代、つまり真言教学がまだ十分に社会に認知されていなかった弘仁(こうにん)の一桁代後半の作であろうと推定されている。

そして、本編に入るのだが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示される。【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、注釈書に斟酌(しんしやく)した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】、【補注】を参照すれば、難解な大師の著作をいとも容易に読むことができる。

『声字義』前半では、声字実相という新しい思想を立ち上げる論拠として大日経の偈頌(げじゆ)を説き、また内容を説くに当たり四句一頌を自作して自ら解釈して、その中の声・文字などの言葉が実相に他ならないことを述べる。後半ではやはり四句一頌を自作し、六境の代表として色・物質について生物も非生物も、いろ・かたち・うごきの三種の性質を具えていて、いのちを持ち、かつ文字として、そこにこそ諸仏が存在していることをあきらかにしていく。

ところで、中国天台智顗(ちぎ)の著作『摩(ま)訶止観(かしかん)』に関する注釈書が出典とされる言葉に「草木国土悉皆成仏(そうぼくこくどしつかいじようぶつ)」がある。以前この言葉について法話するに当たり、筆者は仏とは法を説く者であり、それをたよりに人は試行錯誤しながら何ごとかを覚っていく。しかし、自然が発する音も姿も、時にこの世の法則、真理を垣間見させてくれる。そうして人に示唆し、教え、励ましを与えることがある。されば、それは仏の説法にあたるのであろう、自然そのものも法を説くものとして仏と言い得るのではないかと考え、そのように話してきた。が、これはまさに『声字義』の説く、すべての存在は声字なり、実相なりという教えそのものであったとも言えようか。かつて学んだ教えが朧(おぼろ)気(げ)ながら筆者の頭に残っていて、意識もせずに紡ぎ出した解釈だったのかもしれない。

毎朝本堂に向かうとき、中の間に掛かる書軸を拝む。そこには「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人 心有り 声心雲水俱(とも)に了了(りようりよう)たり」(性霊集補欠抄巻十)とある。先生は、本書巻頭「『声字義』の全体像」において、この詩を紹介し八行の現代詩に訳されて、『声字義』に込められた真言密教独自の哲学思想を凝縮するものとして示されている。これまで、十分にその深遠なる意味を知らずに拝してきたが、本書に学んでからは、池に落ちる水の音、鳥のさえずり、風に吹かれて起こる木々のざわめき、それらが一つに融け合う永遠なる瞬間にあることを心に留めつつ入堂している。そして、唱える読経も実相を具えた声字に他ならないと、心新たに日々勤めたいと思う。三部書の一つをここに学ぶ貴重な機会をいただきましたことに感謝申し上げます。

奥深い真言の教えの真髄を祖典に学ぶため、また日々の勤行の質を高める心構えを学ぶ一冊としても、是非、御一読をお勧めしたい。


〇令和元年十月二八日長尾寺様の御縁日法会後の法話より
 法話 般若心経に、お釈迦様の教えを学ぶ・後編
 

四聖諦とは

そして、心経のその先には、四行目(第56号10頁参照)に「無苦集滅道」とあります。③の四角を見ていただくと、四聖諦(ししようたい)とあります。心経にはたった四文字ですが、しかしこれは、お釈迦様の根本教説と言われる、とても大事な教えです。お悟りになられたお釈迦様がブッダガヤからサールナートに二五〇キロ歩いてきて五人の修行者に初めて説法し、五人を見事に悟らせ、初めて法輪を転じたときの教えです。四つの聖なる真理と訳されます。

ひとつ一つ簡潔に申しますと、苦集滅道のはじめの苦聖諦とは、生きるとは何か。それは苦であるということです。今みてきた通り、生きるというのは、この五蘊を常に働かせることであり、私とは五蘊に過ぎないとお釈迦様も言われています。

色という身体があり、そこにいろいろな情報が入り、それに反応して判断して、行動していますが、その過程に私という自我が入って、自分本位にいろいろと好き勝手に考え判断し生きています。ですが、すべてが無常であって、変化し移り変わっていくものなので、自分の感覚も、思いも、したいことも、思い通りというわけにはいかないわけです。そこで常に、不満を抱え、悩み、苦しみつつあるということになります。この現実をよくよく見てみると、生きるということ自体が、そもそも苦しみであると解るということなのです。このことをよく認識理解することが大切だというのが苦の聖諦です。

