住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

法事とは何か  (改訂)

2020年03月29日 12時47分52秒 | 仏教に関する様々なお話
法事とは何か (今日の法事後の法話から)



今日は、新型コロナウイルス感染が全国的に拡大する中、予定していた皆様が関西からお越しになれず、小規模となり、また会場もこの本堂での法事とさせていただきました。亡くなられたお父さんは、場所が違うなと言われているかも知れませんが、同じお経を皆様と唱え塔婆も建立させてもらいました。

塔婆には、上からキャ・カ・ラ・ヴァ・アとインドの文字を縦書きにした梵字悉曇という書体で書いてあります。インドの文字は左から右への横書きですが、それを縦に1文字ずつ書いていくものです。下からこの宇宙の構成要素である地水火風空の五大を意味しておりまして、地は硬いもの、水は液体として流れるもの、火は温かいもの、風は気体で拡散するもの、空は空間です。私たちの身体もこの五大でできていますし、宇宙万物すべてがこの五大の表れであり、宇宙の摂理真理を体とする大日如来を象徴するものです。

そこでその五輪塔を建立するということは、多くの人に仏教のシンボルを見て心によろこび幸せをもたらす功徳あるものなので、その五輪塔を薄い板に刻んだ塔婆を建立する功徳を故人に法事にあたり手向けるのです。塔婆には戒名の下に一周忌菩提の為なりと書いてあります。一周忌は勢至菩薩様が本尊となり、お参りさせていただき、御供えし読経する功徳を故人に手向けます。

ですが、それで故人がそのまま勢至菩薩になる訳でも、成仏する、仏になる、つまりお釈迦様のように悟れる訳ではありません。その手向けられた功徳によって、来世で更に更に精進し徳を積んでもらって一日でも、一生でも早くお釈迦様のような完全な悟りを得られるようにと廻向するのが今日の法事であります。葬儀をしたら仏様と言ってみたりしますが、葬儀でも法事でも、故人がすぐに、浄土に生まれ変われたり、仏になったり、悟りが得られるというようなものではありません。みな生前の功徳によって、なされた行いの業によって、相応しい世界に生まれ変わっていかれています。

では、なぜ亡くなった人に仏様の様になってくださいと願うのかといえば、仏様というのはとても良いところにおられ、私たちの理想的な姿であると思われているからではないかと思うのです。お釈迦様とはどういう人か。私たちは悩んでみたり苦しんだり、小さなことでも何かあると困って悩み、つらい思いを重ねてみたりします。また、欲をかいてつまらない思いをしたり、怒って逆に損をしてみたりしますが、そんなことはお釈迦様には一切無いのです。

この世の中の真実をよくよく理解されていますから、欲も無ければ怒りもない。智慧があり、すべて了解済みですから、解答が瞬時に分かっています。だから悩まない、困らない、悩む必要が無いのです。だからいつも幸せな心、安らかな心でいられる。私たちもそんな風になりたいと思いますが、何かあればすぐにどうしようと考え、悩みます。考えるということは分かっていないからです。仏教の教えによって、お釈迦様の智慧の一端でも学べば悩みが吹き飛び、心安まり穏やかになります。仏様とは私たちにとっての理想的な存在であり人生の目標ともいえるものなのではないでしょうか。

漠然と私たちはそう思っているからこそ、亡くなられた故人にも、そういう仏様のような理想的な安らいだ幸せな心になって下さいと、例えば焼香のときなどに、どうぞ早く成仏して下さいと願うのです。ですが、仏様は、亡くなった人にとってだけではなく、いま生きている私たちにとっても実は理想的な存在です。私たちには、いろいろな人生の夢や目標があります。その目標の先の先に、お釈迦様の心、悟りの心があるんだと思って生きる人たちのことを仏教徒と言います。