そう申し上げると、そうかしらと思う人が居られるかも知れませんね。人生とは苦であると納得できない人もあると思います。

生きることは素晴らしい、素敵なことが一杯だと人生を捉える人もあるかも知れません。が、よくよく見てみると、生きるというのは大変ですね。一日中寝たいだけ寝ていられる人なんかいません、今日は何もしないでいいと思っても、ゴミを捨てに行かねばならなかったり、何か食べなくてはならないので作ってみたり、玄関前くらい掃除しようとか、本当に何もすることがなければ、逆に退屈してイライラしてしまいます。

皆さん結婚されたとき、二人で幸せになりますと大勢の前で言ったかもしれませんが、実際のところいかがでしょうか。何十年も経てどんな感慨をお持ちでしょうか。ですから、結構生きることはつらいし苦しいものなんだと私たちは知っています。ですから、夢を語ったり、いっ時のくつろいだときに、ああいい人生だと思いたいのではないでしょうか。

話変わりますが、今もこうして話を聞いて下さりながら、私の声が皆さんの耳に入り、よく理解して聞いて下さっている方もおられましょうが、人の話をずっと聞くというのは本当は苦しいものです。ですから、中には、なんだか今日の話は小難しいことばかりで、去年の能化(のうけ)さんの方が楽しい話だったなという方もおられるでしょう。ですが、そう判断したらもう話は耳に入らず、それこそ本当に、つらい、苦しいだけの時間を過ごすことになります。

昔奈良の藥師寺に高田好胤(たかたこういん)さんという有名な管長さんが居られて、話し好きで一時間でも二時間でも話すわけです。法相宗(ほつそうしゆう)なので難しい仏教要語が沢山出てくると、中には下を向いてしまう人もあったそうですが、そうすると、「人の話が少しくらい難しくても、結構な話やな、もっと良く聞いてやろうと思う人と、なんや難しい話になって早よ終わらんかいなと思う人では、その人生は雲泥の差があるんや」という話をされました。

「結構やなと思う人は、どんなことがあっても結構やなと前向きな生き方をする、つまらんなと思う人は何を聞いてもなしてもつまらんなと、文句ばかり言う、そういう人生になるんや」と言われて、皆さんに話を聞いてもらえるようにおもしろおかしく話されていました。皆さんも、無理にも結構やなと思って聞いて下さった方が、得になると思って聞いて下さい。もう少しで終わります。

そして、次の集聖諦(じつしようたい)とは、その苦しみはいかにして生ずるのか、ということです。また、その次の滅聖諦はその苦しみをどのように滅していくのか、その滅した状態をこそ目指すべきであるということですが、それを説くのが十二因縁です。

これは、④の四角を見て下さい。これは、この図にあるように十二因縁には二系統ありまして、一つは苦しみが生じていく過程を述べた十二因縁、その下の縦長に書いてあるものの右側の部分です。それと、苦しみを滅っしていく過程を述べた十二因縁はその左側の部分に書いてあります。

心経では「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」というところですが、意味からは、これは、無無明乃至無老死亦無無明尽乃至無老死尽となるところなのです。ゴロの関係からかこのような表現になっています。

まず、苦しみが生じていく因縁のところですが、詳しくは申しませんが、こうした十二の項目で因縁が展開していく過程を説明していくのです。

そもそも、生きるとは何かということに根本的な無知を抱えている私たちは、何かしたいという気持ちがつねにあって行為があり、その過去の行いによって新たな命が生まれ意識が生じます。そこには心と体があり、六つの感覚器官が生まれ、外界との接触により、感覚として受け入れ、愛というのは渇愛とも言いますが、飽くなき欲求のことです。この渇愛を生じ、取ると書く取は執着することで、それにより、生きたいという心・有を生じて、誕生があり、老死など苦しみを繰り返すという内容になります。

今申したように、その中に愛とあるのは渇愛とも言われ、この渇愛があるから、執着が生まれ、悩み苦しむことになります。渇愛とは無常ということを認めたくないという心であり、永遠なるものを欲して、もっと欲しい、ずっと生きていたいと思う心です。この渇愛こそが苦しみの元にある。そこがこの十二因縁の肝の部分です。

そして、その左に縦に矢印のある、十二因縁の苦しみを滅尽する因縁が書いてありますように、無明が尽きる、つまり無明がなくなれば、行がなく、行がなくなれば識はないというように展開して、苦を滅し尽くしていく過程が滅聖諦です。

そしてその過程で、もっと欲しい、良くありたい、生き続けたいという渇愛を滅することこそ、私たちは目指すべきであるというのが滅聖諦の意味するところです。それはつまり、渇愛を滅するということは悟りということになるのです。

これはどういうことかと言いますと、みんな誰もがそれぞれ人生の目標と言うようなものがありますが、その先の先に究極の目標として悟りがあると思って生きて下さいとお釈迦様が願っているということなのです。つまりは、仏教徒とは、悟りを究極の目標として生きる人のことだということにもなるのですが。

そして、最後に道聖諦は、その苦を滅するために八正道という具体的な歩み方を教えられています。それぞれの内容はそこに書いたとおりです。

正見は、この四聖諦を真理として理解することであり、正思、正語、正業は、勤行次第の中にある十善戒のことです。正命は正しい生業をもって生活し、正精進は、善いことに励むこと。大事なのはこの後の正念です。今という瞬間にきちんと意識して自分の現実に気づいているということですが、五年前にお話した瞑想のことです。マインドフルネスと今は喧伝(けんでん)されています。自らの行い、感覚、心、真理に気づいていることです。

私たちは、普段、頭の中で話をするように、ずっと考え続けてはいないでしょうか。漫然と目に入ってきたものに反応し、聞いたものに反応して考え続けています。野放し状態になっています。仏教では、それは良くないことであるとされていて、考えないことが良いことなんです。細かく今この瞬間に、自分がしていることに気づきを入れている状態、つまり今という現実に生きることが正念ということです。正定は、何も考えずに一つのことに集中し、落ち着いていることです。

以上、心経で無と頭に付けられた、五蘊十二処十八界十二因縁四聖諦、すべてを一通り解説してみました。

般若心経を毎日唱えている訳ですから、本来、皆さんも、これらのだいたいの意味を了解していてもいいような事柄なのではないかと思います。初めて聞いたという方もあるかも知れませんが、大切な仏教の根本の教えです。是非、難しいと思わずに、折角心経をお唱えになるわけですから、ご理解いただきたいと思います。

いかに生きたらいいか

仏教の開祖である、お釈迦様はこうした教えを諄々(じゆんじゆん)と何十年にもわたり説かれていたのです。もう一度解りやすく申し上げますと、

五蘊とは、人の営みとはいかなるものか、結局人間とは身体と心の働きが移りすぎていくものに過ぎず、自分と言えるような確たるものではないということです。十二処十八界は、私たちが外界とどのように接触しているのかを解明するものです。その接触したものにとらわれ、次から次にと心が移っていくことを観察するのです。

十二因縁は、人はどのように生きるが故に苦しんでいるのか、その苦しみをなくすには、いかにしたらよいか。

そして、四聖諦は、仏教徒としての歩み方を示すものです。

まず、苦聖諦は、人生をいかに捉えたらよいのか、苦と捉えよ、ということです。それは苦とわきまえるということです。悲観して言うわけではないのです。その方が幸せに生きられる、しっかり生きられるということでしょう。人生とは幸せなものだという受け取り方をしていると、ちょっと嫌なこと、しんどいことがあるともうイライラして嫌になります。ですが、もともと苦ばかりですよ人生は、とわきまえている人は、少しくらい何かあっても、そんなものだよと、気楽にニコニコしていられます。

それから、集聖諦は、何事にも原因ありということです。悩んだりつらくなるのにも原因があるということです。私たちには、誰にでも、自分には無いと思っていても、とらわれ、こだわり、うぬぼれ、があります。それらを悩み苦しみの原因として認識することが大事なのです。