仏教徒は、だから、何があっても、それも一つの最終目標のための一里塚と考えます。何度生まれ変わっても最後はお釈迦様のような心になるのだと思って生きる。そのために小さな事でもとにかく功徳を積む、少しくらい悪いことがあってもそれを乗り越え、悪いことをしてしまったとしてももっと沢山の善いことをしようと励む。自分のゴールはもっともっと先なんだと、こんな所ではないと思いますから、心に余裕があり、へこたれないで頑張ることができます。

今日の、この法事は、亡くなられたお父さんのためになされたことではありますが、いまを生きる皆さん、それぞれ一人一人のご自分の人生と繋がっているということです。生きるとは何かと、何を目標に、どう生きるのかと、そんな普段なかなか考えないことを考え、ゆったりした時を過ごす、それが法事ということではないでしょうか。

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東大寺お水取りと懴悔について

2020年03月08日 16時29分48秒 | 仏教に関する様々なお話


現在奈良東大寺二月堂では、旧暦二月の法会である修二会が行われている。これは3月1日から14日まで、一日六座、十一人もの練行衆が本尊十一面観音に御供えをし、一切衆生の罪障を懺悔(さんげ)して天下泰平、万民豊楽を祈願する行法で、大仏開眼供養の行われた天平勝宝四年から今日迄1268年も続く大行事である。

12日の夜中に行われる若狭井から汲み上げる閼伽水を本尊に御供えする厳かな儀礼からお水取りとも言われ、また夜の行に入る際に御堂に上がる練行衆の足下を照らす松明を欄干の上からかざして、火の粉を飛ばしながら東西に走るところからお松明とも言われる。

この行は全国すべての神々の名前を唱えたり、東大寺ゆかりの人々の名前を唱え廻向したり、また火を用いた儀礼にも特徴があり、神仏習合や密教の要素も含む独特なる大行法である。が、冒頭に述べたように、本尊十一面観音菩薩に衆生の罪障を懺悔する、その功徳によって天下万民の幸福を願う十一面観音悔過法がこの法会の骨格にある。

そこで、では懺悔はどのように功徳あることなのかと問われねばならないだろう。懺悔文にあるとおり、無始なる過去世より私たちは貪瞋癡の煩悩により身口意の沢山の悪業を蔵しているということにまずは気づく、そうして、そのことの恐ろしさ浅ましさを思い懺悔する、心改まって、二度とそのような罪過を犯さないのだと心に強く決するということになる。それよって、心が生まれ変わったかのような自己変容の体験を持つということが懴悔ということなのではないか。

本来信心といわれるものも同様であって、本当に仏を信じるというのは、単に手を合わせてありがたいと思うことではなくて、そのことによって心が澄んで清らかになって、心改まり生き方生活までが改まるほどの人格の変容をさえ伴うものであるという。元龍谷大学学長であった信楽峻麿先生が『親鸞とその思想』(法蔵館)において熱く語られておられるように、本当の信心には目覚め体験が伴うのであり、それは、まず仏の慈悲について目覚め、その慈悲にてらされておのれの罪業の深さ重さについても目覚めるという、自己の中に心改まるものが生まれてくる体験こそが信心であり、そして、それは懺悔をともなうものでもあるというのである。

であるから、懺悔文を他人事のように唱え、勤行次第の一過程として読み進めることも日常的にされているかもしれないが、本来懴悔とは、自らの生き方の理想であり、人生の目標でもある仏に倣い、これまでの生き方を改めていく、生き方の転換をいうのではないだろうか。勤行次第では、懺悔文の次に三帰三竟十善戒と続く。これはそうして改めて三宝に帰依を表明し、十善という理想的な生き方に則り生きることを仏に宣誓するものであろう。懺悔とはつまり懺悔にとどまらず、仏道に入門し自己の生き方から人生そのものの転換を意味するものであるからこそ甚大なる功徳があるとされてきたのではないだろうか。

お水取りにおいて、練行衆は、一切衆生の罪過を懺悔なさるという。勝手にやってくれているということなく、私たち自身が懺悔することの意味を知り、共に自己を改めていくことを決意する機会と捉えることも必要なのかもしれない。

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