執着するものにとらわれたり、家柄や地位にこだわって、自分だけはとうぬぼれて、人生の目標を見失ったり、人間関係を壊したりということはよくあることです。

ないと思っていても、みんなどんな人にも、とらわれ、こだわり、うぬぼれがあると思って、何かイライラしたり、つらい時や苦しい時に、何かにとらわれてはいないか、こだわっていないか、うぬぼれはないかと見て、それがはっきりわかると不思議なくらい急に楽になると思います。

滅聖諦は、では、私たちは何を目指して生きたらいいのか、心の幸せとは何であろうか。苦を滅して、究極的には最高の幸せ、心の解放、何の思いわずらいもない突き抜けた幸せを本当の目標にしてはいかがであろうかということなんです。が、どうですか、私たちは、逆に、とらわれ、こだわることを、人生の目標にしているのではないですか。

私たちの人生において目指すべきは、こだわり、とらわれを滅することにこそあるのだと、お釈迦様がおっしゃっているのです。

そのためにはいかに生きたらいいかと具体的に理想的な生き方を教えてくれているのが道聖諦の八正道です。見たり聞いたり外から入る刺激に翻弄され、過去未来に思いをはせることなく、いまという瞬間の現実に生きることを教えてくれています。

いかがでしょうか、結構大切な、現代人にも通用する生き方を説いて下さっているとは言えないでしょうか。無と無下に否定してしまっていいものではないと思われませんか。

悟りへの道筋

それで、ここで悟りということについてもう少しお話をしてみたいと思うのですが、八正道の中の正念にて申し上げたように、その時その時の、今の心に気づいてゆくと、心が次第に鋭くなって、一瞬のうちに展開する五蘊のひとつ一つが解るようになるのだそうです。すべては因縁によって、現れ消えていく、ただ流れていくもので、執着に値しないと解っていきます。

そして、とらわれ、こだわり、疑いなどが消えて、すべてを空と見て、自我がなくなって、貪瞋癡の煩悩のすべてを消していき、最後は生存欲も無くなって最高の悟りを得るとされています。これは、勿論とてもおおざっぱな流れではあるのですが、この道筋を理解して、将来私たちも、正しくこの道を行けば仏様に通じている、つまり私たちも仏になれるのだということになります。ここまでが心経で言う苦集滅道に含まれる内容です。

そして、ここで心経に戻ります。心経の最後の真言に、「羯諦羯諦・・」とあります。羯諦とは、行くという意味です。どこにか、彼岸、つまり悟りの世界にです。悟りに逝けるものよ、とか、彼岸に至れり、と訳したりします。全体では、「至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到達せり、悟りに幸いあれ」という意味になります。皆さんそのように悟りに至れりと、お唱えになられている訳です。

いかがでしょうか、ここでやっとお釈迦様の教えと心経の意味するところとが合致していたことがわかります。凡夫である私たちは、心経で無と否定したお釈迦様の教えにより、心経の結論にまで到達して、舎利子の立場となって、この真言を味わうべきなのかもしれません。

ではこうして、私たちも確かに仏さんになれるのだと解ったうえで、大事なのはその事を知ってから、どう生きるかということなのではないかと思います。

弘法大師が書かれたとされる『即身成仏義』という著作があります。今年改めて読ませていただく機会がありました(本紙第55号六頁参照)が、この本ですが、読むと、真言宗で言う即身成仏とは、何もみんな仏なんだ、悟ってるんだから安心しなさい、仏と気がつけばいい、などというような内容ではないんです。

「この身において仏になると確信しつつも、仏になることにこだわらずに、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、衆生の利益と安楽に勤めて、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き菩薩の位に到達させるのが私たちの役割である」(松長有慶先生著『訳注即身成仏義』140頁)と書いてあります。

実は、これは、そもそも大乗仏教に生きる人の生き方であって、大乗の菩薩は自分は悟りの世界に行くことなく、何度も生まれ変わりすべての人々生き物たちが悟り尽くすまで菩薩行に励むことになっています。これを自未(じみ)得度先度他(とくどせんどた)「自ら未だ得度せざるに先に他を渡す」と言います。また真言宗の常用経典である理趣経もそこに書いたように何度も輪廻転生して利他行に励むべしとあります。

ですが、そう言われても、では具体的に何をしたらいいのかと困ってしまうという方には、「無財の七施」という教えがあります。衆生を助けるのに、何も多くの財産や知識、技術や知恵が無くとも出来ることが沢山あります。人に柔らかい気持ちを与える眼差しの眼施、時場合に相応しい顔を施す和顔施、幸せな気持ちになるような言葉を施す言辞施、身体により手助けしてあげる身施、善くあって欲しいという気持ちを施す心施、席を譲る床座施、泊まるところを施す房舎施というのがあります。これらをご縁のある方々に適した施しをして差し上げたら、ありがたい施しになると思います。

最後にはなりますが、仏教は常に向上する生き方を求める教えです。たいへん誇り高き教えです。そういうわけで、私も向上するために、今日は皆様に少々厄介なテーマを選び、原稿を作り準備をして、お話し申し上げた次第であります。仏教徒であるとの強い意識を持って、毎日お唱えになる般若心経を読む度に今日のお話を思い返し、精進いただけたらありがたく存じます。長時間にわたりご清聴ありがとうございました。


【六大新報令和二年八月十五日号掲載】
 いま、メディアリテラシーが問われている

いま私たちは自主規制の世の中を生きている。これまでには考えられないような窮屈な時代になった。どこに行くにもマスクが必要で、建物の入り口で手指を消毒し、体温を測定されたり人との距離を測られ、話をすることも控える自粛が当然という空気が漂う。テレワーク、オンライン授業、オンライン飲み会、オンライン帰省というのもあったが、なにを馬鹿なことをと思えることがまことしやかに行われる。しかし、いかにもそれが良いことのようにも思えてくる不思議な世界に生きている。これがいつまで続くのか、もう元の生活には戻れないなどという人までいるようだが、誰がこんな不愉快な世の中にしたのか。

「本日の新型コロナウイルスの感染者は…」という、毎日降り注ぐテレビをはじめとするマスコミ報道に洗脳された私たちは、怖いもの、感染しない、させないためマスクや消毒、ソーシャルディスタンス、自粛が必要と思っている。しかし一度頭をリセットして数字を見直してみてはいかがであろう。

新型コロナ感染のためとされる死者は、七月十二日現在千人に至らないのに、インフルエンザ感染が主原因で亡くなる人は毎年三千人を超えている。コロナの感染者は二万一千人なのに、インフルエンザの感染者は毎年約一千万人である。さらにインフルの感染者はみな熱や咳の症状のある人ばかりなのに対し、コロナ感染者のほぼ八割は無症状であるという調査結果もある。なぜインフルエンザ感染者は風邪症状があるのに、コロナ感染者は症状がないのか。感染とはどういうことを言うのだろうか。

私たちの鼻腔から肺に至る気道の一番外側には粘液に覆われた上皮細胞がある。病原性のあるインフルエンザウイルスが上皮細胞を破り、基底膜も突き破って数百万個にも増殖すると、リンパ球や毛細血管のある間質に抗原ができて、熱が出たり鼻水が流れ、咳で一気に外にウイルスをはき出すことになる。こうした症状があることを本来感染と言うのだそうだ。

私たちは沢山のウイルスを体内に持ち、それらを常在ウイルスと言ったりするが、それらの中にはコロナウイルスも含まれ、喉の粘液上にコロナウイルスが数個付着しているだけで、それが綿棒ですくわれてPCR検査に回されると、百万倍に増殖されてコロナ陽性と判定されてしまう。しかしその程度では、気道上にはウイルスの増殖がないので他者に感染させることはなく、そもそも感染とは言わないのがこれまでの医学の常識であるという。しかもPCR検査は、インフルA、B型のほかマイコプラズマなどにも反応し陽性となる可能性があるという。ではなぜ今回は、そんな偽陽性が多発するPCR検査をすることになったのであろうか。

六月に厚労省が、東京、大阪、宮城で八千人を対象に実施した抗体検査の結果、東京で過去に感染し抗体を持つ人は0.1㌫、大阪では0.17㌫であったと報告されている。誰もが無症状ではあってもコロナに感染しているかもしれないと言われ、マスクをしてきたのに、東京でさえ、千人に一人しか感染していなかったことが判明した。つまり感染力がそれだけ弱いということであり、さらにたとえ感染しても、症状もなく、インフルエンザよりも病害性が弱いのに、マスクに加えソーシャルディスタンスやら自粛など、なぜしなくてはいけないのか。

いやいや海外では桁違いの多くの感染者死者が出ているではないかと思われるであろう。しかし、米国をはじめとする各国の医療関係者の中には、そうした数字に疑問を呈する人々が多く存在する。米国では、コロナが死亡に関連したとされるようなケースでは検査を要せず新型コロナによる死亡とするように健康統計局から指示があるという。四月八日WHOが発表した「新しいコロナに関するガイドライン」でも、検査を実施することなく新型コロナウイルスによるものと疑われる場合には公式の死因を新型コロナウイルスによる死亡とするように、と各国の医療機関に指導している。なぜ数字を水増しする必要があるのか。

かくして様々な疑問が山積する。そこでいささか唐突だが、メディアリテラシーという言葉について考えてみたい。ご存知の通り、その重要性が問われるようになって既に久しいわけだが、しかしそれは、ふつう言われるところの、現代社会に溢れる情報の中から有用で、かつ信頼に足るものを選び出す能力のことだとするなら説明が足りないという。神戸女学院大学の内田樹名誉教授は、自身のブログ『内田樹の研究室(2019.2.22)』の中で、「メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲した場合でも、私たちは、虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?と問うことができる。メディアリテラシーとはその問いのことである」と述べている。さらに、「メディアには決して情報として登場してこないものを感知する能力」が必要であるという。

メディアは真実のみを報道をしているわけではないことをまずは知ること、そして、そこにどんな意図があるのかと問うことの大切さ、そして、自ら情報を見つけ出す感性が求められるということであろう。内田教授は同じブログの最後に、「私たち一人一人がメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」と、正にいま私たちが目にしている世界を予言するような言葉を残している。

米国や欧州で、ロックダウンや外出制限に抵抗する人々、反対デモ、反ワクチンを叫ぶデモ行進など、一切日本のマスメディアで報道されることはない。五月七日ドイツ・ベルリンでは、医師専門家千五百人が支援する「啓蒙のための医師団」が結成され、新型コロナウイルスは季節性のインフルエンザウイルスと同程度のものであり、コロナパニックは演出である、マスクの強制や何が混入されるかわからないワクチンの全国民接種を思いとどまるよう要請した。

厚労省は、六月二日、日本でも来年前半には国民全員に接種が可能なように国費を投じてワクチン製造ラインを整備すると発表している。コロナを収束させるためには、それは好ましいことと受け取っている人もあるかもしれない。しかし、例えばインフルエンザワクチンを接種して、はたしてインフルによる死者は減っているであろうか。統計を調べてみると、平成十年頃よりワクチン使用量が年々増えているが、死者も増加傾向にある。子宮頸がんワクチン投与後、重篤な副作用で苦しむ多くの女性たちがいることをご存知であろう。

昨年(二〇一九)十月十八日、ニューヨークで、世界経済フォーラム、ジョンズ・ホプキンス大学、B&M・ゲイツ財団の共催により、「イベント201」という会議が開かれていた。そこでは人獣共通コロナウイルス感染症の流行をシミュレートし、パンデミックの最初の数ヶ月の間に、症例の累積数は指数関数的に増加し、経済的、社会的な影響は深刻なものになると予測した。そして、今の世界はほぼその通りに推移しているように見える。

ところで、オリンピック延期が発表された日、すべてのマスコミ報道がそこに集中する中で、総務省経産省国交省は、「スマートシテイ関連事業」を公表し、AIや5G、IOTを用いた未来型のオンライン社会実現のために事業推進パートナーを募集した。

さらに京都アニメーションの放火犯が逮捕された日、参議院で「スーパーシティ法案」が可決成立している。これは行政サービスのIT化、車の自動運転、キャッシュレス決済、遠隔医療などのために、国や自治体、企業、IT企業が各々保有する個人情報を、一括して「データ連携基盤事業者(外資系企業を含む)」が管理活用できる仕組みをともなうものだという。

コロナコロナと騒いでいる間に、日本も管理監視社会に向けて後戻りできない事態に陥っている。実はこれらの制度改革は世界中で進められており、こうした管理社会に移行するための予行演習こそが「新しい生活様式」なのではないか。

世間の人々と同様に、怖い怖いと言っていて、いいわけがない。ことの真相を探し出し、いかにあるべきかを自ら考えることが求められている。

参考・youtube「学びラウンジ」講師・大橋眞徳島大 学名誉教授、『PCRは、RNAウイルスの検査に使って はならない』大橋眞著(ヒカルランド刊)、『コロナパン デミックは、本当か? コロナ騒動の真相を探る』ス チャリット・バクディ著(日曜社刊)


〇故武村充大前総代追悼(先生最後の随筆)
 広重の描く「瞽女(ごぜ)」


私は現在、週二回、井原第一クリニックのデイケアに通っている。このデイケアは二十人規模の通所施設で、入浴、リハビリ、昼食、運動、脳トレ、手芸など、多様なプログラムが用意されている。

ある日のことである。「塗り絵」の課題が出され、白絵が数枚ずつ配られた。何げなく目を通していた時、その中の一枚に目がとまった。それは「広重画 東海道五拾三次之内 二川猿ケ(にかわさるが)馬場(ばば)」の一枚である。この絵は何かで一、二度見たことがある有名な浮世絵である。目に止まったのは絵に描かれている東海道二川(現愛知県豊橋あたり)の広大な原野の中の街道にたたずむ四人の女旅人である。いずれも三味線を肩にかけているから、この女たちはあの「瞽女」であることがすぐにわかった。

辞典によると、「瞽女」は三味線などを弾き、歌を歌って「門付(かどづ)け」をした盲目の女性芸能者で、民謡、俗曲などのほか説教系の語り物も語った。」とある。「門付け」については、「人家の門口に立って歌や踊りなどの芸能を演じ、金品を貰い受けること。また、その芸能者」とある。中には一夜の食のために身を売る女もいたという。

いつの時代にも社会の底辺でぎりぎりに生きている貧しい者たちがいる。

私は学生時代、そのものたちの生き様に興味を覚え、研究テーマにして調査したことがある。

私らが子供のころには、この貧しい者たちをみかけることがあった。貧しい親子連れの「ものもらい」を見つけると石を投げ付けて追っ払ったこともあった。

高屋町銀山の集落には、「ホイトウ塚」と言われている巨大な岩穴がある。古墳の跡と思われるが、「ホイトウ」とは通称「ヘイトウ」といわれる「ものもらい」のことで、おそらくこの岩穴で寝起きしていた者たちのことであろう。

村の荒神祭りの翌日、この貧しい者たちが数人、祭りの御馳走の残り物をもらいに歩いていたのを見かけたこともある。

わが家の門に立つ「遍路」に、一握りのしゃぎ麦を接待したことが幾度もあった。

もう忘れ掛けていたあのころのことを思い出させる一枚の浮世絵であった。     (令和元年十二月記)


〇当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑦  


『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「元禄九年
 一、子正月十二日寺建申度(てらたてもうしたき)願書の事(がんしよのこと)
     御断願口上覚(おことわりねがいこうじようのおぼえ)
 一、下僧儀寺建立仕度(つかまつりたく)存(ぞんじ)一両年此のかた材木も少々心用意仕(つかまつり)且つ又備中辺え罷越(まかりこし)近村の者共に寺造立申し度き旨物語仕(つかまつ)り候(そうら)へは、少々合力銀も御座候、其の上去る方支堂銀御座候故旦那の内当村庄屋弥   右衛門下僧一家の内近田村庄屋五兵衛両人加判を以て彼(か)の銀かり申す可く候、御存の通り拙僧病気御座候へば、存生の内寺建立仕り度存じ奉り候、然れ共悉く新(あらたに)作事仕り候へば、銀大分入り申す儀御座候間、只今住宅仕り候庫裏を引き直し寺に仕る可きと存じ候、此の段御奉行中へ御沙汰成され下さる可く候 以上
    子正月十二日          国分寺 判
     桜井忠左衞門殿 

   右の願御奉行中え沙汰(さた)これあるうえ寺建立の儀相調えるべき由(よし)、仰せ出(おおせいだ)されさしづ(指図)仕る、料家村(甲   奴郡領家村のことか)の大工八兵衛と申す大工呼び寄せ候て作事積(つもり)
 一、三間はりに四間半の客殿 但し四方共に瓦ひさし
 一、弐間に三間半の 釣り屋但し瓦屋ね後前一尺のひさし
 一、弐間半はり 五間の下を取草屋のくり
              但し外とも四間半に七間なり
右の見積もりにして木よせ(寄せ)申し付け候て作事は日や といにして作領(料)は上大工壱匁三分 中は壱匁 下六分 五分 扶持方は万事にして日米壱升弐合ッッにして

    木寄覚(きよせのおぼえ)
 一、百九拾五匁七分三り  上々日向松角五寸角ふしなし
      但し船ちん共       弐拾六本代
 一、七拾三匁六分     同小ふし物  拾本代
      但し船ちん共に ひさし
 一、弐拾八匁       松柱拾本たる木代
 一、拾七匁六分       同断 うたち(梲(うだち))
                  わり物
                  上はしり
 一、四匁五分       はふ(破風)木 四寸の丁
 一、九拾弐匁四分     ぬき(貫)
              わり物
              らうか入用共に
 一、百四匁五分船ちん共に えんかうりよう(縁虹梁(えんこうりよう))※
  上々栂(つが)ふしなし 壱尺壱寸に弐尺六分の平物弐間半木
 一、四拾四匁  上々栂ぬき  くれえん(榑縁)
 一、八拾七匁五分 松坂五歩引立三拾壱間 縁の上うら板
 一、六拾目    同断
 一、百八拾七匁八分    竹大小
 一、百八拾め三分     釘大小 五寸
                  三寸
                  弐寸
                  同瓦くき共に
 一、弐百五拾弐匁     瓦代

     内 合力銀
 一、百五拾目      当村庄屋弥右衛門
 一、五拾目       同村  七左衞門
 一、五拾目       同村  与右衛門
 一、五拾目       同村  市右衛門
 一、五拾目       上御領村庄屋平助
 一、百五拾目      惣旦那中
 〆 五百目
右は寺建立書付如件(くだんのごとし)
 一、元禄十年丁丑(一六九七年)十二月十二日平野村庄屋三郎右衛門越され候て申し候は、本堂建此かた打続き寺くり共造立之(これ)有り借銀等も出来申し候様造作等も結向(結構)に候へ共座敷の内竹すのこにて置き候事見る目笑止に候間畳弐拾丈(帖)程肝煎(きもいり)申す可く申され畳弐拾帖人数を集め指立て申され候事
    畳 施主人数
 一、五匁    平野村 庄野三郎右衛門
 一、五匁    同村庄や三郎右衛門子五郎助
 一、五匁    同村  矢吹 勘右衛門
 一、五匁    同村  矢吹 太郎左衞門
 一、五匁    同村  矢吹 市右衛門
 一、五匁    同村  庄野 善次郎
 一、五匁    同村  太夫 永迫主馬            つづく

※社寺建築に用いる虹のように上方にやや反りを持たせてある梁、化粧梁


【國分寺通信】 

 ほめばほめ そしらばそしれ 世の中は
 ただ百(もも)とせの 人の命を (慈雲尊者和歌集より)

「人よりそしりをうけしころ」の歌とあります。尊者にしてもそしりを受けることがあったこと自体が意外に思われますが、法句経にも「すべての人から非難される人、すべての人から賞賛される人はいない」とあります。いかに生きようとも百歳(ももとせ)なれば、自らすべきこと、本当に自分の信じる道を生きようとの意気込みが感じられます。私たちも、人の目や周りを意識して、自己を見失うことなく、自ら信じる人生を歩みたいと思います。


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